第十一話
「文挿入問題は接続副詞に注目して……」
講師の声を聞きながら、私は左斜め前に座る彼女の横顔を眺める。
あれからというもの、私は彼女と会話するどころかメールでさえ一度も連絡を取ることはなかった。というのも、私は彼女に何を話せばいいのかわからなかった。
冷えたクーラーの送風と、微かに聞こえる蝉の声は、私の眠気を最高潮に引き上げる。
八月十五日。夏休みも中盤に差し掛かった街には、多くのカップルと観光客が横浜駅を埋め尽くしていた。
彼らは最初、電車に乗って桜木町に行くだろう。ランドマークタワーの中で軽い昼食を取り、あかいくつ(観光バス)で赤レンガ倉庫を散策してから、中華街で食べ歩きをするはずだ。その後、再びみなとみらいに戻り船上のレストランでゆっくりとディナーを楽しんで、コスモワールドの観覧車から見える、ハマの美しい夜景を二人の物にするだろう。そんな実現しようもないデートプランを頭に浮かべて私は退屈な授業を過ごした。
世間は夏休みムードなのに、なぜ私は閉鎖された教室でこんなにも哀れな妄想をしなければならないのか。教室には夏休みで髪を染めた生徒や、隣り合わせで座るカップルらしき生徒がちらほら見受けられた。
そんな教室の浮かれムードとは裏腹に、講師の声はいつにも増して、熱のこもっているように私には感じられるのだった。
授業が始まって三十分程経った頃だろうか。私は今晩は何を食べようかと思索していたその時、一人の生徒が手を挙げた。
真っ黒な長い髪のかかった首から、聳え立つ真っ白な腕。手を挙げたのは彼女だった。
「どうした」
講師が言う。
「すみません、お手洗いに行ってきてもいいですか」
彼女は小さくそう言って席を立つと、足早に教室を出ていった。
彼女が出て行った次の瞬間、教室で小さいざわめきが起きる。
「おいおい、何回目だよ」
「あの子この前も途中で抜けてたよね」
「昨日もだよ。何しに来てるんだかって感じ」
「もしかして、変なことでもしてるんじゃないの?」
私の周りでそんな声が聞こえた。
一体彼らは何を言っているんだ。彼女はただトイレに行くために席を離しただけではないか。誰にだって調子の悪い日はある、女性なら尚更だ。
私は授業を受けるのが二回目ということもあり、彼女の行動がさほどおかしいものには思えなかった。
しかし、彼らのそんな声を聞いている内に、彼女がどうもトイレをするためだけに教室を出たわけではないと感じ始めていた。
まさか、彼女に限ってそんなことはないだろう。私は彼女が夏休みで浮かれるような、意志の弱い人間ではないことを知っていた。彼女は人の命を救うために医学の道へ進みたいと、あの時私に言ったではないか。そんな彼女が黙って授業を放棄するわけがない。
十分、二十分経っても彼女が教室に戻ってくることはなかった。時間が経つたびに、先程の彼らの言葉が現実味を増して押し寄せる。私はその後も、空いた彼女の席をひたすら眺めながら、頭上から訪れるいつもより冷たいクーラーの送風を強く感じていた。
彼女は最後まで教室に戻ってくることはなかった。九十分の授業が終わると、十分間の休憩が始まる。生徒は一斉に立ち上がり次の授業の準備をする者や別の教室に移動する者など、様々だ。私は自習室に寄って帰ろうと、机の片付けを始めた。
ちょうどその時だった。彼女が教室に戻ってきた。生徒の行き来する教室に彼女の視線が集まる。
彼女はいつもと変わらない柔らかな表情のまま机の筆記用具を片付け始めた。
「ほら、やっぱり今日も戻ってこなかったでしょ」
彼女に聞こえるよう大きさで、私の後ろからそんな声が聞こえた。
彼女は表情は変えないまま、テキパキと荷物をカバンに入れ席を立つと、私の方に近づいてくる。
「あ……」
私は彼女に声をかけようとしたのだが、頭に浮かぶ幾つもの言葉を選んでいる内に、彼女は私の机の横を通り過ぎて、後ろのドアから静かに教室を出て行った。
「………」
周囲の生徒のざわめきと収まることのない蝉の音だけが、放心した私の頭にいつまでも響いていた。
しばらくして、キーンと教室のスピーカーから予鈴のチャイムが鳴る。
「すいません、もう席どいてくれます?」
次の授業に来た生徒が私に向かってそう言った。
「ご…ごめんなさい。今どきますね」
私は急いで荷物をバッグの中のに放り込むと、大股で逃げるように教室を後にした。
階段を降りた二階は自習スペースになっていて、そこには板で仕切られた個別のブースがいくつも並べられていた。
空いた席を見つけた私は床にゆっくりとバッグを置き、中から本取り出し席に着く。
ここで読書をするのが夏休みの私の日課だ。普段なら、横浜の野毛にある中央図書館を利用するのだが、夏休みは学生や老人が朝から席を占領してしまうので私にはこのスペースがとても有り難かった。クーラのほどよく効いたその場所は、生徒以外が入ることは滅多になく、飲食もできるため授業のない日は一日中ここで本を読んだり、携帯を見たりして過ごすのである。
私は有隣堂で買った最新の推理小説を開き、冒頭部分を読み始めた。
普段ならピエルトの恋愛小説を読むのだが、今日はそんな気分ではなかった。
机に座ってから十分ほど経っても、私はまだ一章の半分も読むことができていなかった。いつもならスウっと入ってくる文の一語一語がなかなか頭に入らない、内容は決して難しくないのだが、目で認識した文字が私の頭に入る頃にはパッと消えてなくなっているのだ。
隣から聞こえる参考書のページを捲る音が、いつもより鬱陶しく感じた私は、むしゃくしゃして本を閉じ机に突っ伏した。言いようのない不快感が私の胸をえぐるようにして喉まで昇ってくる。
前にも似たような感覚に陥ったな、と私は彼女と出会った二週間前の出来事を思い出す。
そして、あの時私に見せた楽しそうに自分の夢を語る彼女の表情と、今日彼女が教室を出る時に一瞬だけ見せた青白く俯いた彼女の美しい横顔。私は居ても立っても居られなくなり、本を片手にバッグを担ぐと急いで自習室を出た。
朝に輝かしく照っていた太陽は、厚い雲で姿を眩ましていた。
私は外に出ると、どんよりと暑苦しい空気が横浜駅ロータリーに漂う。私は帰ったら彼女にメールをしよう、そう心に誓って帰省でごった返す西口の改札を足速に通るのだった。




