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根岸  作者: なしごれん
第四章 私と彼女 
16/25

第十六話

横浜の開港後、外国人居留地とされた山手は、洋風の建築物がそこかしこに建てられ、異国情緒漂うその街並みは、来るものにヨーロッパのようなを印象を与えた。


今でも国内有数の高級住宅地として知られるそこは、明治時代、丘陵に作られたことから、「山手」と呼ぶようになり、反対に、元々外国人居留地のあった関内地区を「山下」と呼ぶようになった。


元町商店街から山手のその一帯は、周りの家とは比べ物にならないほど豪勢で落ち着いた雰囲気が、街全体を包み込んでいた。


私は道行く学校帰りの、紺色の制服を着た女子学生を横目に、山手町のバス停で彼女を待っていた。



「…………遅いなぁ」



夏休み最後の授業が終わったその夜に、私は母親に電話をかけ、何とか予備校を続けることができた。しかし、予備校を続ける条件として、今月末に行われる模試でC判定以上取らなければならなくなってしまった。


私は日頃から本を読んでいたこともあり、国語や社会科には人並み以上に自信があった。しかし、入試が終わってからそれっきりの英語だけは、四月から一度もまともに勉強したことがなかった。


彼女はというと、その後も何回か、授業を抜ける時があったが、彼女に対する陰口は、あの時以来、すっかり私の耳に入ってこなくなった。


というのも、私たちが教室を空けている間、森下先生が陰口を言った生徒に説教をしたらしく、それが効いているらしい。


平日の午後、通行量の少ない山手の道に、つよい秋風が吹いて、女子学生のスカートをフワリとめくる。


その風を耳で受けながら、私は慌てて正面にある女子校に目を移した。


洋風建築の壮大な外観に、囲うようにして高い柵が聳えている。


他の建物を圧倒して力強くそこに建ってる女子校を眺め、私は彼女の制服姿を想像する。


今日は予備校の休館日。私は彼女の家で勉強をすることになっていた。


私は以前から英語について彼女に相談をしていて、それならば休館日の今日、私の家で勉強をしないか、と彼女から連絡があったという訳だ。


私は携帯を開いたその瞬間、それはもう飛び上がるように心が踊って、机の前でガッツポーズを繰り出し、急いで待ち合わせ場所の山手町バス停に向かったのた。



彼女の学校は、山手の真ん中に位置する中高一貫の女子校で、彼女は家が近いという理由だけで、その学校に進学することを決めたらしい。

クリスチャンのその学校は、ドラマのセットのような洋風の外観に、生い茂った木々が、どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出して、私の前に建っていた。


午後四時三十分。予定の時間より少し遅れて、彼女がバスから降りてきた。


「遅れてすみません。バスが混んでいたもので…」


バスを降りた彼女は、私の目の前に立って、息を切らしながらそう言った。


彼女は学校が終わると、毎週通っている桜木町の病院にそのまま向かい、その帰り道に私と合流したのだ。


彼女の髪は乱れ、表情はどこか暗いものに感じられた。


「いや平気だよ。それより体調の方は大丈夫なのか?」


私は彼女を心配そうに見つめて、そう言った。


「はい、今はお薬も飲みましたし、病院にも行ってきたので、大分落ち着いています。ただ…」


彼女は言葉を詰まらせた。


「ん、どうした?」


「いえ、なんでもないです」


彼女は何か言いたげな表情を浮かべたが、その後、いつもの優美な笑みを私に向けた。


その上品で、何もかも包み込んでしまう彼女の笑顔に、やはり私は見惚れてしまった。私たちはしばらく、バス停の前でひとしきり近況を語って、ひと段落ついたところで私が口を開いた。


