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根岸  作者: なしごれん
第三章 夏休み
10/25

第十話

暑い、暑過ぎる。


私はカーテンを開け、窓を開いた。

窓から部屋に入る生暖かい風と、扇風機の、こちらもあまり涼しくはない送風の両方を浴びながら、私は本のページを黙って捲る。


首から湧き出た汗はツーッと肩に流れ落ち、腕から手へと降りてくる。

私はハンカチで必死に汗を抑えるのだが、次から次へと湧き出す汗は、留まることを知らず、だんだんと私を苛つかせた。


 七月も半ばに入り、現役生はようやく勉強に本腰を入れる時期なのだが、私は未だ受験に対する情熱を感じられずに、椅子の上で「春月夜」を読んでいた。


しかしながらこうも暑いと、勉強どころか本もろくに読むことができない。


私は布団に寝転がり、『夏休みは受験の天王山』と書かれた、ポストに入れてあった予備校のチラシを横目に、窓の外を眺めた。


開いた窓から入るジリジリとした灼熱の光が、私の目を痛めつけ、閃光を走らせたる。

その暑さで、何もかもやる気のなくなった私は、寝転んだまま目を瞑った。


こんな生活をいつまで続けるつもりなのだろう。


何度も頭の中で浮かぶその言葉はいつも遠くへ消えていく。


私は浪人における孤独を、その時初めて感じた気がした。

仲間が入れば幾分か気を紛らわせることができるのだが、生憎私にそんな友達はいないし、かと言って大手の予備校に入る金もない。


そんなことを頭に浮かべて、私は再びチラシに目をやる。

チラシには白を基調とした、広くて清潔感のある内部の写真が写されていた。

その涼しそうな写真を見ていると、今の地獄のような環境が幾分かマシになるような、そんな気がして私はチラシをまじまじと眺める。


『夏季集中講座 今なら三講義無料』



ん?


