第1話 おいてけぼり
商店街の喧騒から遠ざかるにつれて、初夏の陽気さえも薄らいでいくような錯覚を覚えた。
駅前の賑わいが嘘のように、この辺りはシャッターを下ろしたままの店舗が目立つ。乾いた風が吹き抜けるたび、どこかで錆びたトタンが軋む音がした。
末広佳奈は、どこにでもいる普通の女子大生として、今日も着慣れたカジュアルな服装で歩いていた。焦げ茶色のショートボブの髪が風に煽られるのを手で押さえながら、スマートフォンの地図アプリと、ポケットに入れた古びたチラシを交互に見比べる。
彼女が目指しているのは、この寂れた商店街をさらに抜けた先にあるという映画館だ。わざわざこんな場末まで足を運んだ理由は至極単純で、駅前のコンビニで働くよりもずっと時給が良かったことと、大学の掲示板の裏にひっそりと貼られていたカルト映画館のアルバイト募集のチラシを見たからである。
佳奈は、いわゆるホラーマニアというわけではない。血飛沫が舞うスプラッター映画や、突然画面に幽霊が飛び出してくるような恐怖そのものが好きなわけではなかった。彼女が愛しているのは、あくまで「恐怖の順番」である。
日常に潜む怪異の気配を察知する『起拍』、逃げ場のない状況でじわじわと迫り来る『溜め』、そして恐怖が完全にその姿を現す『見せ』、理不尽な惨劇を唐突に断ち切る『切断』、最後に残るひんやりとした『余韻』。
その計算された感情の推移と、恐怖が構築されていく構造そのものに強く惹かれるという、少しばかり風変わりな感性を持っていた。
「……ここ、だよね」
やがて、目的の建物がぬっと姿を現した。
周囲のくすんだ景色から完全に浮き上がるような、黒い外壁の二階建ての建物である。壁面には色褪せた映画のポスターが数枚貼られているだけで、およそ客商売をしている活気というものが一切感じられない。看板には確かに映画館とあるが、建物の正面に設けられた小さな窓口は、無人に見えた。
ただ、そのガラス越しに見える窓口の台の上には、なぜか一本のすり減った鉛筆と、小さなメモ紙だけがぽつんと不自然に置かれている。
佳奈は訝しみながらも、重いガラス扉に手をかけた。
扉を押し開けて館内へと足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした重い空気が肌にまとわりついてきた。
ロビーは薄暗く、床には赤い絨毯が敷かれているが、歩くたびに微かに埃が舞う。古い紙の匂い、機械の油の匂い、そして何よりも、強烈な紫煙の匂いが立ち込めていた。
「面接の子?」
不意に、気怠げで、ひどく生気の薄い声が響いた。
ビクッと肩を震わせて声のした方へ視線を向けると、ロビーの奥にある薄暗いカウンターから、一人の女性が姿を現したところだった。
佳奈は思わず息を呑み、歩みを止めた。
その女性は、足先まで届きそうなほどの異様に長い黒髪を持っていた。そして、場末の古びた映画館には到底不釣り合いなほどにグラマラスで、彫刻のように美しすぎる肢体をしている。
しかし、その体は装飾の一切ない黒い服で無造作に、まるで布切れを巻きつけたかのように雑に包まれていた。彼女の指先には火のついた煙草が挟まれており、絶えず灰色の煙を吐き出している。むせ返るようなその煙草の煙は、彼女自身から漂う何か得体の知れない気配を、ひたすらに上書きして隠し続けているように思えた。
「……あ、はい。アルバイトの面接で伺いました」
「そう、私がここの館長の八尾。よろしく」
