第9話 北枕
「――ふふ、ふふふっ。なぁんだ、結局のところ、バールかショットガンで殴り倒せば全部解決するんじゃない……っ」
初夏の爽やかな日差しが降り注ぐ通学路を、末広佳奈はひどく不気味な笑みを浮かべながら歩いていた。
どこにでもいる普通の女子大生らしく、着慣れたカジュアルな服装に身を包み、焦げ茶色のショートボブの髪を風に揺らしている。
しかし、その目の下にはどす黒い隈がべったりと張り付き、充血した瞳は異様なほどギンギンに冴え渡っていた。
無理もない。あの日、山奥の廃村から命からがら逃げ帰った佳奈を自宅アパートで待ち受けていたのは、隙間女から有無を言わさず押し付けられた人気和風ホラーアクションゲーム『SILENT』と、分厚い完全攻略本だったのである。
クリアしなければ、あの隙間に潜むお節介な妖怪がどんな手段で催促してくるか分かったものではない。
脅迫観念に駆られた佳奈は、あれから三日三晩、睡眠時間を極限まで削ってコントローラーを握り続け、分厚い攻略本のページを血眼でめくりながら、つい今朝方、どうにかこうにかエンディングのスタッフロールまで辿り着いたのだった。
本来、佳奈がホラーというジャンルを好んでいるのは、そこに『起拍』『溜め』『見せ』『切断』『余韻』という計算し尽くされた恐怖の順番があるからであり、自分で操作してその順番を壊してしまうホラーゲームは大の苦手だった。
最初の数時間は、暗い画面の物陰からゾンビが飛び出してくるたびに悲鳴を上げ、コントローラーを放り出しては毛布に潜り込んで震えていた。
だが、徹夜が二日目を越え、恐怖の許容量が限界を突破したあたりで、佳奈の脳内に奇妙な回路が繋がったのである。
攻略本に書かれた通りに立ち回り、錆びた鉄パイプや散弾銃を入手してゾンビの頭を吹き飛ばした瞬間、佳奈はあるひとつの真理――というか、謎の結論へと到達したのだ。
すなわち、『とりあえずこちらの物理攻撃が効いて、殴って倒せる相手ならば、ちっとも怖くない』という結論である。
あの映画館の仕事で対峙する本物の怪異たちは、こちらの物理的な攻撃など一切通用せず、ただひたすらに逃げ回りながら旧式のフィルムカメラで撮影し、映画館のスクリーンへ連れ込んで「フィクションだ」と宣言する以外に倒す術がない。
それに比べれば、鉄パイプで殴ればちゃんとダメージが通り、弾丸を撃ち込めば素直に倒れて消えてくれるゲームの中のゾンビなど、なんと良心的で可愛らしい存在だろうか。
そう気づいてからの佳奈は、すっかり恐怖の順番など忘れ去り、攻略本片手に廃村中のゾンビを片っ端から撲殺して回るバーサーカーと化していた。
その結果、今の佳奈は「なんだ、ホラーゲームって意外と簡単じゃない!」という妙な達成感と全能感に包まれ、ふわふわと地面から足が浮いたような高揚した気分で大学へと登校していたのである。
もちろん、傍から見れば、三日間の極限の恐怖と極度の睡眠不足によって自律神経が狂い、テンションが軽くおかしくなっているだけの危ない女子大生であった。
「よし、今日の必修もバッチリ受けて、帰ったら二周目のハードモードでもやっちゃおうかな……ふふっ」
自分の口から出たとは思えないほど好戦的な独り言を呟きながら、佳奈は大学の正門をくぐり抜けた。
キャンパス内は、いつも通り講義の教室へと向かう学生たちの賑やかな話し声で溢れている。しかし、事務棟の前に設置された大型の掲示板の前を通りかかったとき、佳奈はそこに小さな人だかりができているのに気づいて足を止めた。
「……ん、また休講のお知らせかな?」
先月、原因不明の流行病をもたらす怪異『診断書』が暴れ回ったときのように、また白い休講の張り紙で埋め尽くされているのではないかと身構え、佳奈は学生たちの肩越しに掲示板を覗き込んだ。
だが、そこに貼られていたのは休講の案内ではなかった。
掲示板の中央に大きく張り出されていたのは、太い黒枠で囲まれた一枚の謹告――大学の理事の一人が、昨夜急逝したという追悼文だったのである。
『本学理事・〇〇氏儀、昨夜急病のため逝去されました。ここに生前のご厚誼を深謝し、謹んでお知らせ申し上げます』
周囲の学生たちが「え、あの理事の人って、確かまだそんなに歳じゃなかったよね」「急に亡くなるなんて、何があったんだろう」とひそひそと囁き合っている。
佳奈はその黒い枠を見つめ、徹夜明けで変にハイになっていた頭が、すうっと冷えていくのを感じた。
書かれている理事の名前を見ても、佳奈にはその顔も、具体的にどんな役職でどんな仕事をしていた人物なのかも、まったく見当がつかなかった。雲の上の遠い存在であり、いち学生に過ぎない佳奈とは何の関わりもない赤の他人である。
それでも、現実の「死」というものが突きつける重みだけは、ゲームの中のゾンビを何百体倒した後でも、決して軽いものには思えなかった。
佳奈は浮ついていた気持ちを静かに鎮めると、掲示板の前で小さく頭を下げ、心の中で一言だけ念仏を唱えてからその場を離れた。
