第2話 付き人
何度石鹸でこすっても、手首から立ち上る焦げたような臭いが消えない。
洗面台の鏡の前で、佳奈はひどく充血した自身の目をぼんやりと見つめていた。昨夜から一睡もできていない。目を閉じれば、耳の奥でカシャカシャという無機質な映写機の音が幻聴のように響き続けるからだ。
おまけに、部屋中にあるあらゆる『隙間』が気になって仕方がなかった。閉まりきっていないクローゼットの暗がり、壁とベッドのわずかな隙間、さらには床板の継ぎ目に至るまで、そこからあの真っ白な指と赤い目が覗いているのではないかという強迫観念が、佳奈の精神をゴリゴリと削り取っていた。
(……辞めよう。絶対に、今日で辞める)
佳奈は洗面台の縁を強く握りしめ、覚悟を決める。
あの映画館は異常だ。ただの割のいいアルバイトだと思って飛びついたが、あれは人間が関わっていい場所ではない。昨夜押し付けられた分厚い茶封筒の中身には一切手を付けず、そのままそっくり突き返してやるつもりだった。
日差しが眩しい真昼の商店街を抜け、佳奈は再びあの場末へと足を踏み入れた。
太陽が高く昇っているというのに、周囲から完全に浮き上がったその黒い外壁の建物だけは、まるでそこだけ夜に取り残されているかのように重苦しい空気を纏っている。
重いガラス扉を押し開けると、ロビーには昨日と変わらない古びた匂いと、強烈な紫煙の匂いが立ち込めていた。
薄暗いカウンターの奥。館主である八尾亜璃珠は、今日も装飾の一切ない黒い服に身を包み、長い足を組んで絶えず煙草の煙を吐き出している。
「……あの、八尾さん」
「遅いわね、新人。もうシフトの時間は過ぎてるわよ」
「違います。私、今日は働きに来たわけじゃありません」
佳奈は鞄から昨日の茶封筒を取り出し、カウンターの上にドンッと置いた。手は微かに震えていたが、声だけは必死に張った。
「アルバイト、辞めさせてください。昨日の給料も全額お返しします。私には、あんな恐ろしいこと……できません」
八尾は煙草を指に挟んだまま、生気の薄い瞳で佳奈を一瞥した。怒るでもなく、引き留めるでもなく、ただひどく冷淡な声で事実だけを告げる。
「無理よ」
「え……でも、まだ契約書とか何も書いてないですし」
「書く必要なんてないわ。あなたは自分の名前を正しい順番で名乗り、あの窓口の指定席に座った。そして何より、一度でも給料を受け取った。その時点で、継続的な労働の契約はもう済んでるの」
「そ、そんなの無茶苦茶です!クーリングオフだって……っ」
言い返そうとした佳奈の言葉は、足元で鳴ったカサリという微かな音によって遮られた。
視線を落とす。ロビーに敷かれた赤い絨毯。その壁際とのわずかな隙間から、まるで舌を吐き出すように、一枚の薄汚れた紙切れが押し出されていた。
見覚えのある、赤いインクの不揃いな文字。
そこに書かれていたのは、たった一言だった。
【また あした】
心臓が冷水に浸されたように冷たくなった。
あの隙間に住み着く無言の怪異からの、ひどく歪んだ執着と独占欲の印。昨日受け取った【ま っ て る】という言葉の続きだ。自分がどれだけ正論を振りかざして逃げようとしても、この館のシステム自体がすでに自分を逃がすつもりがないのだと、佳奈は強制的に悟らされた。
絶望で立ち尽くす佳奈の横で、バサリ、と嫌な音が響いた。
佳奈のバイトの席である窓口の隙間に、外から宛名のない非公式な茶封筒がねじ込まれていたのだ。
「……チッ」
封筒を見た八尾が、あからさまに不機嫌な舌打ちを漏らす。彼女は咥えていた煙草を灰皿に押し付けると、カウンターの奥からあの無骨で重厚な旧式のフィルムカメラを引っ張り出し、佳奈の胸元へ強引に押し付けた。
「次の仕事よ。歩きなさい」
「待って、私まだ辞めるとしか……っ!」
「四の五の言わずについて来なさい。逃げたら殺されるわよ、あなたがね」
抗議の言葉は完全に黙殺され、佳奈の意志とは無関係に、彼女は再び非日常の泥沼へと引きずり出されていく。
