第8話 蛇谷村
末広佳奈がホラーというジャンルを好んでいるのは、そこに計算し尽くされた「恐怖の順番」が存在するからであり、決して恐怖そのものが好きなわけではない。
日常の風景に微かな違和感が混じる『起拍』から始まり、逃げ場のない状況でじわじわと焦燥感を募らせる『溜め』を経て、決定的な怪異が姿を現す『見せ』へと至り、理不尽な暴力を唐突に終わらせる『切断』の後に、ひんやりとした『余韻』が残る。監督や脚本家が緻密に組み立てたその美しい構造と、感情が誘導されていく過程を安全な客席から味わうことこそが、佳奈にとっての醍醐味だった。
だからこそ、プレイヤー自身の操作や判断によって、その繊細な「恐怖の順番」を壊してしまうかもしれないホラーゲームという媒体は、佳奈にとって昔から苦手な部類に入っていた。
自分でコントローラーを握り、暗い廊下の角を曲がるタイミングを自分で決めなければならないなど、恐怖の構造を味わうどころの話ではない。立ち止まれば永遠に何も起きず、進めば自分のせいで惨劇が引き起こされるというシステムそのものが、佳奈の性分にはどうしようもなく合わなかったのだ。
『――以上のことから、警察や自治体は、危険ですので廃墟へ勝手に立ち入るのは極力控えるようにと、強い呼びかけを行っています』
朝の支度をしながらなんとなくつけていたテレビから、ニュースキャスターの落ち着いた声が流れてきた。
画面には、山奥に佇む朽ちかけた木造家屋の映像と、立ち入り禁止の黄色いテープが映し出されている。
情報番組の特集コーナーで取り上げられていたのは、最近若者の間で大ブームとなっている人気ホラーゲームのロケ地に関する騒動だった。
そのゲームのモデルになったとされる実在の廃墟群に、聖地巡礼と称して多くのファンや動画配信者が無断で立ち入り、先日ついに、腐食した床を踏み抜いた若者が大怪我をするという事故が起きたらしい。
画面の中のコメンテーターが「ゲームと現実の区別がつかない人が増えているんでしょうかねえ」と呆れたように首を振っているのを眺めながら、佳奈はトーストの残りを飲み込み、テレビの電源を切った。
大学の講義を終えた夕暮れ時、佳奈はいつものように着慣れたカジュアルな服装で、街の喧騒から切り離された場末の商店街を歩いていた。
シャッターを下ろしたままの店舗が並ぶ通りを抜けると、周囲のくすんだ景色から浮き上がるように建つ、黒い外壁の二階建ての映画館が姿を現す。佳奈がアルバイトとして働くことになってしまった、あの映画館だ。
重いガラス扉を押し開けてロビーに足を踏み入れた佳奈は、そこで思わず足を止め、目を瞬かせた。
「……あれ?」
いつもなら、扉を開けた瞬間に古い紙と機械の油の匂い、そして何よりもむせ返るような紫煙の匂いが鼻を突くはずだった。館主である八尾亜璃珠は、起きている間は常にと言っていいほど煙草を吹かしている重度のヘビースモーカーだからだ。
しかし今日に限って、薄暗いカウンターの奥に立つ八尾の指先には、火のついた煙草が挟まれていなかった。
足先まで届きそうなほど長い黒髪と、場末の映画館には不釣り合いなほどグラマラスな肢体を黒い服で雑に包んだ八尾は、煙草を吸う代わりに、何やら四角いプラスチックのパッケージをじっと見下ろしていたのである。
「おはようございます、八尾さん。……珍しいですね、煙草を吸ってないなんて」
佳奈が恐る恐る声を掛けながらカウンターに近づくと、八尾は生気の薄い瞳をわずかに持ち上げ、手元のパッケージを佳奈の方へと傾けて見せた。
そこに描かれていたのは、深い霧に包まれた不気味な日本家屋と、血塗れの姿で佇む異形の群れ、そして『SILENT』という掠れた白い文字のタイトルロゴだった。
ホラーゲームが苦手な佳奈でも、その名前とパッケージくらいは知っていた。数ヶ月前に発売されて以来、爆発的なヒットを記録している和風ホラーアクションゲームだ。プレイヤーは数十年前に起きた大災害によって一夜にして廃村と化した架空の村に迷い込み、ゾンビ化したかつての村人たちを武器や隠密行動で退けながら、村からの脱出を目指すという内容である。
背景のグラフィックや建物の構造の作り込みが異常なまでに細かいことで話題となり、実在する廃村をそのままスキャンしてモデルにしたという噂から、発売直後よりネット上でロケ地の特定やリアル探索の報告が過熱していた。まさに今朝のニュース番組で、不法侵入による怪我人が出たと報じられていたばかりの曰く付きの作品だった。
(八尾さんが、煙草以外のものをあんなに真剣に見てるなんて……)
佳奈の背筋に、嫌な予感が走る。
この映画館の館主が、純粋な娯楽として最新のテレビゲームに興味を持つはずがない。彼女がこうした世間の流行り物を手にしているときは、決まってそこに「ろくでもない怪異」が絡んでいるときだ。
