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第1章

仕事帰りの電車の中。

揺れる車内で、溢れてくる涙を必死に堪えていた。

仕事で張り詰めていたものが、ぷつりと切れた。

「ああ、私、泣いてるんだ」

そう気づいた時には、もう止められなかった。

膝の上の重たいリュックを抱きしめるようにして、そこに顔を埋める。

声を殺しながら、ただ、泣いた。

周りの人は、気づいていたかもしれない。

でも、そんなことはどうでもよかった。

もう、気にする余裕なんて残っていなかった。

限界だった。

私が彼女に出会ったのは、この時だった。

ひとしきり泣いたあと、何事もなかったように涙を拭い、スマホを開く。

無意識に開いたSNS。

いつもなら

友人や、いわゆるインフルエンサーたちの投稿を眺めては、心に薄い靄がかかる。

みんなが、やけに輝いて見える。

それに比べて、自分はひどく惨めで。

だから、数回スクロールして、すぐ閉じる。

それがいつもの流れだった。

でも、この日は違った。

何気なく指を止めた、その投稿。

普段なら見向きもしないような、ありふれたキラキラした写真のはずなのに。

なぜか、目が離せなかった。

夕日が沈みかける海。

その光を背に、こちらへ向けられた満面の笑み。

見惚れる、という言葉を、初めて実感した。

景色の美しさと、彼女の笑顔に、心を奪われていた。

やっと視線を動かせた時、投稿文に目を落とす。

その言葉が、まっすぐ胸に届いた。

そしてまた、今度はさっきとは違う、温かい涙が頬を伝った。


――――――――――

どうしても苦しい日は、

無理に前を向かなくていい。

立ち止まってもいいし、

うまく笑えなくてもいい。

今日が終わるまで、

ちゃんと呼吸していれば、それで十分。

私もたぶん、

そうやって何度もやり過ごしてる。

夕日は、沈みながら

明日の光を用意してるから。

――――――――――


胸の奥に、じんわりと灯る光。

まるで、さっきまで見ていた夕日のように、やわらかくて温かい。

会ったこともないはずの彼女が、すぐ隣にいて、

「大丈夫、ひとりじゃないよ」

そう囁きながら、背中をさすってくれている気がした。

気づけば、さっきまで灰色だった車内が、ほんの少しだけ色づいて見えた。

ああ、見つけてしまった。

彼女の名前は、氷野 華(ひの はな)

当時は知らなかったけれど、

彼女は今、多くの人に影響を与えるインフルエンサーだ。

旅先で撮られた煌びやかな写真と、そこに添えられる言葉。

そのどれもが、人の心に静かに触れていく。

コメント欄には、悩みを吐き出す人。

救われたと綴る人。

新しい一歩を踏み出せたと報告する人。

そして、その一歩を祝う、見知らぬ誰かたち。

そこには、確かに温かい空気が流れていた。

ほんの少し、息がしやすくなる場所。

「明日も生きてみよう」と思える場所。

推しがいるだけで、こんなにも世界は変わるのかと、私は知った。


それから、私の日常は少しずつ変わっていった。

気づけば、彼女の投稿ばかりを探している。

通知が届くたびに、胸がふっと軽くなる。

彼女の言葉と笑顔は、いつの間にか、私にとっての酸素のような存在になっていた。


彼女に出会ってから、しばらく経った頃。

「なんだか雰囲気変わった?」

「明るくなったね。何かあった?」

そんなふうに、周囲から言われるようになった。

自分では気づいていなかった、小さな変化。

けれど振り返ってみると、それは確かに、私の中で積み重なっていた。

もともとインドアで、旅行や観光にはあまり興味がなかった。

でも、彼女が訪れた場所を見ているうちに、

「私も行ってみたい」と思うようになった。

休みの日には、彼女の足跡を辿るように出かける。

同じ場所で、同じ構図で写真を撮る。

画面越しに見ていた景色を、実際にこの目で見る。

その美しさに触れるたび、少しだけ、自分が軽くなる気がした。

写真を撮るようになってから、

自分の見た目も、少しずつ気になるようになった。

今までは、「どうせ変わらない」「私には似合わない」

そう決めつけて、おしゃれなんて遠ざけていたのに。

彼女のようになりたい。

ただそれだけの理由で、少しずつ変わり始めた。

メイクを覚えて、

似合う色を探して、

伸ばしっぱなしだった髪を整えてもらって、

不器用なりに、ヘアアレンジも試してみる。

今まで苦痛だったはずのことが、

少しずつ、楽しみに変わっていった。

目に映るものが変わった。

世界の色が、少しずつ変わっていった。

その中心には、いつも彼女がいた。

気づけば。

華さんは、

私のすべてになっていた。


当時は気づかなかった。

振り返ってみて、ようやく分かる。

あれは、いい変化だけじゃなかった。

仕事で嫌なことがあった日。

何もかもがうまくいかなくて、心が沈んだ夜。

気づけば、彼女の投稿を探していた。

新しい投稿がないと分かると、

胸の奥が、じわりと不安で満たされていく。

落ち着かなくて、何度もアプリを開いては閉じて。

それでも足りなくて、彼女の過去の投稿を、遡るように見返した。

言葉をなぞって、笑顔を見て、その度に、少しだけ呼吸が楽になる。

そんなことを、繰り返していた。


彼女は、いつだって完璧だった。

いつだって、光の中にいるように見えた。

だから、疑いもしなかった。


──この時の私は、まだ知らなかった。

この光が、こんなにも脆く、儚いものだったなんて。

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