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魔女の映画館  作者: みこ
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第7話 上映1

ひどく退屈な時間が、埃の舞うロビーに澱んでいた。

街の喧騒から完全に切り離された、場末の商店街のさらに奥。周囲のくすんだ景色から浮き上がるように建つ、黒い外壁の二階建ての映画館。

その入り口横に設けられた小さな窓口のパイプ椅子に座り、末広佳奈は手持ち無沙汰に頬杖をついていた。


今日も、客が来る気配は全くない。

壁に掛けられた古時計の秒針が、カチ、カチと単調なリズムを刻む音だけが、古い紙と機械の油の匂いが染み付いた空間に響いている。

佳奈はぼんやりと視線を落とした。

目の前にある窓口の台。そのアクリル板と台のほんのわずかな『隙間』から、血の気のない真っ白な指が音もなく這い出している。この館のインフラであり、事故原因でもある無言の妖怪、隙間女だ。


真っ白な指は、どこから持ってきたのか、古い映画の半券チケットを何枚も器用に操っていた。トランプのカードを配るように一枚ずつ並べては、また綺麗に端を揃えてまとめるという、意味のない遊びを延々と繰り返している。

最初の頃こそ悲鳴を上げそうになった異様な光景だが、今では佳奈もすっかり慣れてしまっていた。


「……暇だね」


佳奈が小声で呟くと、白い指が一瞬だけ動きを止め、またすぐに半券を並べる作業に戻った。

この客席数が極端に少ないカルト映画館は、そもそも経営不振で閑散としているわけではない。怪異を見せすぎると都市伝説化してしまうという性質に対して、封印の安全装置として意図的に客数を絞っているのだ。

だから、窓口のアルバイトといっても、実態はただの案山子と変わらない。

佳奈が小さくあくびを噛み殺そうとした、その時だった。


――ギィィィッ……。

重いガラス扉が、ひどく軋んだ音を立てて開いた。

佳奈は弾かれたように背筋を伸ばし、目を丸くした。滅多に来るはずのない『客』が、立て続けに三人、館内へと足を踏み入れてきたのである。

全員が男性だった。一人は季節外れの分厚いミリタリーコートを着込み、もう一人は異様に度の強い眼鏡をかけて猫背になっている。最後の一人は、色褪せたホラー映画のロゴがプリントされたヨレヨレのTシャツを着ていた。

彼らは一様に顔色が悪く、どこか陰気で癖の強い、あからさまに怪しい容姿をしている。「熱狂的なホラー映画マニア」という言葉が、これほどまでにしっくりと当てはまる人間たちも珍しかった。


「あ、いらっしゃいませ……」


佳奈は戸惑いながらも、窓口のガラス越しに慌てて接客の声をかけた。

ミリタリーコートの男が、ぼそぼそとしたくぐもった声で「大人、一枚」と告げ、シワだらけの千円札を数枚差し出してくる。他の二人もそれに続き、無言で現金を窓口のトレイに置いた。

佳奈は現金を受け取り、引き出しからチケットの半券を取り出そうと視線を落とした。


(……え?)


窓口の机の上に、さっきまで無かったはずの真新しい『映画のパンフレット』が、人数分きっちりと重ねられて置かれていた。

横の隙間を見ると、あの真っ白な指が、用は済んだと言わんばかりにスルスルと暗がりの中へ引っ込んでいくところだった。隙間女が、いつの間にか客に渡すためのパンフレットを用意していたのだ。