佳奈が一歩あとずさりかけた瞬間、八尾は手にしていたゲームのパッケージを懐にしまい込み、カウンターの下から取り出した重厚な塊を、佳奈の胸元へと無造作に押し付けてきた。
「うわっ……!」
慌てて両手で受け止めたそれは、すっかり手に馴染んでしまった旧式の重いフィルムカメラだった。ひんやりとした金属の感触が、佳奈の掌から体温を奪っていく。
「今日は出張になるわよ、新人」
「しゅ、出張って……まさか、今からどこかに行くんですか!?」
「ええ。手早く済ませたいから、置いていかれないようにしっかりついてきなさい」
八尾は佳奈の動揺など意にも介さず、ハンガーに掛けられていた黒いロングコートを手に取り、無造作に羽織った。初夏の汗ばむ陽気にはまるで似つかわしくない装いだったが、彼女がそれを纏うと、まるで夜そのものを引き連れているかのような冷たい迫力があった。
窓口の机のわずかな『隙間』から、館に住み着く隙間女の真っ白な指がちょこんと飛び出し、行ってらっしゃいとでも言うように小さく左右に揺れているのを横目に見ながら、佳奈は半ば引きずられるようにして映画館の外へと連れ出された。
それから二時間あまり。私鉄の電車を乗り継ぎ、さらに本数の少ない地方の路線バスに揺られて二人が辿り着いたのは、周囲を深い山々に囲まれた、かつての農村の入り口だった。
『SILENT』のロケ地としてネット上で特定され、すっかり有名になってしまった廃村である。
バス停から少し歩いた先にある集落への一本道には、錆びついたガードレールと、色を失った案内看板がぽつんと残されていた。数十年前にすべての住人が退去して以来、管理する者もいなくなったその場所は、朽ちかけた木造の建物やひび割れたアスファルトのインフラだけが取り残され、あとはただ長い歳月をかけて自然に還るのを待つだけの静かな廃墟のはずだった。
傾きかけた夕日が山の稜線に隠れ始め、辺りには早くも薄暗い影が落ちている。ひんやりとした山の風が吹き抜け、生い茂る夏草がざわざわと不気味な音を立てて揺れた。
「あ、あの、八尾さん……!今朝のニュースで、こういう廃墟に勝手に立ち入るのは危ないから控えるようにって、キャスターの人が言ってましたよ。やっぱり引き返した方が……」
「ニュースの言うことなんか聞いてたら、仕事にならないわよ」
佳奈の必死の訴えにも、八尾はまったく聞く耳を持たなかった。黒いコートの裾を翻し、入り口に張られた立ち入り禁止のロープを長い足で無造作に跨ぐと、躊躇いなく廃村の奥へと進んでいく。
不法侵入をしているという罪悪感と、夕暮れの廃墟が放つ独特の重苦しい空気に、佳奈はすっかり気が引けていた。
しかし、こんな見知らぬ山奥に一人で置いていかれるわけにもいかず、重いフィルムカメラを胸の前に抱え直すと、おっかなびっくりといった足取りで八尾の背中を追いかけた。
集落の中心部へと足を踏み入れると、そこには佳奈が想像していた「自然に還りゆく静かな廃村」とはかけ離れた光景が広がっていた。
崩れかけた農家の軒先や、雑草が生い茂る空き地の至る所に、真新しいアルミの空き缶やペットボトル、スナック菓子の袋や弁当の空容器といった現代のゴミが、無数に散乱していたのである。壁にはスプレーで描かれた意味不明な落書きまで残されており、ゲームのブームに乗じてこの場所を面白半分に訪れ、土足で荒らし回った人間が多数いることは誰の目にも明白だった。
「……チッ。どいつもこいつも、ロクな真似をしないわね」
八尾はこの浅ましい惨状を見渡し、忌々しげに舌打ちをした。
彼女は散乱するゴミを編み上げの靴で踏み越えながら、さらに廃村の深部へと足を速めていく。
「ま、待ってください、八尾さん!そんなに早く歩かないで……っ」
佳奈は足元の瓦礫やゴミに躓きそうになりながら、必死に八尾の後を追った。
しかし、集落の奥へ進むにつれて、倒壊しかけた家屋と背の高い夏草が迷路のように入り組み、夕闇の濃さも相まって急速に視界が悪くなっていく。垂れ下がった錆びたトタンの屋根を避け、足元のぬかるみに気を取られて一瞬だけ視線を落とした、その直後だった。
顔を上げた佳奈の視界から、前を歩いていたはずの八尾の黒いコートの姿が、忽然と消え失せていたのである。
「え……?八尾さん?」
慌てて足を止め、周囲を見回す。
右を見ても、左を見ても、そこにあるのは黒ずんだ木材を晒す廃屋の群れと、風に揺れる雑草の影ばかりだ。先ほどまで聞こえていたはずの八尾の足音すら、まるで最初から存在しなかったかのように掻き消えている。
「八尾さん!どこですか、八尾さーん!」
声を張り上げてみるが、自分の声が薄暗い山間に虚しく反響するだけで、返事はない。
ポケットからスマートフォンを取り出してみたものの、画面の隅には無情にも『圏外』の文字が表示されていた。山奥の廃村のど真ん中で、完全に一人きりになってしまったのだという事実が、鉛のような重さで佳奈の胃の腑にのしかかる。
(うそ、どうして……?ほんの一瞬、目を離しただけなのに……!)
