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勇気のある者

※軽く戦闘描写が入ったり、最後らへんちょっとグロ……くはないかもしれないのですがうへえってなるかもしれませんご注意を。

 


 春太たちが目指す北の大陸とは、王都マンサールから一日二日で行けるほど近い場所にあるわけではない。

 むしろその道程は長く春太たちの想像を絶する距離だ。

 このことから、休まずに歩いて行くということは不可能であることがわかる。

 さらに、旅をするにあたって荷物の量にも制限がかかり、用意できる人数分の食料はあと数日分ほどしかない。

 その食料が尽きる前に道中にある街や都市などで食料の補充をしなければならないのだ。


 王都マンサールから北の方向へ進むとして、まずはその道中にある街を目指すことになった。


 そのために通らなければならない場所が――ここ、ティエーゼの森だ。


「あの、さ……」


 森の中を歩きながらも、春太が恐る恐る口を開く。


「まさかとは思うけど……ここ、迷いの森とか、そんな物騒な二つ名とかついてないよな……?」

「迷いの森? いや、そんな話は聞いたことないけど」

「そ、そっかー! そうだよなー! あー、まあそうだよな、うんうん、俺の思い過ごしならそれでいいんだ、それで」


 無駄に明るい声を出しながらも春太は心底ほっとしていた。

 もしここが迷いの森とかそれらしい物騒な名前がついていたら。

 ちらりと彼の頭の中を過ったのは、自分がこの森で一人迷子になっている情けない姿だった。


 鮮明に浮かんだその光景に春太はぶるりと身震いをした。


 一方、春太の問いに答えたフレデリックは首を傾げた。

 もしこの森がそんな物騒な森だったとすれば、間違いなく迂回して別の道を選ぶに決まっていたからだ。

 むしろ比較的安全だからこそ選んだ道だというのにどうしてこんなにも怯えているのか。

 未だびくびくと震えている春太が彼には不思議で堪らなかった。


「……この森は、普通に通る分には比較的安全なところだよ。奥にさえ行かなければ、ここの主に出くわすこともないだろうしね」


 ただ、と彼はその手に武器である杖を握った。


「魔王のせいで活発になってるやつらはいるけど――ねッ!!」


 フレデリックは身の丈ほどある杖をくるりと回転させ、春太の顔の横を貫くように鋭く突いた。


 途端、春太の背後で人ならざるモノの悲鳴が上がった。

 春太が慌てて振り返ると、そこには見たこともない生物が、おそらくフレデリックに突かれたであろう場所を抑えている。

 外見は何かの植物のようにも見えるが、その口から覗く牙や忙しなく動くギョロリとした目が、どう考えてもただの生き物ではない。

 それが自分の背後にいたことを春太は驚き、フレデリックがいなければ今頃自分がどうなっていたかを想像し、戦慄した。


 現れた魔物はどうやらフレデリックが攻撃した一匹だけではないらしい。

 がさがさと草木をかき分ける音を立てながらその魔物の仲間と思わしきモノたちがぞろぞろと出てきた。


 春太たちを取り囲むようにして魔物たちはのそりのそりと近づいてくる。


「――何ぼーっとしてんだッ!!」


 爪のような武器で近くにいた魔物を斬りつけたシエルが呆然とする春太を叱咤した。


「え、あ、えっと……そ、そうか、俺も戦わなくちゃいけないんだよな」


 シエルの言葉に突き動かされるようにして、春太も腰に下げた剣を抜き放った。


 春太の剣とはフレデリックから与えられた特注品である。

 名のある刀鍛冶が精魂込めて作り上げたとても美しいフォルムのそれ。

 金属で作られたそれは、ある程度軽量化されていたとしても春太にとっては中々に重たかった。


 魔物へと向けた彼の剣先が小刻みに震える。


「あれ、変だな……?」


 多少の重みはあれど、それは春太の許容範囲内の重さだ。

 振り回す程度には丁度いい重さで、もちろん彼もそのつもりで抜き放ったはずだった。


 それなのに、何故。


 握り締めた剣はその本来の重さ以上にずしりと重たく感じられた。

 力強く握り締めているはずの剣は、気を抜けばすぐにでも取り落としてしまいそうだ。


 これを手放してしまえば、自分は死ぬかもしれない。


 無意識のうちに力が入った指先が徐々に白く染まっていく。

 足の裏が地面に縫い付けられているかのようにその場から一歩も動けない。

 まるで金縛りにでもあったかのように、春太は指先の一つも動かせなくなっていた。


「お、おかしいな……なんで」


 これはシエルやフレデリックと言い争っているときに握っていたものと本当に同じなんだろうか。

 誰かがこっそりと入れ替えてやしないだろうか。

 どうして、自分はあのとき、こんなにも重たいものを軽々と持てていたのだろう。


 ああ、自分はこんなにも重いものを持って何をしようというのだろうか。


 職人の手によって磨き上げられた刀身が日の光を反射し、歪な彼の顔を照らす。

 あまりにも『キレイ』なその刀身に春太はびくりと体を震わせた。


「戦わないと……戦わ、ないと……」


 これが他を傷つけるための道具。

 自分がこれを振るえば、誰かの生を奪うことに繋がる。


 ――『殺すことはいけないこと』。


 それは春太が生きていく中で刷り込まれてきた『常識』だった。


 殺すということは、命を奪うということ。

 命を奪えばその奪われた生物は死ぬ。

 死んでしまっては生き返ることもない。


 幼い頃から周囲の人間に刷り込まれてきた『道徳』が強い抑止力となって春太を襲った。


 刷り込まれた『道徳』が彼に植え付けたのは『死』への漠然とした恐怖。

 それは自分が死ぬこと、相手を殺すこと。

 彼はただ純粋に『死』というものがとても怖かった。


 目の前にいるこの魔物は、例えどんな姿をしていようと生き物だ。


 怖い。

 殺すことが。

 命を奪うことが。


 でもここでやらなければ死ぬのは――誰?