その日の午前の講義は、奇しくも今朝の理事の急逝に関連してか、予定されていたカリキュラムが変更され、仏教の開祖であるお釈迦様についての話が開かれていた。
階段状の広い大教室で、白髪の老講師がマイクを握り、黒板にチョークで古い年表や仏教用語を書き連ねながら淡々と語り続けている。
「このように、釈迦はその生涯を通じて多くの説法を行い、十大弟子をはじめとする優れた弟子たちがその教えを広め、数々の偉業を成し遂げていきました。そして八十歳を迎えた釈迦は、クシナガラという地の沙羅双樹の林の中で、静かに入滅――すなわち、肉体の死を迎えたと伝えられています」
講師の落ち着いた低い声は、まるで極上の子守唄のように教室中へと広がっていた。
真面目にノートを取っている学生はごく一部で、ほとんどの生徒たちは退屈そうに頬杖をついてスマートフォンの画面を机の下で弄るか、あるいは突っ伏して船を漕いでいる。
三日間の徹夜でゲームをクリアしたばかりの佳奈もまた、その強烈な睡魔に抗えない一人だった。先ほどまでの奇妙な高揚感はすっかりどこかへ消え失せ、重い瞼が今にもくっつきそうになるのを、シャーペンの先で自分の手の甲をツンツンと突いて必死に堪えていた。
「さて、ここで皆さんの日常生活にも深く関わっている、ひとつの風習について触れておきましょう」
講師がチョークを置き、教卓の前に立って教室全体を見渡した。
「釈迦が沙羅双樹の下で入滅された際、そのお身体は『頭を北に向け、顔を西に向け、右脇を下にして』横たわっていたとされています。いわゆる『頭北面西右脇臥』という姿です。この故事に由来して、日本においては古くから、亡くなった方の遺体を北向きに寝かせる風習が定着しました」
佳奈はぼんやりとした頭で、講師の言葉を聞いていた。
「つまり、『北枕は死者の向きである』という風説が、我が国では一種の常識として広く共有されているわけです。ですから皆さんも、下宿先で模様替えをするときや、旅先の旅館で布団を敷くときなど、普段寝るときの枕の向きにはくれぐれも気をつけるようにしてください。縁起でもないですからね」
講師が軽い冗談めかして締めくくると、教室のあちこちから小さな苦笑いが漏れた。
佳奈も頬杖をついたまま、ふうっと小さく息を吐いた。
(北枕、かぁ……。まあ、昔からよく言うけど、たかが枕の向きひとつで人間の死が確定するわけないよね)
方角などというものは、人間が勝手に地球の上に引いた目に見えない線に過ぎない。頭を北に向けて寝たからといって、健康な人間が突然死んだり、寿命が縮んだりするなど、非科学的にもほどがある迷信だ。
普通の女子大生としての常識的な思考が、まずはそうやって講師の話を否定しかけた。
しかし、その直後。
佳奈の脳裏に、これまであの場末の映画館で嫌というほど突きつけられてきた、数々の異様な光景がフラッシュバックした。
妖怪や怪異というものは、存在そのものよりも「人間からどう扱われたか」「どう信じられたか」によってその力を増減させる。
名前を与えられ、記録に残され、大勢の人間から「そういうものだ」と恐れられ、共有されることで、本来は実在しないはずの虚像が恐ろしい実体を持って現実へと干渉してくるのだ。つい先日だって、ただの寂れた廃村が「ゲームのロケ地だ」と大勢に認識されただけで、村そのものが怪異化してしまったばかりではないか。
(……待てよ。もし、日本中の人間が何百年もの間、『北枕は死者の向きだ』って常識として信じ込んで共有しているんだとしたら……)
佳奈の背筋に、じわりと嫌な汗が滲んだ。
たかが迷信だと笑い飛ばすことは簡単だ。だが、あの黒い映画館の理屈に照らし合わせてみれば、これほど全国民に広く根付いている「死の風習」に、何の怪異も絡んでいないと言い切ることの方が、むしろ難しいのではないだろうか。
「……いやいや、考えすぎだよね。さすがに方角まで気にし始めたら、ノイローゼになっちゃうよ」
佳奈は自分の頭の中に浮かんだ不吉な矛盾を振り払うように、ぶんぶんと首を横に振った。ちょうどそのタイミングで講義終了を告げるチャイムが鳴り響き、佳奈は逃げるようにノートと筆箱を鞄へとしまい込んだ。
講義を終えて大学を出た佳奈は、傾き始めた午後の日差しの中、いつものように場末の商店街へと向かって歩いていた。
駅前の賑やかな通りから一歩外れると、途端に人通りがまばらになり、錆びたシャッターを下ろしたままの店舗が目立ち始める。乾いた風がアスファルトの上の砂埃を巻き上げ、どこか時間の流れから取り残されたような寂寥感が漂う通りだ。
その商店街のちょうど中ほどに差しかかったとき、佳奈は前方に普段は見かけない白と黒の幕――鯨幕が張られているのを見つけて、思わず歩みを緩めた。
そこは、普段から店先に古い文庫本や雑誌をうず高く積み上げている、小さな古本屋の前だった。
開け放たれた入り口の奥には白い祭壇が組まれ、菊の花の匂いと、線香の煙が通りへと流れ出ている。喪服を着た数人の親族らしき人々と、近所の商店主たちが神妙な面持ちで佇んでいた。