急に心細くなり、佳奈は震える手でカメラのストラップを強く握りしめた。
じっとしていても仕方がない。どこかの建物の陰に入っただけかもしれないと思い直し、佳奈は泣き出したいのを必死に堪えながら、入り組んだ廃村の路地を歩き始めた。
古い井戸の脇を通り抜け、屋根の半分が崩れ落ちた民家の前を通りかかったときだった。
割れたガラス戸の向こう側。薄暗い室内の奥に、ぽつんと佇む一つの『人影』が見えた。
「あ……っ」
八尾ではない。背丈や輪郭からして、若い男のように見えた。おそらく、ニュースで言っていたように、面白半分でこの廃村に肝試しにやってきて道に迷った探索者なのだろう。
こんな場所で他の人間を見つけたことに安堵した佳奈は、割れたガラス戸の入り口に近づき、恐る恐る声を掛けた。
「あの、すみません……。私、連れとはぐれてしまって。もしかして、黒いコートを着た背の高い女性を見ませんでしたか……?」
室内の暗がりに立つ人影が、ピクリと肩を揺らした。
そして、錆びついた蝶番が軋むような不自然な動きで、ゆっくりとこちらへ向かって首だけを巡らせた。
夕闇の隙間から差し込むわずかな光を浴びて、その人物の素顔が露わになる。
「――え」
佳奈の喉が、ひゅっと引き攣った。
そいつの目は、腐った魚のように白濁していた。青白くむくんだ皮膚には生気が一切なく、だらりと半開きになった口元からは、どす黒い血が顎を伝ってボタボタと床に滴り落ちている。
それは人間ではなかった。ゲームの宣伝映像やネットの画像で何度か目にしたことがある、ホラーゲーム『SILENT』の中でプレイヤーに襲いかかってくる『ゾンビ』そのものの姿だったのだ。
『――ァ、グ、ァァァァッ!!』
濁った唸り声と共に、そいつが獣のような速さで床を蹴り、佳奈に向かって飛びかかってきた。
「きゃあああああああっ!!」
佳奈は喉が裂けんばかりの悲鳴を上げ、間一髪で後ろへと飛び退いた。ガラス戸の枠にゾンビの血塗れの指先が突き刺さり、腐った木材がバキバキと砕け散る。
腰が抜けそうになるのを必死で踏ん張り、佳奈は背を向けて全力で走り出した。
「八尾さん!八尾さぁぁんっ!助けてくださぁいっ!!」
涙目で八尾の名前を叫びながら、廃村の路地を無我夢中で逃げ回る。
しかし、角を曲がった先の空き地にも、崩れた納屋の入り口にも、さらには傾いた電柱の下にも、同じように口から血を流したゾンビたちが幾体も徘徊していたのである。佳奈の悲鳴と足音に気づいたそいつらが、一斉に白濁した目をこちらに向け、唸り声を上げながら四方八方からにじり寄ってくる。
(なにこれ、なんで!?なんでゲームのゾンビが本物の廃村にいるのよぉっ!!)
まるで、自分自身が『SILENT』というゲームの世界に放り込まれ、プレイヤーにでもされてしまったかのような強烈な錯覚に陥る。
だが、ホラーゲームが苦手で一度もまともにプレイしてこなかった佳奈には、こんな絶望的な状況でどうやって立ち回ればいいのか、攻略法など皆目見当もつかなかった。
迫り来る血塗れの手を紙一重で掻い潜り、佳奈はパニックのまま、目についた古びたトタン張りの物置小屋へと転がり込んだ。内側から錆びた掛け金を必死で下ろし、埃とカビの匂いが充満する暗闇の中で、口元を両手で押さえて息を潜める。
『……ウ、ァァ……』
『……グ、ゥ……』
薄いトタンの壁のすぐ向こう側を、複数のゾンビたちが足を引きずりながら徘徊する気配と、湿った唸り声が通り過ぎていく。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、冷たい汗が背中を伝い落ちた。どこにでもいる普通の女子大生である佳奈には、あんな化け物たちと真っ向から戦う体力もなければ、立ち向かう度胸もない。
佳奈は暗がりの中で膝を抱えてうずくまり、胸に抱えた八尾のフィルムカメラを祈るように握りしめた。このままここでじっと隠れていれば、きっとあの強い八尾がゾンビたちを蹴散らして、自分を迎えに来てくれるはずだ。
そう願って、ガタガタと震えながらただひたすらに時間をやり過ごそうとした。
五分が経ち、十分が経った。
外のゾンビの気配は少し遠ざかったようだが、どれだけ待っても、八尾が助けに現れる気配は一向になかった。
(……来ない。いくら待っても、誰も助けに来てくれないんだ)
震える頭の中で、佳奈はふと、自分がかつてホラーゲームを嫌いになった根本的な理由を思い出していた。
映画ならば、観客が座席でただじっと座って待っていれば、時間通りに物語が進行し、やがて結末へと辿り着く。
