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根岸  作者: なしごれん
第三章 夏休み
12/25

第十二話

私は家へ着くと、バッグを乱暴に床に置き、汗で濡れ雑巾のようになったtーシャツを脱ぎ捨てた。


彼女にメールしなければ


私はそのことで頭がいっぱいだった。

シャワーを浴びたい欲を抑え、深く深呼吸して椅子に座ると、携帯を取り出し、彼女の画面を選択する。


何から話そうか


私はまだドクドクと鳴っている心音を、なんとか落ち着かせようとして、ペットボトルに入った水を一気に飲み干した。水は温くて不味かった。


一息ついた私は


『最近どう?』


と入力する。 しかし、何だか不自然だ。

まだ二回しか会っていない相手に、このメッセージは馴れ馴れしくはないだろうか。私は頭を抱え、打った文字をすばやく消した。



今でも高校の友達や、家族とメールをすることはあるのだが、同級生の異性と連絡を取るなんて、もう何年もしていなかった。

私は何か良い言葉はないだろうか、とバッグからノートを取り出し、頭に思い浮かんだ言葉を適当に書いてみた。


『今日も暑かったけど、体調でも悪かった?』

『誰にでも気分の悪い日くらいあるよ。気にしないのが一番』

『最近勉強捗ってる?』


私は思いつく限りの言葉をスラスラと書いてみるのだが、改まって読み返してみると、唸るような恥ずかしさに襲われ、私はペンを置いた。



私は机に突っ伏して、しばらく文言を考えていたのだが、考えれば考えるほど私の頭の中に彼女が浮かんできて、その度に、私は顔を赤くしながら文字を消すのだった。


 気がつくと、家に着いてからもう三十分も経っていた。

空いた窓から入ってくる夕方の風は、汗で濡れた私の上半身を乾かす。

小さくなった蝉の音と、学校帰りの学生の話し声が、窓の外から聞こえてきた。

夕方の風の心地良さに、メールのことなど忘れて、しばらくぼんやりとしていた私は、ふと携帯を手に取ると、無心で文字を打った。


『英語の授業の時、長い時間席を空けてたけど何かあったの?』



私はその時、思ったことをそのまま彼女に聞いてみよう、そう思ったのだ。


もちろん、単刀直入に言い過ぎて、彼女が戸惑ってしまうのではないか、と不安にもなったのだが、やはりこういうものは、素直に聞いてみるのが一番だろう。


それに、彼女のような女性は、たとえ好意のない相手だったとしても、必ず返信してくれるはずだ。そうに違いない。

そんなことを考えながら、私は文字を送信しようと、携帯に手をかけた。

その時、


ピコンと着信音が鳴った。



『お久しぶりです。授業について相談があるのですが、お時間よろしいですか』



私はびっくりして、握っていた携帯を机に落とした。


それは彼女からのメッセージだった。


私は汗で滑る手で携帯を手に取ると、先ほどの文章を素早く消して、震えた指で文字を打ち込み返信する。


『大丈夫だけど。どうしたの?』


『先ほどの英語の講義。出席していましたよね』

すぐに返信が返ってきた。


『ああ、後ろの席でね』


『それは良かったです。私、途中で退席してしまったので、授業の続きを教えていただけないですか? 森川先生が分詞構文を説明したところまではわかるのですが、そこから先の内容がさっぱりなんです』



なるほど、確かに彼女が退席した時、ちょうど分詞構文の説明が終わって、講師が次の問題を解説し始めた時だったな、と私は彼女のその記憶力に感心し、文字を打つ。


『それなら、十三ページの問題ニの説明をしてから、去年の過去問を黒板に解いて解説して、今回は終わりって感じだったはず。最初に貰ったプリントに内容が書いてあるから、それを読めばわかると思うよ』



私は真剣に授業など聞いていないので、授業がどのように進んだのか、よく覚えていなかったのだが、初めに講師が説明した授業の流れをそのまま彼女に伝えた。


『わかりました。ありがとうございます』


彼女はそう私にお礼を言って、メッセージはそこで終わる。


ここで別の話題を話してもいいのだろうか。

しかし、彼女はそのことを聞くために、わざわざ私に連絡をしてきたのだから、余計な会話を始めたら、彼女の勉強の邪魔になるのではないか。

私は画面をじっと見つめながらそんなことを考えていた。


その時、


“思ったことを素直に伝える”