「あそこの古本屋のおじいちゃん、一昨日、急に倒れてそのまま亡くなったんですって」
「あらまあ、先週お見かけしたときは、あんなにお元気そうだったのにねえ……」
通りすがりの主婦たちのひそひそ話が、佳奈の耳に飛び込んでくる。
朝の大学の理事の急逝に続き、今度はいつも前を通っていた古本屋の店主の葬式である。一日に二度も、自分の生活圏のすぐ近くで起きた「急死」の知らせに触れたことで、佳奈の胸の奥に、鉛を飲み込んだような重苦しい感覚が広がった。
(なんか今日、やけにお葬式とか、死ぬ話ばっかり聞くなぁ……)
単なる偶然の重なりに過ぎないはずなのに、昼間の講義で聞いた「北枕」の話が、まるで不吉な通奏低音のように頭の片隅で鳴り続けている。
佳奈は古本屋の前を通り過ぎる際、白い祭壇の奥に飾られた遺影に向かって軽く手を合わせて頭を下げ、それから足早に商店街の奥へと向かった。
シャッター街を抜けた一番奥に、周囲のくすんだ景色から完全に浮き上がるような、黒い外壁の二階建ての建物がぬっと姿を現す。
佳奈のアルバイト先である、あの映画館だ。
佳奈は建物の前に立ち、いつも通りに入り口横の小さな窓口へと視線を向けた。そして、重いガラス扉に手をかけて押し開けた瞬間――。
「……っ、うわ、なにこれ……」
ロビーへと足を踏み入れた佳奈は、思わず扉のノブを握ったままその場に立ち尽くした。
今日の映画館は、何かが根本的におかしかった。
もちろん、薄暗いロビーに古い紙の匂いと機械の油の匂いが染み付いているのも、客が一人もいない閑散とした空気も、いつも通りの光景ではある。
しかし、今のロビーには、まるで天井から見えない巨大な鉛の塊でも吊り下げられているかのような、異様に重苦しく、息が詰まるほどの濃密な『気配』が立ち込めていたのである。肺に吸い込む空気そのものがねっとりと重く、一歩足を踏み出すだけで全身にじっとりとした冷や汗が滲み出てくるようだった。
「おはようございます、八尾さん……」
佳奈は重苦しい空気に押し潰されそうになりながら、カウンターの奥へと声を掛けた。
薄暗いカウンターの向こう側では、館主である八尾亜璃珠が、いつも通りに長い黒髪を垂らし、黒い服に包まれたグラマラスな肢体で椅子に深く腰掛けていた。彼女の細い指先には火のついた煙草が挟まれており、強烈な臭いの紫煙を気怠げにふうっと吐き出しながら、手元の新聞に目を落としている。
八尾の様子は普段と変わらないように見えた。
だが、佳奈が自分の指定席である窓口の机へと視線を移したとき、決定的な異常に気がついた。
(……いない。隙間女さんが、どこにもいない……!)
いつもなら、佳奈が出勤してくれば、窓口の机とアクリル板のわずかな『隙間』から、血の気のない真っ白な指がひょっこりと這い出し、古い映画の半券チケットを暇そうに数えたり、赤い鉛筆でメモ用紙に何かを書き殴ったりしているはずなのだ。
しかし今日は、その窓口の隙間に、白い指も、奥でぎょろりと光る赤い目も、一切見当たらない。それどころか、ロビー中の壁の亀裂や床の継ぎ目というあらゆる『隙間』が、まるで内側から固く蓋でもされたかのように、完全に気配を絶って静まり返っていたのである。
あの凶悪な都市伝説である八尺様が映画館に殴り込んできたときですら、柱を支えて応戦していた隙間女が、気配を消して逃げ隠れしている。
「あ、あの、八尾さん……?今日、なんだか映画館の空気がすごく重いっていうか、隙間女さんも見当たらないんですけど……何かあったんですか?」
ただならぬ事態を察知し、佳奈が恐る恐る問いかけると、八尾は新聞から視線を上げることすらしないまま、煙草の煙を深く吐き出した。
そして、煙草を挟んだままの白い指先をすっと持ち上げ、ロビーの奥――映画を上映するための『スクリーン室』へと続く分厚い防音扉の方を、無言で指し示した。
「え……?スクリーン室、ですか?」
八尾は何も答えず、再び新聞の紙面に目を落としてしまう。
自分で見てこいということらしい。佳奈はゴクリと乾いた唾を飲み込み、赤い絨毯の上をおっかなびっくりといった足取りで歩いて、スクリーン室の入り口へと向かった。
扉の前に立つだけで、向こう側から滲み出てくる圧倒的な存在感と、ひんやりとした死の匂いに似た冷気が肌を刺す。
(な、なにがいるの……?まさか、封じ込めたはずの怪異がフィルムから逃げ出して、あの中で暴れてるとかじゃないよね……っ)
佳奈は震える手で真鍮のドアノブを握り、深呼吸をひとつしてから、分厚い防音扉をゆっくりと内側へと押し開けた。
ギィィ……、と静かな音を立てて扉が開く。
映写機の光もついていない、薄暗いスクリーン室の内部。非常誘導灯の緑色の淡い光だけが頼りのその空間に、佳奈はそっと首を突っ込んで視線を向けた。
そして。
そこには、佳奈の乏しい想像力を遥かに超越した、『巨大な何か』が、スクリーン室の空間いっぱいに窮屈そうにぷかりと浮かんでいたのである。
