序章
なんでこんなことになっているんだろう――。
ステアは目の前に広がる光景をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えていた。足元には採ってきたばかりの山菜や薬草が散らばっている。のろのろとそれに目を移し、そうだ、と思い至った。
自分はつい一刻ほど前にここを出た。夕飯の材料である山菜を採りに、森に入ったのだ。玄関で母親が気を付けてね、と笑顔で見送ってくれて、奥の作業場では父親が背を向けて、作りかけの靴に手を入れていた。腕のいい靴職人である父の元には、いつだって沢山の注文がくるのだ。
いつもと変わりない日常―――。その、はずだったのに……。
「何で……」
さっきからぐるぐる頭の中を回っていた単語が、うまく動かない口から漏れ出た。口の中はからからに乾いて舌が張り付いている。
―――何で、こんな……
もう日暮れだというのに、辺りは夜を知らないかのように明明と照らし出されていた。そこら中の家から黒い煙が立ち昇り、場違いに美しい火の粉が舞う。
小さな集落のなかを我を失った馬や羊が泡を吹きながら走り回り、見知らぬ男たちが手に手に獲物を振りかざして村人を追回し、傷つけ、家を破壊し、奪っていく。
耳障りな男たちの笑い声と逃げ惑う村人たちの悲鳴、泣き叫ぶ子どもの声。まさしく混乱を絵に描いたような有様だった。
「あぁ? 何だぁ手前ぇ」
我が物顔で略奪行為にふけっていた男達の一人が立ち尽くすステアに目を留めた。勿体つけるように近づいてくる。狩りの獲物を、食べるためではなくただ愉悦のために追い立てる対象を見るような目だ。口元は嗜虐の笑みに歪んでいる。肩には真新しい血に染まった鉈を担ぎ、刃先から滴り落ちた血が地面に吸い込まれていった。
ステアは凍りついたように動けなかった。男が目の前に来ても、鉈を振り上げても、まるで他人事のように眺めているだけだ。刃が近づいてくるのが、何故か至極ゆっくりと見えた。
―――あぁ、ぼくは死ぬのか……
ガギィィィィッ!
頭が割れたにしては、随分と硬質な音だった。そう思ったところで、ステアは我に返った。自分の頭を叩き割るはずだった鉈は、目的を果たす寸前で黒い棒のようなものに留められている。
「―――え?」
半ば呆然としたまま黒い棒を視線で辿っていくと、棒を掴む、手甲に覆われた腕が目に入った。次いで、視界の端を黒く長いものがよぎる。ステアは目を見開いた。
うなじの上で無造作に括られた、漆黒の長い髪。まだまだ細い身を包むのは、夜色の騎士服。その色が、ステアが暮らす集落を含む一帯、ディールシタッド地方を拠点とする騎士団のものであることは、すぐにわかった。
燃え盛る炎の逆行で顔はよく見えないが、ステアとそういくつも離れていない少年に見える。その少年がステアと無頼者の男の間に割り入れる様に棒を突き出し、鉈を受け止めていた。
「な、何だ手前ぇ……」
ステアに向けたものと同じ、だが明らかに狼狽を含んだ声を男が発する。少年は無言で棒を払い、男は体勢を崩してよろめいた。少年は間髪入れず間合いを詰め、棒の端に添えていた右手を引き抜く。磨きぬかれた鋼が炎を反射し、赤金色に輝いた。
僅かに曲線を描く、優美ともいえる形状のそれは、東の小国で用いられる刀というものだろうか。
大きな市場で商人が得意げに述べていた口上を思い出すよりも早く、白銀の軌跡が一閃する。カチン、と少年が刀を鞘に納める音がはっきりと聞こえた。
男は座り込んだ格好で、何が起きたのか分からないという様に少年を見上げていた。ステアもまた目を瞬く。
「お前たちの頭は誰だ?」
二人の困惑を他所に少年は淡々と言葉を紡ぐ。耳に心地好い涼やかな声は、だがしかし男の神経を逆なでする効果しか持たなかったようだ。男はみるみる顔をゆがめ、盛大に吼えた。
「っの餓鬼、ナメやがっ……!?」
振り上げられようとした右腕は、しかし本人の意思に反してピクリとも動かない。怪訝に思って自らの腕に目をやった男は、次の瞬間驚愕に目を見開いた。
