↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔女の映画館  作者: みこ
PR
4/11

第4話 被害者

けたたましいブレーキの摩擦音が、初夏の生ぬるい空気を乱暴に切り裂いた。


「っ……あぶなっ!」


大学へ向かう通学路の途中。横断歩道を渡ろうと足を踏み出した末広佳奈の鼻先を、猛スピードで突っ込んできた自転車が掠めていった。

乗っていたのは、同じ大学の学生らしき若い男だった。片手でスマートフォンを操作しながらの、完全な脇見運転である。バランスを崩した自転車はガシャンと派手な音を立ててガードレールに激突し、男はアスファルトの上に無様に転がった。


「ちょっと君、何をしてるんだ!前を見てなかっただろう!」


鋭い怒声が飛んできた。運良くというか、運悪くというか、すぐ近くの交番から巡回に出ていた警察官がその一部始終を目撃していたのだ。

警察官は血相を変えて駆け寄ると、転げ回る男子学生の腕を掴んで立たせた。


「怪我はないか?君も、大丈夫だったか」


「あ、はい……私は、ぶつかってないので」


佳奈が胸を撫で下ろしながら答えると、警察官は男子学生に向かって厳しい雷を落とし始めた。スマートフォンを見ながらの運転がいかに危険か、当たり所が悪ければ相手を殺していたかもしれないのだぞ、と。

結局、事故未遂ということで、お互いに警察官から厳重注意を受けるだけでその場は収まった。平謝りする男子学生の背中を見送りながら、佳奈はふうっと長く息を吐き出した。


(びっくりした……。でも、あれが『普通の事故』なんだよね)


佳奈の愛する「恐怖の順番」における『起拍』や『溜め』など一切存在しない、日常に唐突に割り込んでくる物理的な暴力。


あの顔のない医師の怪異がばら撒いた「原因不明の病」のパニックから数週間。街の熱りはすっかり冷め、こうして呆気ないほど無防備な日常が戻ってきていた。

キャンパスに到着すると、大学の正門付近では、青いジャンパーを着た自動車の自賠責保険の案内員たちが、学生たちを捕まえては熱心にパンフレットを配っていた。


『万が一の事故に備えて!被害者にも加害者にもならないために!』


拡声器から流れるその文句を聞き流しながら、佳奈は講義棟へと向かう。運転免許すら持っていない佳奈にとって、車の保険などまったく無縁な話だった。

いつも通りに退屈な必修講義を受講し、休み時間にトイレへと立ち寄る。

佳奈は洗面台の鏡の前に立ち、恐る恐る自分の顔を見つめた。

右手を上げてみる。鏡の中の自分も、まったく同じタイミングで右手を上げる。首を傾げてみる。遅延はない。

指先を頬に当ててみると、そこには確かに生温かい血の通った『体温』があった。


「……よかった。治ってる」


佳奈は心底ホッとして、洗面台の縁に手をついた。

数週間前、怪異と対峙した直後に起きていたあの恐ろしい異常、鏡の像が遅れ、記憶が飛び、体温が異常に低下するといった、人間としての連続性が欠落していく現象。あれはすっかり鳴りを潜め、消え去っていた。

ここ最近はあの黒い映画館でのアルバイトも、ただ閑散とした窓口に座っているだけの暇な時間が続いていた。

自分は元の「普通の女子大生」に戻れたのだ。そんな密かな安堵が、佳奈の心を少しだけ軽くしていた。


放課後。佳奈は場末の商店街を抜け、黒い外壁の映画館へと出勤した。

相変わらず客の来る気配はない。ロビーには古いフィルムの匂いと、むせ返るような強烈な紫煙の匂いが立ち込めている。

佳奈がパイプ椅子に座ってぼんやりと外を眺めていると、不意に、バタンッ!と乱暴な音が響いた。

ビクッと肩を震わせて振り返る。

映写室の重い扉を蹴り開けるようにして出てきたのは、館主の八尾亜璃珠だった。

足先まで届きそうな長い黒髪を揺らし、黒い服に包まれたグラマラスな肢体を苛立たしげに闊歩させる。指先に挟まれた煙草からは、いつも以上に濃い灰色の煙が吐き出されていた。八尾自身から漂う人ならざる臭いを上書きして隠すための、彼女特有の癖である。

