第10話 御伽噺
むかしむかし、あるところに――。
柔らかく、どこか懐かしい声が、微睡みの奥底で静かに響いていた。
末広佳奈は、温かい何かに頬を預けて横たわっている。見上げれば、淡いオレンジ色の照明に照らされた、優しい母親の横顔があった。
まだ小学校に上がるよりもずっと前、幼い頃の記憶だ。
母親の膝の上を枕にしてうとうとと舟を漕ぎながら、めくられていく絵本のページをぼんやりと眺めている。紙の擦れる乾いた音と、母親の穏やかな声。そこにあるのは、どこにでもあるようなありふれた童話の世界だった。
鮮やかな色彩で描かれた挿絵の向こう側で、名もなき登場人物たちが笑い、泣き、そしてどこか遠い場所へと旅立っていく。どうしてだろう、胸の奥がじんわりと温かくなるのに、それと同じくらい、どうしようもなく切なくて寂しい気持ちがこみ上げてくるような、そんな御伽噺だった。
『――それでね、最後はみんな、幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし』
絵本がパタンと閉じられる音と同時に、視界が白い光へと溶けていく。
「……ん……」
カーテンの隙間から差し込む初夏の朝の光に瞼を照らされ、佳奈は狭いアパートのベッドの上でゆっくりと目を覚ました。
しばらくの間、天井の木目をぼんやりと見つめる。
ついさっきまで、ひどく懐かしくて大切な夢を見ていたような気がした。幼い頃に母親の膝の上で読んでもらった、何かの絵本の夢だ。
しかし、起き上がって頭を振ってみると、それが一体どんなタイトルの絵本で、どんなあらすじの物語だったのか、霧が晴れるようにすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
ただ、胸の奥にかすかな寂しさの余韻だけを残して、すぐに忘れて思い出せなくなるような儚い夢だった。
「……実家、しばらく帰ってないなぁ」
佳奈はシーツの上に座り込んだまま、ぽつりと呟いた。
大学への進学を機にこの街で一人暮らしを始めてから、長期の休みにもなんとなく帰省しそびれ、母親の顔もずいぶん長いこと見ていない。
もっとも、今の佳奈の身体には、あの黒い映画館で怪異と関わり続けたことによる奇妙な変調が時折現れるようになっていた。今だって、洗面所の鏡を覗き込めば自分の像が一瞬だけ遅れて動くかもしれないし、指先は季節外れに冷たいままだ。こんな状態で実家に帰れば、勘のいい母親に何を心配されるか分かったものではない。
佳奈は小さくため息をつくと、ベッドから這い出して朝の支度を整え、着慣れたカジュアルな服装に身を包んでいつものように大学へと向かった。
その日の午前の講義は、日本文学史の枠組みから『日本の創作について』という広いテーマが議題として取り上げられていた。
階段状の大教室の壇上で、眼鏡をかけた中年の講師がスライドを切り替えながら、熱のこもった口調でマイクに向かっている。
「日本における創作物語の歴史を紐解けば、やはり平安時代に成立した『竹取物語』や『源氏物語』がその筆頭として挙げられます。当時は紙という媒体そのものが極めて貴重であり、文字を読み書きできる識字層も、宮廷に仕える貴族や僧侶といったごく一部の限られた有識者たちだけに限定されていました」
佳奈はノートの隅にシャーペンを走らせながら、講師の言葉に耳を傾けていた。
「しかし、それから千年以上の歳月を経た現代はどうでしょうか。教育の普及によって国民の識字率はほぼ百パーセントに達し、さらにはインターネットやスマートフォンの普及によって、紙すら必要としなくなった。
過去の限られた有識者たちが残した古典と現代の創作環境を比較したとき、最も驚くべき変化は『誰しもが気軽に、そして手軽に自分の物語を作って世界へ発信できる時代になった』という点にあります。