「……………………」
佳奈は無言のまま、そっと扉を引いて閉めた。
パタン、と防音扉が閉まる音がロビーに響く。
佳奈は扉の前で数秒間じっと目を閉じ、自分の頬を両手で軽くパシパシと叩いた。
何かの見間違いだ。そうに決まっている。
ここ三日間、ろくに睡眠も取らずにホラーゲームをぶっ続けでプレイしていたせいで、脳が極度の疲労を起こし、ついに白昼夢を見るようになってしまったのだ。一晩ぐっすり眠ればきっと治る。うん、そうに違いない。
自分にそう強く言い聞かせ、佳奈はもう一度ドアノブに手をかけ、今度は少しだけ勢いをつけて防音扉をガチャリと開けた。
しかし。
何度扉を開け閉めしようと、目をどれだけ強くこすろうと、網膜に映し出される現実の光景は一ミリたりとも変わらなかった。
薄暗いスクリーン室の真ん中。
何列か並んだ古い客席のすぐ上から、正面の白いスクリーンの手前までを完全に占領するようにして、直径数メートルはあろうかという途轍もなく巨大な『河豚』が、風船のようにぱんぱんに丸く膨れ上がった状態で、宙にぷかりと浮かんでいたのである。
白くぶよぶよとした巨大な腹が客席の背もたれを押し潰しそうになっており、体表には細かい棘がびっしりと生えている。体の横についた小さな胸ビレが、パタパタと控えめに空気を掻き、ぎょろりとした大きな丸い目が、虚空をぼんやりと見つめていた。
それはどう見ても、冬の鍋料理などで高級食材として扱われる、あの海の魚――河豚そのものだった。
ただ、そのサイズがクジラかアドバルーン並みに巨大で、しかも水の中ではなく映画館のスクリーン室の空中に浮かんでいるという点を除けば。
「……や、八尾さぁぁんっ!!なんかいます!スクリーン室に、見たこともないくらいめちゃくちゃデカいフグが浮いてますよぉぉっ!!」
完全に理解の範疇を超えた光景を前に、佳奈は扉を開けっ放しにしたままロビーへと駆け戻り、カウンターの八尾に向かって涙声で叫び声を上げた。
しかし、館主である八尾は、佳奈のパニックぶりなどどこ吹く風といった様子で、長い黒髪を揺らすことすらなく手元の新聞に目を落としたままだった。指先に挟まれた煙草から、灰色の紫煙がゆらゆらと立ち昇っている。
「ちょっと、聞いてますか八尾さん!?あれ、一体何事ですか!?なんで映画館の客席の上に、あんなアドバルーンみたいな巨大なフグが浮いてるんですか!?」
「騒々しいわね、新人。少しは声を落としなさい」
八尾は新聞のページをペラリとめくりながら、もう一口深く煙草を吸い込み、生気の薄い声で事もなげに言った。
「あれは、三途の川の死神よ」
「…………は?」
佳奈はカウンターの前に立ち尽くしたまま、間の抜けた声を漏らした。
今、この雇い主は何と言っただろうか。三途の川の、死神。
聞き間違いかと思ったが、八尾の表情には冗談を言っているような気配は微塵もない。むしろ、佳奈の頭の中の方が、受け取った情報のあまりの支離滅裂さに処理落ちを起こし、急速に状況の把握ができなくなっていくのを感じた。
(えっと……三途の川って、あの三途の川だよね?)
佳奈は混乱する頭の中で、自分がこれまでに聞きかじったことのある乏しい民俗学や仏教の知識を必死に引っ張り出した。
確か、三途の川というのは、死んだ人間の魂があの世へと渡るために通らなければならない、この世とあの世の境界を流れる大河のはずだ。そして、そこにいる死神というのは、亡者たちを対岸へと送り届ける渡船の船頭として、暗い川面で黙々と舟を漕ぐ存在ではなかったか。
しかも、三途の川は生と死を分かつ絶対的な境界であるがゆえに、川の中には魚や水草といった一切の生き物は存在しないはずだ、とどこかで聞いたことがある。
それなのに、どうしてそんな場所にいるはずの死神が、よりによってこんな場末の映画館のスクリーン室にぷかりと浮かんでいるのか。
いや、百歩譲って、何かの拍子に三途の川の死神が現実の世界へ迷い込んできたのだとしても――。
「な、なんで死神が『フグ』なんですか!?舟を漕ぐガイコツとか、黒いローブを着たおじいさんとかじゃないんですか!?そもそも、なんであんなにデカいんですか!?海のお魚がなんで三途の川にいるんですかぁっ!?」
次から次へと湧き上がってくる疑問の洪水に、佳奈の脳みそは完全にキャパシティを超えてパンク寸前だった。
どうして死神が河豚なのか。どうして空中に浮いているのか。どうして映画館にいるのか。
どれひとつとして論理的な繋がりを見出すことができず、佳奈の頭は「回答不能」というエラーを吐き出して、口をパクパクさせながら完全に思考停止に陥ってしまった。
カウンターの前で目を白黒させて固まっている佳奈を、八尾はいかにも面倒くさそうな目で見上げた。
やがて彼女は小さくため息をつくと、読んでいた新聞を無造作に折りたたんでカウンターの下へとしまい込み、立ち上がって佳奈の目の前へと歩み寄った。そして、肺の奥まで吸い込んだ強烈な煙草の煙を、思考停止している佳奈の顔面めがけて、ふうっと遠慮なく吹きかけたのである。