八尾は佳奈の頭の先からつま先までを、まるで品定めするかのように細めた目で見つめた。そこには歓迎の色も、面接官としての事務的な態度もなく、ただ冷ややかな観察者の瞳があった。
志望動機を聞かれることもなく、シフトの希望を尋ねられることもなく、履歴書すら求められない。八尾は煙をふっと吐き出すと、ただ一言、それだけを尋ねた。
「名前は?」
「末広、佳奈です」
佳奈は何の疑いもなく、自分の名を、いつもの正しい順番で名乗った。
その瞬間だった。
背筋を、ぞくりとした鋭い冷気が駆け下りた。急に室温が下がったわけではない。ただ、自分の名前を口にした瞬間、見えない泥のようなものが足元に絡みつき、体の芯に冷たい杭を打たれたような、ひどく奇妙で不快な感覚があった。
ふと鼻先に、焦げたような古いフィルムの臭いが掠めた気がした。耳の奥で、カシャカシャと映写機が回るような幻聴が響いた錯覚すら覚える。
「採用。今日からそこの窓口に入って」
「……え?」
「時給は出てる通り。窓口に座ってるだけでいいわ」
八尾がひどく事務的に、感情の乗らない声で告げたため、佳奈は咄嗟に「はい、よろしくお願いします」と条件反射のように返事をしてしまった。背中を這いずり回ったあの悪寒を、緊張のせいだと思い込もうとしながら。
言われるがままに、佳奈は入り口横にある小さな窓口スペースのパイプ椅子に座らされた。
姿勢を正して外の通りを眺めてみるものの、歩く人の気配すらない。この映画館は客席数が極端に少なく、そもそも客が来る気配自体が全くなかった。
静まり返ったロビー。
カチ、カチ、と壁に掛けられた古時計の秒針だけが単調に響く中、佳奈は手持ち無沙汰に窓口の台を見つめていた。そこには先ほど外から見た通り、一本の鉛筆と紙切れだけが置かれている。
カリッ。
不意に、小さな音が鳴った。
佳奈は弾かれたように視線を落とす。窓口の台の上。誰も触れていないはずの鉛筆が、紙の上でわずかに動いていた。
気のせいではない。目を凝らすと、窓口の台とアクリル板のほんのわずかな『隙間』から、血の気のない真っ白な指が音もなく這い出てきて、鉛筆を摘んでいるのだ。
人間の手首が通るはずもないような狭い隙間。そこから捻り出されたような指先。
さらにその奥。暗い、細い隙間の中。
ぎょろりとした、血のように赤い目だけが、じっと佳奈を見つめていた。
心臓が大きく跳ね上がり、喉の奥がヒュッと鳴った。全身の毛穴が粟立ち、冷や汗がどっと吹き出す。
普通の人間なら、間違いなくここで悲鳴を上げて窓口から逃げ出していただろう。
だが、佳奈の奇妙な感性が、パニックに陥りそうな脳に冷水を浴びせた。
(――これは、恐怖の『起拍』だ)
怪異がその存在を示し、ターゲットに認識させる最初のステップ。ならば、次に必ず『溜め』が来るはずだ。
佳奈は硬直しながらも、決して逃げ出さず、隙間の奥にあるその赤い目から視線を逸らさなかった。最初の拍で悲鳴を上げて逃げることは、愛する「恐怖の順番」の構造を台無しにする行為だからだ。
じっと見つめ返す佳奈を見て、隙間の奥の赤い目が、わずかに細められたように見えた。
白い指が不器用に鉛筆を滑らせ、紙に何かを書き殴る。
【よろしく】
それは脅かしでも呪いの言葉でもなく、ただの雑談のような走り書きだった。
佳奈は全身の強張りを解きながら、小さく息を吐き出した。どうやらこの館には、「言葉を話さず、隙間から現れる何か」がインフラのように住み着いているのだと、強制的に理解させられた。