「あ、あの、こちらチケットの半券と、本日のパンフレットになります」


佳奈がトレイ越しに手渡すと、マニアたちはそれを受け取り、互いに顔を見合わせてニチャリと薄気味悪い笑みを浮かべた。

彼らは言葉を交わすことなく、重い足取りで薄暗いロビーの奥、スクリーンのある劇場内へと吸い込まれていった。

客たちの背中が見えなくなった後、佳奈は自分用に残されていたパンフレットの一枚を手にとった。

ザラザラとした安っぽい紙質。そこに印字されていた『今日の上映作品』のタイトルを見た瞬間、佳奈の全身からさあっと血の気が引いた。


『第一幕:診断書』

『第二幕:不純』

『第三幕:召使』


「嘘……でしょ」


乾いた唇から、掠れた声が漏れた。

間違いない。それは、佳奈がこれまでに命懸けで対峙し、八尾と共にフィルムへと封じ込めた、あの悍ましい怪異たちの真名だった。

佳奈はパイプ椅子を蹴り倒すような勢いで立ち上がり、カウンターの奥へと駆け込んだ。


「八尾さん!」


薄暗いカウンターの奥では、館主の八尾亜璃珠が長い足を組み、気怠げに煙草を吹かしていた。

装飾の一切ない黒い服で包まれたグラマラスな肢体。足先まで届きそうな長い黒髪の隙間から、生気の薄い冷徹な瞳が佳奈を見据える。むせ返るような強烈な紫煙が、八尾自身から漂う人ならざる臭いを上書きするように充満していた。


「うるさいわね。マニアの連中が入ったんだから、少しは静かにしなさい」


「静かにしてる場合じゃないです!本当に、あの三本を今日のお客さんたちに見せるんですか!?」


佳奈は手に持ったパンフレットを突きつけ、震える小声で問い詰めた。


「もし、見ている途中で怪異がスクリーンから出てきたりしたら……っ!あのお客さんたち、殺されちゃいますよ!」


顔のない死神、無数の手を持つ巨大な肉の塊、そして、子供を奪い返そうと狂乱した背の高い影。どれも、ただの人間が直視すれば一瞬で精神を破壊され、命を奪われるほどの圧倒的な悪意と質量を持った化け物たちだ。

それを、何の防備も持たない一般人に見せるなど、正気の沙汰とは思えなかった。

しかし、佳奈の必死の抗議に対しても、八尾は全く動じることはなかった。

彼女は深く紫煙を吸い込み、ふうっと煙を吐き出してから、ひどく冷淡な声で答えた。


「心配しなくていいわ。ここに来る連中は、フィルムを回しても『よく出来たリアリティのあるホラー映画』としか思わない。それが大事なのよ」


「映画って……あんなの、作り物の一言で済むような映像じゃないです!」


「いいから、見てきなさい」


八尾は顎でロビーの奥をしゃくった。

有無を言わさぬその態度に押し切られ、佳奈は恐る恐る劇場の入り口へと向かった。

分厚い防音扉に設けられた、小さなガラス窓。そこから劇場内の様子を窺う。

すでに館内は暗転し、カシャカシャという無機質な映写機の音が響き始めていた。


スクリーンに、光の束が投射される。

映し出されたのは、あのターミナル駅で佳奈に死の宣告を突きつけようとした、顔のない医師の姿だった。次いで、子捨て寺の暗がりで無数の手を蠢かせる巨大な赤子。そして、夜の墓場で『ぽぽぽ』と不気味な声を上げながら墓標をなぎ倒す、背の高い女の影。


佳奈が命懸けで逃げ惑い、震える手でシャッターを切った、あの凄まじい狂乱の映像が、手ブレやノイズを含んだ生々しい記録として大画面で放映されている。

佳奈は心臓が止まりそうになり、思わずガラス窓から目を逸らしそうになった。今にも、スクリーンを突き破ってあの悍ましい怪異たちが客席へ雪崩れ込んでくるのではないかという恐怖に駆られたからだ。


しかし、客席に座るホラーマニアたちの反応は、佳奈の予想とは全く異なるものだった。

彼らは誰一人として、悲鳴を上げたり、パニックを起こして逃げ惑ったりしていなかった。

それどころか、食い入るようにスクリーンに釘付けになり、恍惚とした表情すら浮かべている。


「すごいな……今の特殊メイク、どうやってるんだ?」

「CGじゃないぞ、この質感。アニマトロニクスか?」

「いやぁ、最高だ。これだから、この映画館に通うのは止められないんだよ」


防音扉越しに、微かに彼らの囁き声が聞こえてくる。

マニアたちは、画面の中で暴れ回る本物の怪異たちを前にして、心底嬉しそうに、そして安全な場所から『恐怖』を消費していた。恐怖の質が一般的な創作物の水準を遥かに超えているからこそ、彼らはこれを「究極にリアリティのあるフィクション」として熱狂的に楽しんでいるのだ。


