第1章-3
チチチ……と愛らしい声を残して目の前を横切る小鳥に誘われるように、シルフィリアは視線を前に戻した。もうずいぶん歩いたが、そろそろ離宮に着くだろうか。そう思ったさき、緩やかに傾斜する小道のさきに建つ、白壁の小さな家が目に入る。
やけに可愛らしいその家は幼児の人形遊びの玩具のようで、どこか非現実的な空気が漂っていた。
―――離宮……あれが? いや、そば仕えが住む小屋なのだろうか。
内心で首を傾げていると、突然強い風が吹きつけ、木々の梢をざわざわと揺らした。遠慮なく髪を嬲る風を、咄嗟に腕で顔を覆ってやり過ごす。風はすぐに止んだ。春先は風が強くて困る。
腕を下ろすと、次の瞬間シルフィリアの視界は真っ白になった。比喩ではなく、物理的に。
「な……!?」
纏わりついてくる白いそれを、腰に下げた鞘のままの刀で薙ぎ払うが、湿り気をおびたそれは更に絡みついてくる。
「何だ、布か? ―――っうわ!?」
唐突に襲ってきた軽くはない衝撃に、ろくに受身も取れぬまま、もんどりうってひっくり返った。兄をはじめ、騎士団の仲間には死んでも見せられない醜態だ。
「~~~~~?」
強かに打ちつけた背中の鈍痛に眉を顰めながら薄らと目を開く。ごく間近で、円らな金の瞳がこちらを覗きこんでいた。
真っ白な敷布に無様に絡まったシルフィリアの両肩を太い両肢で押さえつけた、堂々たる体躯の、これまた真っ白な生き物が腹の上で尻尾を振る。
道理で布越しにもふわふわと温かく、引き締まった筋肉の硬い感触がするはずだ。……などと的を外しまくったことをぼんやりと考えているシルフィリアは、本人は認めたくなくとも只今絶賛混乱中であった。
ピンとたった耳、鋭い眼光、力に満ちたしなやかな体躯。僅かに開いた口からは、赤い舌と鋭い牙が窺える。故郷の月夜の森で幾度となく見かけた。この国の象徴でもある誇り高き獣―――狼。
無論のこと、ここまで間近にしたことなどない。加えて、こうも無防備な体勢で己よりも明らかに力の強い獣を愛でられるほど、馬鹿でも無謀でも図太くもなかった。
成す術もなく固まっていると、
「ルーシェ! こら!」
永遠にも感じた時間は、乱れた足音とともに近付いてきた声により、終わりを告げた。まだ若い男の声は、幼い弟のやんちゃを咎めるような慕わしさを帯びていた。
「敷布は遊び道具じゃないんだって。ああ、こんなに泥だらけに……、せっかく洗濯したのに。また女官長にお願いして洗い場を使わせてもらわない、と……?」
狼相手にくどくどと説教を垂れていた声が尻すぼみになる。彼はそこでようやく、狼の下で硬直しているシルフィリアに気づいたようだ。
蜂蜜を夕陽に透かしたような、赤みがかった金の髪は自然にふわふわと跳ねていて、触れればさぞ柔らかいだろう。左耳の際だけ長く伸ばして編んでいる。穏やかさを孕んだ琥珀色の瞳が、シルフィリアの黒曜石の瞳と交わった。
青年は、瞳を数度瞬かせる。そして事態を把握するや引き攣った呻き声をあげて、でしっとばかりに狼をはたき落とした。慌てふためきつつ、ひっくり返ったままだったシルフィリアの上体を引き起こしてくれる。
「すみません……! 怪我は!?」
答える間もあればこそ。青年は矢継ぎ早に言い募りつつ、シルフィリアに絡みついた泥まみれの敷布を剥ぎ取り、肩やら腕やらに触れて怪我の有無を確認する。
「……いや、大丈夫だ。どこも怪我などしていない」
ひと頻り青年が謝り倒した後、やっと口を挟む隙を見つけたシルフィリアは、静かに口を開いた。青年は情けなさそうに眉を八の字に下げ、長い長い安堵の息を吐いた。
実際のところ、打ち付けた背中が酷く痛んでいるシルフィリアだったが、黙っておく。明日には青痣になっているだろうことも想像に難くなかったが、己の名誉のためだ。王国最強の呼び声も高い黒颯騎士団の新任騎士が、たかが、そう、たかが洗濯物ごときに遅れをとったなどと、笑い話にもならない。
青年が改めて差し出した手を素直に取って、立ち上がる。
「ぶしつけにすまないが、少々尋ねたいことがある」
話題を逸らす意図も込めて、シルフィリアは藪から棒に切り出した。
「狭霧宮を訪ねてきた。貴方は宮に仕えている方だろうか?」
すると青年は弱冠戸惑うような間を置いて「はい、そうですけど」と答えた。その返答に、シルフィリアは一度深く息を吸って姿勢を正した。改めて自身の目的を告げる。
「では、第一王子ファルカ・シレンシオ・セルディアナ=シュトライエン殿下に取次ぎを。私は、本日付で殿下の近衛騎士の任を仰せ付かった、黒颯騎士団所属、シルフィリア=ラウズという」