恐怖の順番は、まだ序章に過ぎないのだ。彼女はまだ気づいていない。自分がただのアルバイトとしてではなく、いずれ恐ろしい現場へと引きずり出されるための役割を与えられたことに。
窓口の台に残された不揃いな文字を、佳奈は呆然と見つめていた。
赤いインクで殴り書きされたかのような『よろしく』という文字。先ほどまでそこにあった真っ白な指と、隙間の奥で蠢いていた赤い目の残像が、網膜にべったりとこびりついて離れない。
「……なんなの、今の」
乾いた唇から、掠れた声が漏れた。普通の映画館のアルバイトだと思っていたのに、何かが決定的におかしい。恐怖の余韻を一人で噛み締めていると、不意に、バサリ、と無骨な音がアクリル板を叩いた。
ビクッと肩を跳ねらせて前を向くと、窓口のわずかな隙間から、分厚い茶封筒が強引にねじ込まれていた。宛名も差出人も書かれていない、ひどく非公式な封書だ。何者かが外から、館の窓口であり佳奈のバイトの席でもあるこの場所へ押しつけてきたのだ。
恐る恐る手を伸ばそうとした瞬間、背後からぬっと白い手が伸びてきて、佳奈より先にその封筒を奪い取った。
「……チッ」
いつの間にか背後に立っていた八尾が、あからさまに不機嫌な舌打ちを漏らす。彼女は封筒の中身を素早く一瞥すると、咥えていた煙草を灰皿へ苛立たしげに押し付けた。どうやらこの館の主は、自身の内にある自己嫌悪や苛立ちを、煙草の煙と嫌味な態度で隠す癖があるらしい。
「行くわよ、新人」
「えっ?行くって、どこにですか……?」
「仕事。カメラ、持てるわね」
有無を言わさぬ声と共に、佳奈の胸元へずっしりと重い塊が押し付けられた。
慌てて受け止めたそれは、デジタルとは無縁の、無骨で重厚な旧式のフィルムカメラだった。使い込まれた金属の冷たさが、佳奈の手のひらから体温を奪っていく。
「ちょっと待ってください、仕事って窓口に座っているだけじゃ……」
「状況が変わったの。いいから歩きなさい」
反論を許さない八尾の冷たい声に背中を押され、佳奈は訳も分からぬまま、夜の街へと連れ出されることになった。
二人がたどり着いたのは、再開発から完全に取り残され、立ち入り禁止のフェンスで封鎖された古い地下道の入り口だった。
街灯の光すら届かない暗がりから、ひんやりとした湿った風が吹き上げてくる。カビと泥、そして鉄錆の混じったようなひどい悪臭が鼻を突き、佳奈は思わず顔をしかめた。
「あの、八尾さん。ここはいったい……」
「カメラを構えなさい」
八尾は佳奈の問いには答えず、紫煙を細く吐き出しながら顎で暗がりをしゃくった。
「そこにいるから。奴の攻撃を避けながら、写真を撮りなさい。絶対にフレームに収めるのよ」
「え……?」
「いい?目を凝らしなさい。見なきゃ撮れないわよ」
促されるまま、佳奈は恐る恐る地下道の奥へと視線を向けた。
最初はただの濃い闇にしか見えなかった。しかし、数秒もしないうちに、その闇の一部が不自然に『蠢いている』ことに気がついてしまった。
ぞわり、と全身の産毛が総毛立つ。
輪郭を持たないどす黒い靄のようなものが、確かな質量を伴ってそこにへばりついている。佳奈がその存在をはっきりと視認し、認識した瞬間だった。
『――ァァ……ア……ッ!!』
空気を切り裂くような、耳障りなノイズのような声が響いた。
黒い靄が、明確な敵意を持って佳奈の方へと振り向いたのだ。見られた。気づかれた。その事実が引き金となったかのように、怪異が壁を這いずるような異様な速度でこちらへ突進してくる。
(――恐怖の『見せ』が来る……っ!)
