09 星が瞬く夜
夜の回廊は昼間の明るさが嘘のように静まり帰っていた。
夜空を飾る星の煌めきが漆塗りの回廊を照らし、柱の影を落としている。ほんの微かな息遣いですらうるさく聞こえそうな静寂は普段は居心地の良いのだが、綺宵は内心うんざりしていた。
「彩王さまの閨に行かなくていいのかい?」
目の前の光景が気に入らないからではない。すぐ隣で共に夜警を務める宦官——墐章が楽しそうにちょっかいをかけてくるからだ。
「僕は夜警のために異動しました。彩王さまのお相手など、恐れ多くて僕には務まりません」
「そんな細腕で夜警だって? 閨のお相手と言われたほうが納得いく身体をしているのに」
墐章は綺宵の二の腕を掴むと弾力を確かめるように手のひらに力を加えた。
力加減がされていても普段は触れられることのない部位に触れられたため、綺宵は羞恥から頬に朱を散らせながら、墐章から距離を取ろうとする。
「離してください!」
「おいおい、少しは声を抑えてくれよ。彩王さまのお気に入りである君とは違って、俺はしがない宦官だ。君の分も罰則を受けるかもしれないんだから」
場所は寝室の前。重厚な扉は綺宵の声を通してはくれなさそうだが、用心に越したことはない。綺宵は声を極限にまでひそめて、楽しげに笑顔を見せる墐章を睨みつけた。
「ご安心ください。僕は彩王さまのお気に入りではないので、罰は共に受けることになりましょう」
墐章はわずかに目を見開き、次に細めた。カサついた唇を持ち上げる。
「嘘はよくないぞ。実力重視である彩王さまが君のような細っこい少年を連れてくるだなんて前例がないのだから。ふむ、だが確かに閨のお相手ではなさそうだな」
二の腕を掴む手を離し、顎に添えると、視線で舐るように綺宵の身体をじっくりと観察する。栄養を摂取していない貧相な身体、それに見合ったひょろっとした手足、背は平均よりやや低い、顔の造形は整っているが肌艶が悪く、髪もごわごわして手触が悪そうだ。——綺宵の細部を事細かく評価し始まる。
「君が彩王さまのお気に入りというのは事実だろうけれど、着用している衣裳は麻だし、見た目を磨かせていない時点で《《あっち》》のお気に入りではなさそうだ」
「だから、さっきから言ってますよね」
「かといって武芸の腕が優れているわけでもない。腕も胸も足も、全てにおいて筋肉がない」
墐章はにんまりと笑う。
「なぜ、夜警に選ばれた?」
「寧徳妃さまの夜警の際にお目にかけていただいたんです」
「何度も言うが、武芸に秀でてはいなさそうな君が?」
「……いったい、なにが言いたいのでしょうか?」
好奇心で揺れる瞳を、綺宵はじっと見つめた。この男の本心がわからない。藍児のように功績を持たない自分に嫉妬しているわけでも、噂の真相を知りたいわけでもなさそうなのに。
「いや、なに。彩王さまは君のどんなところが気に入ったのか知りたくてね」
「それは僕自身も知りたいです。……墐章さまにとって、彩王さまはどのようなお方なんですか?」
「なぜ知りたがる?」
「あなたが彩王さまに忠誠を誓っているからでしょうか」
「俺に忠誠心があるとでも?」
今度は綺宵が目を見張る——真似をした。
「彩王さまの御身をお守りするため、僕のことを知りたいのだと思っていました」
夜間という時間帯は襲撃に遭いやすく、また油断しやすい。
そのため、護衛対象に近い場所ほど、実力と忠誠心を吟味した上で誰を配属するか決められる。
(蒼詠の時がそうだったし、おそらく今も変わっていないはずだ)
寝室の目の前という最も実力と忠誠心が重要視される場所に墐章が配属されているということは、言葉通り、彼が近衛兵のなかでも指折りの実力者であり、彩王への忠誠心も高いということだ。
「僕は見ての通り、武に疎いです」
試しに力こぶを作ってみせる。少しも隆起しない筋肉を見て、墐章が唇の端を引き攣らせた。その目に浮かぶ憐れみに気付いたが綺宵は何も言わず、次は裾をめくり足をだす。腕と同じように力を込めてみせた。
——と、同時に墐章は背後に目を向けた。
一瞬だったのと、自らの足に集中していた綺宵は気がつかない。裾を元に戻すと大袈裟な仕草で肩をすくめる。
「力もなければ、特別、足が早いわけでもありません。彩王さまの御身をお守りできるかと問われたら〝いいえ〟と首を振るしかできないでしょう」
「確かにな。その手足で俺と同じ動きをしろ、と言うのは無理があるな」
どこか楽しげに墐章は笑う。
「なるほど、なるほど。いや、すまんな。意地の悪い質問ばかりしてしまって」
急に変わった態度に綺宵は驚きつつも、佩剣の柄に手を添える。
「いえ、僕も夜警の一員に選ばれたのですから強くならなくては……。墐章さま、もしよろしければ、お手が空いた時に鍛錬に付き合ってもらえませんか?」
「んん? なぜだい?」
墐章は首を傾げた。
「そのままでもいいじゃないか」
「いえ、強くならなくては。彩王さまに選んでいただけたのに、役立てないなど自分が情けない。必ず、期待に応えてみせます」
今の龍賢の方が綺宵よりも強い。綺宵の護衛は不必要だろう。
それでも選ばれたからには職務を遂行したい。微力だが龍賢の不安を取り除けるようになりたい、と言えば墐章は込み上げる感情を押し込めるように、口元を覆い震えていた。
「あの、墐章さま。どうかなさいましたか?」
「……いや、もう《《わかった》》。君が選ばれた理由を」
不思議そうに顔を覗きこむ綺宵に優しく微笑みを返すと墐章は扉を見つめた。正しくはその奥にいる、久しぶりに安眠できているであろう主人を。
「だが、口に出すことはできない」
その言葉に墐章の意図を読み取った綺宵は「そうですか」と前を向く。
「でも、僕の言葉に嘘偽りはありません。選ばれたからには強くなります」
「そのままで十分だと思うが、まあいいさ。これからよろしく頼むな、相棒」
目の前に拳を突きつけられて、咄嗟に綺宵は両目を瞑った。殴られるかと思った。
「違う、こうだ」
綺宵の反応に焦りながら墐章は優しい手つきで綺宵の手首を持ち上げる。指を丸めて、拳を作ると自分の拳を突き合わせた。
「……これってどんな意味があるんですか?」
「あ? ううん、まあ、いいだろ。なんか友情っぽいし」
「……友情」
ぽかん、と口を開ける。友人と呼べるのは風花だけで、同性の友達など初めてだ。どう言葉を紡げばいいのか分からず、合わさる拳を見つめていると墐章は乱雑に後頭部を掻く。
「歳は離れているが彩王さまのためになりたいなら同僚じゃなく、友だろう? それとも、こんなおっさんを友にするのは嫌か?」
悲しげに俯くので慌てて綺宵は首を振る。
「友達って、はじめてで」
「ん? お前、今まで友達いたことねーの?」
「一人、宮女の子とは仲がいいけど、その子以外はいません」
荒くれ者だった綺宵に友達はいない。皇太子である蒼詠にも友と呼べる人間は存在しなかった。初めてできた同性の友達が嬉しくて、綺宵ははにかむ。
「だから、嬉しいです」
「そりゃあ、よかった」
それきり、二人は何も言わず前を向いた。気がつけば、あのうんざりした気持ちはどこかへ去っていった。