「けほっ、げほっ!な、なにするんですか八尾さん……っ」
「少しは頭が冷えた?あんたが勝手に人間の浅い知識で決めつけてるだけで、向こう側の住人がどんな形をしていようと勝手でしょうが」
煙を手で振り払いながら涙目を向ける佳奈に、八尾は腕を組み、冷淡な口調で説明を始めた。
「いいこと。あそこで浮いてる巨大な河豚は、紛れもなく三途の川の船頭を務めてる死神の一柱よ。真名は、【北枕】」
「きたまくら……っ!」
佳奈はハッと息を呑んだ。
それはまさに、ほんの数時間前、大学の講義室で白髪の老講師が口にしていた言葉だった。釈迦が入滅した際の姿に由来する、死者の頭を北へ向けて寝かせるという日本の古い風習。
なぜ、その風習の名前が、あの巨大な河豚の死神の真名になっているのか。
「さっき私が読んでた新聞の地方欄にね、少し前にこの街の老人ホームで起きた事故の続報が載ってたのよ」
「老人ホームの、事故……?」
「ええ。なんでも、給食が原因で大規模な集団食中毒が発生してね。抵抗力の弱いお年寄りが、一晩で何十人も亡くなったそうよ」
八尾の淡々とした言葉に、佳奈は思わず顔をしかめた。そんな痛ましい大事故が、自分たちの住むこの街でつい先日起きていたとは知らなかった。
「一度にそれだけの数の人間が亡くなれば、当然、病院や葬儀場には遺体が溢れかえることになるわ。そして、この国の人間は昔から、死んだ人間をどうやって寝かせるか知ってるでしょう?」
「あっ……。き、北枕、ですか……!」
「そういうこと」
八尾は頷き、指先の煙草の灰を床へ落とした。
「ただでさえ、『北枕は死者の向きである』っていう風説は、この国じゃ常識として深く根付いてる。そこにきて、集団食中毒で亡くなった大勢の遺体が、街中で一斉に北向きに寝かされ、遺族や関係者たちが強い悲しみと死の意識を共有したのよ。その結果どうなったと思う?」
妖怪や怪異、そして目に見えない概念というものは、人間から「どう扱われたか」によってその力を増減させる。
佳奈の脳裏に、スクリーン室を埋め尽くしていた、あの張り裂けんばかりに膨れ上がった白い腹が蘇った。
「まさか……あのフグが、あんなにパンパンに膨れてるのって……」
「ええ。大勢の遺体が一斉に北枕にされたことで、死者の向きを司る死神である【北枕】の力が、一時的に異常なほど増大してしまったのよ。河豚が水を吸い込んで腹を膨らませるみたいに、街に溢れた過剰な『死の気配』を、あいつが全部吸い込んでしまったわけ」
佳奈はゴクリと唾を飲み込み、開け放たれたままのスクリーン室の扉の方をちらりと振り返った。
あのユーモラスですらある巨大な丸い巨体の中に、何十人もの人間の死をきっかけにして膨れ上がった、途轍もない量の「死の力」が詰まっているというのだ。
「いい、新人。本来、死神っていうのは、寿命を全うした死者や定めに従った魂を、淡々とあの世へ運ぶだけの真面目な公務員みたいなものよ。だけど、そいつが本来の器を超えた『過剰な力』を持ってしまったら、どうなるか分かる?」
「ど、どうなるんですか……?」
「抱えきれなくなった力が外に漏れ出して、周囲の生きた人間にまで、無作為に『死』を振りまく災厄になってしまうのよ」
その瞬間、佳奈の背筋を、氷柱で突き刺されたような冷たい戦慄が駆け抜けた。
今朝、大学の掲示板に貼り出されていた、まだ若いはずの大学理事の急逝を知らせる黒枠の追悼文。
そして、ここへ出勤してくる途中の商店街で出くわした、数日前まで元気だったという古本屋の店主の葬式。
今日一日、佳奈の身の回りで立て続けに耳にした「前触れのない急死」の知らせは、決して単なる偶然などではなかったのだ。すべては、集団食中毒によって過剰に膨れ上がってしまった死神の力が、街へとわずかに漏れ出したことによる恐ろしい余波だったのである。
「あいつ自身も、自分の意思に反して不必要な死を街に振りまいてしまうことは望んでないのよ。三途の川の船頭が、勝手に生者を殺して回ったら仕事にならないからね。……だからあいつは、これ以上街に被害を出さないために、自分の足で――まあ、ヒレだけどこの映画館まで避難してきたってわけ」
八尾の説明に、佳奈はようやく事態の輪郭を掴みかけた。
あの巨大な河豚は、街を襲いに来た凶悪な化け物ではなく、むしろ自分が歩く災厄となってしまうのを防ぐために、必死の思いでこの場末の建物へと駆け込んできたのだ。
しかし、そこまで理解したところで、佳奈の頭にはまた新たな疑問が浮かび上がった。
「……あれ?でも八尾さん、おかしくないですか?街に死を振りまかないために隠れるんだったら、人のいない山奥とか、海の底とかに行けばいいじゃないですか。どうしてよりによって、この映画館に避難してくる必要があるんですか?」
佳奈が素朴な疑問をぶつけると、八尾は短くなった煙草の吸い殻をカウンターの上の灰皿にギュッと押し付けて火を消し、再び口を開いた。