しかし、ゲームは違う。安全地帯の物置小屋に隠れてコントローラーから手を離してしまえば、状況は何一つ変わらない。ゲームというものは、プレイヤーが自分の意志で一歩を踏み出し、自分から動かなければ、決して話が進むことはないのだ。
「……っ、くそぉ……っ」
佳奈は涙を拭い、荒い息を吐き出しながらゆっくりと顔を上げた。
ここで震えて待っていても、夜が更けてゾンビに見つかり、食い殺されるだけだ。助かりたいのなら、八尾と合流してこの狂った村から脱出したいのなら、自分が『プレイヤー』として動くしかない。
佳奈は暗闇に慣れた目で物置小屋の中を見渡し、隅のガラクタの中に立てかけられていた一本の錆びた『金属バット』を見つけた。
恐る恐るそれを手に取る。ずっしりとした鉄の重みが、頼りないながらも唯一の武器としての実感を掌に伝えてきた。
カメラのストラップを肩にしっかりとかけ直し、両手で金属バットを握りしめる。佳奈は掛け金を音もなく外すと、扉のわずかな隙間から外の気配を窺い、徘徊するゾンビたちの死角を潜り抜けるようにして、再び夕闇の廃村へと足を踏み出した。
錆びついた金属バットを両手で強く握りしめ、佳奈は物置小屋の扉の隙間から、夕闇がすっかり濃くなった廃村の路地へと身を滑り込ませた。
山の稜線に太陽が完全に沈み、辺りは急速に夜の帳に包まれつつある。傾いた木造家屋の影が黒々と伸び、風が吹くたびに、生い茂る夏草がざわざわと不気味な音を立てて波打った。
冷たい汗が、佳奈の額から頬を伝って顎先へと滴り落ちる。
肩にかけた旧式のフィルムカメラの重みが、鎖のように鎖骨へと食い込んでいた。
『……ウ、ァァ……』
『……グ、ゥ……』
すぐ近くの崩れた納屋の陰から、湿った唸り声と、泥の地面をずるずると引きずるような足音が聞こえてくる。
佳奈は息を呑み、咄嗟に近くの石垣の陰へと身を隠した。胸の奥で早鐘のように暴れる心臓の音が、外の化け物たちに聞こえてしまうのではないかと恐ろしくなるほどだった。
真っ向からぶつかれば、ただの女子大生に過ぎない佳奈など一瞬で引き裂かれてしまうだろう。頼りになるのは手にした錆びた金属バット一本だけだが、それも本当に振り回して戦うためのものではなく、万が一のときの心の支えに近い。
ここから生き延びて八尾と合流するためには、奴らの視界に入らないよう、建物の影や草むらの死角を徹底的に潜り抜けて進むしかなかった。
石垣の端から、ほんのわずかだけ顔を出して路地の様子を窺う。
薄暗い路地の真ん中を、三体のゾンビが緩慢な動きで徘徊していた。あちこちの方向へ不規則に首を傾げ、時折、口元からどす黒い血をボタボタと垂らしている。
そいつらが別の方角へと顔を向け、死角が生まれた一瞬を見極めるため、佳奈は恐怖を押し殺してゾンビたちの姿をじっと観察した。
そして、暗闇に目が慣れてきた佳奈は、そこで一つの奇妙な事実に気がついた。
(……あれ?)
路地をうろついているゾンビたちの服装が、おかしいのだ。
ホラーゲーム『SILENT』の設定では、プレイヤーを襲うゾンビたちは、数十年前に起きた大災害に巻き込まれた「かつての村人たち」のはずだった。だから当然、古びた農作業着やもんぺ、昭和の頃の衣服を身につけているものだとばかり思っていた。
しかし、目の前を足を引きずりながら歩いているゾンビが着ているのは、明らかに現代のプリントが施されたオーバーサイズのパーカーと、ダメージ加工のジーンズだった。足元には、泥だらけになっているものの、見覚えのある有名メーカーの最新スニーカーが履かれている。
その隣を歩く女のゾンビも、明るく染めた髪を振り乱し、肩を出した流行りのシャツを着ていた。腰のあたりには、割れたスマートフォンがストラップでぶら下がっているのが見える。
(昔の村人じゃない……。この人たち、最近の若い子たちだ……!)
佳奈の背筋に、先ほどまでとは違う種類のぞっとする悪寒が走った。
今朝のテレビのニュース番組で、キャスターが強い口調で注意を呼びかけていた内容が脳裏に蘇る。ゲームのロケ地として特定されたこの廃墟群に、面白半分で無断侵入する若者が後を絶たないという話だ。
点と点が、嫌な形で一本の線に繋がった。
おそらく、路地に散乱していた真新しい空き缶や菓子の袋を捨てていった連中――軽い気持ちで聖地巡礼や肝試しに訪れた現代の若者たちが、この廃村に巣食う怪異か何かに囚われ、ゲームと同じ『ゾンビ』の姿へと変貌させられてしまっているのだ。
(そんな……じゃあ、私もここで捕まったら、あんな風にされちゃうってこと!?)
