第5話 不純
喧騒に包まれた大学の学生食堂。
無数の話し声と食器の触れ合う音が入り混じる中、末広佳奈は冷めたうどんをすすりながら、背後のテーブルから聞こえてくるひそひそ声に耳を傾けていた。
どこにでもいる普通の女子大生として、今日も着慣れたカジュアルな服に身を包んだ佳奈は、焦げ茶色のショートボブの髪を揺らしながら、あえてスマートフォンに視線を落としたまま息を潜める。
「ねえ、聞いた?〇〇学部のあの子、妊娠したらしいよ」
「うそ、マジで?彼氏いたっけ」
「それが、飲み会での一夜の過ちだって。相手とはそれっきりらしいし、結局、堕ろすことになったんだってさ」
「うわぁ……信じられない。自業自得だけど、ちょっと可哀想かも」
軽いゴシップとして消費されていく同級生の噂話。
佳奈には、そんな浮ついた相手もいなければ、飲み会で羽目を外すような経験もなかった。だからこそ、その噂話はひどく別世界の出来事のように聞こえた。
ただ、心の中にじわりと広がるのは、割り切れない薄暗い感情だった。
(……無責任すぎる)
命を身勝手に作り出し、都合が悪くなれば身勝手に消し去る。その軽薄な選択に対して、佳奈は強い嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
どんぶりの中の汁が、ひどく濁って見えた。すっかり食欲を無くした佳奈は、逃げるように食堂を後にした。
放課後。佳奈は街の喧騒から離れた場末の商店街を抜け、あの黒い外壁の二階建ての建物へと出勤した。
無人に見える窓口の横の重いガラス扉を開ける。ロビーには相変わらず、古い紙の匂いと機械の油の匂い、そして強烈な紫煙の匂いが立ち込めていた。
「おはようございます……」
「遅いわね、新人」
カウンターの奥から、館主である八尾亜璃珠が生気の薄い声で応えた。
足先まで届きそうな長い黒髪。場末には不釣り合いなほどグラマラスな肢体を、装飾の一切ない黒い服で雑に包んでいる。彼女の細い指には火のついた煙草が挟まれており、むせ返るような灰色の煙が絶えず吐き出されていた。
佳奈は自分の指定席である、入り口横の小さな窓口のパイプ椅子に座った。
今日も映画館に客が来る気配はない。
手持ち無沙汰に机の上を見つめていると、窓口の台とアクリル板のほんのわずかな『隙間』から、血の気のない真っ白な指が這い出してきた。
この館に住み着く無言の妖怪、隙間女だ。
真っ白な指は、どこから持ってきたのか、古い映画の半券チケットを一枚、また一枚と、まるで暇つぶしのように数え始めている。
すでにその異様な光景にもすっかり慣れてしまった佳奈は、ふと、昼間に大学で聞いた噂話を思い出した。
「八尾さん。子供なんて、そう簡単に作っていいものじゃないですよね」
独り言のようにこぼした佳奈の言葉に、八尾は興味なさそうに紫煙を吐き出した。
「そうね」
ただ一言、それだけだった。八尾にとって、人間の矮小な倫理観や恋愛事情など、一切の興味の対象外なのだ。
沈黙が降りた閑散としたロビーで、佳奈は壁に飾られた草臥れたホラー映画のポスターをぼんやりと眺めながら、無為なアルバイトの時間をやり過ごした。
退勤後、すっかり日の落ちた夜の街を歩いて帰路につく。
住宅街の静かな通りを歩いていると、ふと、前方に建つ産婦人科の医院から、くぐもった声が聞こえてきた。
『オギャア、オギャア』
元気な赤子の泣き声だった。
普段であれば、新しい命の誕生を祝福する微笑ましい音として聞き流していただろう。しかし、昼間の同級生の噂話が脳裏にこびりついている佳奈にとって、その泣き声はひどく鼓膜に障った。
命は平等に尊いはずだ。それなのに、あの同級生のお腹にいる望まれない命は、一体どうなるのだろうか。生まれることすら許されず、闇の中へ消えていくのだろうか。
憂鬱な感情に苛まれながら足を止めた佳奈の背筋を、ふと、微かな冷気が撫でた。
(……え?)
