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根岸  作者: なしごれん
第四章 私と彼女 
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第十八話

「E704ですね。左側の救急棟エレベーターをお使いください」



そう言って私にカードを渡すと、スタッフは再び事務作業に取り掛かり始めた。

私はスタッフの言われたとおり、左側にある通常のものよりも広い大型エレベーターに乗って、七階を目指した。


エレベーターはゆっくりと、音を立てずに動き出し、私はその端っこで下を向いて息を整えた。


Aはなぜ死んでしまったのだろう。私はそのことで頭がいっぱいだった。


彼のことだから、自分から死ぬなんて真似は絶対にないはずだし、かと言って、他人から恨みを買われるようなやつでもなかった。


階が上がるごとに、その静かな空間に、私の心臓の鼓動と、エレベータの微かな機械音がだんだんと大きくなって、私に押し寄せてくる。

その言葉にできない苦しさを、階数表示の灯りを見つめながらひしひしと感じていた。


エレベーターのチンという音が鳴り、私は七階へ着いた。

ドアが開かれると、私の目の前に真っ白な顔をしたBがじっと私を見つめて立っていた。



「あぁ……早かったな…」


Bはそう言うと、エレベーター横の待合室に私を案内した。

木製のテーブルの両端に、高そうなソファが置かれたその部屋は、電球の数が少なく、外の荒れた天気と相待って、私を不安な気持ちにさせた。


「まぁ、座れよ…」


私は紺色のソファに深く腰を下ろすと、Bも私の向かいに黙って座った。


「雨…………どれくらい降ってた?」


Bは俯いて、静かに私に聞く。


「まだ小粒だけど、だんだんと勢いを増してきているね。このままだと今晩は土砂降りだな」


私は右側のガラス窓に目をやりながら、そう言った。


「なんだか久しぶりだなぁ、Bとこうして二人きりで話すのは」


「三月のあの時以来じゃないか?」


「あぁそうだ。俺が交差点で待っていたら、Bが向こうから歩いてきたんだよ」


「あの時の水木の格好……今思い返すと随分とダサかったなぁ」


Bは俯いたまま、不自然に口角を上げて、笑うようにしてそう言った。


「うるせぇよ。お前だって大して変わらなかったじゃないか」


私も俯いて、わざと明るく声を張ってBにそう言った。

雨の降り始めた横浜の空は日が暮れようとしていて、明かりの少ない病棟に、隣の部屋から聞こえる心拍数の規則的な機械音だけが、私の耳にこびりついて、離れようとしなかった。


「そういえばあの日も、今日みたいに風が冷たかったなぁ……」


私はなおも俯いて、呟くようにそう言った。


「………………」

「………………えっと…」


私は何かBに話そうと必死に言葉を探したが、乾いた私の口からは、生温かい吐息しか出なかった。



「くも膜下出血で即死だ」



先ほどより声を張り上げたBが、俯いたままそう言った。


「……………あぁそうか」


私はなぜかすんなりと、Bが言ったその言葉を受け止めることができた。


「昨日、俺は伊勢佐木町でAと飲んでいたんだ。Aも俺も仕事終わりで疲れていたから、今日は嫌なこと忘れて二人で飲もうって、Aのお気に入りの店に連れて行ってくれたんだよ」


「そのまま二人とも記憶がなくなるまで朝まで飲み続けて、閉店の時間になったんだ。俺は帰ろうとしてAに声をかけた、もう帰るぞって、そしたらAが横になりたいって言うんだ。俺はここはもう閉まるからって、そのままAをおぶって家まで届けたんだ。その時はまだ意識はあって、玄関から部屋まで一人で歩いていったんだ…………そしてそのまま昼になって………Aが起きてこないから…おばさんが部屋を見に行ったんだ………そしたら…Aが床に倒れていて…………」