「あんた、先日の【上映】で、この映画館がどういう場所か自分の目で見たでしょう」
「え……。あ、はい。怪異をフィルムに閉じ込めて、お客さんに『ただの映画だ』って観せることで、実在の力を削り取って消滅させる……処刑場、ですよね」
「そうよ。だから【北枕】は、ここへ来たの」
八尾は灰皿から手を離し、顎でスクリーン室の方をしゃくった。
「あいつはね、自分の膨らみすぎた力をこの館のシステムで削り取って、元の大きさに戻してほしいって頼みに来たのよ」
「ええっ!?じ、自分で自分の力を削ってくれって……そんなことのために!?」
処刑場であるはずの映画館に、まさか怪異や神様の側から「自分を処置してくれ」と駆け込んでくるケースがあるなど、佳奈には想像もつかないことだった。いわば、肥大化した腫瘍を切除してもらうために、死神が外科手術を受けに病院へやってきたようなものだ。
「ただし、勘違いしないでおきなさいよ、新人」
八尾の瞳に、いつになく鋭く、厳しい光が宿った。
「あいつはそこらの都市伝説や、人間の怨念から生まれた怪異じゃない。三途の川の死神――つまり、この世の『死』そのものを司る理の一部よ。だから、あいつ自身を丸ごとフィルムに収めて封じることは、絶対にできないわ」
「丸ごとは、できない……?」
「ええ。いいこと、死は『実在』よ。生きているすべてのものにとって、決して逃れることのできない絶対の定めなの。もし、死そのものを『フィクション(虚像)』だなんて宣言して否定してしまったら、その裏返しである『生』そのものまで虚像になって崩れ去ってしまうわ」
八尾の言葉は、この世界の根底にある動かしがたい法則を、冷徹に突きつけていた。
これまで佳奈が「この物語はフィクションです」と宣言して切り捨ててきたのは、大衆の噂話や勝手な同情、あるいは作られたゲームの設定といった、本来は実在しないはずの歪な虚像ばかりだった。
だが、目の前の部屋に浮かんでいるのは、誰もが必ず最後に辿り着く「死」という絶対の現実そのものだ。それを嘘だと言い切ることは、人間である佳奈にとっても不可能なことだった。
「死神の本体は封じられない。……でもね、今回の件で過剰に膨れ上がってしまった力の一部――本来ならまだ死ぬはずじゃなかった人間を巻き込むような『不必要な死』の力だけなら、話は別よ。それだけをフィルムに収めて、虚像へと落とし込むことはできるわ」
八尾はカウンターの下に手を伸ばすと、そこからあの見慣れた、無骨で重厚な旧式のフィルムカメラを取り出し、佳奈の胸元へと差し出した。
「……なんか、理屈はわかるような、ぜんぜん納得いかないような感じですけど……」
「納得なんかしなくていいわよ。あんたがやることはいつもと同じ。カメラで撮って、宣言するだけ。ほら、あいつも窮屈そうに待ってるんだから、さっさと済ませるわよ」
ずっしりとした金属の塊を両手で受け止め、佳奈は複雑に引き攣った表情のまま、渋々といった様子で頷いた。
八尾が映写室の準備へと向かうのを見送り、佳奈は一人で再びスクリーン室の入り口へと足を向けた。
開け放たれた防音扉の向こうから、相変わらずねっとりと重い、霊安室を濃縮したような重苦しい空気が流れ出している。
佳奈はカメラのストラップを首から下げ、深く息を吸い込んでから、薄暗いスクリーン室の内部へと足を踏み入れた。
室内は、やはり異様な光景だった。
非常誘導灯の淡い緑色の光に照らされて、白いスクリーンの手前に、巨大な河豚――死神【北枕】が、空間を埋め尽くすようにぷかりと浮かんでいる。
近づいて見上げてみると、その圧倒的な質量感に、改めて足がすくみそうになった。何十人もの死の気配を吸い込んで風船のように張り詰めた白い腹は、今にもパチンと音を立てて破裂してしまいそうで、もしこの密室で破裂でもしたら、自分など一瞬で死の奔流に飲み込まれて即死するに違いない。
「あ、あの……すみません、お邪魔します……」
相手が自分から助けを求めてやってきた真面目な死神だと聞いていたため、佳奈はどういう態度を取ればいいのか分からず、思わず巨大な河豚に向かってペコリと頭を下げて小声で挨拶をした。
もちろん、【北枕】は何も答えない。ただ、小さな胸ビレをパタパタと控えめに動かし、窮屈そうに宙を漂っているだけだ。
「えっと、膨れすぎた力の一部だけを撮ればいいんだよね……」
佳奈は通路の真ん中で立ち止まり、震える手で旧式のフィルムカメラを構えた。
ファインダーを覗き込む。
四角い枠の中に、巨大な河豚の顔ではなく、その下にある異常なまでに膨れ上がった真っ白な『お腹』の一部だけを大きく捉えた。細かい棘がびっしりと並んだその皮膚のすぐ内側に、街の人々を無差別に死へと誘う過剰な力が渦巻いているのが、レンズ越しでも肌を刺すような悪寒として伝わってくる。
佳奈は息を止め、ピントリングを回して白い腹の質感に焦点を合わせると、人差し指に力を込めてシャッターボタンを押し込んだ。
カシャッ!!
