第6話 召使
液晶テレビの画面の中で、ニュースキャスターが感情を排した平坦な声で原稿を読み上げていた。
『――逮捕された容疑者は、ベビーシッターとして派遣された複数の家庭で、預かっていた児童に危害を加えた疑いが持たれています。警察の調べに対し、容疑者は「泣き声がうるさかった」などと供述しており……』
朝食のトーストをかじる手が、ピタリと止まった。
画面には、送検されていく女の顔が映し出されている。どこにでもいそうな、優しげな顔立ちをした女だった。その女が、親から「我が子を守ってくれる存在」として信頼され、密室となった家の中で、抵抗できない子供ばかりを狙って次々と手を下していたというのだ。
「……信じられない」
末広佳奈は、どこにでもいる普通の女子大生として、テレビの前で呆然と呟いた。
ただでさえ、前回の事件、人間の身勝手な業によって生み出され、冷たい泥の中で母親を求めて泣き叫んでいたあの巨大な赤子の怪異の記憶が、佳奈の心に重くのしかかったままだった。
安心して子供を預けることすらできない世の中。絶対的な味方であるはずの存在が、最も恐ろしい加害者に反転する密室。世も末だ、という言葉がこれほどしっくりとくるニュースもない。
やり場のない憂鬱な気持ちを抱えたまま、佳奈はテレビを消し、重い足取りで大学へと向かった。
その日の大学の講義は、奇しくも朝のニュースの陰惨さを歴史という観点から裏付けるような内容だった。
「現代のベビーシッターという職業は、古くは『乳母』や『召使い』といった役割に遡ることができます」
白髪の教授が、黒板に古い文献のコピーを映し出しながら淡々と語る。
「特に、身分制度が厳しかった時代の召使いや乳母たちの忠誠心は、現代の私たちの感覚では到底理解できないほど異常に高いものでした。彼女たちにとって、主君やその子供の命は、自分自身の命そのものと同義だったのです。主人が死ねば、共に殺されるか、自ら命を絶って殉死する召使いや使用人たちが数多く存在しました」
佳奈はノートにペンを走らせながら、その重苦しい歴史の事実に息を詰まらせた。
「出生率が低かった時代や、戦乱の世、あるいは深刻な飢饉の時代では、子供は家を存続させるための最も重要な財産でした。主君からそんな大切な子供の世話を任されながらも、敵襲や病などから子を守りきれなかった召使いはどうなったか。……その責任の重さに耐えかね、自害したり、あるいは見せしめとして残酷に処刑されたりする者が数多くいたという記録が残されています」
教授はスライドを切り替え、苔むした古い石碑の写真を映し出した。
「そうした乳母や召使いたちの、果たせなかった忠誠心や、子を守れなかった無念を供養するための碑や祠が、実は今でも全国各地の人知れぬ場所に数多く存在しているのです」
講義を聴き終えた佳奈の心には、朝のニュースとはまた違った種類の、ねっとりとした暗い感情が沈殿していた。
命運を共にすることを強要され、守れなければ死をもって償わされる。彼女たちの背負っていた「子を守る」という重圧は、どれほどのものだったのだろうか。
放課後。佳奈は街の喧騒から完全に切り離された場末の商店街を抜け、黒い外壁の二階建ての建物へと出勤した。
重いガラス扉を押し開け、薄暗いロビーに足を踏み入れる。館内には相変わらず古い紙と機械の油の匂い、そして強烈な紫煙の匂いが立ち込めていた。
「おはようございます……」
「遅いわね、新人」
薄暗いカウンターの奥で、館主の八尾亜璃珠が気怠げな声を上げた。
足先まで届きそうな長い黒髪に、場末の映画館には不釣り合いなほどグラマラスな肢体。彼女は今日も装飾の一切ない黒い服に身を包み、指先に挟んだ煙草から絶えず灰色の煙を吐き出している。
そのむせ返るような煙草の煙は、八尾自身から漂う何か得体の知れない気配を、ひたすらに上書きして隠し続けるための癖である。
