第1章-5
こぢんまりとした離宮―――正真正銘、シルフィリアが目指していた狭霧宮だった―――にしては意外と広い庭(というか周囲の森との境目がどこか、よくわからない)に植えられた辛夷の木は、たくさんの蕾をつけていた。灰茶色の蕾は、ふさふさの毛に覆われていて、何やら可愛らしい。春の訪れを知らせてくれる花が咲くまでには、もう少しかかりそうだ。
庭に設えられた東屋の屋根の下、立派な辛夷の木を見上げて、シルフィリアは瞳を細めた。視界の端をちらちらと掠める物から意識を逸らそうと試みる。が、土台無理な話であった。
「すみません、見苦しくて。丁度洗濯物を干していた所だったので」
セトと名乗った青年が、バツの悪そうな表情をする。
シルフィリアは「いや」とだけ短く返し、彼の淹れてくれたお茶に口をつけた。柔らかな口あたりと爽やかな花の香りに、さして詳しくないながらも上等な茶葉だと察する。さすがは王子殿下の宮で使用されているものだけはある。
が、しかし。
庭のど真ん中に設置された物干し台で、はたはたと風に煽られる敷布類が、王族という単語から連想され得るものを全て台無しにしていた。
離宮の庭に洗濯物。
これほどちぐはぐな組み合わせも、そうそうあるまい。
結論から言えば、訪ね人は留守だった。
申し訳ないがファルカ第一王子殿下は外出中だと告げたセト。
どちらにお出かけなのかと問うたところ、少し言いよどんだ後に返って来た答えは意外なものだった。
まろやかな白に繊細な青い蔦模様が施された茶杯をそっと受け皿へ戻して、シルフィリアはセトを見上げる。
「殿下はよく城下に下りられるのか?」
傍らに立ったままのセトは―――同席を勧めたのだが固辞された―――困ったように苦笑した。
「そうですね、よく気晴らしに出られます」
つまりはそういう訳である。拍子抜けもいいところだ。王子がほいほいと城下に遊びに行っているとは、いったいどういう了見か。
とはいえすごすごと帰るわけにもいかず、こうして待たせてもらうことにしたのである。
セトはこの離宮唯一の侍従らしく、王子の身の回りの世話を一手に引き受けているとのことだった。あかぎれだらけの手には薄っすらと血がにじみ、飾り気のない衣服はあちこち擦り切れていて、仕事の大変さを物語っている。王子の侍従なら、さらに幾人もの下働きを従えていてもおかしくないのに。
そつのない態度で薄く微笑むセトは、狼相手に説教をかまし、挙句力任せに叩き落とした先ほどの様子からは想像もつかない大人しさだ。
シルフィリアの騎士という身分に配慮した、正しい振る舞いではあった。
しかし、シルフィリアはなんとなく落ち着かない。
紛れも無く貴族の令嬢でありながら、物心つく頃には剣を振り回し、馬を友とし、趣味といえば鍛錬か遠乗り。ラウズ伯爵領に黒颯騎士団の拠点があることと、かつては父が、現在は兄が団長を務めているという環境のせいもあったのだろうが、純粋に鍛錬が楽しかったのだ。
その結果、この国における世間一般的な『貴族の御令嬢』からかけ離れまくってしまっているという自覚はある。
加えてこの容姿である。生粋のシュトライエン人には表れないはずの黒い髪と瞳。忌避されている、というほどではないにしろ、貴族社会ではまず「ありえない」と遠巻きにされることもしばしばだ。無論、こんな丁寧な扱いを受けることなど、そうそうない。
落ち着かなさを紛らわそうと、もうひと口お茶に口をつける。と、足元の白い塊が目に入った。
傾き始めた西日を受けて輝く毛並みも美しい、立派な体躯の狼が、しかし不貞腐れたようにそっぽを向いて寝そべっている。先ほどセトに雑に扱われたがために拗ねているらしい。
「……ルーシェ」
なんとなく、セトが呼んでいた名前を呟いてみた。尖った耳がぴくりと反応し、素早く起き上がったかと思うと期待に満ち満ちた金の瞳を輝かせた。
人の言葉に訳すならば、間違いなく「遊んでくれるの?」だ。
