国家の影
薄暗い夜の空気を割るように、月影町の坂道を一台の黒い車がゆっくりと登ってくる。
そのライトに照らされながら、祐一と紗香は古びたベンチに腰を下ろしていた。手には、あの手紙。
“君の血は偶然ではない”
その一文が、紗香の心に冷たい波を立てていた。
「祐一さん……これ、本当のことなんですか?」
声はかすかに震えていた。手紙の封筒は何度も折り曲げられ、彼女の指先に汗が滲んでいる。
祐一は目を伏せたまま、しばし言葉を選んでいた。
「まだ確証はない。だが……俺の昔の記憶と、公安時代に見た資料の断片が合致してる。」
「私の父は、こんなことを知っていたのに、何も言わなかった……。私が“鍵”になるって……」
「お前の父さんは、きっと守ろうとしてたんだよ。お前の人生を、“役割”なんかに染めたくなかった。」
沈黙が落ちる。風の音だけが通り過ぎていく。
そのとき、祐一の耳が、遠くで車のエンジン音を拾った。鋭く反応し、身を起こす。
「誰か来る。」
二人は身を低くし、音の方向を注視する。月明かりの下、黒塗りのセダンが止まり、後部座席から一人の男が降りてきた。長身で無表情な男。彼の名を、祐一はすぐに口にした。
「……藤原だ。」
藤原裕介。祐一が公安にいた頃、直属の上司であり、厳格で冷徹な男。
だがある時期から、藤原は公安内部でも“機密案件専門”と噂される部署に異動し、消息不明になっていた。
「久しぶりだな、伊藤祐一。」
藤原は車の影から現れ、まるで事前に全て知っていたかのように言った。
「まさか、あんたが来るとはね。」祐一は身構えながら立ち上がる。
「この件、公安でも長く“触れてはいけない案件”として封印されていた。
だが君たちが、あの地下保管庫を開けた瞬間から、全てが動き出した。」
紗香は一歩後ずさった。「あなたは……何者ですか? 私の父を知っていたんですか?」
藤原の目が細くなる。
「鏡花誠一。彼は国家の依頼を受け、“石化現象”に関する技術研究の外部協力者だった。
だがある日、全てを放棄し、行方をくらました。……彼の研究成果と、君の血液型もろとも。」
祐一が割って入る。「何が狙いだ。今さら娘を追って、国家は何をしようとしてる?」
「目的は一つ。“生かす者”を決めることだ。」
藤原の声は冷たく静かだった。
「君たちが手にした装置は、ある種の“生と死”を操る鍵だ。そしてその作動には、“条件”がある。
……柚山紗香、その血液が、作動条件だ。」
紗香の顔が強張る。祐一はすぐに彼女の前に立った。
「だから、何の権利があって彼女を巻き込むんだ。人の命を、システムの部品みたいに扱うな。」
藤原は祐一の目をじっと見つめたあと、言った。
「そう思うなら、彼女を連れて逃げろ。……だが、“奴ら”が本格的に動き出すのは、これからだ。」
「奴ら?」
「政府内部にいる、別の意志を持ったグループだ。“旧理研グループ”の残党――“灰の目”と呼ばれている連中だ。」
「“灰の目”……」
その名前が祐一の頭の奥底を刺激した。昔、一度だけ見た文書の中に、その単語があった。
藤原はポケットから名刺サイズのカードを取り出して差し出す。
「俺の連絡先だ。今はまだ“味方”のつもりでいる。だが、次に会う時は……敵かもしれん。」
そう言い残して、藤原は車へと戻っていった。
エンジン音が再び夜を割り、黒塗りのセダンは闇の中へと消えていった。
――後に残された二人は、しばらく言葉を失って立ち尽くしていた。
「祐一さん……私はどうしたらいいの?」
その問いに、祐一は深く息を吐いた。
「簡単さ。逃げないで、真実を追う。……俺と一緒に。」
夜空の中、月は静かに雲に隠れていった。