佳奈は自分の指定席である、入り口横の小さな窓口のパイプ椅子に腰を下ろした。
今日も映画館に客が来る気配は全くない。
手持ち無沙汰に机の台を見つめていると、窓口の台とアクリル板のほんのわずかな『隙間』から、血の気のない真っ白な指が音もなく這い出してきた。
この館に住み着く無言の妖怪、隙間女だ。
真っ白な指は、どこから持ってきたのか、古い映画の半券をトランプのように広げ、暇を持て余したように綺麗に端を揃えて並べるという謎の遊びを始めている。
なんとなくやりきれない気持ちを持て余していた佳奈は、手元にあったメモ用紙を引き寄せ、備え付けのすり減った鉛筆で短い文章を書いた。
『今日、大学で昔の召使いの話を聞いたんだ。子を守れなくて、無念のまま死んでいった人たちの話』
佳奈がそのメモ用紙を隙間の方へ押しやると、半券を並べていた白い指がピタリと動きを止めた。
指はするりと鉛筆を奪い取ると、紙の余白に、ゆっくりと赤い文字を書き殴った。
【は っ し ゃ く さ ま】
その文字を見た瞬間、佳奈は眉をひそめた。
都市伝説としてあまりにも有名な怪異の名前だったからだ。背が異常に高く、『ぽぽぽ』という独特な声を出しながら、子供ばかりを狙って攫っていくという恐ろしい存在。オカルトにそこまで詳しくない佳奈でさえ、ネットの掲示板や噂話で何度も目にしたことがある。
「八尺様?それが、召使いの話とどう関係あるの?」
佳奈が小声で問いかけたが、隙間女はもう返事をしなかった。鉛筆を放り出し、再び半券を並べる遊びに戻ってしまったのだ。
ただの気まぐれな連想ゲームだったのだろうか。佳奈は首を傾げながら、その不気味な赤い文字を見つめていた。
それから数日後。
平穏だったはずの街は、突如として異様な騒ぎと緊張に包まれた。
『――不審な人物を目撃した方は、直ちに警察へ通報してください』
商店街のスピーカーから、町内放送の緊迫した声が何度も繰り返し流れている。掲示板には、真新しい行方不明者の情報提供を呼びかけるポスターが一斉に貼り出された。
街で、子供の行方不明事件が起きたのだ。
それも、ただの迷子ではない。行方不明になったのは、この街でも有名な地主の家の幼い一人息子だった。白昼堂々、自宅の庭で遊んでいたはずの姿が、忽然と消え失せたというのだ。
誘拐か、それとも事故か。疑心暗鬼に陥った大人たちが血眼になって探し回り、街中の空気がひどく張り詰めていた。
その騒ぎの余波は、普段は誰も寄り付かないこの場末の黒い映画館にまで及んだ。
カラン、と重いガラス扉が開き、制服姿の警察官が二人、険しい顔つきでロビーへと足を踏み入れたのである。
佳奈がビクッと身をすくめる中、カウンターの奥から八尾がゆっくりと姿を現した。
「いらっしゃい。生憎、今日は休館日だけど」
「あー、映画を観に来たわけじゃありません。この辺りで、男の子を見かけませんでしたか?地主の息子さんが行方不明になっていまして」
警察官が少年の顔写真を見せながら尋ねるが、八尾は写真に視線を落とすことすらせず、気怠げに紫煙を吐き出した。
「見てないわね。こんな場末に子供なんて寄り付かないでしょう」
「そうですか……。もし何か不審な人物を見かけたら、すぐに連絡してください」
八尾のあまりにも非協力的な態度に、警察官たちは胡散臭そうな目を向けながらも、それ以上追及することなく館を出て行った。
ガラス扉が閉まり、再び静寂が戻ったロビー。
しかし、佳奈の背筋には、警察官が持ち込んだのとは別の、ぞくりとした悍ましい悪寒が張り付いていた。
(間違いない。これは、恐怖の『起拍』だ……)
佳奈の愛する「恐怖の順番」のセオリーが、強烈な警鐘を鳴らしていた。ただの誘拐事件ではない。この張り詰めた空気の裏側に、確実に生者ならざる者の淀んだ冷たさが混じっている。
