第3話 診断書
鏡の前に立つのが、ひどく恐ろしかった。
洗面台の前に立った末広佳奈は、蛇口から流れる冷水を見つめたまま、ゆっくりと顔を上げる。
鏡の中に映る自分の姿。それは、ごく普通の焦げ茶色のショートボブの女子大生であり、外見上は昨日までと何一つ変わっていないように見える。
だが、佳奈がわずかに首を傾げたとき、その『異常』はやはり間違いなくそこに存在していた。
コンマ数秒。
鏡の中の自分の動きが、現実の自分よりもほんのわずかに遅れて動くのだ。
「……っ」
佳奈は息を呑み、自身の両手を見下ろした。
血の気が失せ、指先が真っ白に変色している。六月だというのに体温は異常に低く、まるで自分の身体が自分のものではないような、薄気味悪い乖離感が全身を覆っていた。
どれだけ正論を叫んでも、どれだけ拒絶しようとも、自分はすでにあの場末の映画館に絡め取られている。あの悪夢のような『付き人』の怪異から逃れられたわけではなく、自分自身がすでに日常という枠組みから滑り落ち始めているのだ。
人間としての連続性が欠落し始めているという明確な代償の症状だが、その裏にある術理を佳奈が知る由もない。ただ、発狂しそうなほどの不気味な現象が、自身の内側からじわじわと侵食してくる恐怖だけがあった。
足元を見る。洗面所のドアのわずかな隙間から、昨夜這い出てきた薄汚れた紙切れが、まだそこにあった。
【よく できた】
あの無言の怪異からの、歪んだ賞賛。あの隙間に潜む赤い目と白い指は、部屋の至る所から佳奈を監視し、決して逃がさないと嘲笑っているかのようだった。
泣き叫んでアパートから逃げ出したところで、どこへ行っても『隙間』はある。逃げ場など、最初から存在しなかった。
佳奈は震える手で顔を洗い、無理やりメイクをして血色のなさを誤魔化した。
着慣れたカジュアルな服に袖を通し、重い足取りでアパートを出る。
今日は大学の必修講義がある日だ。もうあの映画館から逃れられないのだと理解してしまっていても、それでも佳奈は「普通の女子大生」としての日常に縋り付きたかった。大学へ行き、講義を受け、くだらない雑談を聞く。そうしていれば、自分がまだこちら側の人間なのだと証明できる気がしたからだ。
しかし、そのささやかな抵抗すらも、キャンパスに足を踏み入れた瞬間に打ち砕かれた。
「……なに、これ」
大学の事務棟の前。そこに設置された巨大な掲示板を見て、佳奈は思わず足を止めた。
掲示板が、異様なほどの『白』で埋め尽くされていたのだ。
近づいて見てみると、そのすべてが臨時休講を知らせる張り紙だった。
『〇〇教授、急病のため本日の講義は休講とします』
『△△専任講師、体調不良により今週のゼミは中止』
教員だけではない。すれ違う学生たちの数も、普段の賑わいからすれば極端に少ない。キャンパス全体が、まるでひんやりとした薄布を被せられたかのように閑散としていた。
佳奈は自身の必修講義が行われる大教室へと向かった。
二百人は入るはずの階段教室の扉を開けると、そこは異様な空気に包まれていた。出席している生徒の数が、いつもの半分以下しかいないのだ。あちこちに空席が目立ち、残っている学生たちもどこか落ち着かない様子でスマートフォンを弄ったり、不安げにヒソヒソと囁き合ったりしている。
「えー、皆さんも掲示板を見たかと思いますが」
教壇に立った初老の担当教員が、マイク越しに咳き込みながら重々しい口調で語り始めた。
「現在、近隣で急な流行病が蔓延しているようです。本学の教職員や学生の中にも、重篤な症状を訴えて欠席している者が多数出ています。皆さんも、手洗いやうがいを徹底し、少しでも体調に異変を感じたらすぐに病院へ……」
その言葉を聞いた瞬間、佳奈の背筋を、あのぞくりとした悍ましい悪寒が駆け抜けた。
教室の空気が、急激に冷たくなったように錯覚する。
(――流行病?)