佳奈の愛する「恐怖の順番」のセオリーが、強烈な違和感を感知したのだ。
恐怖の第一段階である『起拍』。
夜の産婦人科から聞こえてくる赤子の泣き声。それは確かに命の音のはずなのに、その声の余韻に、どこか生者ならざる淀んだ冷たさが混じっているように感じたのである。
前回の事件を経て、恐怖に対する解像度が上がってしまっている佳奈の直感だった。
佳奈は首を振り、気のせいだと言い聞かせて逃げるように足早にその場を立ち去った。
翌日。
大学の大教室で行われる講義に出席した佳奈は、ふと視線を巡らせ、例の噂になっていた同級生の姿がないことに気づいた。
(……休んでる。そりゃ、そうか)
複雑な思いを抱えながら、佳奈は黙々とノートにペンを走らせていた。
教授の単調な声だけが響く、静まり返った大教室。
その時だった。
『オギャア……』
不意に、教室のどこかから、くぐもった赤子の泣き声が聞こえた。
佳奈はビクッと肩を震わせ、周囲を見回した。しかし、数百人が座る大教室の中で、誰もその声に反応していない。皆、退屈そうに前を見ているか、スマートフォンを弄っているだけだ。
そもそも、大学の講義中に赤子がいるはずがない。
(気のせいだ。昨日、産婦人科の前を通ったから、変に意識しちゃってるだけ)
そう自分に強く言い聞かせ、佳奈は再びノートに向かった。
しかし、時間が過ぎるにつれて、その泣き声は「気のせい」では済まされないほど、はっきりと佳奈の耳元で響き始めたのだ。
『オギャア、オギャア』
耳を塞いでも、鼓膜の内側から直接響いてくるような、ねっとりとした声。
ただの泣き声ではない。声の奥底から、明らかな『言葉』が混じり始めている。
『おかあさん』
『どこ』
『いたいよ、くるしいよ』
心臓が早鐘を打ち、全身から冷や汗がどっと吹き出す。
恐怖の『起拍』を過ぎ、逃げ場のない状況でじわじわと迫り来る『溜め』の段階が、限界まで膨れ上がっていた。
誰かに助けを求めているのではない。あれは、ただひたすらに「母親」を求めて彷徨う、生者ならざる者の思念だ。
「っ……!」
耐えきれなくなった佳奈は、講義中であることも忘れ、鞄を掴んで弾かれたように教室を飛び出した。
背後から教授の咎める声が聞こえた気がしたが、振り返る余裕などなかった。息を切らし、ただひたすらに、あの黒い映画館を目指して走った。
「八尾さん!」
勢いよくガラス扉を開けてロビーに駆け込んだ佳奈は、息も絶え絶えに叫んだ。
カウンターの奥で煙草を吹かしていた八尾が、鬱陶しそうに目を細める。
「うるさいわね。今日はシフトの日じゃないでしょう」
「ちがっ、違うんです!聞こえるんです、ずっと……赤ちゃんの、泣き声が……っ!」
佳奈が恐怖に震える声で事の次第を説明すると、八尾の顔から微かな苛立ちの色が消え、代わりに氷のような冷酷さが宿った。
八尾は深く紫煙を吸い込むと、ひどく忌々しげに吸い殻を灰皿へ押し付け、立ち上がった。
「人間はホント、余計なことしかしないわね」
吐き捨てるように毒づいた八尾は、カウンターの奥からあの無骨で重厚な旧式のフィルムカメラを引っ張り出し、佳奈の胸元へ乱暴に押し付けた。
「行くわよ、新人。それが人間の同情を吸って、都市伝説として完全に太り切る前に封じるわ」
有無を言わさぬ八尾の力に引かれ、佳奈は再び恐怖の渦中へと引きずり出された。
二人は、昨日佳奈が通った産婦人科や、街の総合病院の周辺を足早に巡っていく。しかし、怪異の姿は見当たらない。
八尾が最後に足を向けたのは、街の外れにある、鬱蒼とした木々に囲まれた古い寺院の跡地だった。
そこはかつて「子捨て寺」と呼ばれた場所だという。
生活苦や世間体など、様々な理由で身勝手に捨てられた子供や、間引かれた赤子の霊を鎮めるための、風化した古い祠がひっそりと佇んでいた。
寺の敷地に足を踏み入れた瞬間。
佳奈の鼓膜を破らんばかりの、強烈で巨大な赤子の泣き声が響き渡った。