Bは真っ白な床を見つめ、ゆっくりと話していたが、途中から言葉が詰まり出し、最後はすすり泣くようになって、弱々しく語っていた。


「俺の………おれのせいなんだ…あの時………早めに店を出ていれば………Aは…………こんなことにならずに済んだのに………」


両手で顔を覆い、手を震えさせながら、Bはそう言った。


「おい、落ち着けよ、まだ酒が原因って、決まったわけじゃあないだろう。それに、突然起きたことなんだから、Bが深刻になる必要なんかないよ。もっと他の原因が………」



「あいつ、酒飲めねぇんだよ」



Bは声を張り上げて、叫ぶようにしてそう言った。

私はそのBの言葉に驚いて、勢いよく顔を上げてBを見た。


そこには、顔全体を紙のようにくしゃくしゃにさせて、赤く目を腫らした、Bの姿があった。


Bの身体を小刻みに震え、その赤く腫れた目からは、何すじも涙が流れていた。

私は今しがた、自分の目の前で見たこともないくらい泣いている、友人の顔をじっと見つめ、あぁそうだAは死んでしまったんだ、と心の中で呟き、唾を飲み込んだ。


「うそ………つくなよ」


「……こんな時にうそなんかつかねぇよ」


「うそだ………そんなのうそに決まってる…………だってあいつはいつも俺たちと飲んでいたじゃないか………それにあの時だって……………」


そこまで声に出した私は、ハッと我に返った。

私の脳内に、顔を赤くして笑っているAの顔が鮮明に映し出されていた。

あぁ、そうだ。あいつはいつも一杯目で顔を赤くして、怒ったり笑ったり泣いたり…色々な表情を私たちに見せてくれていたな。



「あいつ…………酔ったフリじゃなかったのかよ…」



「Aは…………Aは俺たちと楽しく飲みたいからって……炭酸も苦手なのに……無理していつも飲んでたんだよ……でも、考えてみればそうだよなぁ……あいつ中学の頃はあんな性格じゃなかったもの……」


Bは鼻声になりながら、何とか喋ろうとしていた。


「あの夜、俺は酔っ払って、Aに何度も飲むよう促したんだよ。もう一杯、もう一杯って、そしたら最後の方は完全に呂律が回らなくなっていて………最後はぐったりしていたんだ………」


