第4話:泥土のベチバーと、不揃いな原石【後編】
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ルカの手が、調香台の上で静かに動き始める。
それは、暴走する夢を現実の土壌に根付かせるための処方の始まりだった。
「ベチバー、そしてオークモス。どちらも土の奥深く、湿った泥の感触を封じ込めた香りだ」
ルカが調合を終えた小瓶の栓を抜き、エリアンの鼻先にそっと差し出す。
その深く温かい匂いを吸い込んだ瞬間、エリアンの脳裏に、強烈な記憶が奔流となって押し寄せた。
それは整然とした役所の会議室でも、上司への報告書の束の中にも存在しない、もっと泥臭く、もっと鮮やかな色彩を持った光景。
「……これ、は……」
「君が忙殺される日々のなかで忘れかけていた、その荒野の『本当の姿』だよ」
エリアンはゆっくりと目を閉じた。
記憶の中で、自分はまだ小さな子供だった。
農家の息子でいつも泥だらけだった大男のジャック。
商人のもとへ丁稚奉公に出て、誰よりも計算高かったミロ。
そして、代書屋の弟子としていつも難しい顔をして理屈を捏ねていたルイス。
自分を含めた四人は、大人たちの厳しい目を盗んでは、街の境界にあるあの荒野に集まっていた。
仕立てのいい服が汚れるのも、日が暮れるのも忘れて、泥だらけになって秘密基地を作ったあの日。
土を力任せに掘り返し、太い枝を組み上げ、誰がリーダーだとか、責任の所在がどうだとか、そんな窮屈な理屈は一切抜きにして、ただ「最高に面白いこと」のために全員が夢中で自分の持ち場を守っていた。
大人になり、それぞれが「仕事(実利)」の世界へと足を踏み入れた。
ジャックは腕の立つ土木作業員になり、ミロは商会の煩雑な会計を任され、ルイスは難解な公文書を捌くプロになった。
仕事が忙しくなるにつれ、自然と足は遠のき、疎遠になった。街で顔を合わせても「最近はどうだ」と、乾いた社交辞令を交わすだけの関係。
でも。
エリアンは、握り締めた小瓶から立ち上るベチバーの力強い大地の匂いに、魂の底が震えるのを感じた。
「そうか……あいつらにも一緒に泥まみれになってもらえばいい」
エリアンは顔を上げた。その青白かった瞳からは、先程までの土気色の絶望はすっかり消え去り、かつてのいたずらっ子のような瑞々しい輝きが戻っていた。
「僕が一人で書類を作って、一人で草を刈る必要なんて、最初からなかったんだ。ジャックに『最高の秘密基地をまた作ろうぜ』って言えば、あいつは鼻で笑いながら腕利きの土木作業員たちを連れてくる。ミロに『荒野の自生ハーブで新しい商売のタネが見つかるぞ』って持ちかければ、あいつは算盤を叩きながら隙のない流通ルートを組んでくれる。ルイスに『上司を黙らせる非の打ち所のない書類を書いてくれ』って頼めば、あいつは皮肉を言いながら最高の法的根拠を揃えてくれる……!」
エリアンは、少年のような無邪気さでニカッと笑った。
「この実利にならない『荒野の開拓』こそが、大人になった僕たちがもう一度集まる最高の口実になるんだ!」
それは大人の青春。かつての泥だらけの遊びを、プロの技術と知識でやり遂げるという、贅沢で不敵な共犯関係の始まりだった。
「……焦点の合った合理的な目だ」
ルカがずれた丸眼鏡を指で押し上げ、ひどく満足げに頷く。
「ルカさん、テオさん。あまりお金は多く持ち合わせていないんですが、処方箋の対価、払わせてください」
エリアンは驚くほど軽い足取りでテオの前に立った。
「代金として、ルイス……代書屋の友人に、『硝子の庭』に届く役所への書類を代行させます。それから、荒野の自然公園が完成した暁には、この調香工房にだけ、巨木の実と原種ハーブの独占採取権を無期限、無料で提供しましょう」