『オギャアアアアアッ!』
視界がぐにゃりと歪む。
薄暗い祠の裏の影から、どろりと『それ』が這い出してきた。
それは、通常の赤子とは比較にならないほど、異様に巨大な肉の塊だった。
顔のパーツは定まっておらず、のっぺらぼうのような頭部から、人間の手首にも満たない無数の小さな手が蠢き、何かを探すように虚空を掴んでいる。
男と女が身勝手に作り出し、そして身勝手に捨てた無数の子供たちの無念や恨みが、どす黒く集まって生まれた怨霊。
怪異【不純】が、佳奈の前にその悍ましい真の姿を現した。
鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた、古い子捨て寺の跡地。
風化した石仏が並ぶ暗がりの中で、這い出してきた『それ』は、あまりにも異様で、あまりにも巨大だった。
軽自動車ほどもあるぶよぶよとした肉の塊。
顔があるべき場所には目も鼻もなく、ただ爛れたように赤黒い皮膚がのっぺりと広がっている。しかし、その全身からは、まだ指の関節もはっきりしないような、人間の赤子の小さな手が無数に生え、何かを求めるように虚空を力なく掴んでいた。
『オギャア、オギャアアアアッ!』
その顔のない頭部から、鼓膜を裂くような産声が響き渡る。
男と女が身勝手に作り出し、都合が悪くなれば身勝手に闇へと葬り去った命の残骸。それらの無念と孤独が寄り集まって肥大化した怨霊の集合体。
それが、この怪異【不純】の正体だった。
無数の小さな手が、一斉にこちらへ向けられる。
怪異は、自身の声を聞き取ることのできる佳奈の存在を明確に認識したのだ。
『おかあさん』
『だっこして、おかあさん』
ねっとりとした、甘えるような、それでいて呪詛のような思念が脳内に直接響く。
ズリ、ズリリリッ、と。
巨大な肉の塊が、地面の泥を削り取りながら、縋り付くような異様な速度で佳奈へと這い寄ってきた。無数の手が、母親の温もりと愛情を強要して佳奈の身体へ伸びてくる。
「ひっ……!」
佳奈は悲鳴を上げ、咄嗟に後ろへと大きく飛び退いた。
怪異の放つ強烈な思念に呑まれそうになっていたが、本能的な恐怖が勝ったのだ。あんな巨大な肉の塊を、人間の細い腕で抱きとめられるはずがない。もし抱きしめられれば、間違いなく全身の骨を砕かれて圧死する。
佳奈が身を躱したことで、空を切った無数の小さな手が、虚しく宙を掻いた。
ピタリ、と。
巨大な肉の塊の動きが止まる。
――拒絶された。
自分はまた、母親に抱いてもらえなかった。また、見捨てられたのだと。
『ア、ァァァァ…………ッ』
怪異から発せられる空気が、一変した。
悲哀が、どす黒い絶望と憎悪へと反転していく。
『アァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアッ!!!』
空気が爆発したかと思うほどの、凄まじい轟音が夜の寺院跡に響き渡った。
それは最早、泣き声などという生易しいものではない。物理的な振動を伴う、致死量の音圧だった。周囲の木々がざわめき、風化した祠の石がビリビリと震える。
「きゃあああっ!?」
佳奈は両手で強く耳を塞ぎ、その場にうずくまった。
だが、無駄だった。鼓膜を塞いでも、怪異の泣き声は佳奈の脳髄を直接揺さぶってくる。
『どうしてすてたの』
『さむいよ、くらいよ』
『おかあさん、おかあさん、おかあさん』
轟音と共に、親に捨てられた無数の赤子たちの「母親を求める強烈な思念」が、佳奈の精神の防壁を無理やりこじ開け、濁流のように流れ込んできた。
痛いほどの孤独。温もりを知らないまま消されていった理不尽さ。
前回の事件を経て、恐怖や怪異の気配に対する解像度が上がってしまっている佳奈の心は、そのあまりにも巨大な悲しみの波を、まともに受け止めてしまった。
(ああ……)
佳奈の意識が、急速に白く混濁していく。
同情と、強要された母性が、彼女の理性を塗り潰していく。