今日の八尾は、非常に面倒くさそうに、これ以上ないほど美貌を歪めていた。


「……八尾さん?何かあったんですか」


「最悪よ。政府の連中、本当に余計なことしかしないわ」


八尾は吐き捨てるように言うと、手に握りつぶすように持っていた茶封筒を、佳奈のいる窓口の台へと乱暴に投げ出した。


宛名のない、非公式な封書。

中から滑り出てきたのは、多数の新聞記事やネットニュースを印刷した切り抜きと、今日の日付が印字されたテレビの番組表だった。

佳奈が目を落とすと、そこには凄惨な事件の見出しが並んでいた。


『未解決・一家惨殺事件の謎』

『通り魔事件から十年、遺族の消えない悲しみ』


どれも、現実に起きた有名な事件ばかりだ。切り抜きには、理不尽に命を奪われた実在の被害者たちの顔写真が、生々しく掲載されていた。

そして、傍らに置かれた番組表。

ゴールデンタイムの欄に、赤いサインペンでぐるぐると幾重にも丸がつけられた番組があった。


『今夜放送・特番!未解決の謎、被害者達の無念に迫る』


「……これ、今日の夜にやるテレビ番組ですよね。これがどうかしたんですか?」


「ええ。そのくだらないお涙頂戴の電波が、怪異を破裂させるのよ」


八尾は吸い殻を灰皿へ押し付け、生気の薄い声で宣告した。


「今回対峙する怪異の真名は、【被害者】」


「ひがい……しゃ?」


「実在の事件で殺された連中の、無念や恨み辛みが寄り集まってできた思念の集合体よ。そいつが今、街を徘徊して膨れ上がりかけてる」


佳奈は息を呑んだ。

これまでの怪異、地下道に残された執念や、顔のない都市伝説の医師とは根本的に違う。今回相手にするのは、間違いなく現実に生きて、そして理不尽に殺された「実在の人間たち」の怨念だというのだ。


「いいこと、新人。妖怪や怪異っていうのは、存在そのものより『どう扱われたか』で増減するの」


八尾が新たな煙草に火をつけながら、冷徹な事実を紡ぐ。


「忘れられると薄くなる。恐れられると濃くなる。そして、『実在する』と大勢に共有されることで、都市伝説として確固たる形を得てしまう。……今夜、この全国ネットの番組が放送されたらどうなると思う?」


「あっ……」


「数百万人の人間がテレビを見て、勝手に涙を流し、勝手に同情する。『彼らは実在した』『さぞ無念だっただろう』ってね。無関係な生者の目を通じて、亡霊の怨念が『実像』として極限まで膨れ上がるのよ」


八尾の言葉の意味を理解し、佳奈の全身からさあっと血の気が引いた。


「もし、完全に実像として形を得てしまったら……」


「亡霊の怨念が街中に溢れ出して、無差別に人を死へと引きずり込む大惨事になるわ。そうなる前に、奴らをフィクションという虚像へ落とし込まなければならない」


八尾はカウンターの奥から、あの無骨で重厚な旧式のフィルムカメラを取り出し、佳奈の胸元へと押し付けた。


「行くわよ、新人。放送時間までに決着をつけるわ」


事の重大さと、巻き込まれる被害のスケールの大きさに、佳奈は眩暈を覚えて気を失いそうになった。先ほどまで感じていた日常への安堵など、薄氷のように簡単に割れ去ってしまった。

だが、拒否権はない。佳奈は「まだ人間である宣言者」として、実在の死者たちを虚像へと叩き落とすための非情な役割を果たすべく、八尾と共に夕暮れの街中へと駆け出していった。


目指すのは、数年前に凄惨な一家惨殺事件が起きたという、現在は空き家となっている古い一軒家の周辺だ。ニュース番組の特集で必ずと言っていいほど「現場」として映し出されるその場所には、事件の記憶を風化させまいとする人々の好奇心と、無責任な同情が常にまとわりついていた。