心臓が早鐘を打ち、足の震えでその場にへたり込みそうになる。普通の人間ならパニックを起こしてすくみ上がる場面だ。しかし、佳奈の脳内では自身の愛する「恐怖の順番」のセオリーが冷徹に警鐘を鳴らしていた。
今、あの化け物は自分を脅かすための決定的なモーションに入った。ならば、その直線の軌道から外れれば即死は免れるはずだ。
「ひっ……!」
佳奈は悲鳴を飲み込みながら、重いカメラを両手で握りしめ、地面を転がるようにして横へ飛び退いた。
直後、佳奈の顔があった空間を、鋭い爪のような黒い刃が凄まじい風圧と共に通り過ぎていく。コンクリートの壁が抉られ、バラバラと破片が降り注いだ。
「撮りなさい!怯んでる暇はないわよ!」
「む、無理です!あんなのどうやって……っ!」
「ファインダー越しに見ればただの被写体よ!押しなさい!」
八尾の容赦ない怒声が飛ぶ。
佳奈は泥だらけになりながら立ち上がり、震える手でカメラを構えた。迫り来る怪異の攻撃をギリギリで躱しながら、その異形の体の一部をフレームに捉えてシャッターを切る。
カシャッ!
強烈なフラッシュの光が地下道を一瞬だけ真昼のように照らし出し、黒い靄の悍ましい輪郭をフィルムのコマへと焼き付けた。
怪異は光に怯んだのか、忌々しげな唸り声を上げて一度距離を取る。その動作の隙間、そして響き渡る声の残響。
佳奈はシャッターを切り、怪異の執拗な攻撃を避けながら観察するうちに、ある奇妙な感覚に陥っていた。
(この声……それにこの足を引きずるような動き……。ただ襲ってくるだけじゃない。何かを探してる?)
泥のような足音。湿った怒声。そして、この場所が建設途中で放棄された古い地下道であるという事実。
断片的な情報がパズルのように組み合わさり、佳奈の脳内にひとつの物語を構築していく。怪異の攻撃パターンや、その口調、漂う執着の性格から、佳奈は図らずもこの怪異の『正体』――かつてここで暗闇に取り残されたまま忘れ去られた者の無念であるということを、直感的に理解してしまった。
「わかっ、ちゃった……」
無意識に呟いた佳奈の声に反応したのか、怪異の動きがピタリと止まった。
次の瞬間。
自分を理解した存在を見つけた怪異は、先ほどまでとは比較にならないほどの狂気と執着を露わにし、理解者である佳奈の肉体へ完全に取り憑こうと、凄まじい勢いで襲いかかってきたのである。
正体を暴かれ、自らを理解する存在を見つけた怪異は、歓喜と憎悪が入り混じったような悍ましい叫び声を上げた。
黒い靄が膨張し、先ほどまでとは比較にならないほどの狂気と執着を露わにして、理解者である佳奈の肉体へ完全に取り憑こうと凄まじい勢いで襲いかかってくる。
「ひっ……!」
腰が抜け、地面に倒れ込んだ佳奈の視界が、どす黒い絶望で埋め尽くされそうになったその時。
「立て、新人!」
首根っこを、強い力で乱暴に引き上げられた。八尾だ。
彼女は咥えていた煙草を怪異の顔面に投げつけると、佳奈の腕を引いて廃墟の出口へと駆け出した。
「走って!絶対に振り返らないで!」
「は、はいっ……!」
肺が破けそうなほど息を切らし、背後に迫る泥のような足音と悪寒に怯えながら、佳奈と八尾は夜の街を駆け抜けた。怪異の標的となった佳奈を囮にするようにして、八尾は一直線にあの場末の映画館へと怪異を連れて行く。
商店街を抜け、黒い外壁の建物が見えたときには、怪異の冷たい気配はもう佳奈の背中スレスレにまで迫っていた。
八尾が乱暴にガラス扉を開け、佳奈をロビーへと突き飛ばす。直後、凄まじい轟音と共に、扉を突き破らんばかりの勢いで怪異が館内へと雪崩れ込んできた。
「ひぃっ、殺される……!」
佳奈が頭を抱えてうずくまったが、八尾は焦る素振りすら見せなかった。
彼女はすでに、捕縛の本体である映写機の前に立っていた。カシャカシャと、無機質なフィルムの回る音が静まり返った館内に響き渡る。