この子たちは、ただ抱きしめてほしいだけなのだ。冷たい泥の中から助け出して、温かい腕の中で眠らせてあげなければならない。私が、この子たちの母親になってあげなければ。
それが、自身を圧死させるための怪異の罠だということも忘れ、佳奈はゆっくりと立ち上がった。
耳を塞いでいた両手を下ろし、迫り来る巨大な肉の塊に向かって、呆けたようにふらふらと歩み寄り、その両腕を大きく広げる。
『オカア、サン……ッ』
狂喜した怪異が、佳奈をその巨体で押し潰そうと、無数の手を伸ばして覆い被さってきた。
佳奈の虚ろな瞳に、自身の死の影が落ちた、その瞬間だった。
「――馬鹿が、正気に戻れ!」
鋭い怒声と共に、黒い旋風が佳奈の横をすり抜けた。
八尾だ。
八尾は咥えていた煙草を吐き捨てると同時に、佳奈に覆い被さろうとしていた巨大な怪異の胴体めがけて、容赦のない蹴りを叩き込んだ。
ドゴォォォンッ!!
人間の女性の細足からは到底想像もつかない、凄まじい衝撃音が弾けた。
蹴りをまともに食らった巨大な肉の塊は、ゴム毬のように跳ね飛ばされ、数メートル先の木に激突してドシャリと無様に地面に転がった。
「っ……あ、私……!?」
鼓膜を叩く衝撃音と八尾の叱責で、佳奈はハッと我に返った。
自分が無意識のうちに、あの悍ましい怪異を抱きしめようとしていたことに気づき、全身から冷や汗が噴き出す。
「ボーッとしてる暇はないわよ!カメラを構えなさい!」
八尾の怒声に背中を叩かれ、佳奈は震える手で胸元の旧式フィルムカメラを引っ掴んだ。
怪異を捕縛する「上映」の絶対条件は、対象を一コマ以上撮影すること。
佳奈は泥に塗れて苦しそうに身をよじる巨大な肉の塊へとファインダーを向け、無数の小さな手が蠢くその中心にピントを合わせた。
カシャッ!
強烈なフラッシュの光が、木々の隙間の闇を真っ白に染め上げた。
光に暴き出された怪異の姿が、フィルムの一コマとして焼き付けられる。
シャッターを切った瞬間だった。
フラッシュの残像と共に、親に身勝手に作られ、身勝手に捨てられた無数の赤子たちの、底知れぬ無念と恨みの感情が、佳奈の脳内にフラッシュバックした。
彼らがどれほどの暗闇の中で、一度も抱きしめられることなく息絶えたのか。
佳奈は図らずも、この怪異の『正体』を、魂の底から完全に理解してしまったのだ。
『ギィィィィィィィィィィィィアアアアアアアッ!!!』
空気が凍りついた。
自身の正体と、その奥底にある惨めな無念を完全に理解された【不純】は、狂乱したようにその巨体を膨張させた。
もはや母親を求めて縋り付くような動きではない。
自分の悲しみを理解した存在を、永遠に逃がさないための完全な標的と定め、殺意すら孕んだ凄まじい勢いで佳奈へと襲いかかってきたのだ。
「逃げるわよ!」
八尾が佳奈の首根っこを乱暴に引っ掴み、後方へと引き倒すようにして駆け出した。
背後からは、木々をなぎ倒し、地面を削りながら這いずってくる悍ましい追撃の音が迫る。
間一髪で怪異の突進を躱した二人は、暗い子捨て寺の跡地を飛び出し、夜の街を一直線に駆け抜けた。目指すのは、術場であるあの場末の黒い映画館だけだった。
肺が焼け焦げ、喉から血の味がした。
後ろを振り返る余裕など一切ない。ただひたすらに、八尾に腕を引かれるまま夜の街を駆け抜ける。
背後からは、アスファルトを削り取り、街路樹をなぎ倒しながら這いずってくる、巨大な肉の塊の悍ましい音がピタリと張り付いていた。どれだけ角を曲がっても、どれだけ息を切らして走っても、血と泥の混じったような生臭い匂いが鼻先から離れない。
やがて、見慣れた場末の商店街の先に、周囲の景色から完全に浮き上がるような漆黒の外壁が見えてきた。
「入れ!」
八尾が重いガラス扉を乱暴に押し開け、佳奈をロビーへと突き飛ばすようにして投げ込んだ。
佳奈が赤い絨毯の上に転がり込んだ直後、八尾は素早く扉を閉め、内側から重い鍵を掛けた。
――ドゴォォォォンッ!!