住宅街の入り組んだ路地を抜け、目的の空き家が見える曲がり角に差し掛かった瞬間。

佳奈の全身の産毛が、ぞわりと総毛立った。

空気が重い。まるで水中に沈められたかのような粘り気のある冷気が、路地の奥からどろりと溢れ出している。


「……いるわね」


八尾が足を止め、咥えていた煙草から細く紫煙を吐き出した。

促されるまま、佳奈は重厚な旧式のフィルムカメラを胸に抱いたまま、恐る恐る路地の奥へと視線を向けた。


「うそ……なに、あれ……っ」


佳奈の喉から、ひきつったような声が漏れた。

薄暗い空き家の前に、それはいた。


これまでに見てきた怪異とは、明らかに異質だった。特定の場所にとどまる地縛霊でも、顔を持たない都市伝説でもない。


それは、無数の『顔』の集合体だった。

泣き叫ぶ女の顔、苦痛に歪む老人の顔、怯えてすくみ上がる子供の顔。

それらがモザイクのようにグチャグチャに混ざり合い、どす黒く巨大な思念の塊となって蠢いているのだ。形を保つことすらできていないその塊から、幾重にも重なった悲痛な声が、耳鳴りのように脳内に直接響いてくる。


『どうして』

『いたい、たすけて』

『ゆるさない』


その声を聞いた瞬間、佳奈の心臓が鷲掴みにされたように痛んだ。

彼らは、実在した人間なのだ。

さっきまでテレビの特集番組で紹介されていた、理不尽に命を奪われ、未来を断ち切られた本物の被害者たち。彼らの無念や恨み辛みが、世間の勝手な同情という餌を食らって、このようなおぞましい姿に膨れ上がってしまったのである。


「撮りなさい、新人」


八尾の冷酷な声が、佳奈の迷いを断ち切るように響いた。


「でも……っ!あの中には、本当に殺された人たちの思いが……!」


「だから何?可哀想だから見逃して、街の人間を無差別に呪い殺させる気?」


八尾の言葉は正論だった。このまま怪異が実像として完全に形を得てしまえば、取り返しのつかない大惨事になる。

佳奈は震える手で、無理やりカメラを顔の前に構えた。

ファインダー越しに、無数の絶望の表情が蠢く怪異を捉える。


涙で視界が滲んだ。彼らの悲劇は、決して作り話ではない。現実だ。それを「フィクション」として切り捨てるための引き金を、自分が引かなければならない。

その重烈な罪悪感と葛藤に押し潰されそうになりながらも、佳奈は目を閉じて、シャッターを押し込んだ。


カシャッ!

強烈なフラッシュの光が、路地裏の闇を真っ白に染め上げた。

光に暴き出された怪異が、苦悶するように身をよじる。


シャッターを切った瞬間、フラッシュの残像と共に、怪異の中に渦巻く強烈な執着と怒りの感情が、佳奈の脳内に濁流のように流れ込んできた。

彼らがどれほどの恐怖の中で命を落としたか。どれほど生きたかったか。

佳奈は図らずも、この怪異の『正体』実在の事件で命を奪われた者たちの、底知れぬ無念の集合体であることを、魂の底から完全に理解してしまった。


『――ァァァアアアアッ!!』


無数の悲痛な声が重なり合い、鼓膜を破らんばかりの絶叫となった。

自身の正体と、その奥底にある無念を完全に理解された怪異は、狂乱したように一気に膨張した。そして、自分の悲しみを共有してくれた理解者である佳奈へ完全に取り憑こうと、凄まじい勢いで襲いかかってきたのだ。