その言葉を聞いた瞬間、商人としての顔を持つテオの眉が、ピクリと大きく跳ねた。
「……代書屋による、役所書類の代行。それに、の原種ハーブの無期限無料採取権だ?」
テオの脳内で、凄まじい速度で算盤が弾かれる。年に2回は執務机に積み上がる役所への書類の山。その対応で消費する胃薬の代金。そして、希少な原種ハーブの仕入れコスト。
「……おお。悪くない取引だ。というか、我が工房にとってこれ以上ないコストカットになる。交渉成立だ」
「ありがとうございます! ところでテオさん」
エリアンは踵を返しながら、ふと思いついたように尋ねた。
「これからあいつらを誘いに行くんですけど……何か、いい酒を知りませんか? 」
「ちょっと待ってろ」
テオは執務机に役所の書類が積み上がらない近い将来を思って、機嫌よく地下貯蔵庫から一本の酒を取り出して来た。実家の商会の独自ルートでしか手に入らない、とびきり強い琥珀色の火酒のラベルをエリアンに手渡す。
「これを持っていけ。喉が焼け焦げるほど強いが、一度飲めば腹を割らざるを得ない名酒だ。……いいか、エリアン。実務のプロとして、悪知恵を授ける。素面で渋るようなら、奴らが二日酔いで頭が回っていない隙を突いて、承諾書にサインさせろ。それが『実務担当』の腕だ」
「ふは!最高のアドバイスです!」
エリアンはそう叫ぶと、先程の死にかけの姿が嘘のような軽やかな足取りで、玄関の扉を開け、嵐のように去っていった。
「……ラストノートまでしっかりと機能したなら、素材が手に入るまで僕が寄せる関心事はないな」
エリアンの軌道を修正するという目的を果たした途端、ルカの中から急速にエネルギーが抜け落ちていく。膝から崩れ落ち、ひんやりとしたタイルに再び同化しようとしている。
「おつかれ、ルカ。床の染みにはなるな、面倒くさい」
すかさずテオが呆れたような声を出し、ルカの鼻先に強烈なミントの葉を遠慮なく突きつける。
「うわっ、強烈なメントール……! 脳髄が冷える…」
「ほら、立て」
テオはいつものように、腑抜けたルカの脇を抱え、ズルズルとリビングのテーブルへと引きずり出していく。
やれやれと深く溜息をつきながら、テオは壁にある真鍮のレバーを引き、歯車を回した。
ガチ、と心地よい金属音が響き、天窓の換気システムが作動する。
温室内の空気がゆっくりと動き出すのと同時に、厨房からは、すでに鼻腔をくすぐる甘酸っぱい匂いが立ち上っていた。
その日の晩餐は、テオが腕を振るった、五感を強烈に刺激する田舎風ビストロのような食卓だった。いつの間にかジンも加わっている。
テオが厨房から運んできた大皿には、焼き上がったばかりの極太の鹿肉ソーセージが鎮座している。 その下には、バター香るポテトピューレ。仕上げに、ルビーのように艶やかなコケモモの赤ワインソースがたっぷりと回しかけられていた。
「さあ、冷めないうちに突っつけ」
テオが促すと、待ってましたとばかりにジンがナイフを入れ、ルカが木匙でポテトをすくい取る。
ソーセージを切り分け、なめらかなピューレを絡め、コケモモのソースを少し載せて口へ運ぶ。 パキッと弾ける皮の中から溢れる野生の旨味を、コケモモの甘酸っぱさが引き締め、それをバターが香る温かいポテトが優しく包み込んで喉の奥へと滑り落ちていく。
「これ、いつもの馬主のばあさんがくれたポテトか?」
ジンがソーセージの肉汁を吸ったピューレを口に放り込みながら訊ねる。
「ああ。今月の馬の借り賃を払いに行くついでに、温室で余った除虫菊を蚊よけの束にして持っていったんだ。そしたら『これで馬も大人しく夜を越せる』って、茹でたてのジャガイモをバケツごと分けてくれた。それにバターと、温室のハーブを少し混ぜて温め直したんだよ」