境界であるスクリーンに投影されたのは、先ほど佳奈が命がけで撮影した、あの怪異の一部が写った不鮮明なコマだった。
八尾は深く息を吸い込み、紫煙と共に、低くよく通る声で怪異の『真名』を言い放った。
「おいてけぼり」
それは、佳奈が廃墟で感じ取ったあの残滓そのものを縛り付ける、決定的な言葉だった。
その声が響いた瞬間、佳奈に飛びかかろうとしていた怪異の動きが、空中でピタリと硬直した。
まるで目に見えない巨大なピンで空間ごと縫い留められたかのように、怪異の実体がスクリーンの中の映像と強制的に重なり合っていく。もがき苦しむようなノイズが館内を震わせた。
「言いなさい、新人!」
八尾が鋭い視線で、うずくまる佳奈を射抜いた。
「『この物語はフィクションです』と!」
「え……っ?」
「早く言え!」
そのただならぬ気迫に押され、佳奈は震える唇を必死に開いた。意味などわからない。だが、これを言わなければ自分が終わるのだということだけは、本能が理解していた。
「こ、この物語は、フィクションです……っ!」
佳奈がその文句を口から発した、次の瞬間だった。
目に見えない巨大な刃が、怪異の実在性に真っ向から突き刺さった。
鼓膜を破るような断末魔の叫びが響き渡ったかと思うと、圧倒的な質量を持っていたはずの怪異の姿が、紙くずのようにペラペラと薄く圧縮されていく。
怪異は完全にスクリーンの中の平坦な登場人物へと格下げされ、逃げ場のないフィルムの監獄へと閉じ込められたのである。実像が、ただの虚像へと落とされた瞬間だった。
すべてが終わり、ロビーには古びた匂いと、映写機の余熱だけが残った。
床にへたり込む佳奈を見下ろし、八尾は先ほどまでの異常な光景が嘘であったかのように、事務的な手つきで茶封筒を差し出した。
「今日の給料。もう帰っていいわよ」
受け取った封筒には、コンビニバイトの数日分に相当する額の紙幣が入っていた。仕事をこなす度に給料が支払われるらしいが、佳奈にはそれに喜ぶ余裕など一切なかった。
震える足で立ち上がり、逃げるようにして館を後にする。
自分のアパートの部屋に転がり込み、鍵をかけた途端、佳奈はその場に崩れ落ちた。
肉体は無傷だった。どこも怪我をしていないし、無事に自分の部屋へと帰宅できた。ただの割のいいバイトのつもりだったのに、とんでもない非日常に巻き込まれてしまった。もう二度と、あの映画館には近づかない。そう固く決意し、深く、長く息を吐き出す。
(――恐怖の『余韻』だ……)
ようやく安全圏に逃げ込めたことで、佳奈の脳波が少しずつ日常へと戻っていく。
だが、シャワーを浴びて着替えても、彼女の中にある違和感は消えなかった。
石鹸で何度洗っても、自分の手や髪から、あの古いフィルム臭がこびりついて離れないのだ。
それだけではない。
部屋の壁と家具の隙間、床の継ぎ目、半開きになったクローゼットの暗がり……部屋中にあるあらゆる『隙間』が、どうしようもなく気になって仕方がない。目を閉じると、静寂の中でカシャカシャというあの映写機の音が、幻聴のように耳の奥で鳴り続けている。
ふと、机の方でカサリと乾いた音がした。
佳奈が恐る恐る近づくと、机と引き出しのわずかな隙間から、一枚の小さな紙片がはみ出している。窓口で見たのと同じ、あの薄汚れた紙切れだった。
震える手でそれを引き抜くと、そこには赤い不揃いな文字で、たった一言だけこう書かれていた。
【ま っ て る】
佳奈の背筋を、今日一番の冷たい悪寒が駆け抜けた。
窓口の隙間の奥で蠢いていた、あの赤い目と白い指が脳裏にフラッシュバックする。
帰宅は、決して解放を意味していなかった。
恐怖の余韻はまだ終わっていない。むしろ、ここからが本当の始まりなのだと、紙切れが嘲笑っているように見えた。