「きゃあああっ!」


巨大な質量を持った悪意が、佳奈の全身を飲み込もうと迫る。


「逃げるわよ!」


横から伸びてきた八尾の手が、佳奈の襟首を乱暴に掴んで後ろへ引き倒した。

間一髪で怪異の突進を躱した八尾は、怪異の顔面に大量の紫煙を吹き付け、ひるんだ隙に佳奈を引きずって走り出した。

背後からは、アスファルトを削り取るような悍ましい這いずり音が、どこまでも執拗に追いかけてくる。

二人は夕暮れの街を一直線に駆け抜け、術場であるあの黒い映画館へと逃げ込んだ。


重いガラス扉を閉めた直後、建物の外壁を凄まじい力で叩きつける音が響いた。

怪異が館を取り囲み、強引に侵入しようと暴れ狂っているのだ。

だが、八尾は焦る素振りすら見せず、すでに映写室へと入り、捕縛の本体である映写機を起動していた。

カシャカシャとフィルムが回る音が、静まり返った館内に響き渡る。

境界であるスクリーンに、先ほど佳奈が泣きながら撮影した、無数の顔が蠢く怪異の不鮮明なコマが投影された。


八尾は深く紫煙を吸い込み、低く、絶対的な拘束力を持った声で、怪異の『真名』を言い放つ。


「被害者」


その言葉が響いた瞬間、扉を突き破ろうとしていた怪異の実体が、空中でピタリと硬直した。

見えない強大な力でスクリーンへと引きずられ、投影された映像と、外で暴れ狂う怪異の実体が強制的に重なり合っていく。


「宣言しなさい、新人!」


八尾の鋭い声に弾かれ、佳奈は床にへたり込んだまま、震える唇を開いた。

言わなければならない。この怪異を封じるための、絶対的な確定の刃を。


しかし、佳奈の喉の奥で、言葉が重くつっかえた。

さっきファインダー越しに見た、彼らの絶望の顔が脳裏に焼き付いて離れない。彼らの悲しみは、痛みは、間違いなく現実のものだった。それを、ただの物語だと言い捨ててしまっていいのか。


「早く言え!」


八尾の怒声に背中を押され、佳奈は涙声で叫んだ。


「こ、この物語は、フィクションです……っ!」


佳奈の口から発せられた言葉が、怪異に向けて放たれた。

いつもなら、この瞬間に怪異は実在性を否定され、平面のフィルムへと圧縮されるはずだった。


しかし。


 スクリーンの中の怪異は、消えなかった。


『ウゥゥゥゥ……ッ!!』


それどころか、怪異はさらにどす黒く膨れ上がり、スクリーンの枠を歪ませて現実世界へと這い出そうと暴れ始めたのだ。


術が、弾き返された。


佳奈の宣言の刃が、怪異の実在性を打ち消すことができなかったのである。


「うそ……なんで……っ!」


佳奈がパニックに陥る中、八尾は忌々しげに舌打ちをした。

効かない条件。それは、宣言する側である佳奈自身が、心の底で怪異の実在を認めてしまっていることだった。

彼らの悲劇が実在したという事実に引っ張られ、彼らの無念を「フィクション(作り物)」として完全に切り捨てることに、佳奈の心が強烈な抵抗と罪悪感を抱いていたからだ。

人間の心からの宣言でなければ、この呪縛は完成しない。佳奈の迷いが、怪異に実在を許してしまったのだ。


実体を保ったままスクリーンから身を乗り出そうとする無数の顔。

絶体絶命の窮地に陥った館内で、佳奈はただ震えながら、自身の無力さと、死者たちへの拭いきれない同情の狭間で立ち尽くしていた。


『ウゥゥゥゥ……ッ!!』


スクリーンの中から、無数の顔が現実世界へとせり出してくる。

ペラペラであるはずの映像が、薄気味悪い立体感を伴ってひしゃげ、映画館の暗いロビーにどす黒い怨念を撒き散らそうとしていた。

宣言の刃が弾かれた。自分の心の底にある「彼らは実在した被害者だ」という確信が、怪異に実在を許してしまったのだ。


「うそ……なんで、どうして……っ!」


佳奈は床にへたり込んだまま、後ずさることしかできなかった。

ファインダー越しに焼き付いた彼らの絶望の表情が、頭から離れない。彼らの悲しみは現実のものだった。それを「作り物」だと言い切ることなど、どうしてもできなかった。


「勘違いするな、新人」


絶体絶命のパニックに陥る佳奈の頭上から、冷水を浴びせるような八尾の底冷えする声が降ってきた。

見上げると、八尾は暴れ狂う怪異を前にしても全く動じることなく、ただひどく忌々しげに煙草の煙を吐き出していた。


「あいつらの顔をよく見なさい。あれが本当に、無念のまま死んでいった被害者そのものに見える?」


「え……?」


「妖怪や怪異は、存在そのものより『どう扱われたか』で増減するのよ。……こいつは死者そのものじゃない。テレビやネットで無関係な生者が勝手に消費し、勝手に代弁して作り上げた『可哀想な被害者の思い』という、ただの悪趣味な虚像よ」


