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根岸  作者: なしごれん
第三章 夏休み
13/25

第十三話

八月二十二日。雲一つなく、真南に達した太陽が私の頭を照りつける。


今年の夏は例年よりも厳しく、埼玉で最高気温を更新したニュースが、連日テレビを賑わせていた。相変わらず人の多い横浜駅西口の改札には、OLが鳴らすカチカチとしたヒール音と、弱まることを知らない蝉の音が、私の耳に飛び込んでくる。


私がこの予備校の電話をしてから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。

早いもので、今日の授業が、私の夏休み最後の授業だった。この授業が終われば、私の短いエアコン生活も終了する。


今思えば、私は何度もこの予備校に助けられた。毎日生活する、中古の扇風機しかない私の部屋は、裸になっても身体から汗が湧き出て、勉強どころではなかった。


それを考えると、天国のような予備校の涼しい環境が、私の受験に対する態度を、幾分かマシにしたような、そんな気がした。


来年完成予定の、西口駅ビルの鉄板が、太陽の光を反射して、私の目を眩ます。

デパートのショーウィンドウに飾られた秋物の服に、時の流れの速さを感じた私は、燃えるようなアスファルトの上を、足速に通り抜け、予備校への小道に入った。



信号を渡り、予備校へ入った私は、大教室のある三階に足を進めた。


私が最後に取った授業は現代文だ。

その授業は、メディアの出演経験がある有名講師が担当しているもので、

いつもより広い教室に、理系文系関わらず、生徒がぎちぎちに詰められていた。


私は後ろのドアから教室へ入ると、すでに大勢の生徒が席に着いていた。

そして、空いている後ろから三番目の、窓側の席に座って、配られたテキストに目を通しながら、授業が始まるのを待った。



授業開始五分前に、彼女が前のドアから入ってきた。

彼女は前から二列目の、ドア側の席に鞄を下ろし席に着くと、いつもと変わらない凛とした表情のまま、授業の準備を始めた。


彼女が私に、自分の症状について語ってくれたあの日から、今日までというもの、私は彼女と会話するどころか、鼓舞する言葉ひとつとして、言うことができずにいた。


始まりのチャイムと共に、講師がドアから入ってきた。

上品に着こなされたスーツに、整えられた髪、テレビで見たことのあるその顔は、賢そうで重苦しい印象を与えるが、壇上に立ち、顔を上げたときに見せた、しわくちゃになって笑っている、銀歯を光らせたその表情を見て、私は一瞬で心を掴まれた。


講師は壇上で、手短に自己紹介をしてから、軽快にチョークを黒板に走らせた。


「いいですか、大学入試の現代文には、文章内に必ずキーワードが書かれているんです。筆者が何を伝えたいのか。そのキーワードを見つけることが、大学側が受験生に求めている第一の課題なんです」