誰かが私に、そんなことを呟いたような気がした。

私は、誰かに操られたかのように、静かに携帯を手に取ると、たった今思い浮かんだ言葉をそのまま入力する。


彼女の最後のメッセージから、まだほとんど時間は経っていない。


もしかしたら、彼女はまだ携帯を触っているのではないだろうか。

そんな期待を込めて、私はメッセージを送信した。



『どうして途中で授業を抜けたの?』



五分経っても、彼女からメッセージが返ってくることはなかった。

私は背もたれに体重をかけ、天井を見上げた。

頭がフラフラする。


緊張と暑さで体力が削られたからだろうか。

私は何か冷たい物はないかと、冷蔵庫を開けてみたが、そこには半分にカットされた玉ねぎと、いつ入れたかわからない変色した牛肉が入っていた。

どうやら食べられる物はないらしい。私は脱いだtーシャツを被ると、外へ出た。



この時間に見えるはずの夏の夕暮れは、厚い雲に覆われ、横を通る交通バスの排気ガスと、どんよりとした夏の風が私を押し寄せる。


私は久しぶりにカレーを食べてみたいと思った。それも、いつもより何倍も辛いものにしよう。この暑い日にカレーを食べて、熱くなった身体を、冷えた炭酸レモンで一気に流し込んでやろう。

そう誓ってコンビニまでの道をグングンと進んだ。


その時、私の腰から軽快な通知音が鳴る。


もしかして…


私は急いでポケットから携帯を取り出し、画面を覗いた。

画面にはこう書かれていた。



『水木さん』

『パニック障害って聞いたことありますか』



*



え?


私は彼女のメッセージをもう一度見る。

『パニック障害』

突然、目の前が真っ白になった気がした。

その症状を、私はテレビで聞いたことがあるくらいで、詳しくは知らなかったのだが、その重苦しい言葉の響きに、言いようのない恐怖と不安を感じた私は、胸の奥に、何か苦いものが詰まったような感覚に陥り、その苦しさで足を止めた。


コンビニにたどり着いた私は、店の横に立ち止まって、冷静に彼女に質問する。


『聞いたことあるよ』


『どんな症状なのか、わかりますか』


『いや、知らない』


そう返答して、私は急いでパニック障害について検索した。



『言葉の通り、パニックになる病気です。突然息が苦しくなったり、気持ちが悪くなったりする精神的な病気で、現代の医学でも、まだその正体を掴めていないんです。なので、普段からお薬を服用して、生活しています』



『特に、人が大勢いるところは危険です。沢山の視線が私に向けられているよな気がして、胸がドキドキするんです。出来るだけ気にしないように、授業中は我慢しているのですが、どうしても我慢できない時は、トイレに行ってお薬を飲みます』



『お薬を飲めば気持ちが楽になるので、ひとまずは安心なのですが、一度教室を出たら、もうそこに戻ることはできないです。なぜなら、戻った時に向けられる私への視線が、とても恐ろしいものに感じられて、私は終了のチャイムが鳴るまで一歩もトイレから出られないんです』



『それなら、他の予備校に行けば良いじゃないか。予備校じゃなくても、今は家庭教師だったり、オンライン塾なんていくらでもあるだろう』


私は、思ったことをそのまま入力した。

今思うと、彼女にとても酷いことを言ってしまったな、と感じる。


『そうですよね。私も最初はそうしようと思っていました』


『それでも、昔に比べれば、だいぶ良くなった方なんですよ。昔はお医者さんに、一生この病気と向き合って、生活していかなければならない、とまで言われたんです。今では学校も通えるようになりましたし、予備校でも授業を受けれる回数が増えました』


『私、この病気を治す一番の方法は、気持ちだと思うんです。普段通りの生活を送るためには、普段通りの生活をする。それが多少困難でも、乗り越えていかなければならないんです』


彼女はそれから、思っていたことを吐き出すかのようにメッセージを送り続けた。


彼女が十七歳の時、パニック障害を起こして、一年間休学していたこと。そして、その病気になって、医学に興味を持ち始めたことを、その後語ってくれた。


『先ほども言ったように、この病気がいつ治るのか、私にはわからないです。

でも、たとえ何年かかったとしても、私は医学の道を、自分の夢を、諦めたくはないです』


彼女のメッセージはそこで止まった。

そのメッセージを読み終えて、私は静かにコンビニを出る。


遠くで大きな音がする。

確か今日は、横浜港で花火大会をやっているんだったな、と私は心臓にまで響くその音に、懐かさしさを感じながら、立ち止まって写真を撮る通行人を避けて、道を歩いた。


コンビニの蛍光灯に集まった羽虫が、私の頭上でパタパタと飛び立つと、すっかり暗くなった夏の夜空に、花火のように消えていった。


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