八尾に連れられてやってきたのは、大通りを跨ぐ古びた歩道橋の上だった。
時刻は黄昏時。昼と夜の境界線が曖昧に混ざり合う、逢魔が時である。家路を急ぐサラリーマンや学生たちが足早に行き交う中、佳奈は手すりに寄りかかって異常なまでの息苦しさを感じていた。
「あの、八尾さん。何が来るんですか……?」
「もういるわよ。そこ」
八尾が紫煙と共に顎でしゃくった先。
行き交う人々の中に、一人だけ不自然に立ち尽くしている中年のサラリーマンがいた。
佳奈の背筋を、ぞくりとした悪寒が駆け抜ける。
間違いない。自身の愛する「恐怖の順番」における、『起拍』の兆候だ。
男の様子は明らかにおかしかった。その足取りは泥に沈むように異常に重く、まるで透明な鉛の塊でも背負っているかのように、極端な前かがみになっている。目は虚ろに宙を見つめ、口元はぶつぶつと誰に宛てるでもない独り言をこぼし続けていた。
「目を凝らしなさい。見なきゃ撮れないわよ」
背後からの冷たい命令に従い、佳奈は息を呑んで男の背中へと視線を集中させた。
瞬間、世界の空気が凍りつき、ピントが合った。
「うっ……嘘、なに、あれ」
男の背中には、どす黒く濁った巨大な『何か』がべったりとへばりついていた。
輪郭はあやふやだが、ずっしりとしたおぞましい質量だけは確かに伝わってくる。そいつは男の背中に重くのしかかりながら、顔に当たる部分を男の耳元へとすり寄せ、じわじわと何かを囁き続けていた。
まるで、男の生気をストローで吸い上げているかのように。
事実、男の顔からはすでに人間の生気が失われ、周囲の景色から輪郭がブレていくような、悍ましいノイズが走り始めている。
(――誰かの背後に取り憑いて、じわじわとあっち側へ引きずり込む地縛霊……っ)
佳奈の脳内で、パニックと同時に冷静な分析が火花を散らす。
しかし、そんな思考を嘲笑うかのように、男の背中に張り付いた巨大な黒い靄が、ずるりと蠢いた。
(来る――恐怖の『見せ』が始まる……っ!)
「カメラを構えなさい」
佳奈の悲鳴を先読みしたかのように、八尾の無慈悲な命令が、夕暮れの喧騒を切り裂いて耳元に突き刺さった。
カシャッ!
強烈なフラッシュが、黄昏時の歩道橋を一瞬だけ真っ白に染め上げた。
シャッターを押し込んだ瞬間、網膜に焼き付いたのは、光に暴き出されたどす黒い靄の悍ましい輪郭だった。
直後、糸が切れた操り人形のように、中年のサラリーマンがその場に崩れ落ちた。背中にのしかかっていた異常な重圧から解放されたのだ。
だが、それは事態の解決を意味していなかった。
フラッシュの強烈な光と、無骨なシャッター音。それが決定的な引き金となった。男の背中から剥がれ落ちた巨大な黒い塊が、どろりと蠢き、こちらへゆっくりと振り向いたのである。
「ひっ……!」
より新鮮で、強い恐怖を放つ獲物を見つけた怪異の狙いが、完全に佳奈へと移った瞬間だった。
這いずるような異様な速度で、怪異が歩道橋の床を滑ってくる。
佳奈は悲鳴を上げながら、這いつくばるようにして横へ逃げた。コンクリートの床を転がり、すんでのところで黒い靄の突進を躱す。
空振りに終わった怪異は、苛立たしげな耳障りなノイズを発し、再び佳奈へ這い寄ろうと身をよじる。
その重苦しく、自力では立ち上がれないような這いずる動き。他者の背に張り付き、その生気を吸い上げながら引きずり倒そうとする執念。
必死に逃げ惑う佳奈の脳内で、バラバラだった情報が急速に結びつき、ひとつの輪郭を形作っていく。
(こいつ……一人じゃ存在できないんだ。誰かの背中にしがみついて、道連れにしないと立ってもいられない地縛霊……っ)
佳奈は図らずも、この怪異の『正体』を直感的に理解してしまった。
そして、それは最悪の引き金だった。
自分の正体を暴き、完全に理解する存在を見つけた怪異は、歓喜と憎悪が入り混じったような絶叫を上げた。黒い靄が爆発的に膨張し、理解者である佳奈の肉体へ完全に取り憑こうと、先ほどとは桁違いの凄まじい執念で襲いかかってきたのだ。