私はもう一度その文を読む。


チラシには確かに三講義無料と書かれていた。


三講義無料…


その時、私の頭の中で何かが弾けたような感覚がした。



「これだ」



私は暑さで朦朧とする身体を何とか起こし、チラシに記載された番号に急いで電話をかけた。


「もしもし、実は御校の夏季集中講座を受けたいのですが……」



*



 高温多湿の日本の夏にうんざりする。

ここ一週間の猛暑日から、私はバイトもせず家にこもっていたこともあり、身体はすっかり鈍りきっていた。


横浜駅西口改札を出てから、身体の節々が痛み出し、足元がおぼつかなくなると、私は立ち止まってホームに流れる風を感じた。

そして、風に靡く風鈴の音に耳を傾けながら、人混みの激しいデパートを抜けて、予備校を目指して歩いた。


真夏日の太陽が私の頭をジリジリと焼く。

空調の効いたデパートに慣れた身体は、外に出るとその暑さがより一層激しい物のように感じられ、私はうんざりして下を向いた。


本当は外など歩きたくもないのだが、この暑さでは冷房のない部屋で過ごすことなど、死も同然だ。


そう思いながら私はバックからチラシを取り出す。


『夏季集中講座 今なら三講義無料』


三回の講義を週に一度ずつ受ければ、最低でも三週間は、涼しい自習室で生活ができる。


それに、予備校という勉強しかできない環境に身を置けば、今の悶々とした受験に対する気持ちも、多少変わるのではないか。


そう思って、私は横浜駅西口のメインストリートから逸れた、裏道へと入る。

この通りを抜けた先に、予備校が建っているのだ。

私はその赤茶色の外壁に、ガラスが貼りまくられた予備校のビルを眺め、人通りの激しいオフィスの乱立するその裏道を、足早に歩いた。


だんだんと、私の目の前に予備校が近づいてくる。


私はポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭きながら、予備校前の交差点の信号を待った。


うまく馴染めるだろうか


そんな不安が私の頭によぎる。


高校を卒業してから、今日に至るまで、私は友人以外とまともに会話した記憶がなかった。


信号が青に変わり、反対から人の波が押し寄せてくる。

私はその波を必死に避けながら、前へと進んだ。


予備校はもう目の前だ。


横断歩道を渡った私は、もう一度額を流れる汗を拭き、ボラードの僅かな間を通り抜け、予備校の入口へと身体を向けた。


その時だった。


私の瞳に真っ白な太陽の光が勢いよく走った。


その光は、私の網膜を刺激し、視界を塞いだ。

私はその衝撃と痛みに耐えることができず、ギュッと目を瞑る。


次第に痛みは引いていき、私はゆっくりと目を開いた。


白くぼやけた視界にだんだん色が付いてくる。


その色は、柔らかな肌色だった。


私はまだぼやける視界に何とかピントを合わせようと、もう一度深く目を瞑り、再び大きく開いた。




そこには水色の薄いワンピースを着た幼い顔の少女が立っていた。



その少女は、三ヶ月前に駅で見たあの彼女だった。


私は驚いて、その場に立ちすくんだまま、彼女を見つめた。


その瞬間は、私と彼女以外の全ての事象が、ゆっくりと動いているように、感じられた。


私は太陽の光で鮮明に彩られる、チョコレート色の目に、真っ黒な宝石が光るその瞳に、釘付けになって、その何者をも引きこめてしまう魔性の宝石に、私は見惚れて、目を逸らすことができなかった。


そして彼女もまた、私の瞳をいつまでも覗いているのだった。



どのくらい時が経っただろう、彼女が口を開いた。



「あの………」


真っ白な肌の上に、薄桃色の花びらが動く。


「………はい…」


私は彼女を見つめたままそう答える。


「……あの…体調でも悪いんですか?」


「…え?」


思いがけないその問いに私は困惑する。


「さっきからずっと険しい表情をしているので…どこか具合でも悪いのですか?」


彼女は心配そうに私を見つめている。

その力強く輝く、彼女の瞳に、未だ目を離すことのできない私は


「そうですね……少し気分が悪いのかもしれません」



と答えた。


多少頭が熱くなっていたため、本心を言ったつもりなのだが、それは暑さが原因なのか、はたまた別の要因からなのかは、私にはわからなかった。


「それは大変です。どこか涼しい所に入って休みましょう」


そう言って、彼女は私の腕を掴んだ。

掴むというよりかは、触ったという表現が正しいその小さくて、指の細い彼女の手に、柔らかい温もりを感じた私は、腕を掴まれたまま、黙って彼女の導く方へと歩いた。




 私たちは川沿いのカフェに入った。

フランチャイズのそのカフェは、昼時だったこともあり、店内は子連れとサラリーマンで賑わっていた。


私たちは小さいテーブルのあるその席に向き合うようにして座った。

向かい合った彼女は、メニュー表を熱心に眺めながら、時々心配そうに私に目を配っていた。


店内の冷たい空調が私の背後から押し寄せ、熱のこもった頭は次第に引いて行く。彼女は私を見て、安堵した表情を浮かべたまま、口を開いた。



「私、あまりこういうお店に行かないもので…何を頼めばいいかわからないんです」


そう言って、メニュー表を私に見せてきた。


「お腹が空いているならこのパスタを頼めばいいんじゃないですか」


「パスタいいですね。それじゃあそれにしようかしら」


私はウェイトレスを呼び、パスタとアイスティーを注文した。


私はアイスティーが来るまで、空調の上下するフィンを眺めながら、ぼんやりと、先ほどの彼女の手の感触を思い出すのだが、再び頭が熱くなるような気がして、あわてて彼女の方へ視線を戻した。


彼女はじっと私の方を向いていた。


「あの…助けてもらって本当にありがとうございます」


私は彼女と目を合わせずに、そう言った。


「とんでもないです、この暑さなら気分が悪くなるのも当然ですよ。それに私、とてもお腹が空いていたので丁度良かったんです。そんなに改まって、敬語なんか使うのやめてくださいよ。私は高校生で、あなたは大学生さんじゃないですか」