 抵抗しなければ殺されるのは誰か。

 死ぬことになるのは、誰か。


 この世界の魔物には春太の世界での『常識』など通用するわけがなかった。


 ギラギラと光る恐ろしい目で狙いを澄まし、鋭く尖った牙や爪で皮膚や肉を切り裂こうとする魔物たち。

 彼らは生き物だ。しかし彼らに道徳などはない。

 あるのは魔王によって凶暴化された本能のみ。


 生か死か。


 やらなければやられる。

 ならば自分はこの握り締めた武器で相手を殺さなければならない。


 嫌だ。春太は強く拒絶した。


 殺すことが嫌なのか。

 殺されることが嫌なのか。


 彼はその両方を拒絶していた。


 生き物を殺したくない。

 命を奪いたくない。


 でも死にたくはない。

 生きたい。

 痛い思いをするのは嫌だ。


 嫌だ。何もかも、全てが嫌だ。


 これは夢だ。

 きっと夢に違いない。

 早く目が覚めればいいのに。


 ああ、自分はいつまで悪夢を見続ければ――。


「――春太ッ!!」


 アズリアが春太へ体当たりをし、そのまま一緒に倒れ込んだ。

 間一髪のところで先ほど春太がいたであろう場所に魔物の腕が横切る。


「春太、しっかりしなさいッ!!」


 今にも泣きそうな表情でアズリアは怒鳴った。


 しかし、そんな彼女の叱咤など聞こえていないかのように、春太は目を見開いて先ほどまで自分がいたであろう場所を見つめていた。

 もしアズリアが自分へ体当たりをしてくれていなければ。

 自分はあの魔物の腕に確実に当たっていたに違いない。


 ああ、なんてことだろう。


 倒れた拍子にぶつけた背中が痛みを訴えている。

 その痛みが訴えかけている。


 これが――今ある現実なのだ、と。


「どうしよう、アズリア……」


 春太が震えた声で彼女の名を呼んだ。


「俺、無理だよ、こんな」


 震える声で紡がれる言葉は、酷く弱々しい。


「春太……?」


 いつもとは違う様子の彼にアズリアは困惑した。


 彼の目は忙しなく動き、アズリアの名を呼んだにも関わらずその視線に彼女を捉えてはいない。

 触れた体から伝わってくる震えは彼が怯えていることを能弁に物語ってた。


「やっぱり、俺なんかに勇者が務まるはずがなかったんだ」


 早口だがはっきりと聞き取れたその言葉。


「はる――」


 アズリアがもう一度彼の名を呼ぼうとしたそのとき。


「アズリア!!」


 視線の定まらなかった春太の目が、ぴたりと動きを止めた。

 その視線はアズリアを通り越したその先を見つめている。

 ――魔物だ。


 春太の声により、自分の背後の存在にアズリアはやっと気づいた。

 すぐ傍まで聞こえる魔物の唸り声がどれほど近くにいるのかを知らしめているようだった。


 アズリアはただの村娘だ。

 その身体能力は戦闘経験のあるフレデリックや、ましてや猫人であるシエルよりも遥かに劣っている。

 そんな彼女がとっさに身を引いて魔物の攻撃を避けられるわけがない。

 もし辛うじて避けられたとしても、彼女の下敷きになっている春太が避けることはほぼ不可能に近かった。


 彼女は天秤にかけた。


 アズリアというただの村娘の命と。

 春太という世界を救う存在である勇者の命を。


 天秤は傾いた。


「春太!!」


 彼の名を叫びながら抱き締めた。

 ここを退いてはいけない。

 逃げてはいけない。


 今ここで『彼』を失ってはいけない。


 そこには何の感情もなかった。

 感情を挟む余地すら与えられなかった。


 アズリアの体は『最善』を選んだ。ただそれだけだった。


 魔物はその鋭い爪を容赦なく彼女へと向けた。

 皮膚を破り、肉を切り裂くため。

 本能の赴くままに。


 その小さな背中へ向けて振り下ろされた。


 アズリアは死を覚悟した。

 次に来る痛みを想定しながら。


 ――切り裂いた。


「馬鹿野郎ッ!!」


 シエルの武器が、魔物の体を。

 その身を切り裂かれた魔物は悲鳴を上げながら黒い靄へと姿を変えて消えた。

 まるで最初から存在していなかったかのように、何も残さずに。


 肩で息をするシエルがその二色の瞳で射抜いた。


「男が、女に守られてんじゃねえ」


 アズリアの腕の中にいる彼に向かって吐き捨てるように。

 これでもかというぐらい嫌悪感を露わにして。

 ナイフのように鋭利な視線で春太を貫いた。


「怪我をしてやせ我慢してる君に言われたら終わりだろうね」


 フレデリックの言葉にはっとした春太が目を向ける。

 シエルの腕から滴り落ちている赤いそれは、彼が怪我をしているという事実を物語っていた。


 何故彼が怪我をしているのか。

 それは、彼が先ほどまで相手をしていた魔物たちを一刻も早く片付けるため。

 本来なら避けられたはずの攻撃を、腕を犠牲にしてまで倒すことを優先したのだ。


 全てはアズリアたちを助けるために。


「うるせ、これぐらい俺にとっては痛くも何ともねえんだよ」

「見え透いた嘘はつかないでくれるかな」


 シエルの虚勢を笑顔で一蹴し、フレデリックは半ば無理やりに彼の腕を取った。


 もう片方の手で握り締めた杖をその腕に向けて何かを呟く。

 すると、シエルの怪我は見る見るうちに消えていった。


「何勝手に……!」

「ああ、礼はいらないよ」

「誰が言うか!!」


 フレデリックが掴んでいた手の力を緩めると、シエルは勢いよくその手を引き抜いた。