「俺のせいだ………俺がAを殺したんだ……」


その時、Bはワァっと声にならない奇声をあげて、その場に崩れ込んだ。


「わかったから………もうわかったから……なぁ」


私は泣き崩れるBに近寄って、彼の背中をさすりながら、安心しろこれはお前のせいなんかじゃない、と心の中でそう呟き続けた。


夕刻の過ぎた横浜は闇一色に染まり、静まり返った病棟に、Bの湿った鼻音だけが、いつまでもこだまし続けていた。






しばらくして、待合室にAの家族がやってきた。


「わざわざ来てくれて、ありがとうね」


明るくも暗くもない口調でそう言ったAの母は、私たちを病室へ案内した。


「この部屋です」


私はゆっくりと病室の扉を開けた。


「………………あっ」


そこには水色のニットを着て、上品に椅子に座っている綺麗な女性がいた。

二十代前半だと思われる整った目鼻に、着こなされた黒のスーツとグレーのタイトスカート。

その美しい横顔は涙で濡れ、俯いた視線は病室の白い床に注がれていた。


私は生と死が蔓延る病院に似つかわしくない、その彼女の美麗な雰囲気に圧倒され、その気恥ずかしさから、急いで視線をベッドに移した。


ベットの上で、Aは静かに上を見上げていた。


「め……………ひらいてるんですね」


私は自然とこぼれたその言葉に後悔して、慌てて口を塞いだ。


「即死だったからなぁ………」


Aの父は、淡々とそう答えた。


彼の顔は青くなり、やつれて別人のようになっていた。


「この手………どうしたんですか?」


私はAの右手が血で黒くなり、ただれていることに気がついた。

その真っ青な手は爪が剥がれ、先が赤茶色くなっていた。


「爪で引っ掻いたんですよ。私が部屋に来るまで何度も何度も………Aを運ぶ時、畳が血で染まっていましたから」


そう答えて、Aの母は静かに泣き始めた。


私は彼の手をとって、部屋の中一人で痛みに耐え続ける、Aの姿を想像した。


彼の部屋には小学校時代、何度も遊びに行ったことがあったので、容易にその情景を浮かべることができた。


四畳の畳に、木製の机と白い椅子。その部屋に似つかわしくない洋風で綺麗な椅子をどっちが座るのか、二人で遊ぶときはいつもそのことで争っていたな。


私はその椅子に、赤いしぶきがあげられて、ひっそりと死体の横で佇んでいる様子を、目の前で目撃したような気がした。


彼は辛かっただろう。声も出ず、助けも呼べず、一人ぼっち畳の上で痛みと戦い続けていたのだから。


その痛みが治まって、全身の力が抜けたその一瞬、彼は何を思ったのだろうか。



“俺、好きな人ができたんだ”



何ヶ月か前に階段の上でそう呟いたAの顔が、私の目に映った。


「…………………ふざけんじゃねぇよ」


私はAの手を強く握った。


「お前……っ何やってんだよ………………」


「………………………」


「酒もタバコもほどほどにって………俺あれだけ言ったよなぁ」


「………………………」


「それに何だ?…………酒が飲めないって?」


「………………………」


「ふざけんじゃねぇぞ。俺はお前に気使われるほど、子供じゃねぇんだよ」


「………………………」


Aは黙って上を見上げていた。

いつまでも天井を見続けるその顔は、私の知っている彼の中で一番の、穏やかなものだった。



「何か言ってみろよ」


「………………………」



「おいなんか言えって、なぁおい、おい、…………………いつもなら俺に刃向かってボール投げつけてくるだろ……………………おいなんか言えよ…………なぁ…………………つかさ……………つかさ………つかさ……つかさぁぁぁ」



私は叫びながら、森本司の肩を掴み続けた。



もう生気を失って、人形のように硬くなった彼の身体を揺さぶって、私は泣いていた。



「水木、やめろよ」


Bはそう言って、私の腕を掴んだ。



「おい、離せよ…………お前だってわかるだろう………なぁ…………つかさはまだ死んじゃいけないんだよ……………なぁ……………何でつかさが死ななきゃいけないんだよ…………教えろよ………………なぁおい………何でだよ……………何でなんだよぉ……」



私はBの手を振り切って、何度も司の肩を握り続けた。


だんだん声が擦れて、ヒリヒリと痛み出す喉の感覚を感じて、ばかやろう。つかさはもっと苦しかったんだぞと、頭の中で唱えた。


それから何分も、私は司に話し続けた。


次第に病室の空気が薄くなって、私の頭も朦朧としてきた。


その時だった。


「もうやめて……」


私の隣で座っていた女性が、ぽつりとそう呟いた。


「お願いもうやめて」


女性はさっきよりも大きく、叫ぶようにそう言うと、席を立ち私の腕を掴んだ。


「うるせぇ…………はなせよ…」


私は擦れて、もう声になっていないその言葉を吐いた。

女性はしっかりと私の腕を握り続けた。


「……………っ…あぁ…おい……」


私はその腕を振り払おうと、勢いよく身体を捻った。

その弾みで、私の頭は女性の顔と数センチまで近づいた。


「お前…………………」


私はそう言って、女性の方へ振り返る。


女性は泣いていた。


栗色の瞳は病室の薄い光で煌めいて、目元の化粧は落ちていた。


その顔を見て、あぁこの表情、どこかで見たことがあるな。と私はふた月前の彼女のことを思い出し、その瞳を黙って見つめた。



静まり返った病室に、私の荒い息づかいと、女性の啜り泣く声が、死体を挟んでいつまでも流れていた。


私はその時ようやく、泣いている女性が伊藤だとわかった。



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