これは人類の歴史から見ても、途轍もなく凄いことなのです」
講師が誇らしげに語ると、教室の学生たちの何人かが納得したように頷いていた。
だが、頬杖をついて聞いていた佳奈には、その「誰でも気軽に手軽に自分の物語を作ることができる時代」という賛辞が、どうにもあまりピンと来ていなかった。
(誰でも気軽に物語を作れる、かぁ……。文字が書けるっていうのと、お話が作れるっていうのは、全然別の問題だと思うけどな)
佳奈の脳裏に蘇ったのは、中学生の頃に夏休みの宿題で毎年のように苦しめられた読書感想文の原稿用紙と、国語の授業で行われた『物語の続きを考えて書いてみよう』という課題の記憶だった。
あのとき、佳奈は真っ白な原稿用紙を前にして、文字通り一文字も書けずに途方に暮れたのだ。
既存の物語を読んで楽しむことはできても、いざ自分でゼロから登場人物を動かし、起承転結を組み立ててみようとすると、驚くほど頭の中に何も浮かんでこなかった。
結局、当たり障りのないあらすじの要約でお茶を濁すのが関の山だった苦い経験を、佳奈は今でもよく覚えている。
物語というものは、ただ文字を並べれば出来上がるほど簡単なものではない。
読者の心の奥底を鋭く刺激し、「この先はどうなるのだろう」と続きを強く要求させるような構成力と文才。そんな特別な才能を、現代に生きる人間が誰しも平等に持っているわけでは決してないのだ。
佳奈が愛してやまないホラー映画における『恐怖の順番』
起拍、溜め、見せ、切断、余韻というあの完璧な秩序だって、それを計算し尽くして構築できるのは、今も昔もほんの一握りの限られた天才だけである。
少なくとも、どこにでもいる凡庸な女子大生に過ぎない末広佳奈は、断じて「物語を作れる側」の人間ではなかった。
「さらに興味深いのは、物語というものが持つ『流動性』です」
佳奈がそんなことを考えていると、壇上の講師は話題を次のステップへと進めた。
「現在私たちが当たり前のように知っている昔話や古典のほとんどは、成立した当時のままの形ではありません。
複数の時代を経て、語り部や読者の好みに合わせて独自の進化や変化を遂げ、今の形に落ち着いたものが大部分なのです。
ですから、今からさらに何百年も先の未来では、『源氏物語』や『竹取物語』の結末が全く別のものに変わっていたり、まるで違うお話になっていたりするかもしれません」
講師はそこで少しだけ口元を緩め、冗談めかした口調で付け加えた。
「たとえば、おばあさんにきびだんごをもらって鬼退治に行くはずの桃太郎が、未来の御伽噺では、いきなり異世界に飛ばされて自分が魔王になり、お姫様を誘拐する……なんていう荒唐無稽なお話に変わっているかもしれませんね」
教室の中に、どっと明るい笑い声が広がった。
桃太郎が魔王になって姫を誘拐するなど、本来の教訓も何もあったものではない。学生たちはみな、講師の突拍子もないジョークとして笑い飛ばしていた。
しかし、教室の真ん中で座っていた佳奈だけは、笑うことができなかった。
佳奈はシャーペンを握りしめたまま、これまで自分があの映画館の仕事で対峙してきた、数々の怪異たちの姿を思い出していたのである。
人間の悲劇をテレビの視聴者が勝手に想像して膨れ上がった『被害者』。
子を守れなかった乳母の無念が、ネットの掲示板を通じて巨大な女へと変貌した『八尺様』。
そして、実在の廃村がゲームのロケ地として共有されただけで、ゾンビの徘徊する空間へと書き換えられた『蛇谷村』。
(……あながち、冗談じゃないかも)
佳奈はノートの白い紙面を見つめて、小さく息を吐いた。
怪異というものが、存在そのものよりも「人間からどう扱われたか」「どう信じられたか」によってその形や力を変えるのだとしたら。大勢の大衆が「桃太郎とはそういう物語だ」と本気で思い込み、共有するようになった未来では、物語の中の桃太郎が本当に魔王へと変化してしまうことなど、むしろ当たり前の現象なのかもしれなかった。