ホラーゲームが苦手で、『SILENT』の詳しいストーリーや設定を何一つ知らない佳奈には、彼らがどういう原理でゾンビ化したのかも、この異常事態を引き起こしている元凶の怪異が一体何なのかも、皆目見当がつかなかった。
ただ一つ確実なのは、こんな場所にこれ以上留まっていれば、自分も間違いなくあっち側の住人にされてしまうということだけだ。
今の佳奈にあるのは、一刻も早く八尾と合流して、この狂った廃村から脱出したいという悲痛な願いだけだった。
三体のゾンビがゆっくりと路地の奥へと歩き去り、視線が完全に外れたのを確認する。
佳奈は靴音を殺し、中腰の姿勢のまま石垣の陰から飛び出すと、反対側の廃屋の軒下へと一気に駆け抜けた。
息を切らしながら、次の物陰から物陰へと移動を繰り返す。ガラスの破片や空き缶を踏まないように足元に細心の注意を払い、唸り声が近づいてくれば、朽ちた縁側の下や壊れた塀の後ろに身を潜めてやり過ごした。
自分の判断一つ、足音一つで生死が分かれる極限の緊張感。それはまさに、佳奈が最も嫌っていたホラーゲームのプレイヤーそのものの体験だった。
どれくらいの時間、そうして廃村の中を駆け回っただろうか。
集落の入り組んだ路地を抜けた佳奈は、周囲の民家よりも一回り大きな、鉄筋コンクリート造りの古びた建物の前に辿り着いた。
ひび割れた外壁には、掠れた文字で『蛇谷村役場』と書かれた看板が斜めにぶら下がっている。かつてこの村の行政を担っていた、役場の跡地だった。
入り口のガラス扉はとうに砕け散り、ぽっかりと開いた暗い口が、中へと続くロビーを覗かせている。
「はぁ、はぁ……っ。八尾さん、どこにいるのよぉ……」
体力も精神力も限界に近づき、佳奈が金属バットを杖代わりにして荒い息を吐いた、その時だった。
役場跡地の薄暗いロビーの奥。崩れた受付カウンターの向こう側に、すっと佇む長身の『人影』が見えた。
足元まで届く長い黒髪に、初夏の季節には不釣り合いな黒いロングコート。
見間違えるはずがない。はぐれてからずっと探し続けていた、あの映画館の館主の姿だった。
「……っ、八尾さん!」
張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、佳奈の目から安堵の涙がぶわっと溢れ出した。
助かった。ようやく見つけた。
周囲への警戒も忘れ、佳奈はよろめく足で役場のロビーへと駆け込み、後ろ向きに立っているその背中へ恐る恐る声を掛けた。
「八尾さん……っ!よかった、探したんですよ!急にいなくなっちゃうから、私、どうしようかと……っ」
駆け寄る佳奈の足音に反応し、黒いコートの人影がピクリと動いた。
そして、ゆっくりとこちらへ向かって振り返った。
いつもなら、そこにはむせ返るような煙草の紫煙と、「遅いわよ、新人」という気怠げで冷淡な声があるはずだった。
しかし。
振り返ったその人物の指先に、煙草はなかった。それどころか、月明かりに照らし出されたその美しい顔立ちは、死人のように青白く濁り、生気の欠片も宿っていなかったのである。
「――えっ?」
佳奈の足が、凍りついたように止まった。
黒いコートを纏った『八尾』の目は白濁し、だらりと開いた赤い唇の端からは、どす黒い血が糸を引いて顎へと垂れ落ちていた。
それは、八尾ではなかった。八尾亜璃珠と寸分違わぬ姿をした、ゾンビだったのだ。
『……ア、ァ……ッ!』
八尾の姿をしたゾンビが、濁った唸り声を上げ、獲物を見つけた獣のように口を大きく裂いて佳奈へと飛びかかってきた。
「ひっ、あ、あああああっ!?」
あの無敵であるはずの八尾までがゾンビになってしまったという絶望と、目の前に迫る圧倒的な恐怖に、佳奈の頭の中が真っ白になった。
全身から力が抜け、その場にへたり込むようにして腰が抜けてしまう。震える手から、唯一の武器であった錆びた金属バットがカランと乾いた音を立ててコンクリートの床に転がり落ちた。
逃げられない。
八尾の顔をした化け物の血塗れの両手が、床に座り込んだ佳奈の喉元へと真っ直ぐに伸びてくる。
死を覚悟し、佳奈が恐怖に引き攣った顔でギュッと目を閉じた、まさにその瞬間だった。
「――誰が、そんな三流の化け物よ」
頭上から、ひどく不機嫌で、聞き慣れた冷たい声が降ってきた。
直後。
ドゴォォォンッ!!