八尾の言葉が、佳奈の脳天を貫いた。

もう一度、スクリーンから這い出ようとする怪異の姿を見る。

無数の顔は確かに苦痛に歪んでいたが、そこから発せられる声は『かわいそう』『くやしい』という、どこか画一的で平坦なものだった。

それは、ニュースを見た人間が安全なリビングで口にする、無責任な感想そのものではないか。


(……偽物だ)


佳奈の中で、強烈な罪悪感が、反転して別の感情へと変わっていく。

本当の被害者たちは、すでに死んでいるのだ。

死者は何も語らない。本当はどんな思いで命を散らしたのか、誰かを恨んでいたのか、それとも別のことを考えていたのか、生きている人間には絶対にわからない。

だというのに、無関係な大衆が「こう思っているはずだ」と勝手に悲劇を共有し、都市伝説として太らせた結果が、目の前のこれだ。

死者の声などではない。これは、死者の顔を勝手に盗み、勝手に彼らの思いを代弁して暴れ回っているだけの、最低の冒涜だ。


「……許せない」


佳奈はぐっと奥歯を噛み締め、震える足に力を込めて立ち上がった。

彼らが実在したことは、絶対に忘れない。しかし、だからこそ、彼らの思いを勝手に偽るこの怪異を、これ以上野放しにしておくことはできなかった。


佳奈は怪異を真っ直ぐに見据え、深く息を吸い込んだ。

読む前に拒否を残す。実在する部分を先に認めた上で、目の前の虚像を完全に切り捨てるのだ。


「あなた達の悲劇は、現実です」


佳奈の凛とした声が、館内に響き渡る。怪異の動きが、その声に圧されるようにピクリと止まった。


「でも――お前達が騙る『この物語はフィクションです』!」


実在への哀悼と、目の前の偽物に対する強烈な拒絶。

一切の迷いを捨て去った佳奈の言葉が、今度こそ決定的な刃となって、怪異の実在性を真っ向から貫いた。


『――ァァァアアアアッ!!』


死者の思いを騙っていた偽物は、ガラスが割れるような悍ましい断末魔を上げた。

スクリーンから這い出ようとしていた無数の顔が、一瞬にして元の平面へと引きずり戻されていく。圧倒的な質量を持っていたはずの怪異は、紙くずのようにペラペラと薄く圧縮され、スクリーンの中の平坦な登場人物へと完全に格下げされた。

逃げ場のないフィルムの監獄へと、偽物の亡霊は封じ込められたのである。


すべてが終わり、ロビーにはいつもの古びた匂いと、映写機の余熱だけが残った。

八尾はふうっと長く紫煙を吐き出すと、カウンターの上からいつものように茶封筒を佳奈に差し出した。


「今日の給料。もう帰っていいわよ」


佳奈は無言でそれを受け取り、頭を下げて映画館を後にした。

夜の街は、すっかり静まり返っていた。

自分のアパートへ向かって歩きながら、佳奈は何度も自分の手を握り、開いてみた。

指先は温かい。道端のショーウィンドウに映る自分の姿に、遅れはない。


しかし、彼女の内側には、以前とは違う決定的な変化が根付いていた。

佳奈はふと立ち止まり、ビルの隙間から覗く夜空を見上げた。

今頃、あの全国ネットの特集番組が放送されているはずだ。

何百万という人間がテレビを見て、被害者たちの無念を勝手に想像し、涙を流しているだろう。


だが、死者は何も語らないのだ。

生者がどれだけ勝手に共感し、自分たちを納得させるために都合のいい怪異を作り上げようとも、生者に死者の本当の声が届くことは、決して無い。

生きている者と死んでいる者の間には、絶対に交わることのない残酷な断絶があるだけだ。

その冷酷な事実と、実像と虚像の境界線をはっきりと見極めてしまったこと。

自分の「恐怖に対する解像度」が、また一段と上がってしまったこと。

それが、佳奈にとっての何よりの代償だったのかもしれない。

ひんやりとした『余韻』が、佳奈の心に重く、静かに沈殿していくのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。