「あ、あああっ……!」
圧倒的な重圧が佳奈の全身を押し潰そうとした、その時。
「立て、新人!」
八尾が佳奈の襟首を乱暴に掴み、強引に引き起こした。八尾は深く吸い込んだ煙草の煙を、迫り来る怪異の顔面めがけて勢いよく吹き付ける。
煙に巻かれて怪異が怯んだ一瞬の隙を突き、八尾は佳奈の腕を引っ張って歩道橋の階段を駆け下りた。
「走れ!追いつかれたらあっち側に引きずり込まれるわよ!」
肺が焼け焦げるほど息を切らし、背後に迫る圧倒的な重圧に怯えながら、二人は夜の帳が下り始めた街を一直線に駆け抜けた。目指すのはただ一つ、あの場末の黒い映画館だ。
商店街を抜け、重いガラス扉を押し開けてロビーへ逃げ込む。
扉を閉めた直後、建物の壁全体がミシミシと悲鳴を上げるほどの重圧が、外から叩きつけられた。怪異が館を丸ごと包み込み、今にも侵入しようとしているのだ。
だが、八尾は全く動じなかった。
彼女はすでに、捕縛の本体である映写機を起動していた。
カシャカシャとフィルムが回る音が響き、境界であるスクリーンに、先ほど佳奈が撮影したばかりの悍ましい怪異の姿が投影される。
八尾は紫煙を纏いながら、低くよく通る声で、怪異の『真名』を正確に言い放った。
「付き人」
その言葉が響いた瞬間、扉を突き破ろうとしていた怪異の実体が、空中でピタリと硬直した。
見えない強大な力でスクリーンへと引きずられ、投影された映像と怪異の実体が強制的に重なり合っていく。
「宣言しなさい!」
八尾の鋭い声に弾かれ、佳奈は恐怖でガタガタと震えながらも、必死に声を張り上げた。
「こ、この物語はフィクションです……っ!」
佳奈の口から発せられたその言葉が決定的な刃となり、怪異の実在性を真っ向から否定した。
断末魔のような重低音が響き渡る。圧倒的な重圧を放っていた怪異は、あっけなくスクリーンの中の平坦な登場人物へと格下げされ、逃げ場のないフィルムの監獄へと封じ込められた。実像が虚像へと落とされたのだ。
すべてが終わり、静寂が戻ったロビー。
八尾はいつものように事務的な手つきで、カウンターの上から茶封筒を佳奈に差し出した。
「今日の給料。もう帰っていいわよ」
佳奈は震える手でそれを受け取った。彼女は知る由もなかったが、この二度目の給料を受け取ったことで、彼女の立場はただの受付から、実質的な『継続上映の契約』へと繰り上げられてしまったのである。
フラフラになりながらアパートへ帰り着いた佳奈は、そのまま洗面所へと直行した。
命の危機を脱し、肉体は無傷だった。しかし、全身にじっとりと張り付いた冷や汗と、あの怪異の悍ましい気配を少しでも洗い流したかった。
蛇口を捻り、両手で掬った冷たい水で何度も顔を洗う。
タオルで顔を拭き、深く息を吐き出して、ふと顔を上げて洗面台の鏡を見た。
その瞬間、佳奈の全身の血の気が引いた。
鏡に映った自分の姿が、ほんの一瞬、コンマ数秒だけ『遅れて』顔を上げたのだ。
「……え?」
見間違いかと思い、もう一度首を素早く左右に振ってみる。
やはり、鏡の中の自分はわずかに遅れて動く。さらに、異常なほど体温が下がり、自分の指先が血の気を失って真っ白になっていることに気がついた。
(何、これ……どうなってるの……っ?)
人間としての連続性が欠落し始めているという代償の症状だが、理由を知らない佳奈にとっては、発狂しそうなほどの不気味な現象でしかなかった。
後ずさりした佳奈の足元。洗面所のドアのわずかな『隙間』から、音もなく一枚の紙切れが滑り出てきた。
そこには、赤い不揃いな文字でこう書かれていた。
【よく できた】
あの隙間に住み着く無言の怪異からの、ひどく歪んだ賞賛だった。
佳奈は自分が日常に戻ったのではなく、背中へ乗りかかってきたあの『付き人』と同じように、あの映画館にじわじわと引きずり込まれているのだという事実を、逃げ場のない絶望と共に悟るのだった。