次の瞬間、映画館の建物全体がミシミシと悲鳴を上げるほどの、凄まじい体当たりが外壁に叩きつけられた。
天井からパラパラと埃が落ち、壁に掛けられた古時計が激しく揺れる。怪異が館を丸ごと包み込み、なんとしても中の獲物を引きずり出そうと暴れ狂っているのだ。
ガラス扉の向こう側で、無数の小さな手がびっしりと張り付き、ギリギリと爪でガラスを引っ掻く不気味な音が響き始める。
「ひっ……!」
佳奈は床にへたり込んだまま、恐怖でガタガタと震え上がった。
だが、八尾は全く動じることなく、すでに捕縛の本体である映写室へと足を向けていた。
手際よくフィルムをセットし、重厚な機械のスイッチを入れる。
カシャカシャ、カシャカシャ……。
静寂と暴力が入り混じる館内に、無機質なフィルムの回る音が響き渡る。
境界であるスクリーンに、光の束が投射された。そこに映し出されたのは、先ほど佳奈が命がけで撮影したばかりの、無数の小さな手が蠢く巨大な肉の塊の不鮮明なコマだった。
八尾は深く紫煙を吸い込むと、煙と共に、低く、しかし絶対的な拘束力を持った声で、怪異の『真名』を言い放つ。
「不純」
その言葉が館内に響いた瞬間だった。
扉を突き破らんばかりに暴れていた怪異の実体が、外でピタリと硬直した。
目に見えない強大な力でスクリーンへと引きずり込まれ、投影された映像と、外の怪異の実体が強制的に重ね合わされていく。
『オギャアアア……ッ!オカア、サン……ッ!!』
スクリーンに縫い留められた怪異が、引き剥がされまいともがき苦しみながら、再びあの悲痛な泣き声を上げた。
それはただの音ではない。親に身勝手に作られ、身勝手に捨てられた無数の赤子たちの、純粋な絶望と孤独の思念だ。
佳奈の心臓が、締め付けられるように痛んだ。
「宣言しなさい、新人!」
八尾の鋭い声に弾かれ、佳奈は床に手をついたまま顔を上げた。
言わなければならない。この怪異の実在性を否定し、フィルムの監獄へと封じ込めるための、絶対的な確定の刃を。
だが、佳奈の喉は干からびたように張り付き、言葉がすぐに出てこなかった。
スクリーンの中で蠢く、顔のない肉の塊。
彼らは、望んであんな悍ましい姿になったわけではない。人間の身勝手な欲望によって無責任に命を与えられ、そして都合が悪くなったからと闇に葬り去られた、哀れな被害者たちなのだ。
その悲しみは、痛みは、間違いなく現実のものだった。
それを「作り物」だと言い捨ててしまえば、彼らは二度と誰にも抱きしめられることなく、冷たいフィルムの暗闇に永遠に閉じ込められてしまう。
『だっこして……』
『どうして、すてたの……』
鼓膜を直接揺さぶるようなねっとりとした声が、佳奈の母性を無理やり引きずり出そうとする。
助けてあげたい。この子たちの悲しみを、肯定してあげたい。
そんな強烈な同情が、佳奈の心を侵食しそうになった、その時。
「馬鹿ね」
冷水を浴びせるような八尾の声が、頭上から降ってきた。
見上げると、八尾は忌々しげに紫煙を吐き出しながら、冷徹な瞳でスクリーンを見据えていた。
「あいつらを可哀想だと思うのは勝手だけど、それであんたが命を落として、何か解決するの?あいつらはもう、純粋な赤子じゃない。人間の業を吸い込んで肥大化した、ただの悪意の塊よ」