講義を終えて大学を出た佳奈は、傾き始めた午後の日差しの中、いつものように場末の商店街を抜けてアルバイト先へと向かった。
錆びたシャッターが並ぶ寂れた通りの一番奥に、周囲のくすんだ景色から浮き上がるような、黒い外壁の二階建ての映画館がひっそりと佇んでいる。
重いガラス扉を押し開けてロビーへと足を踏み入れると、ひんやりとした空気と共に、古い紙と機械の油の匂い、そしてむせ返るような煙草の紫煙が佳奈を出迎えた。
「おはようございます、八尾さん」
「ええ。今日も時間通りね、新人」
薄暗いカウンターの奥で、館主である八尾亜璃珠が生気の薄い声で応えた。
足先まで届きそうなほど長い黒髪に、場末の映画館には不釣り合いなほどグラマラスで彫刻のように整った肢体。彼女はそれを装飾の一切ない黒い服で無造作に包み、強烈な臭いの煙草を今日も絶えず吹かしている。
佳奈は自分の指定席である入り口横の窓口へと向かい、パイプ椅子に腰を下ろした。
窓口の台と引き出しのほんのわずかな『隙間』からは、すでに隙間女の血の気のない真っ白な指が這い出しており、古い映画の半券チケットを一枚、また一枚と、飽きもせずにパチパチと数えている。
そのいつもと変わらない退廃的な日常の風景を眺めながら、佳奈はふと、先ほど大学で聞いてきたばかりの講義の内容を思い出し、カウンターの八尾に向かって声を掛けた。
「あの、八尾さん。今日、大学の授業で昔の物語についての話を聞いたんですけど……」
「へえ。あんた、ちゃんと大学の講義なんて受けてたのね」
「受けてますよ!いくらこのバイトが忙しくたって、本業は女子大生なんですから!」
佳奈は少しムッとして言い返してから、小さく咳払いをして言葉を継いだ。
「それで、ふと思ったんですけど……。『竹取物語』とか『桃太郎』みたいに、昔からいろんな人々に語り継がれて、時代ごとに少しずつ形を変えてきた『御伽噺』って、言ってみれば、ある種の怪異とも呼べるんじゃないでしょうか?」
名と、記録と、大勢の人間の認識によって形を保ち、扱われ方次第でその姿を変化させていくもの。その定義は、八尾がいつも口にしている怪異の性質と驚くほどよく似ていた。
佳奈の問いかけに、八尾は煙草を口元から離し、灰色の煙を細く天井へと吐き出した。
「……まあ、間違いではないわね。だけど、それは別に御伽噺に限ったことじゃないわ」
「え?」
「過去に起きた実際の出来事や、実在した歴史上の人物にだって、同じことがそのまま当てはまるのよ」
八尾はカウンターに肘をつき、生気の薄い瞳で虚空を見つめるようにして静かに語り始めた。
「いいこと、新人。過去の出来事やかつて生きていた人物っていうのは、後世に遺された文字の記録や、人々の記憶によってある程度その形が固定されているわ。だけど、もしその記録が書き換えられたり、火事や戦乱で消失したり、あるいは覚えている人間が誰もいなくなってしまったらどうなると思う?」
「それは……本当はどんな人だったのか、分からなくなっちゃいますよね」
「ええ。記録や記憶が変化すれば、過去の人間ですら後からいくらでも違う形に捻じ曲げられるし、完全に忘れ去られれば、最初から存在しなかったのと同じように消えてなくなるの。……所詮、人間という生き物が明確に覚えておける物事や人物なんて、せいぜい五百年くらいが限界でしょうね」
「五百年……」
佳奈がその数字を復唱すると、八尾はふっと目を細め、新しい煙草に火をつけた。
「そう、五百年よ。今から五百年前なんて、記録の上じゃ室町だの戦国だのって一言で片付けられてるけれど、実際にそこにあった空気は、紙の上の文字とはまるで違うわ」
八尾は紫煙を燻らせながら、ひどく淡々とした、それでいて妙に滑らかな口調で言葉を紡ぎ始めた。