静まり返ったスクリーン室に、無機質なシャッター音と強烈なフラッシュの光が弾けた。
暗闇が一瞬だけ真っ白に照らし出され、膨れ上がった死神の腹の一部が、フィルムの一コマへと確実に焼き付けられる。
――その直後だった。
フラッシュの光が消えた薄暗がりの中で、ギョロリ、と何かが動く気配がした。
佳奈がカメラを顔から下ろして見上げると、今まで虚空をぼんやりと見つめていたはずの巨大な【北枕】の丸い目が、いつの間にかぐるりと下へ動き、その視線が真っ直ぐに佳奈へと向けられていたのである。
「――っ!」
佳奈の喉が、ひゅっと凍りついたように引き攣った。
そこには、これまで対峙してきた怪異たちのような、どす黒い悪意も、狂乱した殺意も、一切含まれてはいなかった。
ただ、どこまでも深く、どこまでも静かで、一切の感情を持たない真っ黒な瞳が、ちっぽけな生者である佳奈という存在を、上からじっと見下ろしているだけだ。
しかし、だからこそ恐ろしかった。
「死神に真っ直ぐ見つめられる」という、言葉では言い表せないほど不思議で、内臓の奥底まで肝が冷えるような体験。自分の寿命の残り時間を、その丸い瞳の奥で正確に測られているかのような絶対的な畏怖に、佳奈の背筋を猛烈な寒気が駆け抜けた。
「し、失礼しましたぁっ……!」
佳奈は冷や汗を噴き出しながら、逃げるようにしてスクリーン室から飛び出し、後方で待機していた八尾へとカメラごとフィルムを引っ張り出して手渡した。
数分後。
現像と装填を手早く済ませた八尾が映写室の小窓の奥に立ち、捕縛の本体である映写機のスイッチを入れた。
カシャ、カシャ、カシャ、カシャ……。
静まり返った館内に、無機質なフィルムの回る音が響き渡る。
小窓から放たれた強い光の束が、スクリーン室の暗闇を切り裂き、巨大な【北枕】の背中越しに、正面の白いスクリーンへと投射された。
そこに映し出されたのは、先ほど佳奈が寒気に震えながら撮影したばかりの、異様に膨れ上がった白い腹部のモノクロのコマだった。
映写室の奥で、八尾が深く煙草の煙を吸い込む気配がした。
彼女は紫煙を吐き出しながら、低く、しかし館の空間全体を支配するような絶対的な拘束力を持った声で、死神の『真名』を言い放った。
「北枕」
その声が響き渡った瞬間。
スクリーン室の空気がピタリと張り詰め、パタパタと動いていた【北枕】の小さなヒレが完全に静止した。
目に見えない強大な力が働き、スクリーンに投影された膨らんだ腹の映像と、宙に浮かぶ【北枕】の腹部の実体とが、強制的にピタリと重ね合わされていく。
もがき苦しむような抵抗はない。死神自身が、その拘束を静かに受け入れているのが分かった。
「宣言しなさい、新人!」
映写室から、八尾の鋭い声が飛ぶ。
スクリーン室の扉の脇に立つ佳奈は、ゴクリと唾を飲み込み、震える両足に力を込めて一歩前へと踏み出した。
言わなければならない。あの過剰に膨れ上がった死の力を切り離し、フィルムの監獄へと封じ込めるための、確定の刃を。
だが、相手はただの怪異ではない。
かつて『被害者』や『不純』と対峙したときと同じように、いや、それ以上に、今回は絶対に間違えてはならない境界線があった。
死そのものを否定してはならない。今朝の大学の理事の死も、古本屋の店主の死も、老人ホームで亡くなった人々の死も、そしていつか自分に訪れる死も、すべては逃れられない厳粛な現実だ。
佳奈が否定すべきなのは、その現実の上に勝手にくっついて膨れ上がった、余分な災厄の力だけなのだ。
佳奈は巨大な河豚の丸い瞳を真っ直ぐに見据え、深く息を吸い込むと、宣言の前にまず、揺るぎない前置きの言葉を凛として告げた。
「死は、実在です」
佳奈の澄んだ声が、重苦しいスクリーン室に真っ直ぐに響き渡る。
そのまま一切の迷いを振り払い、佳奈は膨れ上がった白い腹へ向けて、拒絶の言葉を叩きつけた。
「――でも、不必要な死は認めません!『この物語は、フィクションです』!!」
佳奈の口から放たれた宣言の言葉が、目に見えない鋭利なメスとなって、死神【北枕】の膨張した腹部だけを正確に貫いた。
その瞬間だった。
断末魔の叫びではなく、プシュゥゥゥゥゥッ……!という、巨大な風船の口を解いたかのような猛烈な空気の抜ける音が、スクリーン室の中に鳴り響いた。
「うわっ……!?」
佳奈が思わず目を細めるほどの風圧と共に、スクリーン室全体を圧迫していた【北枕】の巨大な白い腹が、見る見るうちに急速に萎み始めたのである。
集団食中毒の余波と北枕の風習によって過剰に溜め込まれていた「不必要な死」の力だけが、本体から綺麗に切り離され、背後のスクリーンに映し出された映像の中へと、掃除機で吸い込まれるようにして次々と封じ込められていく。
現実の災厄となるはずだった余分な死が、ただの映画の中の「虚像」へと格下げされ、フィルムの監獄へと落ちていくのだ。
シュルシュルと音を立てて縮んでいく巨体に伴って、館内を支配していたあの息が詰まるような重苦しい気配も、嘘のようにスッと薄れて消えていった。
十数秒後。
映写機の光がプツンと切れ、すべての過剰な力がフィルムへと吸い込まれ終わったとき。
あれほど巨大だった影はすっかりなくなり、広いスクリーン室の真ん中には、ぽつんと小さな『何か』だけが宙に浮かんでいた。