ルカが口元をリスのように動かしながら、ソーセージを齧ってはルビー色のソースを絡めたピューレを舐めている。バターとコケモモの甘酸っぱい香りの調合が気に入ったらしい。
「……美味しいねぇ。やっぱり、テオの飯は最高だね」
「当たり前だ。腹が減っては、インスピレーションも湧かないだろう」
美味しい音が響き、ルカの使い果たした脳のエネルギーもゆっくりと満たされていった。
食事を楽しんだ後、テオが空になったティーカップを片付けながら、心底恨めしそうな声を漏らした。
「……なぁ、お前、聞いたか?エリアンはこれから、気心の知れた、しかもそれぞれの分野のスペシャリストを三人も集める気だぞ。……毎日たった一人で、お前という『歩く無理難題』の面倒を見ている俺の苦労も、少しは分かってくれ」
テオの珍しく本音を隠さないぼやきに、ルカはクスクスと笑った。
「やだなあテオ。君は僕という他に類を見ない最高のインスピレーションの源を、独り占めしているじゃないか。それに、ほら、目の前にもいるんじゃない?スペシャリスト」
食後のお茶まで腹におさめたジンは、気持ちよさそうにソファーでイビキをかきはじめていた。
そう言われてみれば、先ほど飲み干した香り高い紅茶はイリスがわざわざ届けてくれたものだし、繊細な女性客のケアも彼女に随分と助けられている。
「どの口が言うのか…と言いたいところだが、実際その通りだな」
テオはティーカップに残るブルームグレイの残り香を楽しむように、カップの前でグラグラ頭を揺らしている天才調香師を見つめた。
食事が終わり、団らんの余韻がテーブルを包んだ頃。
ルカの足元で、「ぽわぁ……」と小さく穏やかな音がした。
モカが床を弾むように移動し、空間に残されたエリアンの『焦燥と疲労』の残り香、そして濃厚な食事の匂いを
「すぅぅぅ……」
と一息に吸い込んでいく。
空間が完全に無臭にリセットされたその瞬間、モカは喉の奥で「コロン」と音を立て、一つの結晶を吐き出した。
テオがそれを拾い上げ、一瞬眉をひそめた。
「……ん?どういうことだ。泥の塊?」
それは透き通った結晶とは異なる、ゴツゴツとした茶色の土塊に見えた。
しかし、テオが袖を捲り、綺麗な布で泥を丁寧に拭い去ると――その内側から光が溢れ出した。
不揃いなカットの断面から、深緑、琥珀、燃えるような赤。
複数の色が、調和など無視したような力強さで乱反射していた。
「……エリアンたちにぴったりだね」
ルカが丸眼鏡の奥の瞳を細め、その眩しい光を見つめる。
「……ふん。せいぜい泥まみれになって、うちの工房に利益をもたらすハーブを育ててもらうとしよう」
テオはそう言って、原石を大切にポケットにしまった。同時に、温室内のエア・モスが働き、空間は瑞々しい朝露の香りへと心地よくリセットされていく。
窓の外には、静かな夜空が広がっている。
きっと今頃、街のどこかでは琥珀色の火酒を煽りながら、泥だらけの夢を語り合う大人たちの笑い声が響いているはずだ。
そんな光景を想像しながら、ルカとテオは、いつもの軽口と穏やかな静寂に包まれて、『硝子の庭』の夜を過ごすのであった。
ーーーぱりっと糊のきいたテオの白シャツ並のエプロンを纏ったご婦人が、この工房の扉を開くのは、茜色の夕焼けが差し込む日のことだった。
次回からは第5話がスタートします。
テオのシャツのようにパリッとしたご婦人が持ち込む、新たな事象とは?
次の更新もお楽しみに!
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