「ったく、これぐらい放っておけばすぐに治るってのに……」


 掴まれていた腕を庇うようにして擦りながら悪態をつくシエル。

 しかしその視線は定まらず、まるでフレデリックを避けるように漂っていた。

 森に入る前はあんなにも険悪な雰囲気を醸し出していたというのに。

 怪我をしていたところを労わるように撫で擦りながら、彼は気まずそうな顔をしていた。


「まあ一先ず、シエルのおかげでこの場はどうにかなったわけだけど」


 ちらり、とフレデリックはアズリアを、いや、彼女の肩越しに見える春太を一瞥した。


「どうやら君は使い物にならないみたいだね」


 その表情に笑顔を浮かべている彼は何を思っているのか。

 それは、実に嫌味の籠った棘のある口調だった。


「俺が君のために用意した剣は、ただの飾りじゃないんだよ」


 もちろん、それは理解してくれているよね。


 彼の目は笑っていなかった。

 それどころか、彼の目からは呆れの色が映っていた。

 まるで、戦わなかった春太を責めるように、ただそこにあるモノを見るように。


「君は、何のためにその剣を抜いたんだろうね」


 春太が未だに握り締める綺麗な刀身を持つ剣を見下ろした。


「戦うため? 死にたくないから?」


 嘲るように容赦なく抉った。

 フレデリックの言葉は鋭利な刃物のように春太の心を深く抉った。


 春太は何も言わなかった。

 いや、言えなかった。

 言い訳をする資格さえも彼にはなかったのだから。


 ただ、フレデリックの言葉を静かに受け止めながら、その拳を強く握り締めていた。


「君は以前、俺に向かって言ったはずだ」


 それは彼の部屋で魔王について話した後のこと。

 何故アズリアが旅について行くのか尋ねたときのことだ。

 守る術を持たない彼女をどうするのかとフレデリックは春太に尋ねた。


 ――「彼女は自分が守る」。

 確かに彼はそう言った。


「その言葉を、今、俺の目を見て言える?」


 俯かせた顔をそのままに奥歯を噛み締める。

 それは何に対しての悔しさなのか。


 剣を振るうことすらできずに呆けているばかりだった自分の情けなさに対してなのか。

 守ると言った相手に逆に守られていた自分の不甲斐無さに対してなのか。

 今ここでフレデリックに責められて、言い返す言葉が何もないことに対してなのか。


 アズリアは口を挟めない状況にただ交互に二人の顔を見るだけだった。


 シエルもまた口を挟むつもりはないらしく、魔物を切ることによって武器に付着した体液のようなものを振り払っていた。

 しかしその目はしっかりと二人のことを捉えていた。


 春太は顔を上げなかった。

 何かを言おうとする素振りすら見せなかった。

 彼のその反応が何を意味しているのか。


 フレデリックは笑みを消した。


「『守る』ということは、簡単なことなんかじゃない」


 それはまるで『守る』ことが何であるかを知っているかのような口振りだった。


「誰かを『守る』ためには誰かを殺さなければならないときだってある」


 フレデリックは一国の王だ。

 彼が守るべきもの、それはこの国に住むあらゆる民のこと。

 今までずっと彼は守り続けてきたのだ。


「綺麗なままでいられるわけがない」


 ありとあらゆる方法で。

 ときには非道とまで非難されて。


 それでも、彼は守り続けてきたのだ。


 両手を使っても数え切れないほどの何百人、いや、それ以上の人々を。

 たった一人で守り続けてきた。

 例え彼の傍にあの老人やサリウスがいたとしても最終的な決断は王である彼に委ねられるのだ。


 誰かを守るために誰かを殺さなければならないときだってある。

 それは、彼が何度も経験してきたことを裏付けるような言葉だった。


「『覚悟』のないやつが、簡単に『守る』なんて言わないでくれるかな」


 吐き捨てるように紡がれたその言葉。

 嫌悪を露わにした目でフレデリックは初めて彼を睨んだ。

 透き通るような美しさを持っていたはずの紫の瞳。

 その瞳は濁っていた。


 黒い感情が渦巻いている。

 黒く、どす黒い、どろどろになったその感情。

 フレデリックは嫌悪感を覚えた。


 それは春太に対してなのか。

 それとも、自分自身に対してなのか。


 先ほどの言葉は、まるで彼自身に言い聞かせているようだった。


「……もういいよ。戦えないのなら、せいぜいやられないように逃げ回っておけばいい」


 どこか諦めたようにも思えるその口調は春太を見限っているかのようだ。

 いや、既に見限っているのだろう。

 表情は再び笑みを作ってはいたものの、浮かべているそれは決して友好的なものではなかった。


「役立たずは所詮、役立たずでしかないからね」


 未だ顔を俯かせている春太に『役立たず』のレッテルを張り、フレデリックは興味のなくなったものから視線を外した。

 次にその視線はアズリアを捉えた。


「それからアズリア」


 フレデリックは座り込んだままの彼女の腕を取り、半ば強引に立たせる。

 彼女の腕を握っている手に少し力を入れた。

 笑みを浮かべていたはずの彼の顔が、苦痛に耐えるかのように歪んだ。


「君の取った行動は、あの場において『最善』だったことに間違いはない」


 勇者である春太が魔物に襲われたときのこと。


 アズリアは危険も顧みず春太を助けた。

 そして、自分の死を覚悟して勇者である彼を庇おうとした。


 村娘の命より、勇者の命の方がどれほど重いものなのか。

