17 稽古場
稽古場に木の打ち合う音が響いていた。
綺宵は両手に握った木剣を構えて、相手の動きを必死においかける。
「おいおい! 馬鹿正直に真正面から剣を受けようとすんな、そんな細腕じゃすぐ使い物にならなくなるぞ。躱せ! それか力を流せ!」
「——! はいっ!」
墐章が左手に握った木剣を容赦なく振り落とすたびに、綺宵の手のひらには赤い痕が刻まれていく。柄を握るのも痛いし、剣戟を受ければ、手だけではなく腕も足も痛みが走る。
それでも綺宵は歯を食いしばる。強くなるためには、こんなことで根をあげるわけにはいかなかった。墐章は貴重な時間を費やしてまで、自分を鍛えてくれているのだ。最初の頃と比べて、明らか腕はよくなった。この傷痕も無駄ではない。
「今日も頑張っているな」
この場に似つかわしくない軽やかな声音に墐章と綺宵は動きを止めると揃って頭を下げた。
「顔をあげなさい。どうだ、墐章。綺宵の様子は」
龍賢の尊顔を見た綺宵は内心で首を傾げた。勇ましい容貌を優しげに緩めているが、どことなく違和感を感じる。まるで泣くのを我慢しているようだ。
墐章もその違和感を感じているようだったが、指摘はしない。ちらり、と綺宵を見て豪快に笑った。
「まっっったく! やっと木剣を難なく持ち上げられるようになったところですよ」
「ひどいな」
思わず睨みつければ、墐章はおどけた様子で肩を持ち上げてみせた。
「子供相手なら難なく圧勝できるだろうな」
「僕だって少しずつだけど強くなっているし、すぐに墐章さんを追い抜いてみせるから見ていてよ」
「無理さ、無理無理。俺に勝とうだなんてあと十年は必要だな」
豪快に胸を逸らして墐章は笑う。
むっと唇を尖らした綺宵が隙だらけの脇腹に木剣を打ち込もうとしたが、墐章は紙一重でひらりと躱して、指を指しながら腹を抱えた。
「この近距離でさえ、当たらないんだ! やっぱ、大人しく添い寝係をしていろよ」
「僕は夜警だ! 添い寝係じゃないっ!」
怒りに任せて木剣を斜めに振り下ろす。墐章は軽々と自らの木剣で受け止めた。
それを見て、龍賢は相好を崩した。
「仲がいいな」
と素直に口にすれば墐章は照れくさそうに綺宵の頭を乱暴に掻き乱す。
「俺に息子がいれば、ちょうどこれぐらいですからね。どんなに生意気でも可愛いですよ」
生殖能力に欠けた宦官は子を成すことができない。
そのため、地位の高い宦官は養子をもらったりするのだが墐章は職務を優先したいと独り身を貫いていた。最初は警戒していたが蓋を開けてみれば綺宵という少年は人懐っこく、地頭がいい。武の腕はからっきしと言っていいが、それでも他者を惹き寄せる魅力を持っていた。いつもなら酒飲みや昼寝に費やす時間を割いてまで、鍛錬をつけてやろうと思うほどには墐章は絆されていた。
「まあ、俺からはこんな顔がいい子供なんて生まれなさそうですけどね」
元は貴族の出自である綺宵は繊細な顔立ちをしている。龍賢の好意で身だしなみを整え始めた今は磨かれた玉のように華やかな美しさらしく、すれ違う宦官や宮女が綺宵の顔を見て呆然としている場面はよく見ていた。
「墐章さんがお父さまならすっごい甘やかしてくれそうだね」
綺宵は上品に口元を持ち上げて、小首を傾げる。少し前なら龍賢がいると緊張して固まっていたのに、今では軽口も叩けるようになったのが可愛らしくて墐章は細い肩に腕を回した。少し体重をかけてやれば「重い!」と抗議の声があがる。無視して更に体重をかけていると龍賢が顔を青ざめていることに気がついた。
「体調が悪いんですか?」
この稽古場には自分たちしかいないので率直に聞く。
龍賢は顎を覆うと、斜め下を向いた。
「いや、違う」
否定しているが顔色は未だに悪い。今にも卒倒してしまいそうだ。
墐章の腕からするりと脱出した綺宵は龍賢の前に立つとそっと腕を伸ばした。熱の有無を確認しようとしての行動だったが、龍賢は大袈裟に肩を跳ねさせ、その腕をはたき落とした。
乾いた音が稽古場に響く。腕を叩かれた綺宵も、叩いた龍賢も、それを見ていた墐章も、そろって目を見開く。
「……あっ、あー、すまない。寝不足だったようだ」
「そりゃあ、いけない。すぐ綺宵を風呂に入れてくるんで昼寝したらどうですか?」
墐章の言葉に龍賢は首を振る。
「しばらく、添い寝はいらない。少し、用事ができたから、それを伝えたかっただけだ」
「用事って?」
綺宵は海色の瞳を凝視しながら問いかけた。こんな状態で「わかりました」なんて言えるわけがない。龍賢の負担が少しでも軽くなるなら、と思っての行動だったが龍賢は視線を左右に彷徨わせるだけで「あー」だの「うー」だの口にする。どの言葉を使うべきか悩んでいるようだった。
「……心配はいらない。二人は鍛錬を続けてくれ」
そう言って、龍賢は早足でこの場を去っていく。
残された二人は顔を見合わせた。
「……よく眠れなかったのかな」
「それはないな。綺宵が来てから彩王さまはゆっくり眠れているのは事実なんだし、実際に昨夜もぐっすりだったんだろう?」
「うん、よく眠れていたと思うよ。僕も眠っちゃったから覚えてないけど」
「お前なー、夜警なんだから最後まで起きる努力をしろよ」
ため息をつくと綺宵の額をこづく。別に怒ってはいない。綺宵の分も自分が守ればいいだけだ。
「まあ、心配はいらないさ」
「墐章さんは心配じゃないの?」
また、額をこづく。先程よりも強い力で。
さすがに痛かったのか綺宵は涙目で墐章を見上げた。
「ばーか。心配だよ」
「突くのやめてよ」
「ちょうどいい高さにおでこがあるもんで。……あの人は気さくだから忘れがちだが、彩王さまだ。《《色々》》とやることがあるんだよ」
綺宵を側に置くようになってから、妃嬪の元に通うことがなくなった。
それを朝議の場で重臣たちに指摘されたのだろう、と墐章は考えた。それなら龍賢が綺宵に用事の内容を言えないのも納得だ。龍賢は色んな意味で綺宵を大切に想っているから。
「もし限界になったら凌峯さまや玉麗さまたちが引きずってでも連れてくるだろうさ」
自分と同じように龍賢に忠誠を誓う者たちの名前を口にする。近侍である凌峯も侍女頭を務める玉麗も、龍賢の様子がおかしいと判断したら叩きのめしてまで連れてくるような人物だ。
だから心配はいらない、と墐章は綺宵の頭を撫でた。