「たとえば、当時の京の都の外れ。夕暮れ時になると、土壁の崩れた長屋のあちこちから、湿った柴を焚く煙が低く垂れ込めてくるの。現代みたいな舗装された道なんてないから、雨が降った翌日は牛車の轍に泥水が溜まって、そこに錆びた鉄と、腐った魚と、人間の汗が混じり合ったような独特の饐えた臭いが街中に立ち込めるのよ。
夜の闇は今とは比べものにならないくらい真っ暗で、油皿の灯りひとつ頼りに歩く人間たちは、暗がりの中で木の枝が揺れる音ひとつに本気で鬼や物の怪の姿を見て震えていたわ。
あの頃の連中が語っていた物語はね、今みたいな綺麗な教訓話なんかじゃなく、もっと泥臭くて、生々しい命乞いみたいなものだった……」
ロビーに響く八尾の低い声を聞きながら、佳奈は思わず息を呑んでいた。
おかしい。
八尾が語っている五百年前の事柄は、歴史の教科書や資料集を読んで得た知識の語り方ではなかった。
雨上がりの泥の匂い。湿った柴を焚く煙の重さ。油皿の灯りの心許なさと、暗闇に潜む肌を刺すような冷気。そのあまりにもリアリティに溢れた風景や情景の描写は、まるで彼女自身がその時代に立ち、自分の目で見て、自分の鼻でその空気を吸い込んできたかのような生々しさを持っていたのである。
(……あれ。この人、なんでそんなふうに昔のことが話せるんだろう)
佳奈の背筋に、じわりと冷たい感覚が這い上がった。
もちろん、怪異をフィルムに封じるなどという常識外れの術を扱っている時点で、この八尾亜璃珠という女性が普通の人間ではないことくらい、佳奈にもとっくに分かっていた。
先日の上映のときにも、隙間女が【にんぎょひめ】という謎めいたメモを出してきたばかりだ。
だが、こうして何気ない雑談の中で「五百年前の日常」を昨日のことのように語る彼女の姿を見ていると、自分が思っている以上に、目の前の雇い主は途轍もなく遠い時間の向こう側から歩いてきた存在なのではないかという気がしてならなかった。
ゴクリ、と乾いた唾を飲み込む。
好奇心と畏怖が入り混じる中、佳奈はパイプ椅子から身を乗り出し、思い切って正面から尋ねてみた。
「……あの、八尾さん。八尾さんは、一体何者なんですか?」
静まり返ったロビーに、佳奈の声が落ちた。
八尾の指先で、煙草の赤い火がピタリと止まる。
彼女はゆっくりと佳奈の方へと視線を巡らせると、彫刻のように美しい唇の端をわずかに吊り上げ、肺の中の煙を佳奈の方へ向けてふうっと吐き出した。
「さあね。見ての通り、ただのしがない映画館の館主よ。……変な詮索をする暇があるなら、窓口の掃除でもしていなさい、新人」
「あ、ちょっと、八尾さん……!」
八尾はのらりくらりと言葉をはぐらかすと、佳奈の追及から逃げるようにひらりと黒い服の裾を翻し、そのままカウンターの奥にある地下のフィルム庫へと続く扉の中へ消えていってしまった。
「……むぅ。またそうやって誤魔化すんだから」
ロビーに一人取り残された佳奈は、煙草の残り香を手でパタパタと振り払いながら、不満げに唇を尖らせた。
机の隙間から出ていた隙間女の白い指が、まるで「やれやれ」とでも言うように小さく肩をすくめるような動きを見せ、再び古い半券チケットを数える作業へと戻っていく。
佳奈も仕方なく頬杖をつき、隙間女と一緒に今日も客の来ない窓口で、一枚、二枚とチケットの枚数を数え始めた。
――バサリッ。
静寂を破って、窓口の差し出し口の隙間に、外から乱暴に『何か』がねじ込まれたのは、まさにその直後のことだった。
郵便局の速達と似た赤いスタンプが押された、しかし差出人の名前も宛名も書かれていない、見覚えのある茶封筒である。
窓口の差し出し口の隙間にねじ込まれたその茶封筒を、佳奈は思わず引き攣った顔で見つめた。