 彼が死んでしまえば大勢の人間が死んでしまう。

 そのことを理解していたアズリアがとっさに取った行動。


 世界の危機を前にすれば、春太を守ろうとした彼女の行動はだったことだろう。


「でも、俺は――」


 彼は口を開いた。


「――なんでもない。そんなことより、早くこの森を抜けよう」


 その口は何かを言う前に閉じられた。

 再び開いた口から紡がれた言葉は、彼が言おうとしていたものとは違うものだった。


 言わなかった。

 今ここで言うべき言葉ではないと彼なりに判断したからだ。

 結果はどうであれ、彼女の行動は最善だったことに変わりはないのだから。


 そこに自分の感情を挟むべきではない。


 掴んでいたアズリアの腕を放し、フレデリックは歩き出した。

 その後ろ姿は、追及されることを拒んでいるようだった。


 アズリアはその後ろ姿をじっと眺めた後、はっとしたように春太を振り返った。


「春太、大丈夫? 怪我は?」


 俯いた彼の顔を覗き込もうと彼女は身を屈めた。

 春太はそんな彼女の視線から逃れるように顔を背けた。


「大丈夫。アズリアが助けてくれたから、守ってくれたから」


 初めて、彼女に顔を見られたくないと強く思った。


「――俺は、綺麗なままだよ」


 噛み締めた奥歯が軋んだ音を発する。

 小刻みに震えるほどに強く握りしめた拳。

 彼の胸の内で占める感情とは何か。


 彼は今までにないくらい、自分の情けなさに嫌悪感を覚えていた。
















 どうしてあのとき、自分はあの力を出せなかったのだろう。

 春太は拳を強く握り締めた。


 あの力とは、春太が今までに二回ほど発したあの光のことである。


 一回目はアズリアが子どもを庇って魔物に襲われそうになったとき。

 二回目はまんまとシエルに捕らえられ、脅しとして首の皮を切られたときだ。

 あの光は自分の意志とは関係なく勝手に発せられたものなのだ。


 アズリアに庇われたとき、もしかしたらあの光が出るかもしれない。

 僅かな期待をしていた自分はどれほど愚かだったことだろう。


 結局、自分は何もできなかったではないか。


 ただ彼女に守られながら、本当に出てくるかもわからない光を待っただけじゃないか。

 守ると言ったのに、逆に守られているじゃないか。

 大切な人を守るどころか守られたくせに、守れなかったくせに、何が勇者だ。


 春太は自分を責めていた。


 悔しいと思った。

 何もできずに動くことすらできなかった自分が。

 女の子に助けられて、守られていた自分が。

 シエルやフレデリックから言われた言葉に何一つとして反論できなかった自分が。


 あんないつ起こるかすらわからない光にしか頼れなかった自分が。


 傷つけることが怖い。

 殺すことが怖い。


 住む世界が違う、常識が通用しなかった。


 そんなものは言い訳でしかない。

 もっと重要なことは、自分が、約束を果たせなかったことだ。

 アズリアを村から連れ出すために「守ってみせる」と確かに言ったはずなのに。


 それどころか、助けられて、守られてしまった。


 アズリアは迷うことなく春太を助けた。

 そして、瞬時に春太を庇い、死ぬ『覚悟』をしていた。


 覚悟すらできなかった自分が、誰かを守ることなんてできるわけがなかったのだ。


 フレデリックの言っていたことは正しかった。

 こんな自分に、アズリアを守れるわけがなかった。


 ならば今ならどうだろう。

 自分には覚悟がないとわかった今なら、自分は武器を振るえるのか。

 わからない。


 アズリアを守らなければと思った。

 今度こそ守りたいとも思った。


 けれど殺すことを恐れている自分がいるのも確かだった。


 正直なところ、本当にわからないのだ。

 彼女を守るために他を殺せる覚悟ができるかどうか。

 そのときになってみなければわからなかった。


 こんなときでさえ覚悟ができると断言できない自分が腹立たしかった。


 ちらちらとアズリアが後ろを振り返っている。

 それは最後尾で歩く春太を心配してのことだった。


 それなのに、春太はそんなアズリアの視線から逃げるように顔を俯かせた。


 彼女は命を張ってまで自分を助けてくれた、守ってくれたというのに。

 こんな中途半端な気持ちで覚悟すら決められない自分が後ろめたかった。

 どんな顔をして彼女の視線に応えればいいのかすらわからず、春太は顔を上げられなかった。


「――チッ、また来たか」


 シエルが耳をピンと立て、鼻をスンと鳴らした。


「アズリアたちは下がって」


 身の丈ほどの杖を構えながらフレデリックが一歩前に出た。

 次いでシエルも武器を構える。


 再び現れた魔物は先ほど見た魔物と同じような姿をした魔物だった。


 春太は今度こそ自分も戦うべきなのだと思った。

 先ほどの失態を取り戻さなければと。

 剣を抜き放とうとした。


 ――本当に、覚悟ができているのか。


 剣の柄を掴んだ彼の動きが止まる。

 腕が動かない。


 覚悟ができていなければ、武器を構える意味がない。


 そう思えば春太の剣を引き抜こうとする手はますます強張った。

 春太は剣の柄を強く握り締めた。


 守る覚悟ができているのだろうか。

 もしまた先ほどのようなことになったら。

 あのときはシエルが無茶をしてくれたからアズリアは助かった。

 でももし、今度こそ誰も助けられない状況になってしまったら――?