「……えっ?」
佳奈は目を瞬かせ、恐る恐るスクリーンの前へと歩み寄った。
そこにぷかりと浮かんでいたのは、先ほどまでのクジラのような巨体が嘘であったかのように縮みきった、佳奈の手のひらにちょこんと収まる程度の、ひどくちっぽけで可愛らしい河豚の姿だった。
丸っこい小さな体に、つぶらな黒い瞳。小さな胸ビレをピョコピョコと忙しなく動かして空中に浮いているその姿は、まるで水族館のマスコットキャラクターのようで、先ほどまでの肝が冷えるような威圧感は微塵も残っていなかった。
これこそが、余分な力を削ぎ落とした、三途の川の死神【北枕】の本来のサイズだったのだ。
「……ち、ちっちゃ……」
佳奈が思わず呆気にとられた声を漏らすと、手のひらサイズの小さな【北枕】は、佳奈の顔のすぐ前までふわりと飛んできた。
そして、佳奈と、映写室から出てきた八尾の顔を交互に見つめると、まるで「ありがとう、助かったよ」とお礼を言うかのように、空中でくるり、くるりと小さな円を描いて軽やかに泳いで見せたのである。
「ふん。二度とそんなみっともない腹をして、うちの敷居を跨がないことね。さっさと自分の仕事場へ帰りなさい」
八尾が煙草の煙を吐き出しながら素っ気なく追い払うように手を振ると、小さな死神はもう一度だけペコリと体を傾けた。
そしてそのまま、開いていた防音扉の隙間をするりと抜け、ロビーのガラス扉のわずかな隙間を通って映画館の外へと出ていき、本来の仕事場である三途の川へと静かに戻っていったのだった。
「ふぅ……。なんか、最後だけ見たらすごく可愛い神様でしたね」
すっかり空気が軽くなったスクリーン室で、佳奈がほっと胸を撫で下ろしていると、映写室に戻った八尾は、いつになく険しい表情で映写機から今のフィルムを取り外していた。
「呑気なことを言ってるんじゃないわよ。今日このフィルムに封じたのは、そこらの怪異じゃないのよ」
八尾は巻き取ったフィルムを、普段使っているブリキの缶ではなく、分厚い鉛のような金属で作られた重厚な箱の中へと慎重に収めた。さらに、箱の蓋を閉めると、見たこともないような古い文字がびっしりと書かれた白い紙の札を何枚も取り出し、箱の継ぎ目を完全に塞ぐようにして幾重にも厳重な封をかけていく。
「死を司る神の力の一部――つまり、純粋な『死の塊』よ。万が一にもこいつの封が解けたり、客に間違った見せ方をしたりすれば、街中に本物の死を撒き散らす極めて危険な代物なの。フィルム庫の一番奥に鎖で縛り付けておくわ」
八尾のいつになく慎重でピリピリとした手つきを見て、佳奈は改めて、自分たちが今日とんでもない領域の危険物を扱ったのだと実感し、小さく首をすくめた。
「あんたはもう窓口に戻っていいわよ」
「あ、はい。お疲れ様でした……」
厳重に封印された箱を抱えてフィルム庫の階段を下りていく八尾を見送り、佳奈はスクリーン室を出て、いつもの薄暗いロビーへと戻った。
重苦しい死の気配が完全に消え去り、いつもの古い紙と煙草の匂いだけに戻ったロビー。
佳奈が自分の指定席である窓口の方へと歩いていくと――出勤してきたときには完全に気配を絶っていたはずの、窓口の机の引き出しのわずかな『隙間』から、血の気のない真っ白な指が、ひょっこりと控えめに顔を覗かせていた。
「あ……隙間女さん。出てきたんだ」
佳奈が声を掛けると、隙間の奥で赤い目がパチパチと瞬きをした。
そして、真っ白な指は窓口の台に置かれたすり減った鉛筆を素早く掴むと、手元のメモ用紙に猛烈な勢いで赤い文字を乱雑に書き殴り、佳奈の方へとズイッと押し出してきた。
佳奈がパイプ椅子に腰を下ろしながら、そのメモ用紙を覗き込む。
そこには、いつも以上にガタガタと震えた不揃いな赤い文字で、こう書かれていた。
【ふ ぐ に は き を つ け ろ】
「……ぷっ」
そのあまりにも必死で乱雑な筆跡を見た瞬間、佳奈は思わず吹き出しそうになるのを両手で押さえた。
普段はどんなに凶悪な怪異が相手でも動じることなく、八尺様が映画館を壊そうとしたときですら無数の腕を出して応戦していた、この神出鬼没の妖怪。
そんな隙間女でも、概念としてすべてのものの終わりを司る本物の『死神』の存在だけは、本能的に怖くてたまらなかったらしい。あんなに大きな態度で佳奈にホラーゲームを押し付けておきながら、自分が怖いものが来ると、隙間の奥底に閉じこもってガタガタ震えていたのかと思うと、なんだか急に人間味があるように思えておかしかった。
「ふふっ、大丈夫だよ。私がちゃんとカメラで撮って、ちっちゃくして帰ってもらったから」
佳奈は微笑みながら、備え付けの鉛筆を手に取り、隙間女が書いたメモ用紙の余白に『もういないよ』と優しく書き添えて、引き出しの隙間へとそっと差し出した。
白い指がそれを受け取って暗がりへと引っ込むと、数秒後、今度は少しだけ落ち着いた動きで再び指先だけが出てきて、いつものように古い映画の半券チケットをパチ、パチと数え始めた。
カチ、カチ、と壁の古時計の秒針が静かに時を刻む。
佳奈はふうっと深く息を吐き出し、今日も客が一人も来ない場末の映画館の受付席に深く座り直すと、頬杖をついて穏やかな夕暮れの通りをぼんやりと眺めるのだった。




