24 無
「お父さま、お久しぶりでございます!」
にっこりと実娘に笑みを向けられた龍賢は、居心地の悪さを誤魔化すように微笑みを浮かべた。
場所は貴妃が住まう瑞玲宮の正庁。掛け軸、壺、敷物——全ての調度品が競うように煌めく空間は圧迫感を覚えるため、好きではない。
それに加えて、
「ふふっ。寿華、父とはいえ、まずはどうするのかしら?」
真っ赤な襦裙を見に纏い、毒々しい化粧を施した瑞玲宮の主の存在も、苦手の要因だ。
できれば、すぐにここから立ち去り、残った時間を政務に当てはめてしまいたい。それか皇鳳殿に戻り、綺宵と墐章の鍛錬でも眺めていたい。
それでも、《《約束》》をしてしまったため、我慢するしかない。蒼詠から約束は必ず守るように、と言いつけられて育った龍賢にとっては些細なことでも一度約束を結んでしまえば、それを破るなどできるわけがない。
「ほら、教えたとおりになさい」
朗らかに、けれど芯がある口調で鳳仙は命じた。
寿華はその物言いに少し苛立ちを見せたが、龍賢の前であることを思い出して背筋を伸ばす。手を胸の前で組むと軽く膝を折り、揖礼を捧げた。
「お忙しい御身をわざわざお運びくださり、心より嬉しく存じます。お父さまに会えるこの日を待ちわびておりました」
滔々《とうとう》と流れ出る言葉に、龍賢は口角を持ち上げる。幼い頃は外で駆け回り、擦り傷をつくるようなお転婆娘が皇女らしく振る舞う様子は、感慨深いものがある。
(嫌われているものだとばかり思っていたが、杞憂だったようだ)
少し前の寿華は龍賢のことを毛嫌いしていた。龍賢が時間を作り、会いに来てもすぐさま房室へこもり、顔を合わそうとしなかった。鳳仙が会いたがっていると言った時は疑ってしまったが、今思えばそれは本心だったのだろう。
「久しいな、寿華」
その証拠に、こうして龍賢が喋りかけても笑顔も浮かべず、素っ気ない返事ばかりだったのが今では桃の花のように可憐な笑みを刷いている。
「本当に! お父さまったらお仕事ばかりでぜんぜん会いに来てくださらないのですもの」
「すまない。色々と立て込んでいてな」
「分かってます。だから、私から会いに行こうとしたんですよ。そしたら、お母さまが〝駄目です〟って!」
寿華は半ば拗ねたように鳳仙を見やった。
視線に気がついた鳳仙は口元の笑みを深くするだけで気にも留めない。
「この子ったら、朝議に突撃しようとしたんですよ」
「ちょっと、それ言わないでよ! なんで言うの!? お父さまの前なんだからやめてよ!」
寿華は鳳仙の袖をぐいぐい引っ張り、抗議の声をあげる。端に控えていた侍女が静かに近づいてくると寿華の手を袖から離して、引っ張られたことで乱れた鳳仙の襟を正した。
その間、鳳仙は怒りもしない。人形めいた笑みを浮かべたまま、龍賢を見据えていた。
(……苦手だ)
その視線から意識を逸らすように、龍賢は寿華に話しかけた。
「寿華は最近何をしているんだ? 昔はよく庭園を走り回ったり、木登りをしていたが今も変わらないのか?」
「まあ、ひどい! 私だってもう大人よ! いつまでも子供じゃないわ、庭園を走り回ったりするわけないじゃない!」
「あら、後宮内を駆け回っているじゃない。三日前も女官とぶつかって、平謝りされていたの忘れたの?」
「お母さまは黙っていて!」
寿華はきっと眉を吊り上げた。
睨みつけられても鳳仙は特に気にした素振りを見せずに「あら、ごめんなさい」と謝罪を口にした。どこか軽く、心が伴っていない謝罪だ。
(何を考えているのか一寸も分からない)
彩王に即位した年に老臣の勧めもあり、鳳仙を妃に迎えた。当時の妃位は四夫人の最下位である賢妃を叙されていたが、寿華を産んだことで貴妃に据えられた。
鳳仙と連れ添ってかれこれ十八年目になる。
それなのに龍賢は鳳仙の考えていることは分からなかった。何が好きなのかも分からない。侍女に聞いても体調を崩して眠っているか、起きていてもお喋り好きの寿華の話に相槌を打つ程度。食べ物の好みはなく、どんなものでも好き嫌いせず食している。自己主張が乏しいくせに、自分の衣裳や装飾具、殿舎を彩る調度品は目に痛いほど鮮やかなものばかり好む。
ふと、鳳仙が龍賢に視線を投げた。
「龍賢さま、お祝いはどうなさいますか?」
「お祝い?」
意味が分からず首を捻る。
鳳仙は口元を袖で隠して、くすりと笑った。
「寧徳妃の懐妊祝いですよ」
一瞬、龍賢は身体を強張らせた。寧徳妃の懐妊を祝う宴は近々開催する予定ではあるが、それを寿華がいる場で話そうとする鳳仙の正気を疑った。もうすぐ笄礼を迎えるとしても、寿華はまだ庇護すべき子供だ。いずれ知る話とはいえ、ここで話すべき内容ではない。
呼び寄せた侍女に寿華を連れ出せと命じると鳳仙は不思議そうに小首を傾げた。
「せっかくの時間をもう終わりにするんですか? 寿華もまだお父さまとお話ししたいでしょうに」
至極残念そうに呟く姿はなにが問題なのか理解していない。龍賢はため息をつくと、膝を折って寿華と目線を合わせた。
「寿華、少しこの場を離れてくれるか?」
つとめて優しく問い掛ければ、寿華は揺れる瞳に龍賢を映す。天真爛漫で気丈な娘も異母弟妹が生まれる話には動揺を隠せないのか、不安げな様子を見せていた。
「いえ、大丈夫です。だって、お父さまは彩王なんですもの! それに新しい弟妹が増えるのは喜ばしいわ!」
「しかし……」
「ふふっ、いいではありませんか。寿華もこう言っていますし」
にこにこと鳳仙は微笑むと両手を合わせた。
「久しぶりの慶事ですもの。寧徳妃は賑やかなことを好みますから、大々的に執り行いませんか? もし、よろしければ、わたくしに任せてくださいませ」
「君に?」
「ええ、寧徳妃の好みは、わたくしが一番よく知っていますわ」
悩んだ末に龍賢は許可を出すと、鳳仙は至極嬉しそうに毒々しい赤で彩られた唇を持ち上げた。