「……八尾さん。この行方不明事件も、怪異の仕業なんですか?」
佳奈が恐る恐る問いかけると、八尾は咥えていた煙草を灰皿に強く押し付けた。いつもなら面倒くさそうに聞き流す彼女の顔に、これまでにないほどの強い警戒の色が浮かんでいた。
「厄介な奴の仕業ね」
八尾は生気の薄い声で、ひどく忌々しげに断言した。
「いいこと、新人。妖怪や怪異っていうのは、存在そのものより『どう扱われたか』で増減するのよ。ネットや噂話で『実在する』と大勢に共有され、都市伝説として極限まで肥え太ってしまった怪異は、尋常じゃない質量を持つことになる。……下手をすれば、フィルムに封じることすら無理かもしれないわ」
その言葉に、佳奈の全身からさあっと血の気が引いた。
これまで、どんな悍ましい怪異を相手にしても、八尾は必ずあの映写機とフィルムの力で圧倒してきた。その彼女が、「無理かもしれない」と口にしたのだ。
「そんな怪異を相手に、私たちだけで対処できるんですか……?」
震える声で尋ねる佳奈に対し、八尾はカウンターの奥から無骨で重厚な旧式のフィルムカメラを取り出し、佳奈の胸元へと押し付けた。
さらに、八尾のもう片方の手には、古びたフィルムのケースが固く握りしめられていた。
「行くわよ、新人。今回は封じた怪異たちの力を借りるわ」
八尾の瞳が、冷徹な光を放つ。
その言葉の意味も、これから自分が何をさせられるのかも分からないまま、佳奈はただ頷くことしかできなかった。
人間側の宣言者としての役割を果たすため、佳奈はカメラを抱え、八尾と共に日が落ち始めた夜の街の外れ、鬱蒼とした木々に覆われた「里山」へと足を踏み入れていくのだった。
夜の里山は、街の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
街灯など一つもない。月明かりだけが頼りの鬱蒼とした山道を、佳奈は八尾の背中を追って必死に登っていた。
重厚な旧式のフィルムカメラが、胸元で冷たく揺れる。
「八尾さん、本当にこの奥に……?」
息を切らしながら問いかける佳奈に、八尾は無言で顎をしゃくった。
木々の隙間から、ひらけた空間が見えてくる。そこは、古い墓地だった。苔むした墓石が不規則に並び、その一番奥には、風化して崩れかけた小さな祠がひっそりと佇んでいた。
佳奈は目を凝らす。
祠の前に、小さな人影がうずくまっていた。半ズボンにランドセルという出で立ち。行方不明になっていた、あの地主の息子だ。
「あの子だ……!よかった、まだ無事……」
佳奈が安堵の声を上げ、駆け寄ろうと一歩踏み出した瞬間。
ガシッ、と。八尾の手が佳奈の腕を強く掴んで引き止めた。
「待ちなさい。もういるわよ」
「え……?」
八尾の視線は、少年の姿ではなく、その後ろの『空間』に向けられていた。
佳奈もそちらへ視線を移す。
月明かりが、祠を照らし出す。その祠の屋根を遥かに超える高さに、信じられないものが立っていた。
異常なまでに背の高い、女の影だった。
白装束のような衣服を纏い、頭にはつばの広い帽子を被っている。
顔ははっきりと見えない。ただ、その影の高さはどう見ても二メートルを優に超え、三メートルに迫ろうかという異様なスケールだった。
都市伝説として名高い怪異、【八尺様】である。
『ぽぽぽ、ぽ、ぽ……』
その影の口元から、くぐもった、男とも女ともつかない不気味な声が漏れ出した。
声を聞いた瞬間、佳奈の背筋を氷のように冷たい悪寒が駆け下りる。
「ひっ……!」
本能が、あれは直視してはいけないものだと警鐘を鳴らした。
佳奈は震える手で重厚な旧式のフィルムカメラを構える。ファインダー越しに、その背の高い影を捉えようとした。
しかし、ピントが全く合わない。
レンズを通したその姿は、まるで真夏の陽炎のように激しくブレており、輪郭がいくつにも重なって見えるのだ。
(撮れない……っ!どうして!?)