空気を破裂させるような凄まじい衝撃音が、役場跡地のロビーに轟いた。
佳奈の目の前まで迫っていた偽物の八尾の胴体に、横合いから突き出された黒い編み上げブーツの強烈な蹴りが、容赦なく叩き込まれていたのである。
人間の女性の細足から繰り出されたとは到底思えない膂力によって、八尾の姿をしたゾンビはボロ雑巾のように真横へと吹き飛ばされ、数メートル先のコンクリートの壁に激突してドシャリと床に崩れ落ちた。
「……え……?」
頬を撫でる風圧と、鼻を突く強烈な煙草の匂い。
佳奈が震えながらゆっくりと目を開けると、自分のすぐ目の前に、黒いロングコートの裾を翻した長身の女性が気怠げに立っていた。
汚れ一つない無傷の美貌。その指先には火のついた煙草が挟まれており、彼女は蹴り飛ばした自分の偽物をゴミでも見るかのような冷酷な目で見下ろしながら、ふう、と濃い紫煙を吐き出していた。
「や……八尾、さん……?」
「腰を抜かしてるんじゃないわよ、新人。みっともないわね」
間違いなく、本物の八尾だった。
その声を聞いた瞬間、佳奈の中で堰を切ったように感情が爆発した。
「や、八尾さぁぁんっ!!うわあああああんっ、怖かったぁぁっ!どこ行ってたんですかぁっ!!」
佳奈は子供のように泣き叫びながら、床を這うようにして八尾の足元へと縋りついた。
八尾は鬱陶しそうに眉をひそめながらも、佳奈を振り払うことはせず、もう一口深く煙草を吸い込んだ。
「ちょっと村の境界を調べてただけよ。あんたが勝手に迷子になって、勝手に騒いでたんじゃない」
「だって、だってぇっ!ゾンビが!ゲームのゾンビがいっぱいいて、八尾さんの偽物まで出てきて……っ!この村、一体どうなってるんですか!?」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で問いかける佳奈に、八尾は灰を床に落としながら、淡々とした口調で説明を始めた。
「この場所はね、元々はただ住人が退去しただけの、何の変哲もない普通の廃村だったのよ」
「ふ、普通の廃村って……じゃあ、なんでこんな化け物だらけに……!」
「あんたも知ってる通り、妖怪や怪異っていうのは、存在そのものより『どう扱われたか』で増減するの。忘れられれば薄くなり、恐れられれば濃くなる。……この村は、あの大ヒットしたホラーゲームの題材にされたことで、何十万人という人間に『恐ろしいゾンビが徘徊する呪われた村』として認識され、共有されてしまったのよ」
八尾の言葉に、佳奈は息を呑んだ。
外からは、先ほどの衝撃音と佳奈の泣き声を聞きつけた無数のゾンビたちが、役場跡地を取り囲むようにして集まってくる足音が聞こえ始めている。
「現実では何でもないただの廃墟が、大衆の勝手な想像力によってフィクションの皮を被せられ、実在しないありえないものとして怪異化してしまう……。現代じゃ一番タチの悪い、典型的な事例ね」
八尾は吐き捨てるように言って、煙草の煙を吹き出した。
しかし、その説明を聞いた佳奈の頭は、納得するどころか、さらなる混乱と絶望へと叩き落とされていた。
外の闇には、現代の若者の姿をしたゾンビたちがうじゃうじゃと潜んでいる。そして、八尾の言葉通りなら、今自分たちが足を踏み入れているこの広大な土地そのものが、敵の本体だということになるではないか。
「ま、待ってくださいよ!」
佳奈は立ち上がり、半ば発狂気味に声を裏返らせながら八尾へと詰め寄った。
「ゲームのロケ地として有名になって、そんなに肥え太った怪異が『村そのもの』だなんて……っ!大きすぎるスケールじゃないですか!一体どうやってフィルムに封じるっていうんですか!?」
佳奈は胸元の旧式フィルムカメラを掴み、涙目で叫び続けた。
「いつもみたいに映画館へ連れて逃げることだってできないし、そもそもカメラで何を撮影すればいいのかも分かりません!あっちにもこっちにもゾンビがいっぱい潜んでるんですよ!?無理です、こんなの絶対に無理ですよぉっ!」
建物の入り口や割れた窓枠の向こうに、白濁した目を持つゾンビたちの影が次々と現れ始めていた。
逃げ場のない非常事態を頭で理解してしまったことで、佳奈は完全にパニックに陥り、呼吸すらままならなくなっていた。
しかし、そんな佳奈の取り乱しぶりを前にしても、八尾はあくまでも氷のように冷静だった。
彼女は吸い終わった煙草を床に落として靴底で踏み消すと、黒いコートの懐に手を入れた。そして、そこから四角いプラスチックのケース、佳奈が出勤前に映画館のカウンターでじっと見つめていた、あの『SILENT』のゲームのパッケージを取り出したのである。
「うるさいわね。誰が村の景色を全部撮れって言ったのよ」
八尾は無造作な手つきで、そのゲームのパッケージを佳奈の目の前へと突き出した。
「ほら、カメラを構えなさい。これを撮るのよ」
「え……?パ、パッケージを、ですか?」
「いいから早く押しなさい!」
八尾の鋭い一喝に条件反射で従い、佳奈は震える手でカメラのファインダーを覗き込んだ。
レンズの向こうにある、霧に包まれた廃村とゾンビが描かれたゲームのジャケット写真にピントを合わせ、無我夢中でシャッターを切る。
カシャッ!