郵便局の速達とよく似た赤いスタンプが雑に押されているが、切手は貼られておらず、宛名も差出人の名前も一切書かれていない。怪異の処分依頼が送られてくるときに使われる決まりの封書だった。
半券を数えていた隙間女の真っ白な指が、まるで汚いものでも見るかのようにスルスルと引き出しの隙間へと引っ込んでいく。
「あ、あの、八尾さーん!なんか速達が届きましたよー!」
佳奈は茶封筒を手に取って立ち上がり、カウンターの奥にある地下のフィルム庫へと続く扉に向かって声を張り上げた。
しばらくすると、コツ、コツと硬い靴音を響かせながら、八尾亜璃珠が階段を下から上がってきた。先ほど五百年前の話を問いただされたことなどすっかり忘れたかのような涼しい顔で、すでに新しい煙草を口に咥えている。
「騒々しいわね。何よ?」
「これ、窓口に押し込まれてました。また政府の人からじゃないですか?」
佳奈が茶封筒を差し出すと、八尾は長い黒髪を揺らしながら片手でそれを受け取り、無造作に封を切った。
中から出てきたのは、数枚の報告書と、現場の写真らしき紙の束だった。
八尾は煙草の紫煙を細く吐き出しながら、生気の薄い瞳でその文面にざっと目を通していく。最初はいつもの退屈そうな表情だったのだが、二枚目、三枚目と紙をめくるにつれて、彼女の彫刻のように整った眉間へ、みるみるうちに深い皺が刻まれていった。
「……っ、あいつら……本当にロクな管理ができない連中ね……!」
八尾の口から、これまでに聞いたことがないほど低く、心底忌々しげな呻き声が漏れた。
彼女はこれ以上ないほど面倒くさそうに顔を歪めると、まだ半分以上残っていた煙草を、カウンターの上の灰皿へと乱暴に押し付けて火を消した。自己嫌悪や苛立ちを煙草と嫌味で隠す彼女が、ここまであからさまに感情を露わにするのは極めて珍しいことだった。
「え、えっと……八尾さん?どんな依頼なんですか?」
ただならぬ空気に気圧されながら佳奈が覗き込むと、八尾は報告書をカウンターの上にバサリと投げ出した。
「国立の博物館で、昨夜、盗難事件が起きたそうよ」
「は、博物館で盗難……?それって、警察の仕事じゃないんですか?」
「盗まれたものが問題なのよ。特別展示の目玉として国が管理していた、『御伽噺絵巻』の一部が何者かに持ち出されて、今も行方不明になってるわ」
佳奈は投げ出された報告書に目を落とした。
そこには、ガラスケースが割られた展示室の写真と共に、事件の経緯が簡潔に記されていた。
防犯カメラの映像などから、絵巻を盗み出した犯人の男はすぐに博物館の近くで逮捕されたらしい。
しかし、捕まった犯人はなぜか完全に呆けてしまっており、警察がどれだけ問い詰めても虚空を見つめてうわ言を繰り返すばかりの心神喪失状態で、まともな聴取が一切できないのだという。
そして何よりも深刻なのは、犯人が持っていたはずの肝心の『御伽噺絵巻』そのものが、どこを探しても見当たらないことだった。博物館の敷地内はおろか、逃走経路を徹底的に調べても絵巻の行方は杳として知れず、博物館の上層部は大慌てでパニックに陥っているらしい。
報告書の最後には、赤字で『至急、最優先事項として行方知れずとなった御伽噺絵巻を探し出し、回収せよ』という強い指令が添えられていた。
「……あの、国の大切な所蔵品が盗まれちゃったのは確かに大変ですけど、犯人も捕まってるんですよね?八尾さんがそんなに慌てるようなことなんですか?」
どこかの茂みにでも捨てられているのではないかと、佳奈が呑気に首を傾げた、その瞬間だった。
八尾は無言でカウンターの下から、あの無骨で重厚な旧式のフィルムカメラを引っ張り出すと、佳奈の胸元へとドンッと乱暴に押し付けてきたのである。
「うわっ!?」
「つべこべ言ってないで、今すぐ行くわよ!」
「ひゃあっ!?ちょ、八尾さん、首!服が伸びますってばぁっ!」