 アズリアは今度こそ死んでしまうかもしれない。


 ならば自分は、フレデリックに言われた通り、逃げ回っていた方がいいのではないだろうか。

 自分から危険なことへ飛び込んでいかなければ、アズリアが危険な目に遭うこともないのではないだろうか。


 そう思ってしまう自分がいるせいで、春太はその剣を引き抜けずにいた。


「――くそッ!!」


 目の前で魔物たちと戦っているフレデリックたちの姿が見えた。

 彼らには彼らの『覚悟』があって戦っている。

 自分にはない『覚悟』や『信念』を持って魔物へと立ち向かっているのだ。


「なんでだよ、なんで……っ!」


 こんなにも手が震えているのか。

 この期に及んで、殺すことを怖いと思っているのか。


 自分は何のためにここにいるんだ。

 世界の危機を救うため。

 大切な人を守るため。


 怖くなんかない。怖いなんて言ってられない。


 戦わなければ。

 逃げている場合じゃないというのに。


「春太……」


 悔しげに悪態をつく彼の姿がアズリアには痛ましく思えた。


 守るために殺す。

 それはフレデリックたちにとっては当たり前のことなのかもしれない。

 しかしそれが春太に受け入れきれるかどうかまでは話が別だ。


 アズリアは知っていた。

 春太が今まで暮らしていた世界がどれほど平和だったのかを。


 誰だって殺すことは怖いのは確かだ。


 フレデリックだって、シエルだって。

 今まで生き物を殺してきて何とも思っていないわけがない。

 だが、彼らには自分のしてきたことを受け止める強さがあった。


 春太はとても優しい性格だ。

 城へついたばかりのとき、盗賊団の頭として捕まったシエルの将来を心配して泣いてしまえるぐらい、お人好しだ。


 そんな彼が生き物を殺せるのか。


 彼にとって覚悟をするということがどれほど酷なことか。

 それを想像するだけで、アズリアの胸は針を刺すような痛みを感じた。


「――わっ?!」


 ふいに彼女の足が何かに引っ掛かり、勢いよく尻もちをついた。

 それは彼女が邪魔にはならないように魔物たちの動きに警戒しながら動いていたため、足元を確認していなかったせいだろう。


 ちらりとアズリアが自分の足元を見た。


 そこには彼女の腕ぐらいの太さがある植物の蔓のようなものがあった。

 太さはかなりあるが、これぐらいの蔓ならばこの森に生えていてもおかしくはないのかもしれない。

 引っかかったことに驚きはしたもののアズリアは不審に思うことはなかった。


 しかし、突然鼻をつく甘い香りに彼女は眉を潜める。


 先ほどまでこんな匂いは漂っていなかったはずだというのに。

 突然香りだしたのは何故か。


 嫌な予感がする。


 アズリアはその場から慌てて退こうとした。

 じっとしてはいけないと彼女自身の勘が告げていたからだ。

 立ち上がろうと膝を立てた。


 ――立ち上がれなかった。


「ひっ……!」


 先ほどの蔓が何重にもなってアズリアの足に巻きついていたのだ。

 少し目を離していた間にこんなにも巻きつかれているなんて思いもしなかった。


 彼女の頭の中で警鐘が鳴り響く。

 これは危険だと。

 早くこの蔓をどうにかしなければならない、と。


「何、これ……やめて……嫌……イヤッ!!」


 必死に外そうと蔓を掴んだ。


 巻きついた蔓はどれほど引っ張ってもびくともしなかった。

 それどころか、蔓はどんどん伸びていき、アズリアの腰にまで巻きつき始めていた。


「アズリア!!」


 すぐに彼女の異変に気付いた春太が彼女の元へ駆けつけた。

 彼もまたアズリアと一緒になって蔓を外そうとするもののやはり蔓はびくともしない。


 蔓を外そうとしていたアズリアだったが、やがてその腕さえも蔓に巻きつかれ、自由を奪われた。


「春太、怖い、助けて……っ!」


 全身に絡みついてくる蔓から逃れようとアズリアは必死にもがいた。


「アズリア、アズリア……!」


 助けなければ。

 今度こそ、彼女を守らなければ。


 春太はアズリアがつれて行かれないようにと彼女の手を握り締め、蔓を掴む手に力を込めた。


 どんなに強く引っ張っても蔓が外れる様子は微塵も感じられなかった。

 どうすればいいんだ。

 焦りが春太の頭の回転を鈍らせる。


「――蔓を切れッ!!」


 二人の様子に気づいたシエルが声を張り上げた。


 シエルもまた自分が相手をする魔物たちで手がいっぱいだったのだ。

 あのときは多少の無理で何とか間に合わせることができた。

 しかし今回ばかりは魔物の数が違う。

 多少の無理でどうにかなりそうな数ではなかったのだ。


「くそがァアアアアア――ッ!!」


 叫びながらも魔物を斬りつける手は止まらない。

 助けに行きたいのに、行けない。

 そんなもどかしい状況にシエルもまた焦りが募っていた。


「春太ッ!!」


 フレデリックが急かすように名を呼んだ。


「それを引っ張っても無駄だ! 燃やすか切るしかない!」


 杖で魔物の攻撃を受け流しながらも彼は勇敢に戦っていた。


 おそらくあの蔓は人の力でどうこうできるものではないだろう。

 あれは植物だ。

 ならば、燃やしてしまうか、切ってしまえばどうにかなるかもしれない。


 フレデリックは回復魔法が得意だと言えど、多少の攻撃魔法も扱えた。

 もし彼の手が空いていたのなら冷静にその魔法で焼き切っていたことだろう。


 しかし彼もまた目の前にいる魔物たちを相手にすることで手いっぱいだったのだ。


「わ、わかった!!」


 春太は片手で剣を引き抜いた。


「アズリア、今助けるから――ッ!!」


 腕を振り上げた。

 狙いは違うところへと繋がっているであろう部分の蔓だ。


 勢いよくそれに向かって剣を振り下ろした。


 刀身はその蔓を断ち切ろうと真っ直ぐに落ちていた。