二の腕の上部が、ぱっくりと裂かれている。
「動かないほうがいい。腱を斬った」
場違いな程に静かな、それでいてよく通る少年の声は、男を戦慄させるに十分な威力を発揮した。にわかに色を失った男を見据え、少年は再度問う。
「頭は誰だ?」
男はがくがくと全身を震わせ、喉を引き攣らせた。意味を成さない喘ぎ声が歯の隙間から漏れる。しかしそれも、少年が男との距離を詰めようと一歩踏み出したことで終わりを告げた。
男は白目をむいて失神していた。だらしなく開いた口の端から泡を吹いている。
少年は肩で息を吐くとステアを振り返った。深い漆黒の瞳が強い光を湛え、ステアを捉える。
「大丈夫か? 怪我は?」
「あ、え、い……いえ……」
およそ愛想というものが感じられない問いに、へどもどと返事をしつつも、ステアは少年の瞳から目を逸らせなかった。
チロチロと燃える炎をすっかり吸い込んでしまいそうな、深い黒。
黙りこんでしまったステアに何を思ったのか、彼は言葉を継いだ。
「安心しろ。賊は粗方片付いたようだ。怪我人の手当ても任せてある」
言われてステアが周りを見渡すと、いつの間に現れたのか少年と同様の格好をした男たちがあちらこちらで賊と切り結んでいる。数は賊のほうが多いが訓練された騎士団との力の差は歴然としていた。見ている間にも賊は次々に叩き伏せられ、縛り上げられていく。
ふいに視界が揺らいだと思った次の瞬間、ステアは地面にへたり込んでいた。
「お、おい」
少年の些か慌てた声が聞こえたが、ステアは今になって襲ってきた恐怖という感情にただ震えて俯いていることしかできない。
情けない、と自分を叱咤しても、体は言うことを聞いてくれなかった。
ふと、少年が目の前に膝をついた。ゆっくりと伸ばされた掌がしばしの逡巡の後、ステアの髪にそっと触れてくる。
驚いて思わず顔を上げると戸惑いを含んだ、あの黒い瞳とぶつかった。少年は少しばかり気まずげに腕を引くと、つっかえながら声を発した。
「その……もう、大丈夫だから……」
ステアはぽかんと口を開いた間抜けな顔で少年を凝視してしまった。
どうやらこの少年は自分を慰めようとしていたらしい。しかしその言動は、大の男を気絶させるほどの気迫を放っていたとはとても思えない。全身の強張りが解けていくのを感じる。
「ええっと……」
ステアの心中などいざ知らず、少年は心底困り果てたように呻いた。
しかし二人の思考は突如響いた叫びに中断されることになる。
「ステア!!!」
己の名を呼ばれて反射的に顔を向けたステアの視界は、ごわごわの布地に遮られた。染み付いた山羊の乳の匂いが、どこか懐かしい。
ぎゅうぎゅうと抱きしめられて詰まる息をこらえ、声をあげた。
声が出せた。
「か、母さん?」
「ステア! ああ、無事だったんだね。ステア、ステア」
それしか言葉を知らないかのように自分の名を呼び続ける母の背に、ステアも自身の手をゆるゆると回す。と、肩に大きな手が乗せられた。
無理やり仰向くと、いつもは仏頂面の父親の酷く優しい顔があった。『よく頑張ったな』と言われた様で、ステアはくすぐったいような思いに捉われる。
ふと視線を戻すと、立ち上がったあの少年が一礼して去っていくところだった。
「あ!」
咄嗟に声を上げたステアを、少年は少し驚いたように振り返って首を傾げる。
一方ステアは声を上げたはいいものの、続ける言葉を考えていなかったことに気づき大いに焦った。
「あ、その、―――っな、名前!」
そう、恩人の名前を聞いていない!
問われた少年はあっけに取られたような顔でこちらを見ている。が、ふっと瞳を和らげると体ごとステアに向き直った。
「シルフィリアだ」
それだけ告げると彼は背を向け、仲間だと言っていた騎士服の男たちのもとへ向かって行ってしまった。
「シルフィリア……さん……」
吹き抜ける風を思わせるその響きを、ステアは心に深く刻み付けるように呟いた。
結局、彼に助けてもらった礼を言い損ねたことに気づいたのは、ようやく母親の腕から開放された後のことになる。