彼女は微笑みながら、尚も私の目をじっと見つめそう言う。


「いえ僕は大学生なんかじゃないですよ。十九の浪人生です」


「あら、そうなんですか。私も十九歳です。不思議ですね。」


確かに私の身長は平均よりもやや高く、反対に彼女の身長は小柄で、その幼い顔立ちは、とても十九には見えなかった。



やがてウェイトレスが食べ物を運んできた。

彼女は運ばれてきた料理を嬉しそうに眺め、フォークを手に取ると、器用に少量のパスタを巻きつけて、皿の端でそれを綺麗に整えると、ゆっくりと口へ運んだ。


私はストローでアイスティーをかき混ぜながら、その丁寧で無駄のない彼女の動きを静かに見ていた。


彼女は十分ほどでそれを平らげ、再びウェイトレスを呼ぶと、私と同じアイスティーを頼んだ。

彼女は丁寧な手つきで、メニュー表を閉じると、私の方へ目をやった。


「先ほど浪人しているとおっしゃいましたが、もしかして予備校生ですか?」


「いや、そう言うわけじゃなくて…」


私はバッグからチラシを取り出す。


「このチラシを見て、夏期講習だけ受けようと思って今日来たんです」


「あら、そうだったんですね。私てっきり働いてる方だと思っていました」


私はあの時の話を切り出そうと思ったが、その彼女の口調から、気づいてるような感じがしなかったため、そのまま別の話題を話した。



 彼女は市内の女子校に通う、高校三年生だった。

今年が受験ということもあり、四月からこの予備校に通っていて、今日も午前中は夏期講習を受けに来ていたのだった。


そして驚くことに、彼女の志望校は横浜で一番の医学部だった。



「医学部ってことはやっぱり将来は医者になりたいの?」


私はそんな当たり前の質問を彼女に投げかけた。


「うーんと、そうですねぇ…先のことはまだわかりませんが、医療に携わるお仕事に就きたいなとは思っていますね」


同い年だから、敬語はいらない、と私に言ったのにもかかわらず、彼女は丁寧な言葉遣いのまま、そう言った。


「でも医学部って、めちゃくちゃ入るの大変だよね。問題も難しいし、点数も高いから、何回も浪人してやっと入るってイメージだな」


「いえ、そんなことないですよ。私の二つ上の代に現役で入られている方がいますもの。それに私英語が得意なんです。理系で英語が得意な人って少ないんですよ」


「本当に?」

「はい」


そう言って彼女は先月に受けた模試の成績表を私に見せてきた。

全ての科目が、満遍なく得点を取れているそのグラフに、一際目立つのは英語だった。


「これはすごいなぁー 偏差値八十なんて俺見たことないよ。順位も二桁台だし」


「この時はたまたま運が良かったんです。それに、これくらいの成績の人は山ほどいますよ」


「いやマジですごいって。数学以外は高得点だし。この点数なら私大文系だったら今すぐにでも合格できるよ 」


「そうですね。先生も友達も、みんな文系に進めって言うんです。でも私、医学を学びたいんです。世界にはまだ治療法のない病気が沢山あって、もしその治療法がわかれば何万人もの命を救うことができるんですよ。何だか素敵じゃないですか?」