カメラを慌てて両手で抱え込んだ佳奈の襟首、首根っこを、八尾はまるで子猫でも扱うかのように後ろからガシッと引っ掴むと、そのまま引きずるようにして即座に映画館のガラス扉から外へと飛び出した。
初夏の午後の日差しが照りつける通りを、八尾は長い足を大股に動かして猛烈な勢いで歩いていく。
いつになく乱暴で苛立たしげな雇い主に首根っこを掴まれ、佳奈は半ば足を宙に浮かせて引きずられながら、必死に抗議の声を上げた。
「ご、ごほっ!ちょっと八尾さん、苦しいです!なんでそんなに焦ってるんですか!たかが博物館の所蔵品が一つ盗まれたからって、いつもの怪異みたいに街の人を無差別に襲ったりするわけじゃないでしょう!?」
これまでの『診断書』や『被害者』、あるいは『八尺様』のように、今すぐ誰かの命が奪われるような緊急事態には思えなかったのだ。
しかし、八尾は前を向いたまま、冷たい声でピシャリと言い放った。
「ええ、あんたの言う通りよ。あいつは、そこらの低俗な怪異みたいに人間の命を奪ったりはしないわ」
「だったら……!」
「だけどね、盗まれたあの『御伽噺絵巻』は、ずっと昔に私が封じ込めて国に預けておいた怪異の一つなのよ。……それも、私がこれまで扱ってきた中で、一番厄介でタチの悪いレベルの怪異ね」
八尾の言葉に、佳奈は目を丸くした。
あの圧倒的な暴力を振るった八尺様や、三途の川の死神の力よりもさらに厄介だと言うのだろうか。
「どういうことですか……?ただの古い絵巻物なんですよね?」
「いいこと、新人。よく聞きなさい」
八尾はようやく佳奈の首根っこから手を離すと、大通りでタクシーを拾い、佳奈を後部座席へと押し込んだ。ドアが閉まり、車が博物館へ向けて走り出すと、八尾は苛立たしげに足を組んで説明を続けた。
「私たちが普段どうやって怪異をフィルムに封じているか、まさか忘れたわけじゃないでしょうね」
「えっと……カメラで怪異の一部を撮影して、八尾さんが真名を呼んでスクリーンに重ねて、最後に私が『この物語はフィクションです』って宣言する……ですよね?」
「そう。人間の目撃者が『フィクション(虚像)だ』と宣言することで、現実に干渉してくる『実像』としての怪異の権利を削ぎ落とし、ただの映画の登場人物へ格下げする。
それがうちの捕縛の絶対条件よ。……だけどね、今回逃げ出したあの絵巻には、あんたのその『宣言の刃』が一切通用しないの」
「――えっ?」
佳奈は胸に抱えたフィルムカメラを見下ろし、息を呑んだ。
宣言の刃が、通用しない。それはつまり、自分たちの唯一の武器が最初から折れているということではないか。
「な、なんで通用しないんですか!?」
「当たり前の話でしょうが。だって『御伽噺』なんていうものはね、そもそもが最初から人間によって作られた偽りの物語であり、純粋な『虚像』そのものなのよ」
八尾の生気の薄い瞳が、車窓の外を流れる街並みを冷たく射抜く。
「いい?現実の死者や事件を元にした怪異なら、そいつが纏っている虚像の皮を『フィクションだ』と宣言して剥ぎ取る意味があるわ。
だけど、生まれつき百パーセント作り話である虚像に向かって、今さら『お前は虚像だ』なんて宣言したところで、痛くも痒くもないの。最初からそうなんだから、何の制約にもならないのよ」
「あ……っ」
言われてみれば、その通りだった。
最初からフィクションとして書かれた絵巻物に対して「これはフィクションです」と叫ぶのは、水に向かって「お前は水だ」と叫ぶようなもので、相手の性質を何一つ変えることができないのだ。
「じゃあ、逆はどうなんですか!?宣言の前に何か別のことを言うとか、いっそ一度『実像だ』って認めてから……」
「馬鹿なことを言わないで!」
八尾が、いつになく強い口調で佳奈の言葉を遮った。
「もし、宣言者であるあんたが、純粋な作り話であるはずの『御伽噺』を『実像(現実)だ』なんて認めてしまったら、どうなるか分かる?