都市伝説として大勢に共有され、極限まで肥え太ってしまった怪異は、存在の密度が高すぎて通常の撮影すら困難になっていたのである。
『ぽぽ、ぽ、ぽぽ……』
怪異が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
その異様な声が耳膜を叩くたび、佳奈の脳が激しい目眩に襲われる。視界がぐらりと揺れ、立っていることすら困難になっていく。
ただの人間である佳奈にとって、これほど強大に肥え太った怪異を直視することは、それだけで致命的な精神汚染を引き起こす原因となっていた。
吐き気がこみ上げ、佳奈はたまらずその場に膝をつきそうになった。
「チッ、面倒ね」
佳奈が倒れそうになった瞬間、八尾が忌々しげに舌打ちをした。
彼女は自分の鞄から、古びたフィルムの切れ端を一枚取り出し、佳奈の胸元へ押し付ける。
そして、鋭く、絶対的な拘束力を持った声で、そのフィルムに封じられた怪異の名前を呼んだ。
「付き人!」
その声が響いた直後。
佳奈の背中に、ドス黒く重い「何か」がのしかかってきた。
「あっ……!」
見覚えのある、いや、覚えのある感覚だった。
かつて歩道橋で遭遇し、背中に張り付かれたあの地縛霊の感覚。
佳奈は自分が何をされたのか完全に理解することはできなかったが、背中の重圧と引き換えに、八尺様から受けていたひどい目眩と精神汚染が、スッと引いていくのを感じた。
佳奈の背中に張り付いた『付き人』の重みが、怪異から放たれる毒を、佳奈の代わりに肩代わりしてくれているのだ。
佳奈の意識が鮮明になった一瞬の隙を突き、八尾が素早く駆け出した。
八尾はうずくまっていた少年の腕を掴み、強引に抱え起こす。少年の目は虚ろで、意識は完全に混濁していた。
「ばあ、や……」
少年は、熱にうなされるように、うわ言を口にした。
「ばあや、どこ……」
その言葉が、夜の墓場に響いた瞬間。
背の高い影の様子が、劇的に変化した。
『ポポポポポポポポッ!!!』
先ほどまでの不気味な鳴き声が、狂乱したような金切り声へと変わった。
怪異が腕を振り回す。その細長い腕が、周囲の苔むした墓標を次々となぎ倒し、砕き割っていく。子供を奪われたことへの異常な執着と、激しい怒りが、その巨体を震わせていた。
その狂乱の姿を見た佳奈の脳内で、バラバラだった情報が急速に結びつき始めた。
少年のうわ言。
『ばあや』という、昔の乳母を呼ぶような名前。
そして、昼間に大学の講義で聞いた、あの凄惨な歴史の話。
(違う。あれは、ただネットで作られた都市伝説の化物じゃない……っ)
佳奈は、この怪異の根底にある『正体』を完全に理解してしまった。
あれは、戦乱の世や飢饉で子を守りきれなかった『召使い』や『乳母』たちの、底知れぬ怨念が集まった亡霊なのだ。
生前に果たせなかった主君への忠誠心が、長い年月を経て歪みに歪み、子供を無差別に攫っては、独りよがりに守ろうとしている狂気の集合体。
それが、この怪異の本当の姿だった。
そして、自分の根底にある正体を暴き、理解した佳奈の存在に、怪異が気づいた。
『――ポォォォォォォォォォォォォッ!!!』
狂乱した怪異は、佳奈を「自分が守るべき子を奪う外敵」と明確に認定した。
三メートル近い巨体が、凄まじい殺意と共に、佳奈へ向かって覆い被さるように襲いかかってくる。
「ひっ……!」
逃げ場はない。圧倒的な暴力が迫る中、佳奈の背中に張り付いていた『付き人』の重圧が、今度はドス黒い靄となって佳奈の足元から這い出した。
靄は、襲いかかってきた怪異の足元へと絡みつき、その巨体の動きを、ほんの一瞬だけ強引に縫い留めた。
「今よ!」
八尾の鋭い声が飛ぶ。
佳奈は決死の覚悟でカメラを構え、動きの止まった怪異の異様な姿をファインダーの中央に捉えた。
今度は、ブレない。
カシャッ!