 ――その蔓がぐにゃりと動くまでは。


 寸前のところで剣はぴたりと止まった。


「な、んだよ、これ……?!」


 まるで生きているかのようにその蔓は動いた。

 蔓はぐにゃりぐにゃりと上下に揺れていた。

 途端、春太の剣先が小刻みに揺れ始める。


「なんで、くそっ、動けよ、なんでだよっ……?!」


 今度こそ切らなければ。

 春太は再び腕を振り上げた。


 振り上げた腕は、ぴくりとも下に落ちようとはしなかった。


「くそっ、なんで、なんでっ」


 切れると思っていた。

 それなのに、体が言うことを聞いてくれなかった。


 蔓の生きたような動きが、春太の体にこれが『生き物』であることを認識させてしまったのだ。


 これを切ってしまえば生き物を切ったことになる。

 彼自身が殺すことを恐れるように。

 彼の体もまた、傷つけることを拒絶したのだ。


 今度こそ。


 春太が振り上げた腕に力を込めたそのとき。

 アズリアの手が彼の手からずるりと滑り抜けた。


 汗ばんだ手でもう一度彼女の手を掴もうと手を伸ばした。


「アズ――」


 必死で伸ばした手が、彼女の手を握ることはなかった。


 空を切る。

 指先ですら触れることは叶わなかった。


 アズリアの体を包み込むようにして巻きついた蔓が森の奥へと彼女を引きずっていく。

 その速さは、春太が走ったぐらいでは到底追いつけそうにないほどに速い。

 あっという間に彼女は森の奥へと姿を消してしまった。


「待てよ、おい、どこにつれて行くんだよ、やめろよッ!!」

「動くなッ!!」


 消えた彼女のあとを追いかけようと一歩踏み出した春太にフレデリックが制止をかけた。


「でもアズリアが!!」

「君は落ち着いた方がいい、春太」

「これが落ち着いていられ――」


「ピーピー喚くんじゃねえ!!」


 がつん、と鈍い音が響いた。


「何すんだよシエル!」


 あまりの痛さに涙目になりながら春太が声を荒げた。


「うるせえ、黙れ、そこに座れ」


 彼の目は据わっていた。

 逆らうことさえ許されない威圧感。

 ふっと力の抜けた春太がその場にぺたりと座り込んだ。


「まず一つ聞くが、お前、追いかけてどうするつもりだったんだ」


 睨んでいるわけではない。

 しかし彼の視線の鋭さは睨みにも近かった。


「何って、アズリアを助けに」

「誰が助けるんだ?」

「誰ってそれは」


「お前、なんか勘違いしてないか?」


 春太は目を見開いた。


「勘違いって、どういう……」


 戸惑いを見せる彼に対し、シエルは淡々とした口調で話した。


「俺たちの目的は勇者を北の大陸までつれて行って、魔王をどうにかさせることだ」


 重要なのは、勇者を死なせないこと。

 勇者を生きたまま魔王のところまでつれて行くことだ。

 つまり、それ以外がどうなろうと、関係ない。


 ただの村娘が死んでも、旅に支障は出ないのだ。


 助ける必要性がない。

 それどころか、助けに行こうと奥まで行けば危険が伴う上に時間もかかる。


 そうまでして助ける必要性がアズリアにはなかった。


「お前が戦えないのなら尚更、そんな危ないところへ行かせるわけにはいかねえ」


 森の奥へ進めば、魔物に出くわす回数も増える。

 数もさらに増えるかもしれない。

 そんな中、戦えない勇者を守り切れるかどうかも怪しいのだ。


「でもアズリアは仲間で……」

「違う。あいつはこの旅にとってただの『お荷物』なんだよ」


「シエル、お前――ッ!!」


 立ち上がった春太が彼に掴みかかろうと腕を伸ばした。

 シエルはそんな彼の胸倉を掴み上げた。


「その『お荷物』をつれて来たのはテメェじゃねえか」


 それは紛れもない事実だった。

 元はと言えば自分が彼女をつれて行くなどと言わなければこんなことにはならなかった。

 外へつれ出さなければ、彼女は村の中で平和に過ごせていたはずだったのに。


「守れねえくせにつれて来んじゃねえ」


 奥歯を噛み締めた。

 言い返せない悔しさばかりが春太の胸の内に広がった。


「よく考えればわかることだったろうが、あいつを旅につれて行くことがどれほど危険だったかを」


 春太にはあの光があった。

 いざとなれば何とかなるのではないかと楽観視していた自分がいたことは確かだった。

 勇者だから絶対に大丈夫だと、何の根拠もなしに思い込んでいた。


 だから彼はアズリアにどんな危険が及ぶかまで、深く考えてこなかったのだ。


 彼女が危険に陥る前に勇者である自分がなんとかすればいい。

 そんな甘い考えが引き起こした結果がこれだ。


 後悔してから気づく自分はどれほど愚かだろう。浅はかだったことだろう。


「あいつのあの性格だ、どうせお前が無理言ってつれて来たんだろ。違うか?」


 アズリアはそんな春太に対して必死に訴えかけていたというのに。

 それを蔑ろにしたのは、春太だ。

 彼女の意見を聞き入れて来なかった因果が返ってきたのだ。


 ああ、なんて馬鹿なんだろう。


 今更後悔してもしきれない。

 現に起きてしまったのだ。


「俺……馬鹿だ……本当に、どうしようもないぐらい……救いようがねえよ」


 自分の我儘で彼女が死んでしまうかもしれない。

 自分が我儘を言ったばかりに、彼女は。


 シエルは掴み上げていた胸倉から手を離し、距離を取るように胸を押した。


「テメェの我儘を通してえならな、やることしっかりやってからにするんだな」


 彼の言葉が春太には痛いぐらい身に沁みた。


 今ならわかる。

 守るための覚悟というものがどれほどのものなのか。

 無力である彼女をつれて行くことがどれほど大変なことなのか。


 春太は拳を握り締めた。


 覚悟だ。

 覚悟さえあれば。


 自分は一体どんな覚悟をすればいいのだろう。


 傷つける覚悟?

 生き物を殺す覚悟?