佳奈の脳内で、自身の愛する「恐怖の順番」のセオリーが、強烈な『起拍』の警鐘を鳴らした。
おかしい。今は初夏だ。インフルエンザのような季節性のウイルスが流行る時期ではない。それに、毎朝見ているニュースアプリでも、パンデミックの兆候や新種のウイルスの報道など一切されていなかった。
なにより、この「急すぎる」という事実。前触れもなく、昨日まで健康だった人間が束になって病に伏せるなど、まるで何者かが意図的に死をばら撒いているような不自然さがある。
病原菌などではない。これはもっと、理不尽で悪意に満ちた『何か』の気配だ。
講義が終わるや否や、佳奈は逃げるように教室を飛び出した。
縋り付こうとした日常は、すでに得体の知れない何かに侵食されている。それをはっきりと理解してしまった佳奈の足は、まるで目に見えない糸に引かれるように、あの場末の商店街へと向かっていた。
重いガラス扉を押し開けると、ロビーには昨日と変わらない古い紙の匂いと、機械の油の匂いが漂っていた。
そして何よりも、むせ返るような強烈な紫煙の匂いが館内に充満している。
「……おはようございます」
佳奈が力なく声をかけると、カウンターの奥から館主の八尾亜璃珠が姿を現した。
足先まで届きそうな長い黒髪。装飾のない黒い服で雑に包まれた、彫刻のように美しい肢体。彼女の指先にはいつものように火のついた煙草が挟まれていたが、今日の八尾は珍しく、あからさまに苛立った様子で煙草を吹かしていた。
絶えず吐き出される灰色の煙は、彼女自身から漂う人ならざる臭いを上書きして隠すための癖である。それがこれほどまでに濃いということは、八尾の感情が大きく波立っている証拠だった。
「遅いわね。今日は講義なんてまともにやっていなかったでしょう」
「どうしてそれを……」
言いかけて、佳奈はカウンターの上に広げられた無数の紙片に気づいた。
それは、すべて今朝の新聞の切り抜きだった。社会面の小さな記事から、訃報欄、さらにはネットニュースを印刷したものまで、乱雑に散らばっている。
佳奈が恐る恐る覗き込むと、そこに並んでいたのは「原因不明の突然死」や「急性疾患による緊急搬送」を報じる見出しばかりだった。
『市内在住の会社員、急性心不全で死亡』
『高校生が部活中に吐血、急性白血病と診断され重体』
『末期癌の突然の進行、医師も「数日前までは異常がなかった」と当惑』
亡くなった患者の年齢も性別もバラバラ。そして何より、病名が「心不全」「白血病」「癌」など、全く共通点がない。ただ一つ共通しているのは、つい数日前まで、彼らが全員「極めて健康であった」ということだけだ。
「……八尾さん、これって」
佳奈の問いに、八尾は吸い殻を灰皿に強く押し付け、生気の薄い声で断言した。
「病気なんかじゃないわ。うちから脱走した怪異の仕業よ」
八尾の口から語られたのは、想像を絶する悪意の存在だった。
そいつの真名は【診断書】。
顔のない、名前もない医師の姿をして街を徘徊しているという。健康な人間に狙いを定め、有無を言わさずに「不治の病の診断書」を押し付けてくる。その診断書を受け取ってしまった人間は、紙に書かれた通りの病を強制的に発症し、あっという間に死に至るのだ。
病原体ではなく、病そのものを概念として実体化させ、問答無用で押し付けてくる疫病神の一種。
「このまま放置すれば、この街の人間全員に無差別に死の宣告が配られるわ。都市伝説として完全に形を得てしまう前に、フィルムへ封じるのよ」
八尾は有無を言わさぬ動作で、カウンターの奥からあの無骨で重厚な旧式のフィルムカメラを引っ張り出し、佳奈の胸元へ押し付けた。
「待ってください!探すって言っても、そいつはどこにいるんですか!?」