その光景を見た瞬間。

佳奈の脳裏に、一本の冷たい線が引かれるように、八尾の真の狙いが理解できた。


(――そういう、ことなんだ)


妖怪や怪異は、存在そのものより「どう扱われたか」で増減する。

恐れられれば濃くなり、「実在する」と共有されれば都市伝説として形を得てしまう。

佳奈が「この物語はフィクションです」と宣言の刃を突き刺し、実像から虚像へと落としてフィルムに捕縛した怪異たちは、今の状態では単なる『映画の登場人物』にすぎない。

そして、そのフィルムを、こうして生きた人間たちに見せるのだ。

彼らが「これはただの作り物だ」「よく出来たホラー映画だ」と心の底から信じ込み、娯楽として消費し続けること。それこそが、怪異たちに対する最大にして最も残酷な『否定』となる。


「フィクションである」と制限されたこの劇場という場所で繰り返し観られることで、怪異たちは「実在の権利」を物理的にゴリゴリと削り取られていくのだ。

彼らがどんなに画面の中で吠え猛ろうと、恨み言を叫ぼうと、観客には「迫真の演技」としか受け取られない。実在を否定され続けた怪異は、次第にその存在を維持する力を失い、弱り果てていく。

そしていずれは、フィルムの経年劣化によって物理的に破壊され、存在そのものが「初めからなかったこと」になって完全に消滅する。


(八尾さんは……ただ怪異を閉じ込めてるだけじゃない)


佳奈は、ガラス窓越しに見えるスクリーンの光に照らされながら、戦慄と共に息を呑んだ。

八尾が定期的にホラーマニアにチラシを配り、客を呼んでいる理由。

それは、利益のためなどではない。この映画館という巨大な装置を使い、大衆の「信じない」という無責任な力を利用して、怪異たちを摩耗させ、確実に『殺す』ためだった。

表向きの捕縛とは異なる、冷酷極まりない処刑システム。

これこそが、魔女の映画館で行われる本当の意味での【上映】の姿だった。


スクリーンの中で、顔のない死神が、巨大な肉の塊が、背の高い女の影が、狂乱して暴れ回る。

それは、佳奈が命懸けで逃げ惑い、震える手でシャッターを切った凄まじい記録の連続だった。

だが、客席に座るマニアたちは誰一人として悲鳴を上げない。彼らは恍惚とした表情でスクリーンを見つめ、「よく出来た作り話だ」「最高の特殊メイクだ」と、安全な場所から嬉々として恐怖を消費していた。


その光景をガラス窓越しに見つめていた佳奈の心に湧き上がったのは、勝利の安堵ではなかった。

どんなに恐ろしい怪異であろうと、どんなに強大な都市伝説であろうと、逃れられない摩耗と「死(消滅)」に向かっていく姿。そこには、生きること、存在することの抗いがたい虚しさが漂っていた。