この世のあらゆる創作物や作り話、すべての怪異の存在が『現実に実在するもの』として世界に公式に認められてしまうのよ!」
「え……っ!?」
「虚像と実像の境界線そのものが壊れるの。
そうなれば、これから先、どんな怪異たちが街に現れても、全てが揺るぎない実像として力を持ち、二度と『フィクションだ』と宣言して捕縛することそのものができなくなるわ。
うちの映画館にあるフィルムの封印だって、全部まとめて吹き飛ぶわよ」
佳奈の全身から、さあっと血の気が引いていった。
たかが博物館の絵巻物が一つなくなっただけの話だと思っていたのに、その裏に隠されていたのは、これまで積み上げてきた怪異捕縛の前提そのものが根底から崩壊しかねない、途轍もない危機だったのである。
「そ、そんな……!虚像って言っても効かないし、実像って認めるわけにもいかないなら……一体どうやって捕まえるんですかぁっ!?」
パニック気味に声を裏返らせる佳奈に、八尾は苦虫を噛み潰したような顔で「まずは実物を見つけてからよ」とだけ吐き捨てた。
タクシーが滑り込んだのは、緑豊かな公園の一角にそびえ立つ、重厚な石造りの国立博物館だった。
休館日の札が出された正面玄関の前には、すでに黒いスーツを着た政府の担当らしき男や、顔面蒼白になった博物館の職員たちが数人待機しており、車から降りてきた八尾を見ると、深々と頭を下げて裏口から館内へと案内した。
「犯人が捕まったのは、昨夜の閉館直後です。展示室のガラスケースを割って『御伽噺絵巻』を持ち出したのですが、警備員が駆けつけたときにはすでに手ぶらで、ただその場で虚ろに笑っていたそうで……」
案内する職員の震える説明を聞き流しながら、八尾と佳奈は事件現場である特別展示室へと足を踏み入れた。
高い天井を持つ広々とした展示室には、穏やかな照明の下、国宝や重要文化財クラスの古い美術品や歴史資料が整然と並んでいる。その中央付近にあるガラスケースが一つだけ無惨に砕け散っており、中にあるはずの絵巻物の台座が空っぽになっていた。
「犯人が外へ持ち出していない以上、絵巻の怪異は力を取り戻して、この展示室の中の『別の何か』に紛れ込んで逃走中と見るべきね」
八尾は展示室の中をぐるりと見渡し、職員に向かって顎をしゃくった。
「ケースの鍵を全部開けなさい。片っ端から調べるわよ。……あんたも手伝いなさい、新人」
「えっ、私がですか!?こ、ここにあるのって、全部ものすごく高価な展示品なんじゃ……!」
「壊さなきゃ文句は言われないわ。少しでも不自然な気配や、時代に合わない違和感があるものを探すのよ」
八尾に背中を押され、佳奈は半泣きになりながら展示室の奥へと歩み出た。
普段の生活ならば、分厚いガラスケースの向こう側から眺めることしか許されない、何百年も前の歴史的な展示品の数々。それをガラスの隔たりもなく間近で見て、あまつさえ直接手で触れて調べるなどという、本来ならば絶対にあり得ない経験をすることになった佳奈は、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張していた。
「ひぃぃ……っ、絶対にお高いやつだよね、これ……。割ったらバイト代が何十年分吹き飛ぶんだろう……」
佳奈は白い手袋を着けた両手をプルプルと震わせながら、江戸時代の豪商が使っていたという丁寧な作りの桐箪笥の引き出しを、ミリ単位の慎重さでそっと開けて中を覗き込んだ。木の香りと古い防虫剤の匂いがするだけで、怪しい巻物などは入っていない。