「特定の場所にはいないわ。顔を持たないんだから、どこに現れるかもわからない」
「そんなの、無茶苦茶です……っ!」
佳奈はカメラの重みに耐えかねて叫んだ。
これまでに捕縛した怪異、地下道に残された忘れられた執念や、歩道橋の地縛霊とは根本的に違う。居場所がわからない以上、どうやってカメラのフレームに収めろというのか。
怪異を捕縛する「上映」の絶対条件は、『映像媒体が対象を一コマ以上撮影すること』だ。姿を捉えられなければ、術は絶対に発動しない。
「無茶でもやるのよ。あなたはまだ、人間側の宣言者なんだから」
八尾の冷徹な瞳に見据えられ、佳奈は絶望的な捜索へと引きずり出されることになった。
顔のない死神を探す、あてのない逃避行が始まろうとしていた。
夕方の巨大なターミナル駅は、家路を急ぐ通勤客や学生たちでごった返していた。
無数の足音がコンコースに反響し、人の波が絶え間なく交差している。その圧倒的な群衆の渦の真ん中で、佳奈は重厚な旧式のフィルムカメラを胸に抱き抱え、途方に暮れていた。
「八尾さん……やっぱり無茶です。こんな人混みの中で、顔がない怪異なんて、どうやって見つければいいんですか」
佳奈がすがるように振り返ると、八尾亜璃珠は人目も気にせず煙草に火をつけ、深く紫煙を吸い込んでいた。彼女は絶えず灰色の煙を吐き出すヘビースモーカーである。そのむせ返るような煙草の煙は、八尾自身から漂う人ならざる臭いを上書きして隠すための癖だった。
「目で見ようとするから見失うのよ」
八尾は生気の薄い声で淡々と告げた。
「奴は顔を持たない。名前を持たない。特定の場所に残った執念でもない。だからこそ、健康な人間が密集する場所に紛れ込んで、無差別に死をばら撒くの。……気配で探りなさい。あなたならわかるはずよ」
突き放すような言葉だったが、八尾は佳奈を単なる労働力としてではなく、怪異を捕縛する上で絶対に欠かせない「まだ人間である宣言者」として見なしている。佳奈にしか見つけられないと確信しているのだ。
佳奈はぐっと唇を噛み締め、人波に向かって向き直った。
視界に飛び込んでくるのは、無数の「顔」ばかりだ。疲れたサラリーマンの顔、談笑する女子高生の顔、急ぎ足の老人の顔。情報量が多すぎて、眩暈がしてくる。
普通に探して見つかる相手ではない。佳奈は一度深く深呼吸をし、意図的に視覚からの情報をシャットアウトした。
(――落ち着け。感じるんだ。恐怖の順番の『溜め』を)
佳奈が愛してやまない、恐怖の順番。起拍、溜め、見せ、切断、余韻。
大学の掲示板を真っ白に染め上げたあの休講知らせの異常さは、間違いなく『起拍』だった。ならば、この広大なターミナル駅のどこかに、恐怖がその姿を現す直前の、息が詰まるような『溜め』の空間が必ず存在しているはずだ。
佳奈は目を半開きにし、人々の「動き」と「空気の淀み」だけに意識を集中させた。
すると、数分もしないうちに、コンコースの中央付近で奇妙な現象が起きていることに気がついた。
(……あそこだけ、人が避けてる?)
密集した人混みの中に、不自然な「動く空白」があった。
誰もその存在に気づいていない。周囲の人間はスマートフォンを見ていたり、前を歩く人間の背中を見ていたりするのに、なぜかその「空白」が近づくと、無意識のうちに肩をすくめ、わずかに道を開けているのだ。
まるで、冷たい水滴が油を弾くように。
佳奈がその空白に意識を向けた瞬間、駅特有の排気ガスや食べ物の匂いに混じって、異質な悪臭が鼻を突いた。
強烈な薬品の匂い。消毒液と、ひんやりとした霊安室を思わせるような、絶対的な死の気配。
(間違いない。あそこに、いる……っ!)