「じゃあ、行こうか」


私は緊張で逃げ出してしまいたい気持ちと、彼女とこうして話していたいという気持ちの、両方が絡み合った複雑な感情を、彼女に見せないように意識して、深く息を吸った。



「…待ってください」


彼女は先を行く私を止めるように、シャツの裾を軽く握りながら、そう言った。


「今日はわたし、家に帰りたくないんです」


「え?」



言い難い緊張と、良からぬ妄想が、私の頭に駆け巡る。


「…………どうしたんだよ急に」



「………………」



「もしかして、親と喧嘩でもしたのか?」



私は笑いながら、頭に浮かぶ煩悩を払拭しようと、唇を強く噛み締めた。

彼女は黙ったまま俯いて、ゆっくりと口を開く。


「わたし……わたし、どこかに遊びに行きたいんです」


彼女は顔を上げると、いつもの明るい調子に戻ってそう言った。


「あ……あぁ、そういうことね。確かに、予備校が休みなんて滅多にないから、たまには気分転換も大事だよね」


私は彼女の家に行けないことを、心の底から悔やんだが、彼女と二人きりで話すだけで幸せだと思った。


「遊びに行くっていってもこの辺りだと、港の見える丘公園とか、中華街とか色々あるけど…」



「近場じゃなくて、もっと遠くの方へ行ってみたいです」


「遠くって言ってもなぁ………この辺じゃあここが一番栄えているし……」


私は腕を組み、必死に行き先を考えた。

横浜駅なら遊べる場所など山ほどあるのだが、毎日予備校で訪れているので気乗りがしない、かと言って、みなとみらいのある桜木町も、今さっき彼女が病院に行ってきた場所なので、自ずと選択肢は限られた。



「それなら、根岸に行ってみないか」



「……ねぎし」



彼女は悩んでいる様子で、黙って俯いていたが、しばらくして口を開いた。



「根岸。根岸って、お馬さんの博物館がある、とっても広い公園のことですよね?」


「あぁそうだ、しかも、今の季節は秋バラが咲いていてね、とっても綺麗なんだ」


「本当ですか? わたし、お花の中でバラが一番好きなんですよ」


「じゃあそこで決まりだな」


彼女は歩き出した。


私は先を行くいつもとは雰囲気の異なる、彼女の哀愁漂うその後ろ姿に悪い予感を感じて、この彼女とのデートが、良いものになってくれと、教会に掲げられた十字架を眺めながら、心の中で呟いた。




*



平日の午後の山手に、暖かな陽気に照らされたポプラの葉が光って、私の目に飛び込んでくる。

私たちは街路樹が生い茂る山手の本通りを、並んで歩いた。


「根岸にはよく行かれるんですか?」


「あぁ 頻繁に友達と行くね」


「あら、そうなんですね。私は小さい頃に行ったっきりで、それもぼんやりとしか覚えていないんです」


「この辺りだと一番大きいんじゃないかなぁ。それに、横浜でバスケットコートのある公園は、そうないからね」


「それでは、バスケットボールをしに、いつも公園に行っているんですか?」

「うーんと…そういうわけじゃないんだけど……」


確かに、Aのバスケの付き合いで、根岸に行くこともあったが、私が根岸に行く理由はそれではなかった。


「根岸にはドラゴンがいるんだ」



「…ドラゴン?」


彼女は首を傾げ、不思議そうに私を見つめた。


「ドラゴンって…あのドラゴンですか?」


「ああそうだ。あのドラゴンのことだよ」


私は彼女の顔を見つめ返し、優しくそう言った。


「本当ですか?」


「あぁ。本当だ」


「そんなの、信じられません。今の時代に本物のドラゴンがいるなんて…」


彼女は目を丸くして、疑わしそうな顔をこちらに向けて、そう言った。


「嘘だと思うだろ?でもこれが本当なんだ。これは俺の友達の話なんだけど…」



そう言って、私はAが私に話してくれたように、彼女に根岸のドラゴンについて話した。


彼女は初めは不審そうに私の話を聞いていたが、話が進むにつれて、その彼女の表情から、興味が出てきたことがわかった。


「最初は俺も疑っていたんだよ。でもあいつの話を聞いているうちに、なんだか本当にいるんじゃないかって、そう思うようになってきたんだ」


私の話が終わると、彼女は満足そうな笑みを浮かべた。


「なるほど、面白いお話ですね。確かに今の話を聞くと、本当にドラゴンが潜んでいるような気がします」


「水木さんは、ドラゴンに何をお願いするんですか?」


「そうだなぁー、俺は欲のない人間だから、特に願いはないけど…」


私は嘘をついた。

本当は願いなんて、初めから決まっていたのに。



「………まぁ強いて言うなら、大学合格かなぁ。俺の成績だと今の志望校は厳しいから」



「そんなことお願いしちゃダメですよ。受験は勉強すれば、誰でも合格できるじゃないですか。お願いっていうのは、もっと…こう……努力だけじゃどうにもならないような…スケールの大きいものがいいと思います」