 違う。そんな中途半端な覚悟で彼女を守れるわけがない。


 春太は顔を俯かせひたすら考えていた。

 自分がすべき覚悟とは何であるか。

 握り締めている拳の強さはますます強くなっていった。


「……彼女を攫ったあの蔓は、おそらく、この森の主のものだ」


 溜息をつくように、フレデリックが口を開いた。

 それは言外に「仕方がないな」というような呆れに近いものを匂わせた。


 あの蔓と甘ったるい匂い。

 あれはこの森の主が餌を見つけるときに使う罠のようなものだ。

 匂いに誘われてきたところを蔓で捕らえる。


 それは毎日のように行われるものではなく周期的に一定の期間を持って行われていた。

 時期的には違うからと油断していたのだ。


 おそらく、魔王によって活発化したため、常時お腹が空くようになったのだろう。


「森の最深部まで行けば主はいると思う」


 主がいるということはつまり、アズリアもそこにいるということだ。

 このままここで無駄に時間を過ごしていれば、彼女が食われてしまうのも時間の問題だろう。

 そんな春太の焦りに気付いているであろうフレデリックだがそれでも言葉を続けた。


「確かに、彼の言った通り、俺とシエルの二人だけで戦えない君を守りながら進むのはほぼ不可能に近い」


 フレデリックは鋭く春太の目を射抜いた。


「彼女を助けに行きたいのなら、条件がある」


 つかつかと歩み寄った彼が春太の胸倉を掴んだ。

 急なことに驚いた春太だったが、彼の視線の鋭さに息を呑んだ。


「今すぐここで覚悟を決めろ」


 いつもとは違う口調の彼は少し雰囲気が違っていた。


「それができなければ、彼女は、ここで捨てる」


 しかしそれも一瞬のことで、すぐにいつもの口調へと戻った。

 それと同時に春太の胸倉掴んでいた手を放した。

 フレデリックはじっと春太の目を見据えた。


 本当に覚悟を決めるつもりがあるのかどうか。

 また先ほどのようにいざというときに使い物にならなくなってしまわないか。


 見定めるために、試すように、彼は春太の真っ黒な瞳を見つめた。


「俺は――」


 震えた声でぽつりと呟いた。


 春太は腰から下げた剣の柄を握り、勢いよく引き抜いた。

 鏡のように磨きあげられた美しい刀身。

 彼はその剣を両手で持ち直した。


 強く強く、その感触を確かめるように彼は握り締めた。


 剣先が震えている。

 武器を構えているときの腰も引けていて、あまり格好いいとはお世辞にも言えないことだろう。


 怖い。

 誰かを傷つけてしまうこの剣が。

 誰かの命を簡単に奪えてしまうこの剣が。


 怖くて当たり前だ。


 怖くない思う人は確かにいるのかもしれない。

 けれど怖いと思っているのは自分だけではないことだって確かだ。


 自分がこれを恐れるように。誰かもまた恐れている。


 けれどそんな誰かでもこの武器を振るうのだ。

 その恐怖を乗り越えてまで叶えたいものがあるから。

 恐怖よりも上回る強い『思い』があるから。


 フレデリックの背後の先にいるそれを真っ直ぐに見つめた。


 一歩、また一歩。

 春太はそれに向かって歩みを進めた。


 次第にその足は速くなり、やがて大地を強く蹴って加速していく。


 今までにないぐらい速くなっている自分に驚きながらも、彼は目標に向かって一直線に走った。

 力いっぱい叫んだ。

 まるでそれは今にも逃げ出しそうな自分を鼓舞するように。


 一際強く大地を蹴った。


 空を舞う。

 空の青々しさを視界いっぱいに入れて、彼は剣を振り上げた。


「俺は――」


 怖い。

 これから自分がすることを想像して身が竦みそうになった。

 けれど引くわけにはいかなかった。


 彼の世界では漢字というものがある。


 彼の世界での『勇者』という文字。

 勇気のある者と書いて『勇者(ゆうしゃ)』と呼んだ。


 恐怖を乗り越えろ。

 自分には乗り越えられるだけの思いがあるはずだ。

 アズリアを助けたいと思う強い気持ち。


 その強い思いはやがて変わるだろう。


「――逃げないッ!!」


 何物にも代えがたい勇気へと。

 恐怖に立ち向かう強い意志へと。


 振り下ろしたそれは一筋の線となり、魔物の体を真っ二つに切り裂いた。


 皮を斬り肉を斬り骨を断つ。

 その魔物に果たして皮も肉も骨もあったのかどうかは春太にはよくわからなかった。

 しかし魔物の体を切り裂いたときに確かに感じた。


 何かを斬る感触を。


 実に生々しい感触だったことだろう。

 春太はその頬に僅かに付着した魔物の体液を服の袖で拭った。


 シエルがやっていたように、春太も刀身に付着した体液を振り払った。

 ビチャリと生々しい水音が辺りにやけに響いた。

 綺麗になった刀身が再び太陽の光を反射していた。


 春太はゆっくりと振り返った。


「アズリアは俺が守る」


 真っ直ぐな瞳はどこまでも澄んでいた。


「それが、俺の覚悟」


 その表情は今までの彼と比べると格段に変わっていた。


 覚悟をするだけでこれほどまでに表情が変わるものなのかどうか。

 頼りなさげな雰囲気を漂わせていた彼だったが、今では頼もしさを感じさせるほどだ。


「ちったあマシな顔つきになったじゃねえか」


 シエルは口笛を吹いて、にやりと口の端をつり上げた。

 そんな彼の笑みにどう反応すればいいのかわからず、春太は曖昧に微笑んだ。

 すると一気に頼りなさげな雰囲気が漂い、拍子抜けをしたシエルは思わずよろめいた。


「お前……もうちょっと締まり良くしろよ」

「え、あ、ご、ごめん」

「だから謝んなッ! もうちょっと男らしく堂々とできねえのかよ!」

「えっとじゃあ……どやっ」


「あ、やっぱムカつく。その顔キメェ」


 春太の懇親の、自信に満ち溢れた満面の笑みを、シエルはばっさりと切り捨てた。

 そんな容赦のない彼の言葉に思わず涙目になりそうな春太だったが、フレデリックの咳払いによりはっと我に返る。


「じゃあ覚悟も決まったことだし、急ごうか」


 フレデリックは春太に向かって綺麗に微笑んだ。


「期待してるよ、勇者さま」