彼女は一瞬顔を曇らせたように見えたが、先ほどの明るい口調に戻ると、目を輝かせながらそう言った。


「すごいなぁ その歳でもう将来の目標が決まってるんだから。俺なんて今日何を食べようかな、って悩むだけで精一杯なのに」



「目標なんて生きていれば自然に見つかるものですから。そんなに悩む必要なんてないんですよ」



「そういうものなのかなぁ…」


「はい。そういうものなんです」


彼女はにこやかな笑みを私に向け、そう言った。



 それから私は、春からの浪人生活と、自分について語った。

彼女は黙って私の話を聞いていたが、次第にうんうんと頷いたり、共感の言葉を述べたりしていた。

そんな彼女の、何もかも引き込ずり込んでしまうような、魔性の瞳に見つめられながら、私は楽しさと心地良さで、時間を忘れて彼女との会話に没頭した。


常に孤独な毎日を過ごしてきた私には、自分の話を聞いてくれる人がいるだけで幸せだった。


私は彼女から「春月夜」の話題を出してはくれないか、と期待していたが、そのことについて彼女が口にすることはなかった。



店に入ってから四十分ほど経っただろうか、店内の混雑もだいぶ収まってきていた。彼女は次の講義が始まるから、とそう言って、席を立った。

彼女は私が誘ったのだから、とカバンから財布を取り出すのだが、その手を振り切って、私は会計を済ませて店を出た。


太陽がちょうど真上に来る時間帯は、店から出たばかりの冷えた私の身体を温める。


「私が払いますよ。せっかく付き合ってもらったんですし」


「助けてもらったんだからお礼ってことにしといてよ」


私は不満そうな顔をしている彼女にそう言った。


「それじゃあ、割り勘にしましょう」


「いや、別にいいよ、このくらい」


私はそう言って前へ進もうとするが、彼女は私の前に立ち塞がる。


「ダメです。ちゃんと受け取ってください」


彼女はそう言って千円札を差し出した。

始業時間が迫っていることもあり、私はそれを申し訳なさそうに受け取った。



「それでは、次の講義があるのでここで失礼しますね」



校舎のある通りの曲がり角まで歩いて、彼女はそう言って私に深くお辞儀をした。


私は黙って彼女の頭を見つめていると、頭を上げた彼女と目が合った。


やはり魔性の輝きを放つその目に私はしばらく見惚れていた。


「……」

「……」


彼女は少しの間、不思議そうに私を見ていたが、やがて後ろを向き、校舎の方へと歩いていった。



このまま彼女と別れてしまっていいのだろうか。

だんだんと離れていく彼女の後ろ姿を眺めながら、私は頭の中で数多の葛藤と情熱が渦巻く。



その時、私の目に、あの時の情景が浮かんだ。

バイトに遅刻してヤケクソになっていた私の前に現れた、セーラー服の少女を。雪にように白く細い髪のかかったその顔を。

一瞬だけ揺れ動いた宝石のように光る彼女の瞳を。



私は思い出したのだ。


地上のドラゴンが火を吹いた。




「れ、連絡先……交換…しませんか」




私は俯いて、何とか絞り出したその言葉を小さく呟いた。


彼女とはもう数メートルも離れていたので、その声は届くことはないだろう。


そう思っていた。



「私、メールしかしていないですが、それでもいいですか?」



彼女の声が聞こえた。

私は驚いて顔を上げる。


彼女が私の方を向いて立っていた。


彼女は私のに近づくと


「これ、私の番号です」


そう言って、携帯を私に見せた。

私は何が起こったのかわからないまま彼女の番号を登録した。


「では、失礼しますね」


彼女は再びそう言って、軽く礼をすると、校舎の方へと足速に歩いていった。



私はその彼女の後ろ姿を、

その黒くて透明な彼女の髪が靡くのを、黙って見つめていた。


若者とサラリーマンの横行するその通りに交差する、多くの視線など物ともせずに、私は放心してその場に立ち続けていた。


灼熱の太陽は、ジリジリと私の頭上を照らす。

湧き出た汗が、額から首筋へと降りてくる。

体温は上がっているのに、身体はなぜか震えている。

私は何か巨大な怪物が現れて、私の目の前に迫ってくるような、そんな恐ろしい出来事に出くわしたような気がした。


私は落ち着くことのない心臓の鼓動に意識を集中し、いつまでも彼女の後ろ姿を眺めていた。

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