「そんなこと言ってもなぁ…」


私は自信満々にそう話す、彼女の横顔を眺めて、この先、起こるであろう彼女との幸せな時を思い描き、歓喜に酔いしれた。


「そういう君は、何を願うんだい?」


私は彼女に問いかけた。


「私、わたしですか?…そうですね…」


彼女は俯いて、考えているようだった。


「…………世界平和ですね」


「なんだそりゃ。そんなの叶いっこないじゃないか」


私は笑いながら、彼女をからかうようにそう言った。



「はい。でもそれでいいと思うんです。お願いなんて叶うか叶わないかの二択でしかないわけですし、そんなことに執着する必要はあまりないと思うんです。

大事なのは、叶えられる願いの努力を、怠らないことだと思うんです」



彼女の顔に浮かぶ微笑みの、その奥に見える瞳は、幼い彼女の顔に似つかわしくない、大人びたものだった。


そんな彼女の横顔を視線に入れつつ、私はいつ、彼女の手を握ろうかと、信号を待つ交差点で、前を行くカップルらしき男女を眺めて、真剣に考えていた。


高校生らしいその男女は、身を寄せ合って楽しげに何か話しているようだった。



「いいですね。わたしもああいうの、憧れます」



「…………や……やってみようか?」


私は彼女の白く、か細い腕を眺めて、弱々しくそう呟いたが、私が声を出したと同時に、音声付き信号機が青に変わると、私の声は、その音でかき消され、先を歩く彼女に届くことはなかった。



山手を抜け、山元町に入ると、ヨーロッパのような街並みから、一気に昭和の下町が広がった。

私たちは古びたアーケード商店街を並んで歩いた。

もうほとんどの店にシャッターが閉まっていて、人の営みが感じられなくなったその場所が、いつにも増して、私には懐かしく思えてくるのだった。



「どころで、ドラゴンってどうやってうまれてくるんですかね」


郵便局の赤いポストを眺めながら、彼女が私にそう尋ねた。


「そりゃあ、卵から生まれてくるんだろう?」


「水木さん、ドラゴンの卵を見たことがあるんですか?」


「いや、俺はアニメの中でしか見たことはないよ、でも、ドラゴンが卵から生まれてくるっていうのは、割と有名な話だからね。神話に登場する龍も、卵から生まれてきたって言われているし…」


「大きさはどのくらいですか?」


「どのくらいって言われても……小さいものから大きいものまで様々だろうな」


「どんな色をしているんですか?」


「…………卵なんだから白だろ」


彼女はその後も様々な質問を、私に投げかけた。


「どうしてまた、そんなことを聞いてくるんだ?」


私は不思議に思って、彼女にそう尋ねた。


「………わたし、ドラゴンを見るのなら、赤ちゃんのドラゴンが見たいです」


彼女は小さくそう呟いた。




*



商店街を抜け、山元町の緩やかな坂を上ると、根岸森林公園が見えてきた。


「ここだよ、ここ。いつもはこの道に、人が沢山見受けられるんだけど、今日は随分と静かだなぁ」


私は木々が生い茂るその一帯を見渡して、嬉しそうにそう言った。


「この先は米軍基地で、通行止めになっているけど、その手前にあるレストランが、美味しくて有名なんだ。名前は………何だったかなぁ………ホエールとか……そんな感じの名前だった気がする」


私はそんなことを呟きながら、根岸森林公園に入った。

しかし、彼女はその場に立ち止まって、動く気配がない。


「どうした。気分でも悪いのか?」


振り返ると、彼女は俯いていた。


「水木さん…」


彼女は深刻な表情で私を見つめた。


「わたし………わたし、もっと遠くへ行きたいです」


「横浜じゃなくて、鎌倉とか小田原とか……県外でもいいです。静岡、愛知、大阪、福岡…………そして、その先のもっともっと遠くの方へ………私と一緒に行ってくれませんか?」