強烈なフラッシュの光が役場跡地の暗いロビーを真っ白に染め上げ、ゲームのパッケージをフィルムの一コマへと焼き付けた。
その直後だった。
フラッシュの残光が消えやらぬロビーの片隅で、カリカリ、ミシミシ、と奇妙な音が鳴り響いた。
見ると、役場跡地のひび割れたコンクリートの壁の亀裂や、崩れたカウンターのわずかな『隙間』から、血の気のない真っ白な指が、何十本も蠢きながら這い出してきたのである。
「ひっ……!す、隙間女さん……!?」
遠く離れた街の映画館に居残っているはずの隙間女が、その規格外の能力によって、この廃村にある物理的な『隙間』と、黒い映画館の映写室とを空間ごと無理矢理に繋げたのだと分かった。
無数の白い手が壁の亀裂をぐぐっと左右にこじ開けると、その広がった暗闇の向こう側から、カシャカシャという無機質な映写機の回る音と、眩いスクリーンの光が直接ロビーへと漏れ出してきた。
原則として映画館でしか行えないはずの捕縛の術場が、隙間女の介入によって、この廃村のど真ん中に強引に引きずり出されたのだ。
窓や入り口から雪崩れ込もうとしていたゾンビたちが、異質なスクリーンの光を浴びて動きを鈍らせる。
八尾は漏れ出す光の中に立ち、低く、絶対的な拘束力を持った声で、怪異の『真名』を言い放った。
「蛇谷村」
その一言が、夜の廃村に重く響き渡った。
瞬間。
ロビーに侵入しかけていたゾンビたちはもちろん、外でざわめいていた夏草の揺れも、吹き抜ける山の風も、すべてがピタリと止まった。
まるで村全体の時間が止められ、空間ごと巨大なピンで縫い留められたかのように、辺りの空気が氷点下へと凍りついたのだ。パッケージを撮影した一コマを媒介にして、村を覆う怪異の実体が、隙間の向こうのスクリーンへと強制的に重ね合わされていく。
「宣言しなさい、新人!」
八尾の鋭い声が飛ぶ。
しかし、佳奈の唇はガタガタと震えるばかりで、声が出なかった。
凍りついているとはいえ、目の前には今にも飛びかかってきそうなゾンビの群れが迫っており、その後ろには怪異化した広大な廃村の闇が広がっている。その圧倒的なスケールの大きさと恐怖に呑まれ、佳奈の心は完全にパニックから抜け出せずにいたのだ。
宣言する側が恐怖に負けて怪異の実在を認めてしまえば、術は成立しない。
「あ、あ、あ……っ」
歯の根が合わず、うわ言のように呻くだけの佳奈。
その様子を見た八尾は、小さく息を吐くと、迷いなく一歩踏み出し、佳奈の頬に鋭い平手打ちを見舞った。
パァンッ!!
乾いた破裂音がロビーに響き、佳奈の顔が横へと弾かれる。
じんじんと焼けるような頬の痛みと共に、パニックで沸騰していた佳奈の頭の中に、冷水を浴びせられたような鮮烈な静寂が訪れた。
「……っ!」
弾かれたように意識が覚醒した、その瞬間だった。
佳奈の脳裏で、今日この廃村に足を踏み入れてから自分が体験してきたすべての出来事が、猛烈な速度で巻き戻されるように繋がっていく。
入り口から廃村へ入り、不意に連れとはぐれて孤立した『起拍』。
最初の廃屋でゾンビと遭遇し、追い詰められて物置小屋へと逃げ込んだ『溜め』。
動くしかないと覚悟を決めて錆びた金属バットを拾い、ゾンビの死角を潜り抜けて探索を進め、最後に辿り着いた役場跡地というランドマークで、偽物の八尾というボスキャラクターと対峙した『見せ』。
(……あ。これ、全部……)
佳奈は、ハッと目を見開いた。
自分がこの廃村で死に物狂いでとってきた行動のすべては、ゲーム『SILENT』の中でプレイヤーが辿る攻略ルートと、奇しくも完全に同じだったのだ。
なぜ、物置小屋に都合よく武器となる金属バットが置いてあったのか。なぜ、運動神経もない自分がゾンビの死角を潜り抜けてここまで辿り着けたのか。そしてなぜ、遊び半分で入った若者たちがゲームのゾンビの姿になっていたのか。
(これ、本物の怨念なんかじゃない……っ!)
