第7話:濁った硝子板と、水底の記憶【前編】
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夜の『硝子の庭』には、時折、招かれざる匂いが外から迷い込んでくることがある。
今夜の温室に淀んでいるのは、ひどく冷たく、そしてひりつくような酸っぱい匂いだった。どこかで焦げ付いた酢酸と、長い年月を経てすり減った古い金属の錆が混ざり合ったような、鼻の奥をツンと刺す不快な刺激臭。
夜行性の苔であるエア・モスが、淡い燐光を放ちながら懸命に空気の淀みを分解しようと明滅を繰り返しているが、その浄化の速度を上回るほどの重い「焦燥」の気配が、空間全体にねっとりと張り付いていた。
天才調香師たるルカは、ひんやりとしたテラコッタタイルの床に腹這いになり、両手で鼻と口をしっかりと覆い隠しながら、浅い呼吸を繰り返していた。
「……テオ。今すぐ僕を、上質なオリーブオイルの樽の中に密閉してくれ。空間に漂うこの不快な酸性の霧のせいで、僕の嗅覚受容体が危機に瀕している。このままでは、鼻の粘膜がすっかり錆びついて、使い物にならなくなってしまう」
「お前の鼻が使い物にならなくなる前に、そのだらしない生活態度のせいで俺の胃壁がすり減って消滅するんだよ。樽じゃなくて布団にでも密閉してやりたいところだが、お客さんだぞ。さっさと起きろ」
背後から呆れ返った声が降り注ぎ、次の瞬間、埃まみれになったルカの白衣の襟首が容赦なく掴まれた。 プレスされた清潔な白シャツに身を包んだ若き支配人テオは、
「よっこらせ」
という重労働のような掛け声とともに、床と一体化しようとしていた幼馴染をズルズルと引きずり起こす。今日も保護者としての労力を無駄に消費しているテオからは、深い溜息が漏れた。
促されるままに、ルカがずれた丸眼鏡の奥から視線を上げると、玄関に、一人の老人が立ち尽くしていた。
使い込まれた分厚い革の工房着を身に纏い、その指先は長年強い薬品に触れ続けてきたことを示すように、深く赤茶色に変色している。
彼はこの街で広く名を知られた、高名な現像職人だった。
風景や人物の姿を、光と銀の薬品を用いて硝子の板に写し取る『記憶の硝子板(銀塩写真)』の第一人者である。
しかし、彼が胸の前に大切に抱きしめている一枚の硝子板は、美しい風景を写し出しているわけではなかった。その表面は、まるで濃霧に包まれたように白く不自然に濁り、被写体であるはずの輪郭は無惨にぼやけてしまっていた。
「……こちらに、特別な香りを処方してくださる調香師がいると聞いて、恥を忍んで参った」
老人の声は、長年薄暗い工房に籠もり続けてきた者特有の、深くひび割れたような枯れた音色だった。
「わしは現像職人のダグ。今日は仕事上の相談をさせてもらいたい」
テオは流れるような所作で温室に案内し、ダグに椅子を勧めながら硝子板を見つめる。テオでもその名を知っている現像職人が、調香工房にいったい何の相談があるというのか。
促すまでもなく時間が惜しそうにダグが口火をきった。
「最近、わしが仕上げた硝子板が、どうやってもこのように白く濁ってしまうのだ。」
ダグは抱えていた硝子板をテーブルに乗せた。確かに白い濃霧に包まれたような硝子板には、ダグの作品の代名詞ともいえる『風景や人物が見せる一瞬の煌めきの色彩』たる魅力が発見できない。ダグは忌々しげに続ける。
「弟子たちや周囲の者どもは、『親方の目もついに焼きが回った』『そろそろ引き際だ』と裏で嘲笑っておる。……だが、わしは。わしはまだ引退などできん。まだまだこの硝子板に写し取らねばならん美しいものが溢れておる。これは…わしの命そのものなのだ」
職人たる性なのだろう。ルカは自分の鼻が効かなくなる日のことを思い浮かべてみたが、ものの数秒でその想像に意味がないことに思い至り、ただ目の前のダグの様子を観察することに決めた。