彼女は何かを吐き出すかのように、そう呟いた。


「おいおい、いきなり何を言い出すんだ。第一、そんなところまで行ったら帰れなくなるぞ」


私はいつになく真剣な眼差しで私を見つめている彼女に驚いて、諭すようにそう言った。


「………………いいんです。帰れなくなってもいいんです」


「いいわけないだろ。そんなことしたら家族が心配するぞ」



「わたし…………わたし、家に帰りたくないんです」



彼女は小さく、淡々とそう言った。


「急にどうしたんだよ。家族と喧嘩でもしたのか?それとも学校で、嫌なことでもされたのか………なぁ、教えてくれよ」



「……」



彼女は俯いて、黙っていた。

学校帰りの小学生の軍団が、笑いながら反対の道を走っていくのが遠くで見えた。


「黙っていたら、わからないじゃないか」


痺れを切らした私は、力のこもった声を出す。



「…………………………………水木さん。この前私の味方だって、そう言ってくれましたよね」



彼女が呟く。


「……あぁ、言ったな」




「だったら…………………………だったら、何も聞かずに私についてきてくださいよ。なんでそんなこともわからないんですか。わたし…………………こんなに……………………苦しくて——」




彼女はそう言うと、崩れるように顔を手で覆った。


その彼女の姿に、私は動揺して、何をすればいいのかわからなかった。


「さっきから君が何を言っているのか、俺にはさっぱりわからないんだ。だから教えてくれ。俺は君の味方だ……」


「そんな嘘、付かないでください…………」



「嘘なんかじゃないさ、だって俺は君のことを……………………」




その瞬間、風が私たちのもとに勢いよく吹くと、道ゆく人の足音や、通る車のエンジン音、羽ばたく鳥の囀り、横浜に響き渡る全ての音が消えて、乾いた空気だけが、私たちの間に漂った。



しばらく私たちは互いを見つめ、その生きた心地のしない空気に浸っていた。



「わたし、人じゃないんです」



彼女は私を見つめたまま、小さく呟く。


「落ち着けよ。言ってることが無茶苦茶だ」



「本当ですよ。わたし、人間じゃないんです………………………ドラゴン……そう、わたしはドラゴンです」



「何を言ってるんだ、だって君は……」




「————————————、——————————」






「………………え?」


彼女は後ろを振り向くと、静かに私から去っていった。




その彼女の後ろ姿を眺めて、私は今までの行い全てを、心の底から後悔した。


もし、私がドルフィンに行って、彼女を優しく宥めることができたなら、


もし私が、彼女の言う通りに、遠くへ行くことができたなら、


もし私が、黙って彼女を抱きしめてることができたなら


もし私に、そんな勇気があったなら……



彼女はこんな思いをしなくて済んだはずだったのに。


私は彼方で激しく燃えている根岸の夕焼けを、今日初めて見たような気がして、その炎が沈んでいくのを、黙って見つめていた。


その時、私のポケットから、勢いよく音が鳴り響いた。

こんな時に、誰からだろう。


私は携帯を覗いた。


それはAからの電話だった。


「もしもーし、今から飲みに行くんだけど一緒にどうかな」


Aはいつもの明るい口調で、私にそう言った。


「悪い。今日はそんな気分じゃないんだ」


私は感情のこもっていない、低い声でそう言った。


「………あぁ、そうか。もしかして、何か嫌なことでもあったのか?また近いうちに連ら…」



私は勢いよく電話を切った。

今は彼と話したい気分ではなかった。



私は急いで携帯の検索ページを開くと、噛み締めるように文字を打ちこんだ。


入力された文字は、光の速さで新たな画面を導き出す。


表示された画面に書いてある、一番上の文字が、私の目に飛び込んでくる。




私はその時初めて、彼女がパニック障害になってしまった原因と、彼女が私に本当のことを言えなかった理由を、理解することができた。



レストランの看板に描かれた、二頭のオスとメスのクジラが、沈む太陽の光に反射して、私の目に入ってくる。



私の頭の中に、 『ロキタンスキー』 という単語だけが、いつまでも彼女の声で響き続けていた。






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