佳奈は、この怪異の『正体』を、その構造の底から完全に理解した。
この村を支配している恐怖の順番は、死者たちの無念でもなければ、土地に根付いた古い呪いでもない。すべては、ゲームクリエイターという『人間』がプレイヤーを楽しませるために机の上で計算して作ったプログラムであり、それを遊んだ大衆が勝手に廃村へと重ね合わせただけの、ペラペラのハリボテなのだ。
初めから人間によって作られた虚像であることが分かりきっている、ひどく弱々しい偽物の怪異。
理解した瞬間、佳奈の心から、村のスケールに対する畏怖が綺麗さっぱりと消え失せた。
こんな作られたゲームごときに、自分の大好きな『恐怖の順番』を語らせてたまるものか。
佳奈は平手打ちされた頬の痛みを噛み締め、凍りついたゾンビたちと、その背後に広がる廃村の闇を真っ直ぐに見据えた。
隙間女の力で映画館のスクリーンと空間が直結している中、佳奈は深く息を吸い込み、凛とした声で確定の刃を言い放つ。
「この物語は、フィクションです!」
佳奈の言葉が、目に見えない巨大な刃となって、蛇谷村という怪異の空間そのものへと真っ向から突き刺さった。
パリン、と。
まるで薄いガラス細工が砕け散るかのような、呆気ないほどの音が夜の山間に響いた。
断末魔の叫びすら上がらなかった。佳奈の宣言が響き渡った瞬間、ロビーを取り囲んでいたゾンビたちの姿も、足元に転がっていた八尾の偽物も、まるでテレビの電源をぶつりと切ったかのように、最初から存在しなかったかのように跡形もなく消え去ったのである。
よどんでいた重苦しい空気は霧散し、後にはただ、涼しい初夏の夜風が吹き抜ける、寂れた普通の廃村の景色だけが残されていた。
若者たちがゾンビに変えられていたというのも、すべてはこの空間が見せていたゲーム通りの幻影に過ぎず、実際に怪我をして搬送された者以外は、皆とっくに逃げ帰っていたのだろう。
「……ふん。呆気ないものね」
隙間の向こうで映写機の回る音が止まり、八尾が新しい煙草に火をつけながら肩をすくめた。
「元々が人間が作ったゲームを起点にしてるんだから、実在性なんてあってないようなものよ。フィルムに封じ込められた力もひどく弱いわ。映画館で一回でも上映してやれば、客に消費されて完全に消えてなくなるでしょうね」
八尾の冷淡な予測を聞きながら、佳奈は今度こそ本当の安堵に胸を撫で下ろし、その場にへたり込んだ。
帰りは、わざわざ本数の少ない路線バスや電車を乗り継ぐ必要すらなかった。
隙間女がこじ開けた役場跡地の壁の『隙間』を八尾に引っ張られて潜り抜けると、まるで暗いトンネルを一歩跨いだかのように、二人は一瞬にしてあの場末の映画館の薄暗いロビーへと帰還していたのである。
「はぁぁ……っ。もう、生きた心地がしなかった……」
赤い絨毯の上に足を投げ出し、佳奈は肩から重いフィルムカメラを外して大きく息を吐き出した。
頬にはまだ、八尾に張られた平手打ちの熱がじんわりと残っている。
あんなに理不尽で怖い思いをしたのだ。映画と違って、自分が動かなければ終わらないホラーゲームなどというジャンルには、もう金輪際、絶対に指一本触れまい。佳奈は心の中で、そう固く固く決意を新たにした。
しかし、そんな佳奈の悲痛な決意を嘲笑うかのように。
カメラを受け取って事務室の奥へと引っ込んだ八尾が、数分後、手になにか別の四角いケースを持ってロビーへと戻ってきたのである。
「……あの、八尾さん。それ、なんですか?」
「ん?ああ、これね。最近ネットの動画配信者の間で流行ってるっていう、海外製のインディーズホラーゲームよ。プレイした人間が失踪するっていう噂があるから、一応調べておこうと思って」
八尾が手にしていたのは、血塗れのピエロが不気味に笑う、また別のホラーゲームのパッケージだった。
彼女はそれをカウンターの上に置くと、佳奈の方を向いて気怠げに言った。
「私は機械の操作とか面倒でやらないから、あんた、次のシフトのときにでもクリアしておきなさい」
「わ、私は絶対にやりませんからねっ!!」
佳奈は半泣きになりながら全力で捨て台詞を吐き、八尾が差し出してきた今日の給料の茶封筒をひったくるようにして受け取ると、逃げるように映画館の重いガラス扉を押し開けて夜の商店街へと飛び出した。
「はぁ、はぁ……っ。もう、なんなのよあの人は……!」
夜道を早足で歩き、佳奈はようやく自分の日常の安全圏である自宅アパートへと辿り着いた。
階段を上がり、馴染みのあるドアの鍵を開けて、狭い一人暮らしの部屋へと入る。
靴を脱ぎ、壁のスイッチを押して部屋の蛍光灯を点けた佳奈はそのまま、玄関先で石のように固まった。
「………………え?」
部屋の真ん中に置かれた、小さなローテーブルの上。
出かける前には何も置いていなかったはずのそこに、見覚えのある四角いプラスチックのパッケージが、ぽつんと行儀よく置かれていたのだ。
深い霧に包まれた日本家屋と、掠れた白い文字で描かれた『SILENT』のタイトルロゴ。さっきまで山奥の廃村で散々佳奈を苦しめ抜いた、あの和風ホラーアクションゲームのソフトそのものだった。
しかも、ご丁寧に部屋のテレビの前には、どこから持ってきたのかゲーム機本体まで綺麗に配線されて据え付けられており、ソフトの横には『SILENT 完全攻略ガイド』と書かれた分厚い攻略本まで添えられているではないか。
「な、なんで……!?鍵、閉めてたのに……っ!」
いや、どうやって入ったのかなど、考えるまでもなかった。
この世のあらゆる『隙間』から出入りできる存在に、アパートの鍵など何の意味もなさない。
佳奈が引き攣った顔で恐る恐るローテーブルに近づくと、分厚い攻略本のページの隙間に、一枚の白いメモ紙が挟まっているのが目に入った。
震える指先でそのメモ紙を引き抜く。
そこには、映画館の窓口にある鉛筆で書かれたと思わしき、見慣れた歪な赤い文字で、ただ一言だけこう記されていた。
【が ん ば れ】
どこまでもお節介で、どこまでも逃げ場のない独占欲が込められたその四文字を前にして。
佳奈はすべての気力を根こそぎ奪い取られ、メモ紙を握りしめたまま、弱々しくその場の畳へと座り込むのであった。