強烈なフラッシュの光が、夜の墓地を真昼のように照らし出した。
シャッター音と共に、怪異の姿がフィルムの一コマへと焼き付けられる。
直後、激怒した怪異が『付き人』の拘束を力任せに引きちぎった。
佳奈と八尾は、意識のない少年を抱え、夜の里山を転がるようにして逃げ出した。
背後からは、木々をなぎ倒し、独特の不気味な声を上げながら執拗に追いかけてくる巨大な影の足音が響く。
目指すのは、術場であるあの場末の黒い映画館だけだった。
喉の奥から血の味がした。
後ろを振り返る余裕など一切ない。ただひたすらに、抱えた少年の重みと八尾に背中を押される力だけで、夜の街を駆け抜ける。
背後からは、アスファルトを削り取り、街路樹をなぎ倒しながら這いずってくる、巨大な影の悍ましい足音がピタリと張り付いていた。どれだけ角を曲がっても、どれだけ息を切らして走っても、あの『ぽぽぽ』という不気味な声が鼓膜から離れない。
やがて、見慣れた場末の商店街の先に、周囲の景色から完全に浮き上がるような漆黒の外壁が見えてきた。
「入れ!」
八尾が重いガラス扉を乱暴に押し開け、佳奈と少年をロビーへと突き飛ばすようにして投げ込んだ。
佳奈が赤い絨毯の上に転がり込んだ直後、八尾は素早く扉を閉め、内側から重い鍵を掛けた。
メシャァァァァンッ!!
次の瞬間、重厚なはずのガラス扉が、紙切れのように容易く粉砕された。
飛散するガラス片と共に、映画館の建物全体がミシミシと悲鳴を上げるほどの凄まじい重圧が、外から叩きつけられた。
「ひぃっ……!」
佳奈は意識のない少年を庇うようにして床に伏せた。
三メートル近い巨大な影が、破壊された入り口の枠をへし折りながら、無理やりロビーへと身をねじ込んでくる。肥え太った都市伝説が放つ強烈な精神汚染と、圧倒的な物理的暴力。
天井からパラパラと漆喰が落ち、壁に掛けられた古時計が激しく揺れ落ちて粉々になる。怪異は館そのものを破壊し尽くし、なんとしても中の『自分の子供』を奪い返そうと暴れ狂っていた。
『ポポポポポポポポォォォォォォォォッ!!!』
鼓膜を突き破るような金切り声が館内に響き渡る。
その声を聞いただけで、佳奈の視界がぐにゃりと歪み、強烈な吐き気が胃袋をせり上がってきた。だが、その直後、佳奈の背中に張り付いていた『付き人』の重みが、ドス黒い靄となって佳奈の身体を包み込み、精神汚染の波をギリギリのところで防ぎ止める。
ミシッ、メキメキメキッ!
怪異が腕を振り回すたびに、ロビーを支える太い柱が嫌な音を立てて軋む。このままでは、術が完成する前に映画館そのものが倒壊してしまう。
その時だった。
佳奈の視界の端で、ロビーの壁と床のわずかな『隙間』から、真っ白なものが大量に這い出してきた。
無数の、血の気のない白い腕だった。
この館に住み着く無言の妖怪、隙間女だ。
無数の白い腕は、軋みを上げる柱にびっしりと絡みつき、今にも折れそうな建物の骨組みを必死に支えようとしている。さらに、その白い腕の一部と、佳奈の足元から這い出した『付き人』の黒い靄が絡み合い、暴れ狂う巨大な影の足元へと縛り付いた。
「今よ!」
柱が支えられ、怪異の足がほんの一瞬だけ止まった隙を突き、八尾の鋭い声が映写室から響いた。
彼女はすでに、捕縛の本体である映写機を起動していたのだ。
カシャカシャと無機質なフィルムの回る音が響き渡り、境界であるスクリーンに、光の束が投射された。そこに映し出されたのは、先ほど佳奈が命がけで撮影したばかりの、背の高い異形の不鮮明なコマだった。
八尾は深く紫煙を吸い込むと、煙と共に、低く、しかし絶対的な拘束力を持った声で、怪異の『真名』を言い放つ。
「召使」
その言葉が館内に響いた瞬間。
ロビーで暴れていた怪異の実体が、空中でピタリと硬直した。
