第1章-1
「ちょっとちょっと、聞いた? 例の噂!」
軽い足音とともに、侍女仲間のエルがひょこりと隣に並んできた。大量の洗濯物が詰まった籠を抱えている所為で互いの顔はほとんど見えないが、王宮に共に仕えるようになって2年にもなる同僚の声を聞き間違えたりしない。
またか……とマリナは内心溜息を吐いた。エルは気さくで明るくて良い子なのだが、この噂好きなところが玉に瑕なのだ。
「ペルセヴェランス大公爵様の次の恋のお相手が、リッテルモンド男爵夫人だって話なら、もう30回は聞いたわよ」
「違うわよ! 今度は公爵様の話じゃないんだってば」
彼女が熱を上げている、恋多き美貌の公爵閣下(独身)についてでなければ、一体なんだというのか。
「じゃあ城下を騒がせてる通り魔事件に何か進展でもあった? 厩番の見習い少年の初恋の行方? 最近流行の礼服の型の話? 3時間並ばないと買えない、今一番人気のお店のお菓子をあの手この手を使って何とか手に入れたけど、隠れて独り占めしようとしたとこを女官長に見つかって没収されたことなら洗いざらいミーシェに聞いたから」
ずしりと重い敷布の山を落とさないように抱え直し、止めていた歩みを再開した。仕事が遅いと、なにかと厳しい女官長にまたお小言をもらってしまう。
「な、何でそれを……おのれミーシェ、覚えてなさい……! ってそうじゃなくて、黒颯騎士団で新しく叙任された騎士様のことよ。その騎士様ってあたしたちと同じ17歳で、しかも!」と、ここでエルは周囲をはばかるように声を低めた。「……黒髪、なんですって」
「……へえ」
何だ、そんなことかと、マリナは別に驚いた風もなく相槌をうつ。
確かに黒髪は珍しい。純粋なシュトライエン人には現れない色だった。だが貴族でもない限り皆無というわけではない。ここ、王都エルディアでも、城下に出れば労せず見かける。
エルが名前を上げたラウズ辺境伯が指揮する黒颯騎士団は、西の国境守護の要。実力主義で知られ、封土を持たず厳密には貴族とは呼べない身分の者はもちろん、人品の見極めは厳しいものの、流れ者の剣士や傭兵にまで入団を許可することもあると聞く。黒髪の一人や二人、何を驚くことがあろうか。
しかし、続いたエルの言葉に、マリナは目を見開いた。
「でもその人、伯爵家の方だっていうのよ」
大陸の北に位置する、シュトライエン王国。千年に及ぶ歴史と、それに相応しい伝統と格式、実り豊かな森と大地、港を有する大陸随一の大国である。
その歴史に相応しい神話も大陸中で知られ、路上劇では人気の演目だった。
千年の昔、神話の時代。大陸は魔物に支配されていた。魔物に怯え、泣き暮らす人々の中から、1人の青年が立ち上がる。その青年こそ、シュトライエン王国初代国王アストライア。
彼は、天界に住まう神々の寵愛を受け、勇敢なる仲間たちと共に魔物を滅ぼし、大陸に光をもたらした。そして、アストライアとその仲間たちの子孫こそが、現在の王族と貴族たちだと伝えられる。
シュトライエンでも取り分け血統を重視する貴族に、異国の血が混じっている証とも言える黒髪が現れるはずもない。単純に考えれば、その黒髪の某は伯爵、または伯爵家に連なる者が囲っている妾か何かの子なのだろうか。
この国では原則、妻は正妻のみと定められている。嫡子となるべき男子がいなければ、娘に婿を取らせるか、養子―――当然貴族の子どもだ―――をもらうのが一般的。妾や愛人を囲っている貴族など五万といるのが現実であるとはいえ、その子どもが認知されることなどめったにない。黒髪となればなおさらだろう。
国王ともなればその限りではなく、現王には正妃の他二人の寵妃がいる。しかし下級貴族の出ですでに故人となった第三妃の子である19歳の第一王子を差し置いて、王家と親戚関係にある大貴族の出の正妃の子である14歳の第二王子が間もなく立太するという。
まぁ、王位継承に関しては血筋だけで語られるものでもないだろうが、それにしても、伯爵家で黒髪の庶子が認知されて騎士になるというのは、エルの話が本当なら前例のないことではないだろうか。
絶句したマリナに気を良くしたエルは、聞いてもいないのに更なる情報を披露した。
曰く、なかなか見目の良い人物であるとか、一風変わった剣を使うのだとか、かなりの使い手なのだとか……。
よくもまぁ調べたものだと、半ば呆れてしまう。しかし、その無邪気に楽しそうな様子を見ていると「ここだけの話」をエルにしたくなってしまう人々の気持ちもわからないではない。
放っておけばまだまだ続きそうなエルの長広舌は、しかし意外な形で終わりを迎えた。カツカツと規則正しく響く足音が前方から聞こえてきたのだ。
さすがのエルも人前で噂話を続けるような不躾な真似はせず、口を噤んだ。しかしマリナはここで首を傾げた。
彼女たちが進んでいる回廊は、王宮に勤める使用人や下働きの女たち専用のものだ。高貴な方々の目を汚さないようにとの配慮である。壁一枚隔てた向こう側は華麗な装飾が施された、立派な回廊が続いている。無論、水仕事や掃除を担当する彼女たちは、特別な用でもない限り立ち入らない。逆もまた―――理由は違えど―――然りである。
ところが、足音は間違いなく身分ある人。それも男性のものだ。貴婦人のものと言うには、その足音は毅然としすぎていた。
足音は、時折止まっては再開されながら、何とはなしに立ち止ってしまった二人の元へと近付いてくる。
