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根岸  作者: なしごれん
第四章 私と彼女 
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第十七話

ロキタンスキー症候群は子供を産むことができない。


女性の約五千人に一人の割合で発症するその病気は、いまだに知名度が低く、はっきりとした原因もわかっていない先天性の病気だ。


また、子供を産めない身体というだけで、他の機能は至って健康なため、思春期に入った女性が異変を感じて病院に行った際に発覚するケースが殆どで、彼女が高校の二年時にパニック障害で一年間休学していたのは、女性の機能がないという精神的ショックから生じた、ストレスによるものだろう、と私は相変わらず退屈な現代文の授業に耳を傾けて、頭では彼女のことを考えていた。



あれから二週間、彼女が予備校に来ることはなかった。


もしかすると、私の授業のない日に、彼女が授業を受けているのではないかと考えてみたが、授業開始の第一声に、森川先生が「今日も休みかぁ」と、空席の机を指差して、ため息を吐きながら小さく呟いたのを、私は聞き逃さなかった。


「………私大の現代文には空欄補充問題が多く出題されますねぇ。去年のY大の文学部を例にとってみると………」


森川先生の穏やかで、そのどこか癖のある物言いに、耳を澄ましながら、私は前から二番目の空いた彼女の席を眺めた。


今頃彼女は何をしているのだろ。


彼女のことだから、予備校に来なくとも、家で必死に勉強をしていると思うのだが、こうも連絡がないと、もしかすると、学校に通えないくらいにパニック障害が悪化して、家に引き篭もっているのではないだろうか。


もしそうだとすれば、私はあの時彼女に、とんでもないことをしてしまったのではないだろうか。


そんな不安に駆られた私は自分の失態を探るべく、先月おきた、彼女との出来事を何度も思い返してみた。


あの時、私は彼女に、何と言ってあげれば良かったのだろう。


十月初めの予備校は、いつにも増して冷たい空気が教室全体に流れ込み、普段なら睡魔に耐えられない私のだらしない身体を、突き刺す針のように刺激して、私は椅子に掛かったパーカーを急いで羽織った。



*



授業終了のチャイムと共に、生徒が各々席から立ち始めた。


今日の私の授業はこれが最後だったので、速く教室を出ようと、ペットボトルに残った水を一気に飲み干して、帰る支度を始めた。


その時、


「君、ちょっと来てくれるかい」


壇上で森川先生が私を呼ぶ声がした。


私は驚いて、返事をするのを忘れて、その場に立ち尽くした。


「何をしてるんだね。速く来なさい」


「……………っ、はい」


私は急いで身支度を済ませると、先生のいる壇上に早足で向かった。


周りの冷ややかな視線と、微かに聞こえるひそひそ声に、ただならぬ雰囲気を感じた私は、怒られるのだろうと身構えて、真っ直ぐに立っている森川先生の顔を見た。


「あぁ、ここじゃあ人が多いねぇ。別の場所に移動するか」


先生はそう言って、真っ黒なアクリルケースを手に持つと、颯爽と教室を出ていった。私もそれに続くようにして、教室を出た。


先生は階段を下り、二階の談話室のドアを開けると、自販機の目の前で立ち止まった。


「君は何にするかい?僕はブラックにするけど。最近の子は甘くなくっちぁ飲めないってのが多いからねぇ、コーヒーじゃなくてコーラがいいなんて言うやつもいるんだぁ」


そう言って、ポケットから質の良い革製の財布を取り出すと、自販機に小銭を入れ始めた。

私は先生のその行動に驚いて、二、三回ほど瞬きをした。


「…………じゃあ僕もそれをお願いします」


先生の後ろに立って、私はそう答えた。


「りょうかい」



しばらくして、先生が二つのコーヒーを持って、テーブルにやってきた。


先生は私に座るよう目配せして、私が腰を下ろすと同時に、目の前に缶コーヒーをそっと置いた。


「私はねぇ、もう今年で六十二になるけれど、ここのコーヒーが、生きてきた中で一番美味いと思うんだ。何故だかわかるかい?」


先生は熱い缶コーヒーを躊躇なく口に運ぶと、私の顔を見つめた。


「………仕事終わりの一本、だからですかね」


私は俯いて、両手で缶コーヒーを覆った。


「あぁ、そうだ。当たりだよ。こんなこと言うのもなんだがね、四十何年も壇上に立ち続けるていうのは、並大抵の努力じゃあやっていけないんだよ」


先生は笑っていた。


「毎年毎年問題は変わるし、生徒も変わる。黙って聞いている子やノートを取っている子。眠っている子やそもそも授業なんてまったく耳に入っていない子まで、様々だ。だからねぇ、そんな生徒たちがどうやって授業を楽しく受けてくれるのかって、常に考えながら毎日壇上に立っているんだ。もちろん大変さぁ。でもねぇ、そんなことを毎日しているから、自然と仕事終わりのこの一本が、最高に美味しく感じられるんだよ」