佳奈が怪異の存在をはっきりと認識した、その時だった。
動く空白が、ふと立ち止まった。
佳奈の視線が、その正体を完全に捉える。
それは、薄汚れた白衣を着た、人型の何かだった。首から上には人間の顔がなく、まるで真っ白な紙を無造作に丸めたような、ノイズのかかった不気味な空洞が広がっているだけだ。
(恐怖の『見せ』が来る……っ)
佳奈が身構えた直後、顔のない医師は、すれ違いざまに歩いていた健康そうな男子大学生の胸元へ、一枚の紙切れを音もなく押し付けた。
大学生は紙を受け取ったことすら気づいていない様子だったが、次の瞬間、彼の足がピタリと止まった。
「……え、がっ、あ……ッ!?」
ゴボァッ、と。
大学生の口から、信じられないほどの大量の赤黒い血が噴き出した。
彼は白目を剥き、喉を激しく掻きむしりながら、コンコースの冷たい床に崩れ落ちる。周囲を歩いていた人々が悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすようにパニックとなって逃げ惑い始めた。
「キャアアアアッ!?」
「誰か!誰か救急車を!」
阿鼻叫喚の地獄絵図と化す駅構内。
だが、佳奈だけはその惨状に目を向けることなく、ただ一点、元凶である白衣の怪異をじっと見据えていた。
健康な人間に有無を言わさず近づき、不治の病の宣告を物理的に押し付けて死に至らしめる。そのあまりに理不尽な攻撃の性質と、事切れる直前の大学生の様子から、佳奈は図らずもこの怪異の『正体』を完全に理解してしまった。
病原菌などではない。これは、理不尽な死という概念そのものが都市伝説として太り、実体化した存在なのだと。
そして、それは怪異を刺激する最悪のトリガーだった。
パニックに陥り逃げ惑う群衆の中で、ただ一人、逃げもせずに自分を直視し、自分の正体を理解した存在。
顔のない医師の、ノイズのかかった空洞の頭部が、ギリ、と不気味な音を立てて佳奈の方へと振り向いた。
怪異の攻撃や性格からその正体を佳奈が理解したことで、怪異は佳奈を明確な標的と定め、完全に取り憑こうと狙いを切り替えたのだ。
「ひっ……!」
佳奈の喉から、引きつった悲鳴が漏れた。
白衣の死神が、逃げ惑う人々をすり抜けるようにして、スケートでも滑るかのような異様な滑らかさで佳奈に向かって真っ直ぐに接近してくる。
怪異の手には、新たな診断書が握られていた。
真っ白なはずの紙面に、まるで内側から血が滲み出すようにして、黒いインクの文字がじわじわと浮かび上がり始めている。
そこに記されていたのは、病名などではない。
『末広佳奈』
紛れもない、彼女の本名だった。
自分の名前がいつもの正しい順番で完全に書き記された瞬間、自分はこの世から強制的に退場させられる。逃げ場のない死の宣告が、すぐ目の前まで迫っていた。
心臓が早鐘を打ち、全身の血液が凍りついたように動けない。
「撮りなさい!」
鼓膜を叩く八尾の怒声が、硬直した佳奈の意識を現実に引き戻した。
同時に、背後から踏み込んできた八尾が、深く吸い込んだ煙草の煙を、怪異の顔のない頭部めがけて勢いよく吹き付ける。むせ返るような強烈な紫煙が怪異の視界を覆い、人ならざる気配を一瞬だけ誤魔化す目眩ましとなった。
怪異が怯んだコンマ数秒の隙。
佳奈は無我夢中で、重い旧式のフィルムカメラを顔の前に構えた。顔がない怪異の、何を撮ればいいのか。答えは明白だった。
ファインダー越しに、自分へ向かって伸びてくる「診断書を握る青白い手」にピントを合わせる。
カシャッ!