*



授業開始から三十分が経ち、授業も中盤に差し掛かった時、スゥっと白い手が伸びた。


ああ、やはりそうなってしまったか。私は心の中でそう呟いた。


「はい、どうしましたか」


「すみません、お手洗いに行かせてください」

彼女の手は震えていた。


「はーい いってらっしゃい」


講師は淡々とそう述べて、授業を続ける。

私は立ち上がった彼女の後ろ姿を見て、もうこの教室には帰ってこないだろう、とそう感じた。


ゴホン


私のいる教室の後ろで、誰かが大きく咳払いをした。

その音と共に、小さな笑い声と、ざわめきが、私の周りで起きた。


「なんだぁ、今日はいつもより遅いじゃん」

「ねえ、どうしてあの子はいつも授業を抜けるの?」

「抜けるんだったら最初から来なければいいのに」


私は黙ってその声を聞いていたが、やがて怒りが湧いてきた。


なぜこんなにも非道な奴らが、普通の生活を送っていて、彼女のような、夢のために本気で努力している者が、病に冒されなければいけないのか。


そして私は、そんな彼女を、だた後ろから眺めていることしかできないのか。


私はもどかしさで歯を食いしばり、拳を握りながら彼女を眺めた。

彼女は席を立つと、俯いたまま表情を変えずに、後ろのドアから教室を出ていった。


「あの子、これだけ言われているのに、何とも思わないのかなぁ」


私の隣の席に座っていた、茶髪の男がそう言った。



しかし、私にはわかった。彼女の小さい体が小刻みに震え、宝石のように輝くその瞳に、涙を溜めていることを。


そして、教室を出る一瞬、私の方を向いた時に見せた、普段のような上品で艶のある表情からは想像できない、必死に苦しみに耐え、果敢に病気と闘う彼女の凛々しい横顔を、


私はその時見たのだ。



「たとえ何年かかったとしても、私は医学の道を、自分の夢を、諦めたくはないです」


あの日の彼女のメッセージが、私の頭に響く。


その時、地上のドラゴンが火を吹いた。


「はいはい、静かに。授業に戻るぞー おい、そこどうしたんだ」

気がつくと私は、無意識のうちに席を立っていた。


「先生。トイレに行かせてください」



私は講師の目をまっすぐに見つめそう言った。


私の後ろで、先ほどのより大きいざわめきが起こる。

講師は表情を変えないまま


「ああ、いってらっしゃい」

と呟き、授業を続ける。


講師がその言葉を言い終える前に、私は乱暴に椅子を引くと、急いで後ろのドアを勢いよく開けて、廊下へ飛び出した。


その時、ドアガラスに映った講師が、一瞬だけ私を見つめ、微笑んでいるように、私には見えた。


廊下に出た私は、トイレへと向かう彼女の後ろ姿を見つけると、

走って彼女を追った。


授業中で静まり返った校舎の廊下に、私の走るタンタンという足音だけがこだまして、彼女に近づくにつれその音が、段々と大きくなっていくのを感じた。



彼女はその音で私に気付いたのだろう。私の方に身体を向けた。


「どうしました?」


彼女は私に驚いて、目を丸くしたまま、不思議そうにそう呟いた。


私は減速して、彼女の前で立ち止まると、息を切らして膝に手をついた。

そして、急に走ったからだろう。ドクドクと激しく鳴る心音を、何とか落ち着かせようと、深く息を吸い込んだ。


「いやぁ……その…何だか気分が…悪くてね。ちょうど…トイレに行こうと思っていたところなんだ…」


私は廊下の床を見つめて、息を切らしながらそう言った。

彼女は驚いた様子で、しばらく私の顔を見つめているようだった。


私が調子を取り戻して顔を上げると、彼女はクルッと背を向けて、


「そうですかぁ。それじゃあ私が出てくるまで、そこで待っていてくださいね」


そう言ってトイレへ入って行った。


その彼女の口調から、先ほどの冷たく、深刻な印象はなく、普段の柔らかで暖かい彼女に戻ったように感じられ、私は少し安心した。



五分ほど経って、彼女がトイレから出てきた。

彼女は微笑んでいた。


 私たちはそのまま教室に戻らず、階段を下って談話室へと入った。

他の生徒は皆、三階で講義を受けているので、静まり返ったその談話室に、上からの講師の熱い声が、微かに聞こえた。


私たちは談話室に置いてある、木目のテーブルに腰掛けると、お互いの顔を長い間、見つめていた。


私は一ヶ月ぶりに近くで見る、彼女の小さくて白い顔に置かれた、まっすぐな魔性の宝石に見惚れて、一言も口にすることなく、その幸せな時を過ごした。


「ごめんなさい。せっかく最後の授業だったのに、私のせいで台無しですよね」


しばらくして、彼女は小さくそう呟いた。



「先日、あんなことを語ってしまって、本当に迷惑でしたよね。でも私、すごく嬉しかったです。ついさっき、水木さんが廊下を走って駆け寄ってきた時、私、心臓が破裂するんじゃないかってくらい、ドキドキしていたんですよ」



「でもこれ以上、水木さんに心配をかけさせるわけにはいきません。まだ四十分、時間がありますね。残りの授業が終わらないうちに、先に教室に戻っていてください。私はもう少し、ここでゆっくりしています。もし一緒に教室へ戻ると、変な噂を立てられてしまいますからね」


彼女はそう言うと、優しい笑みを私に向けた。



「心配しちゃダメなのか」



私は俯いて、唇を噛み締めたまま、はっきりとそう言った。


「え?」


私は立ち上がって、彼女を見つめた。


「君はさっきから、迷惑だとか、心配をかけさせてしまうとか言っているけど、俺は一度だって、そんなことを思ったことはないよ」


「俺は君のことを、心の底から尊敬しているんだ。この夏休み中、俺は毎日、この予備校の自習室に来ていたけど、君が予備校に来なかった日は、一日もなかったじゃないか」


「俺、この予備校を続けるよ。そして、君が授業を受ける日は、必ず予備校に行って、あいつらが変なことを言ってきたら、“ふざけるな。彼女は君たちの何十倍も努力して、本気で夢を叶えようとしているんだ”って言ってやるよ。だから、そんなことを言わないでくれ、俺は君の力になりたいんだ」


彼女は変わらぬ表情で、私を下から見つめていた。


その何度も眺めた彼女の瞳を、私は忘れることができない。


初めて出会った駅のホームで見せた彼女のその瞳。


燃えるように熱い夏の日に私の前に現れたその瞳。


そして、今、私の目の前で、いつまでも輝きを放ち続けているその瞳を、


私は胸の奥に、新たな感情が芽生えるのを、その時感じたのだった。



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