先生は笑いながら、残ったコーヒーを飲み干した。



「君はこのコーヒーを美味いと感じるかい?」



先生は優しい笑みを浮かべて、私を見つめた。


「……………いいえ」


私はまだ手の中にある、温かなアルミニウムを握ったまま、俯いてそう言った。


「ハハハ、そうかい。素直でよろしい」


先生は笑ったまま、空のコーヒー缶を手で覆う。


「僕の授業は退屈かね?」


「いえ………そんなことはないです」


「そうかね………君はここ最近、まるで僕の授業が頭に入っていないように思えるよ。成績は悪くないんだがね」


先生はそう言って、私を見つめた。


「何かあったのかい?」


「……………いいえ」


「……彼女のことかい?」


その時、私はパッと顔を上げ、先生の顔を見た。


先生はいつもの穏やかで、優しい笑みを私に向け続けていた。


「…………なぜ僕に、そんなこと聞くんですか」


「君は事あるごとに、彼女の席を眺めているからねぇ……気づいていないとでも思ったのかい?僕はもう何十年も、講師をやっているんだから、そのくらいわかるさ」


先生はそう言って席を立つと、自販機の隣にあるゴミ箱に空き缶を入れた。


「君は知っていると思うけど、彼女は他の生徒と違うんだ。それは身体的な部分だけでなく精神的にもだ。彼女はこの予備校に入ってから一度だって授業を休んだことなんてなかったんだよ。それがどういうわけか、ここ二週間、彼女は予備校に来なくなった。それだけじゃあない、僕は何度も彼女に連絡をした。けれども返信は一向に返ってこないんだ。もう僕が何を言いたいのか。わかるよね?」



先生は振り返ると、座っている私をじっと見つめた。


その表情は、いつもの穏やかな微笑ではなく、人に物を頼むような真剣な眼差しだった。


「……………僕に何をしろって言うんですか。第一、僕だって彼女から連絡が来ないんですよ。もう、これ以上どうすることもできないです」


私は先生の瞳を見つめて、はっきりと強くそう言った。



「……君ならできるさ。じゃなきゃこんなお願いしないよ」



先生は再び穏やかな笑みを私に向けた。


その表情は、夏休み最後の授業に、私が教室から出たあの瞬間に見せた、優しさと期待のこもった、私の好きな先生の表情だった。


「青春は短い。宝石の如くにしてそれを惜しめ」



*



私は予備校を出ると、駆けるようにして信号を渡った。


彼女に連絡しなければ。


前もこの場所で、似たようなことを思い浮かべたな。と私は通り行く会社員の、歩調よりも速く足を動かしながら、横浜駅西口の改札を目指した。


しばらく歩いていると、それから小さな雫が落ちてきた。


雫は段々と勢いを増して、私の身体に覆い被さる。

こんな時に限って、運が悪いなぁ、と私は横浜駅地下街へと続く、階段を下った。



休日の地下街は人で溢れかえっていて、濡れた地面と対照的な熱気が店中に蔓延っていた。


階段を下りた私は、拭くものはないかとカバンの中を探ってみたが、タオルどころかハンカチも入っていなかった。


仕方なく私は、先生からもらった缶コーヒーを開け、口に入れた。


まだ温かみの残ったそれは、冷えた私の身体によく沁みる、苦味と旨味が合わさった、最高の味だった。


私は半分までそれを飲むと、片手で暖をとりながら、横浜駅を目指して、地下街を歩いた。


西口へ続くエスカレーターをのぼり、中央通路を通った私は、改札の前で立ち止まると、ポケットから財布を抜き出し、財布から交通カードを取り出して、そのまま改札を通ろうと、足を動かした、


その時だった。


私の腰にある携帯がぶるぶると震えている。


私はハッとして、恐る恐る画面を覗いた。


それは彼女からのメールだった。



『今日六時に、山手のバス停に来てください。お話ししたいことがあります。』



私は驚いて、帰宅でごった返す、横浜駅西口のど真ん中で、動くことができなかった。


彼女のメッセージを見るのは何日ぶりだろうか。


私は歓喜と興奮を抑えきれないまま、その何週間ぶりに見る彼女のメッセージをもう一度読み返し、現在の時刻を確認する。


午後五時十二分。

今から電車に乗れば、十分間に合いそうだ。


携帯を握る、震える右手は発汗して、感触が感じられないくらい滑る。


私は落ち着こうと、左手で持っていた缶コーヒーをひと口含み、この機会を逃してはならない、と心の中で呟いて、彼女のメッセージに返信しようとした指を動かした。


その時、またも、私の携帯が動く。


しかも今度は振動だけでなく、軽快な音も鳴り響いている。


もしかして……


私は彼女かもしれないと期待して、通行人の邪魔にならないように、人のいない券売機の前に駆け寄ると、急いで電話に出た。



「もしもし、水木か?今何してる」



その聞き覚えのある、やや声の高い電話の主はBだった。


「………………おぉ、久しぶりだなぁ」


私は予想が外れた無念から、おもわず的外れな声を漏らした。


「今は予備校の帰りだ。遊びの誘いだったら今日は厳しいぞ。来週には模試も終わるから、それまで待っててくれ」


私は彼女ではないことを惜しんだが、二ヶ月ぶりに聞くBの声に、懐かしさを感じて、わざわざ電話をかけてきたことを嬉しく思った。


しかし、今日は彼女との約束があるので、彼に付き合うことはできない。


「いやぁ…そのぉ………今日は遊びの誘いじゃないんだ…」


Bはモゴモゴと何か言いたげな、いつもと違う話し方をしていた。


「あぁ、そうなのかぁ。だったら一体俺に何のようなんだ?」



「…………………水木。今、時間はあるか?」



Bは普段の声よりもやや低い、鼻の詰まったような口調で、私にそう尋ねた。


「……………あるけど、どうしたんだ?」


「………水木。落ち着いて聞いてくれ」


「………あぁ」


Bはゆっくりと息を吸って、吐き出すように呟いた。




「Aが死んだ」




左手にあったコーヒーは、するりと私の手を離れると、瞬く間に音を立てて地面に落ちる。


その黒く濁った液体が、真っ白なタイルに広がっていくのを、私は黙って見つめていた。


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