強烈なフラッシュの光が、駅のコンコースを真っ白に染め上げた。
無骨なシャッター音と共に、死の宣告書とそれを握る怪異の手が、フィルムの一コマとして強制的に焼き付けられる。
『――ギィ……アァァァッ!!』
自身の姿を定着されたことに激昂した怪異が、ガラスを引っ掻くような悍ましいノイズを発した。
怒りで膨張した黒い気配が、煙を切り裂いて佳奈に襲いかかろうとする。
「走れ!」
八尾が佳奈の腕を乱暴に引っ張り、弾かれたように駆け出した。
パニックに陥り逃げ惑う群衆を掻き分け、二人はターミナル駅を飛び出して夜の街へと激走する。
振り返らなくてもわかる。背後からは、どんな障害物もすり抜けて迫り来る、白衣の死神の圧倒的な気配がピタリと張り付いていた。どれだけ角を曲がっても、どれだけ息を切らして走っても、病院特有のひんやりとした薬品の匂いが鼻先から離れない。
目指すのはただ一つ、あの場末の黒い映画館だけだった。
肺が焼け焦げそうになりながら、二人は漆黒の建物の前へとたどり着いた。
重いガラス扉を押し開け、ロビーへと転がり込む。
扉を閉めた直後、隙間という隙間から、ひんやりとした霊安室のような冷気が館内に流れ込んできた。怪異がすぐそこまで侵入してきているのだ。
しかし、八尾は焦る素振りすら見せなかった。
彼女はすでに、捕縛の本体である映写機を起動していた。
カシャカシャと無機質な音が静寂のロビーに響き渡る。境界であるスクリーンに投影されたのは、先ほど佳奈が命がけで撮影したばかりの、「診断書を握る手」の不鮮明なコマだった。
八尾は深く紫煙を吸い込み、低く、しかし絶対的な拘束力を持った声で、怪異の『真名』を言い放つ。
「診断書」
その言葉が館内に響き渡った瞬間。
佳奈へ死の宣告を押し付けようと迫っていた白衣の怪異が、空中でピタリと硬直した。
目に見えない強大な力に引っ張られ、怪異の実体がスクリーンに投影された映像へと強制的に引きずり込まれ、重なり合っていく。激しいノイズが断末魔のように響いた。
「宣言を!」
八尾の鋭い命令に、佳奈は床にへたり込んだまま、必死に声を張り上げた。
「こ、この物語は、フィクションです……っ!」
佳奈の口から発せられたその言葉が、決定的な確定の刃となって怪異の実在性を真っ向から否定した。
顔のない医師は、紙くずのようにペラペラと薄く圧縮されていく。圧倒的な死の気配を放っていた怪異は、あっけなくスクリーンの中の平坦な登場人物へと格下げされ、逃げ場のないフィルムの監獄へと完全に封じ込められたのである。
実像が、虚像へと落とされた瞬間だった。
すべてが終わり、静寂が戻ったロビー。
八尾はいつものように事務的な手つきで、カウンターの上から茶封筒を佳奈に差し出した。
「今日の給料。もう帰っていいわよ」
佳奈は、震える手でその封筒を受け取った。
次の瞬間。
佳奈は、自分のアパートの玄関の前に立っていた。
「……え?」
手にはアパートの鍵が握られている。周囲はすっかり夜が更けており、虫の音だけが聞こえていた。
佳奈は呆然と立ち尽くした。映画館で給料を受け取ってから、アパートの鍵を取り出すまでの「数十分間の記憶」が、すっぽりと抜け落ちているのだ。
歩いて帰った記憶がない。電車に乗った記憶もない。まるで、映画のカットが唐突に切り替わるように、時間と空間が飛躍していた。
(記憶が……飛んでる?)
それは、自分の人生という連続したフィルムから、勝手に数コマが切り取られ、捨てられてしまったのだ。
寒気がして、佳奈は慌てて鍵を開けて部屋に転がり込んだ。
しかし、彼女を襲った真の恐怖は、記憶の欠落だけではなかった。
佳奈は、自分の内側にある決定的な『変化』に気づいてしまい、戦慄した。
ターミナル駅で、目の前で血を吐いて倒れたあの見ず知らずの男子大学生。普通なら、可哀想だとか、自分もああなるのではないかという同情や恐怖を抱くはずだ。
だが、今の佳奈の心には、彼に対する感情が何一つ湧いていなかった。
(私……あの人が倒れたとき、ただの『見せ』の装置としてしか見ていなかった……)
計算された恐怖の構造の一部。背景。物語を盛り上げるための小道具。
怪異に対する恐怖はあっても、犠牲になった同じ人間に対する共感や同情が、恐ろしいほどに冷え切って失われていたのだ。
自分の人間性が、怪異たちと同じように削り取られ、無機質になり始めている。自分はもう、完全にこちら側の人間ではなくなってしまったのではないか。
絶望に打ちひしがれ、座り込む佳奈の足元。
ドアのわずかな『隙間』から、音もなく一枚の紙切れが滑り落ちてきた。
そこには、赤い不揃いな文字でこう書かれていた。
【お か え り】
日常への回帰などあり得ない。お前はもう、私達と同じ側にいるのだと嘲笑うかのような、隙間女からの歪んだ歓迎だった。
佳奈はもう、悲鳴すら上げることができなかった。ただ、耳の奥で鳴り続ける幻聴の映写機の音が、ひどく心地よいリズムに聞こえ始めている自分に絶望するしかなかった。