目に見えない強大な力でスクリーンへと引きずられ、投影された映像と、怪異の実体が強制的に重ね合わされていく。
『ポ、ポォォォォ……ッ!』
スクリーンに縫い留められた怪異が、引き剥がされまいともがき苦しみながら、悲痛な声を上げた。
それは、子を守れなかった無念と、果たせなかった歪な忠誠心の塊。
「宣言しなさい、新人!」
八尾の鋭い声に弾かれ、佳奈は少年を庇いながら顔を上げた。
精神はすでに限界まですり減っている。それでも、言わなければならない。この怪異の実在性を否定し、フィルムの監獄へと封じ込めるための、絶対的な確定の刃を。
「こ、この物語は、フィクションです……っ!」
佳奈の口から発せられた言葉が、決定的な刃となって怪異の実在性を真っ向から貫いた。
『――ギィィィィィィィィィィィィアアアアアアアアアアアアアッ!!!』
映画館の建物全体が吹き飛ぶのではないかと思えるほどの、凄まじい断末魔が響き渡った。
スクリーンから現実へとはみ出そうとしていた巨大な影が、一瞬にして元の平面へと引きずり戻されていく。圧倒的な質量を持っていたはずの怪異の姿が崩れ、力が掃除機に吸い込まれるようにフィルムの中へと封じ込められていく。
しかし。
プツン、と映像が切れた後も、館内にはひんやりとした悪寒が色濃く残っていた。
八尾が舌打ちをする音が聞こえた。
完全に消滅させることは、できなかったのだ。
ネットや噂話で何年にもわたって共有され、都市伝説として肥え太りすぎた「八尺様」という名前の器は、あまりにも強固すぎた。
フィルムに封じ込めることができたのは、怪異の持つ力のごく一部に過ぎない。スクリーンに吸い込まれなかった残りの怨念は、霞のように散り散りになり、破壊された扉の向こう、夜の闇へと静かに溶けて消え去っていったのである。
事態が収束し、保護された地主の息子は、すぐさま連絡を受けた警察へと無事に引き渡された。少年は気を失ったままで、この夜の出来事を何も覚えていないだろう。
翌日。
佳奈は八尾と共に、再びあの里山を訪れていた。
昼間の陽光に照らされた墓地は、昨夜の狂気が嘘のように静まり返っている。ただ、なぎ倒され、砕け散った無数の墓標の残骸だけが、そこで起きた圧倒的な暴力の痕跡を無言で物語っていた。
佳奈は、一番奥にある風化した小さな祠の前に立ち、静かに手を合わせた。
目を閉じると、ふらりと視界が揺れる。
(……少し、頭が痛い)
昨夜、初めて「封じられた怪異の力を借りる」という未知の経験をした。
その代償は、確かに佳奈の身体を蝕んでいた。昨日の出来事のほんの数秒分の記憶がどうしても思い出せなかったり、初夏だというのに指先が氷のように冷たくなっていたりする。人間としての連続性が欠落するという薄気味悪い感覚。
だが、佳奈はそれを八尾には口に出さなかった。
今回の事件は、フィルムに完全に封じることはできなかった。
すぐにまたどこかで、子供を狙う背の高い怪異の噂が流れ始めるだろう。主人の子を守れなかった召使たちの、何百年にもわたって降り積もった深い無念と狂気は、そう簡単に供養できるものではないのだ。
それでも、せめて、理不尽な歴史の闇に消えていった彼女たちの魂が、ほんの少しでも安らぐように。そして、これ以上生きた子供たちが理不尽に奪われないように。
佳奈はただ、祈ることしかできなかった。
ふと、冷たい風が里山の木々を揺らした。
『……ぽぽ、ぽ……』
風の音に混じって、どこからか、あの独特な声が聞こえたような気がした。
気のせいかもしれない。だが、都市伝説となった彼女たちは、今日もどこかで、子供の側を彷徨っているのだ。
決して終わることのない怪異の連鎖と、終わらない都市伝説のひんやりとした『余韻』が、佳奈の心に重く沈殿していくのだった。