ダグは濁った硝子板を握る赤茶色の手に、ギリッと強い力を込めた。
「どうか、頼む。この通りだ。昔のような澄み切った集中力を取り戻すための、鋭い覚醒の香りをくれ。わしの腕がまだ鈍っていないことを、奴らに証明してやらねばならんのだ……!」
悲痛で意固地な懇願が、酸っぱい匂いが淀む温室に重く響いた。
ルカは観察眼の冷静さを隠すこともなく、そのままゆっくりと立ち上がり、少し跳ね気味の亜麻色の髪を揺らしながら、ダグに歩み寄った。そして、彼が抱える濁った硝子板と、薬品の染み付いた指先のすぐ近くへと鼻先を寄せる。
「な、なんだ?」
「ぽわぁっ……あわぁ……!」
ルカの足元で、モカが身をすくめるようにして悲鳴のような声を上げた。普段は生成り色に淡く光る柔らかな毛並みが、不透明でザラザラとした『錆びた鉄色』に激しく濁って明滅している。
それは、ダグの心から溢れ出す焦燥と、硝子板から放たれる薬品の匂いに同調してしまった色だった。
「……ひどい不協和音だね」
ルカはダークブラウンの瞳を細め、ダグから立ち上る匂いの構造を解体し始めた。
「熟練の『孤高の職人』というトップノートは、とうの昔にボロボロに揮発してしまっているね。服に染み付いた定着液の硫黄臭の裏で、あなたの皮膚からは別の硫黄分子――ジメチルトリスルフィドが異常な濃度で噴き出している。人が絶望的な焦りや、周囲への憤りを感じる時に放つ、ストレスの拒絶臭だよ。あなたのミドルノートにこびりついてしまっている」
「う、むむ…」
テオは、天才調香師が頑固職人のダグを打ちのめし過ぎないことを祈るしかない。ポケットの胃薬の薬包に指を走らせる。
「そしてラストノート。あなたの奥底から香ってくるのは、自身の腕の衰えに対する恐怖ではないね。何十年も揺るぎないものと信じてきた『自分の技術の常識』が崩れ去ることへの深い絶望、生体アンモニアの匂いだ」
容赦のない指摘ではあったが、職人としてその自覚はあるのだろう。ダグは深く考え込んでいる。調香を依頼しにきたにも関わらず、この場に及んで自分自身が発する匂いには無頓着なようだ。
むぅ、と低く唸った後、現像職人の口惜しさを語る。
「わしは調合の比率も、現像の工程も、全盛期から何一つ変えてはおらんのだ。おそらく 変わったのはわしの集中力だけなんだ!」
ぐっと硝子板を掴んで乱暴に叩きつけようと腕を振り上げた、その時だった。
「自分の大切な仕事を、そんな風に荒く扱っちゃあ、銀の神様が逃げちまうぜ、大将」
温室の暗がり――植物の柔らかな影に溶け込んでいた木製のベンチから、紫煙とともに渋みのある低い声が響いた。 使い込まれた木製パイプをくゆらせながらゆっくりと立ち上がったのは、シードハンターのジンだった。
彼は黄褐色の瞳を細め、山の冷たい夜風の気配を纏わせたまま、ダグの振り上げた腕を、その重く研ぎ澄まされた眼光だけでピタリと制止させた。
「何一つ変えていない、か。……昨日と同じ行動をただ繰り返す生き物は、過酷な自然界じゃあ真っ先に淘汰されるぜ」
ジンの言葉は手厳しく、冷たくダグの認知の歪みを突き刺した。
「あんたの腕が鈍ったわけでも、集中力が切れたわけでもねえ。あんたを取り巻く『環境』が、大きく変わっちまったんだよ。それを見ようとしないのは、職人の誇りじゃねえ。ただの意固地だ」
「環境が変わった、だと……?」
ダグが呆然と呟くのに合わせて、ルカはジンの投げたリアリズムのパスを、化学的な理へと変換して引き継いだ。
己の腕の衰えに絶望する老職人に、ジンが突きつけた冷酷な真理。
「環境が変わった」という言葉が意味するものとは……?
次回、ルカの鮮やかな化学的推理が光る中編へ続きます。
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