八尾の言葉が、佳奈の脳天を貫いた。
そうだ。命を身勝手に作り、身勝手に消し去る人間の無責任さは、絶対に許されるべきではない。
だが、だからといって、この怪異に同情し、実在を許して街に解き放てば、無関係な人々が次々と無差別に呪い殺されていく大惨事になるだけだ。
彼らの悲しみを救うことは、もう誰にもできない。できるのは、これ以上の悲劇を食い止めるために、彼らを「虚像」として終わらせてあげることだけなのだ。
佳奈はぐっと奥歯を噛み締め、震える両足に力を込めて立ち上がった。
彼らが実在したことは、忘れずにいる。その痛みも、理不尽さも。
だが、怪異として暴れ回る今の彼らを、これ以上現実世界に留めておくわけにはいかない。
佳奈はスクリーンを真っ直ぐに見据え、深く息を吸い込んだ。
「あなた達が生まれたことは、現実です」
佳奈の凛とした声が、館内に響き渡る。怪異の動きが、その声に圧されるようにピクリと止まった。
「でも、お前達が騙る『この物語はフィクションです』!」
一切の迷いを捨て去った佳奈の言葉が、今度こそ決定的な刃となって、怪異の実在性を真っ向から貫いた。
『――ギィィィィィィィィィィィィアアアアアアアアアアアアアッ!!!』
映画館の建物全体が崩れ落ちるのではないかと思えるほどの、鼓膜を破壊するような凄まじい断末魔が響き渡った。
スクリーンから現実へとはみ出そうとしていた巨大な肉の塊が、一瞬にして元の平面へと引きずり戻されていく。圧倒的な質量を持っていたはずの怪異は、紙くずのようにペラペラと薄く圧縮され、スクリーンの中の平坦な登場人物へと完全に格下げされた。
そして、プツンと映像が切れ、逃げ場のないフィルムの監獄へと怪異は封じ込められたのである。
すべてが終わり、ロビーにはいつもの古びた匂いと、映写機の余熱だけが残った。
佳奈の耳元にこびりついていた、あのねっとりとした赤子の泣き声は、もうどこからも聞こえなくなっていた。
八尾はふうっと長く紫煙を吐き出すと、カウンターの上からいつものように茶封筒を佳奈に差し出した。
「今日の給料。もう帰っていいわよ」
佳奈は無言でそれを受け取り、深く頭を下げて映画館を後にした。
夜の街は、すっかり静まり返っていた。
自分のアパートへ向かって歩きながら、佳奈は何度も自分の手を握り、開いてみた。
指先は温かい。ショーウィンドウに映る自分の姿に、遅れはない。自分の記憶も、しっかりと連続性を保っている。
しかし、彼女の心には、鉛のように重い虚無感がのしかかっていた。
怪異は確かに封じられた。
だが、身勝手に命を作り出し、都合が悪くなれば身勝手に捨てるという、人間の無責任な『業』が消えたわけではない。
あの噂の同級生のように、今この瞬間も、世界のどこかで望まれない命がひっそりと消されているのだろう。
その残酷な事実がある限り、またいつか、捨てられた命の無念がどこかで寄り集まり、新たな怪異となって母親を求めて夜の街を彷徨う日が来るに違いない。
根本的な解決には何一つ至っていないという、やるせない虚しさ。
人間の業の底知れぬ深さと、自分がその人間という生き物の一部であるという自己嫌悪。
そのひんやりとした『余韻』が、佳奈の心に重く、静かに沈殿していくのだった。