鼻づらを寄せてきたのでやや乱暴に、わしわしと頭を撫でてやると、白狼は気持ち良さそうに眸を細めた。思ったよりも硬いが、滑らかな毛並みに抵抗なく指が通る。
シルフィリアの険のある眦がほんの少しゆるんだ。
「狼にしては、随分と人懐っこいんだな」
見上げた先で、セトはふわりと微笑んだ。
彼の本質なのだろう、春の日差しのような繊細な暖かさを感じる微笑だ。
「ほんの子どものころに、怪我をして蹲っているところを保護したんです。森に帰すつもりが、居ついてしまいまして。でも、初対面の方にこんなに懐くのは珍しいんですよ。余程貴方のことを気に入ったみたいですね」
撫でられるまま、満足気に鼻を鳴らす白狼に苦笑する。
「綺麗な白い狼だから、ルーシェと名づけたんですけど……これじゃあ名前負けかな」
最後、囁くように続けられた言葉とは裏腹に、白狼を見遣る目は優しい。
「『狼神にして闘神ルーシェ』か」
それはシュトライエンの民ならば知らぬもののない、建国神話に登場する神の名だ。
白銀に煌くしなやかな体躯に、邪を射抜く黄金の瞳。額に銀の一角を有するその神は、父神である太陽神と母神である月の女神との間に生まれた末の神であるといわれている。
かつて魔物が蔓延っていた時代、一人立ち上がった青年アストライアの元に天より遣わされ、額の角を剣に変えて彼に与えた。天剣を手に、ルーシェの加護を得たアストライアは遂に魔物を打ち滅ぼした。
黄金の髪と瞳の持ち主であったというその容姿から、太陽王とも称される初代国王アストライアの守護者として狼神ルーシェは民に絶大な人気を誇っている。
長大な剣を銜えた狼の意匠は王国の象徴でもあるのだ。
くぅ~、と膝の上に顎を乗せて気の抜けた声をあげるルーシェの首の辺りを、シルフィリアは手荒に撫でてやった。大層な名前も、本人にしてみればさしたる問題ではないのだろう。
それからしばらく、他愛のない遣り取りを続けた。人と話すことが決して得意ではないシルフィリアのぶっきらぼうな口調に怯むこともなく、セトは様々な話を振ってきた。庭の片隅にある花壇で栽培している花のことや、周辺の森に住む生き物たちの話、もうすぐ辛夷の花が咲くのを楽しみにしていること……。
ポットのお茶をすっかり飲み干した頃、風が夜の冷たさを運んできた。空になった茶杯を小卓に戻し、シルフィリアは席を立つ。
「今日は一旦戻る。長居してすまなかった。殿下が戻られたら、また明日伺うと伝えてもらえるだろうか」
「わかりました。せっかく来て頂いたのに、申し訳ありません」
頭を下げる青年に、「あなたが謝ることではない」とだけ短く返し、名残惜しげな白狼の頭をひとなですると颯爽と歩き出す。
離宮の敷地から小道へと足を踏み出したとき、シルフィリアは大切なことを言い忘れていることに気づき、歩みを止めた。
振り返った先ではセトと白狼が訝しげに見返してきた。
「お茶、美味しかった。ありがとう」
にこりともせずに告げられた言葉にセトは一瞬目を瞠り、そしてあの温かな微笑みをもって返した。
*
遠ざかって行く細い影。シルフィリアと名乗った騎士の黒い制服に包まれた背中が見えなくなっても、セトはそのままぼんやりと立ち尽くしていた。小道の向こうにある王城を透かし見るように、琥珀色の瞳が細められる。
「困ったな……」
ポツリと落とされた、風に紛れてしまいそうなかすかな声。そこには、恐れ、不安、戸惑いといった感情が複雑に交錯して存在している。
白狼が心配そうにセトを見上げた。が、セトは心ここにあらずといった態で王城の方角を見つめたまま、再度呟く。
「……だめだよ」
冷たい風が吹く。左側だけ長く伸ばして編んだ赤金色の髪が揺れて、形のよい耳がのぞいた。
夕暮れの陽を受けて左耳の耳飾りが鈍く煌いた。
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