間を置かず、前方の曲がり角から現れたのはひとりの騎士だった。年の頃は自分たちとそう変わらないように見えるが、落ち着いた佇まいをしているから、少し上かもしれない。
柳のように細い、しなやかに鍛えられていることがわかる身体を包むのは、先ほどまで噂話の俎上に載っていた黒颯騎士団の正装である黒い騎士服。腰には見たこともない変わった形の細い剣を佩いている。十二分に整った顔立ちには、しかし愛想の「あ」の字も見受けられなかった。
そして、首の後ろで一つに括られた長い艶やかな髪は、冬の夜空のような漆黒―――。
年ごろや佇まいからして、つい今まで話題に上っていた黒髪の騎士に間違いない。
もしかして聞かれたのではないかという後ろめたさに思わず身を竦めたマリナだったが、当の相手は構わず近づいてきた。二人は慌ててシーツが山盛りになった籠を地面に置いて、慎ましく目を伏せる。どことなく、安堵したような雰囲気ですらある彼は、二人の目の前で立ち止まると形の良い唇を開いた。
「すまない、ここは何処だろうか? 第一王子殿下のもとへ行くよう仰せ付かったのだが、迷ってしまったんだ」
見目に違わず、清しい風のように心地よい声だった。
広大かつ複雑に入り組んだ王宮の造りは、侵入者対策を兼ねてもいるのだが、慣れない者は必ずと言ってよいほど迷う。なるべく人目につかないように設計されているこの通路も同様だ。表回廊から裏側に迷い込んでしまったのだろう。ほんの扉一つ、角一つ間違えると、後はもう何処が何処やら皆目見当も付かなくなる。かく言うマリナも、奉公に上がったころはよく道に迷い、半泣きで彷徨った苦い経験がある。もちろん仕事は遅れに遅れ、女官長に大目玉を食らった。
どうやらこの青年も同様であるようだ。
エルの話を聞いて一体どんな人物なのかと思っていたが、こうして話してみれば何と言うこともない、普通の青年だった。
(……そりゃ、ちょっと見ないくらい綺麗な子だけど)
失礼にならないよう目を伏せ、けれど好奇心を隠せずに伺うように覗き見ていたら、当の彼とばっちり目が合ってしまった。反射的に逸らそうとしたマリナだったが、それは失敗に終わった。
頭半分以上高い位置からこちらを見下ろす、吸い込まれそうに透き通った瞳に、一瞬で魅入られてしまったのだ。髪と同じ漆黒の瞳は黒曜石のように静かな光を孕み、底の見えない夜の泉に吸い込まれそうな錯覚を覚える。長い睫が頬に影を落とし、青年が軽く首を傾げれば、細い絹糸のような黒髪が、さらさらと音を立てて背中を流れ……。
「女官殿?」
訝しげな声に、マリナははたと我に返った。いけない。つい詩的になってしまった。前夜、寝る前に読んだお気に入りの詩集のせいだ。
「あ……失礼いたしました、騎士さま!」
わたわたと謝るマリナに、「いや、別に」と素っ気無く返してくる。ぶっきらぼうではあるけれど、怖くはなかった。
「あの、ここはわたくしども使用人が使う通路でして、ひと先ずここを出られたほうが宜しいかと」
マリナが青年の最初の問いかけに漸う答えると、彼は得心がいったとひとつ瞬いた。
「そうだったのか、無断で立ち入ってすまなかった」
「いえ、そんな! とんでもないことです。あの、それから、第一王子殿下のいらっしゃる場所は奥棟ではなく……」
そこでマリナは言葉を濁した。うまい言い方が咄嗟に思いつかない。
彼が、またしても首を傾げる。
「王族の方々は、奥棟にいらっしゃるのではないのか?」
淡々と疑問を口にする相手に、他意は感じられない。どうやらこの青年、王家の事情に疎いらしい。騎士に叙任され、地方から王都に出てきたばかりでは仕方ないだろう。
どうしようか迷ったものの、取りあえず相手の知りたいことを教えるに留める。
「第一王子殿下は奥棟ではなく、王宮の東にある離宮、狭霧宮においでです」
奥棟に面した中庭にある、林の中の小道を通っていけばいいと伝える。
「……そうか。仕事の邪魔をしてすまない、ありがとう」
礼儀正しく胸に右手を当てて腰を折った青年は、やはり無愛想にそれだけ告げると、マリナが教えた表回廊につながる道へ向かって去っていった。完全に納得した訳ではないようだが、マリナも王宮に勤める者として、軽々しく王族の話をする訳にもいかない。彼も、分かってくれたのだろう。
「よっと」
再び洗濯物を抱えなおし、さぁ仕事を再開しようと隣を見れば、エルがぽかんと大口を開けて固まっている。そういえば、彼と話している間、話好きのエルがひと言も口を挟んでこなかった。
「エル? ちょっと、ねぇ大丈夫?」
マリナに顔を覗き込まれたエルは、壊れかけた螺子巻き人形のようにぎこちなく頷いた。そして、心底困ったように眉尻を下げる。
「今回の噂、間違ってるかも……」
滔々と黒髪の貴族騎士の噂を語っていたのが嘘のように自信なさげに呟いたエルに、マリナは目を瞬いた。
噂は噂、すべて正しいとは限らないのが常であり、憶測で物を言うのは控えるべきではある。が、先程の青年を見る限り、エルの話とそう食い違った点は見受けられなかったと思うのだが……。そうマリナが聞くと、エルは困惑しながら答えた。
「あのね、今回騎士に叙任されたのは、『黒髪』で『貴族』で……」
「うん?」
「………………『女性』なの」
マリナはせっかく持ち直した洗濯物籠を取り落とした。