「……なんか、あっけないですね」


佳奈はガラス窓から目を離し、背後で煙草を吹かしている八尾に向かって、ぽつりと感傷を吐露した。

あれほど自分を追い詰めた悪意の塊が、あんなふうに見世物として消費され、静かに殺されていくのだ。

しかし、八尾の返答は冷酷だった。

彼女は深く紫煙を吸い込み、ふうっと煙を吐き出してから、ひどく無機質な声で言い捨てた。


「自業自得よ。あっち側の存在が、こっち側の世界に干渉しようとするのが悪い」


その言葉は、あまりにも冷徹で、怪異に対する同情など微塵も含まれていなかった。

常に生気が薄く、浮世離れどころか、どこか「人間離れ」した雰囲気を纏う八尾。怪異を捕縛し、こうして冷酷に処刑する彼女は、一体何者なのだろうか。

佳奈は、たまらず踏み込んだ問いを投げかけた。


「八尾さんは……どっち側なんですか?」


人間なのか、それとも、怪異の側なのか。

その問いを聞いた瞬間、八尾の口元が微かに歪んだ。

彼女はゆっくりと佳奈に近づき、その妖艶な顔を近づけると、佳奈の顔にフッと紫煙を吹きかけた。


「言うようになったね、新人」


ニヤリと笑うだけで、八尾はその核心の答えをはぐらかしてしまった。

煙に巻かれ、佳奈はむせて咳き込む。八尾の底知れなさに、ますます混乱し、言い知れぬ恐ろしさを覚えるばかりだった。


不意に。

佳奈の足元、窓口の机のわずかな『隙間』から、一枚の薄汚れた紙片が音もなく滑り出てきた。


「え……?」


佳奈がそれを拾い上げると、そこには隙間女の不揃いな赤い文字で、ただ一言、こう書かれていた。


【にんぎょひめ】


佳奈は眉をひそめた。

にんぎょひめ。人魚姫。童話のタイトルだろうか。それとも、八尾の正体に関わる何かなのだろうか。

佳奈にはまったく見当もつかない。


「ねえ、これってどういう意味?」


佳奈は隙間に向かって小声で問いかけたが、隙間女はもう何も語らなかった。真っ白な指は暗がりの中へ完全に引っ込んでしまい、不気味な沈黙だけが下りる。


やがて、二時間ほどの【上映】が終わり、館内が明るくなった。

防音扉が開き、ホラー映画としてすっかり満足しきったマニアたちが、興奮冷めやらぬ様子でロビーに出てくる。


「いやぁ、最高の三本立てだったな」

「ああ。また次の上映が楽しみだ」


彼らは佳奈の存在など気にも留めず、嬉々とした足取りで重いガラス扉を開け、夜の街へと消えていった。


客が帰った後の映写室。

八尾は映写機から外した三本のフィルムを光に透かして見ながら、その「削り具合」を静かに確かめていた。


「まだまだ、地道に削らなければこいつらは大人しくならないだろうね」


独り言のように呟く八尾から、佳奈はいつものように今日の給料が入った茶封筒を受け取った。

仕事をこなす度に支払われる給料。それを受け取り、佳奈は深く頭を下げて映画館を後にした。


夜の街を歩き、自分のアパートへと帰宅する。部屋の鍵を開け、明かりをつける。

今日は、命を脅かすような怪異の気配はなかった。パニックになるような恐怖の現象も起きていない。

しかし、佳奈を待っていたのは、先日の『召使』との対峙で一時的に封入された怪異【付き人】の力を借りてしまったことによる、明確な肉体の「代償」だった。


洗面台の前に立ち、顔を洗おうとして鏡を見た瞬間。

佳奈の全身が、冷水を浴びたように強張った。

鏡の中の自分の動きが、決定的に一拍遅れている。

右手を上げてみる。コンマ数秒遅れて、鏡の中の右手も上がる。

瞬きをする。少し遅れて、鏡の中の自分も瞬きをする。

見間違いではない。はっきりと、自分の像が遅延しているのだ。


「……っ」


佳奈は震える手を、自分の頬に当てた。

初夏だというのに、指先は氷のように冷たく、異常なほど体温が低かった。まるで、自分の身体が死体になりかけているような錯覚。


それだけではない。

ふと、今日大学でどんな講義を受けたのかを思い出そうとしたが、頭の中にぽっかりと穴が空いたように、あるはずの記憶がすっぽりと抜け落ちて欠如していた。

人間としての連続性が削り取られ、自分が自分でなくなっていくような不気味な恐怖。


佳奈は耐えきれず、熱いシャワーを浴びて冷たい汗と悪寒を洗い流そうとした。

しかし、どれだけ熱いお湯を浴びても、身体の芯から這い上がってくる冷気は消えなかった。

シャワーを終え、髪を乾かしながら部屋に戻る。

ふと、机の方を見ると、引き出しのわずかな『隙間』から、一枚のレポート用紙がはみ出していた。

恐る恐るそれを引き抜く。

そこには、赤い鉛筆の文字で、こう書き殴られていた。


【またあした】


逃げ場のない、隙間女からの独占欲の印だ。

佳奈は、その薄汚れた紙切れを見つめながら、静かに悟った。

自分はもう、引き返せないところまで歩いてきてしまったのだと。

日常と非日常の境界線を越え、末広佳奈という人間は、あの黒い映画館の指定席に深く、そして決定的に縛り付けられてしまった。

もはや、元の普通の女子大生には戻れない。

自分の連続性が削られ続け、最後にはどうなってしまうのか。

そのひんやりとした、絶望的な『余韻』が、佳奈の部屋を冷たく満たしていくのだった。


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