「……ガンバリマス」


 果たして彼の期待に応えられるのだろうか。

 春太は頬を引きつらせた。

 なんとか返事はできたものの、その声が棒読みなことだけは見逃して欲しいところだと彼は苦笑いをした。
















 アズリアは目を覚ました。

 目が覚めた途端、体中のあちこちに痛みを覚え、思わず顔をしかめた。


 それもそのはず。

 彼女はほぼ全身を蔓に巻かれていたとはいえ、引きずられるようにしてつれて来られたのだ。

 体中のあちこちを擦り、ときには枝や何かで引っかけられてできた細かい切り傷もある。


 もう少し丁寧に扱って欲しいものだ、と彼女は溜息をついた。


 そこで彼女はやっと自分の状態に気付いた。

 体中に巻きついていたはずの蔓が今は足のみにしか巻きついていない。


 全身に巻きつかれていれば、手の自由は奪われたも同然でどうすることもできなかっただろう。


 しかし今はその両手が自由なのだ。

 今ならなんとかしてこの場を切り抜けられるかもしれない。

 彼女はその胸に淡い期待を抱いた。


 さて、この蔓をどうにかするための道具はないだろうか。


 アズリアは辺りを見渡した。

 そして見つけた。


 それは割れて先の尖った石だった。


 これならばこの蔓を切ることもできるだろう。

 彼女はその石に向かって手を伸ばした。

 あと少しで届きそうだと思ったその瞬間。


「わっ」


 アズリアはバランスを崩し、うつ伏せに倒れ込んだ。

 あと少しで届きそうだったというのに。


 石は彼女の手が届かないほどに遠ざかってしまった。


「……え?」


 違う。石が勝手に遠ざかるわけがない。

 ならば何故石が掴めない位置へ移動してしまったのか。

 ――答えは簡単だ。


 石は初めから移動なんてしていなかった。


 何故遠ざかってしまったのか。

 それは石ではなくアズリアが遠ざかってしまったからだ。


 まさか。


 彼女はそろりと自分の足に巻きついた蔓の先を辿った。

 まるで生きているかのようにうねるそれ。

 次第にその太さはアズリアの腕よりもかなり太く、人の胴よりもさらに太くなっていった。


 鮮やかな赤と、ところどころに赤黒い斑点を散らした毒々しい見た目の派手な花弁はかなり大きく、例えるなら人がそれを毛布にしてその身を包んだとしても余りあるぐらい大きい。

 その花弁は全部で五枚あった。

 花弁と呼べるそれがついているのならば、花の一種だと思えたことだろう。

 しかし、それは『花』と呼ぶにはあまりにも醜悪な見た目をしていた。


 五枚の花弁に包まれたその中心。

 綺麗な桃色が色鮮やかだ。


 さらにその中心にぽっかりと空いた穴。


 そこから覗く牙は鋭く、数えきれない量のそれは散らばるようにして生えている。

 涎と思わしき紫色の液体をその穴から垂れ流しながら、穴はぱくぱくと動いていた。

 まるでそれは餌を待つ雛鳥のようにも見えた。


 いや、餌を待っているのだろう。


 餌として捕まえたアズリアがその口の中に入るのを。

 今か今かと待ち構え、狂喜しているに違いない。


「ひぃいいっ……!」


 引きつった悲鳴を上げながらアズリアはその花とは反対側へ後ずさろうとした。


 それを許さないとでも言うように蔓が彼女の足を引っ張った。

 あまりにも強いその力に、彼女は抵抗も空しく再び地に伏せた。


 ずるり、ずるり。


 少しずつ引きずられていくのがアズリアにもわかった。

 必死で抵抗しようと手当たり次第に生えた雑草を引っ掴んだ。

 しかしどの草花もあのおどろおどろしい花の力に敵うこともなく、儚く、あっさりと抜けて抵抗の意味をなさなかった。


 アズリアは地面を掻いてもがいた。


「嫌っ、いやぁ……っ!!」


 怖い。

 彼女の瞳からは涙がぼろぼろと毀れた。


 こんなに怖い思いをして死ぬぐらいだったら、いっそ、あのとき春太を庇って死んでしまった方がずっとよかった。


「助けて……助けて……っ」


 地面にひっかき傷を残しながらそれでもアズリアは抵抗した。


「誰か、誰かぁ……ッ!!」


 こんな森の奥深くで助けを呼んだって誰も来るわけがない。

 理解はしていても、呼ばずにはいられなかった。

 悲痛な叫び声。


 助けて欲しいと強く願った。


 彼女の脳裏に浮かんだのは黒い髪に黒い瞳を持つ少年。

 いつかのときのように、また助けてくれるのではないだろうか。


「春太……春太……!!」


 縋るように少年の名を呼んだ。


「助けて、春太――ッ!!」


 ばさりと音が聞こえた。

 まさか。

 アズリアは振り返った。


「――え?」


 確かにそこに人はいた。


 しかしそれはアズリアが望んだ人物とは異なる容姿を持っていた。

 背は割と小柄な春太と比べるとかなり差があるぐらい高い。

 ばさりと聞こえた音は彼の身に付けた衣装が着地した際に翻った音のようで、春太とは異なる服装をしていた。


 何よりも、明らかに違っていた。


 春太の黒々とした髪の色とは全く異なるその髪色。

 まるで黒の対になるかのように淡く光り輝く純白の髪。


 それは、以前彼女が王都で出会った白髪の男だった――。




ぐほあ……更新頑張りたいと言っていたくせにこの始末……。

あれなんですよ! あれなんですよ!

思いつかなかったんですよ!

というのは言い訳ですねすみませんでしたぁあああ!!


さて、今回ちょっとだけ春太が成長したような、してないような……成長してると嬉しいです。

思えば胸倉掴まれ過ぎですね。服伸びちゃいますね。

とりあえず戦闘描写をもうちょっとうまく描けないものでしょうかね……自分の稚拙さが……これは酷い。

まあなにはともあれとうとう来ました! あの人です! ぶっちゃけて言うと前回の話ではこの人を出したかったです!

やっと出せたので達成感が半端ないです。やりました、私やりましたよ……!

これぞまさに「次回へ続く!」って感じかな、とか個人的に満足していたりします、はい。

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