次に、見るからに由緒ありげな黒楽の茶器や、蒔絵の施された文箱の陰を、息を止めて恐る恐る確認していく。
どれも見事な職人技で作られた本物の歴史的遺産ばかりで、怪異の手がかりどころか、自分の指紋や鼻息がかかることすら申し訳なくなるような代物ばかりだった。
そうして展示室の端から端までをおっかなびっくり調べて回っていた佳奈は、部屋の最も奥まった壁際に立てかけられていた、一枚の大きな『屏風』の前でふと足を止めた。
それは、金箔の雲がたなびく中に、深い山々と渓流、そして松の木が繊細な筆致で描かれた、見事な六曲一隻の古い屏風だった。
絵の右下にある庵の縁側には、白い髭を蓄えた一人の穏やかな『翁』が座っている姿が描かれている。いかにも古典的な山水画のモチーフだ。
しかし、その翁の手元を何気なく見つめた佳奈は、そこで首を傾げた。
(……あれ?)
屏風の中に描かれているその翁は、両手で何かを開いて熱心に読んでいた。
最初は漢詩の巻物か何かかと思ったのだが、近づいて目を凝らしてみると、どうにもおかしい。翁が手にしているのは、その侘び寂びの効いた水墨画風の屏風の絵柄にはまるで似つかわしくない、極彩色で描かれた『奇妙な冊子のような書物』だったのである。
しかも、じっと見ていると、絵であるはずの翁の目線が、書物の文字を追ってわずかに左右へ動いているような気さえした。
「あ、あの、八尾さん……!」
佳奈は屏風の前から離れず、少し離れた場所で刀剣の棚を調べていた八尾に向かって声を掛けた。
「なんだか変です!この屏風の中に描かれてるおじいさん、周りの絵柄に全然似合わない、変な書物を読んでるみたいなんですけど……!」
佳奈が無邪気に指を差してそう指摘した、まさにその瞬間だった。
振り返った八尾の顔から、一瞬にしてすべての余裕が消え失せた。
「――っ、離れろ、馬鹿っ!!」
八尾が弾かれたように床を蹴り、目にも留まらぬ速さで佳奈の背後へと肉薄した。
そして、映画館を出るときと同じように、佳奈の服の首根っこを後ろから力任せにガシッと引っ掴むと、そのまま後方の床へと向かって思い切り佳奈の身体を引き倒すように引き離したのである。
「きゃあっ!?」
佳奈の背中が床に転がるのと、それは完全に同時だった。
――ズボォォォォッ!!
乾いた紙が破れるような音ではなく、まるで底なし沼の水面が炸裂したかのような不気味な音が、静かな展示室に轟いた。
先ほどまで佳奈が顔を近づけて覗き込んでいた、あの平面の絵に過ぎないはずの屏風の中。その金箔の雲の向こう側から、墨をたっぷりと含んだ毛筆を握りしめた、枯れ木のようにシワだらけの『翁の手』が、何十本、何百本と束になって現実の空間へと一斉に突き出されてきたのである。
「ひっ、あああああっ!?」
無数の老人の腕は、関節の法則を無視したおぞましい長さに伸び、墨汁を撒き散らしながら、すぐ目の前にいた佳奈と八尾の二人を屏風の中の絵の世界へと引きずり込もうと、猛烈な勢いで空を掻きむしった。
八尾に首根っこを引っ張り戻されるのがあとコンマ一秒でも遅れていれば、佳奈の頭はあの無数の筆と枯れた指先に絡め取られ、二次元の絵具の染みへと変えられていたに違いない。
『カキカエロ……ツヅキヲ、ヨ越セ……ッ!』
紙が擦れ合うような幾重もの老人の声が、屏風の奥から反響する。
八尾に首根っこを掴まれて床の上を引きずられながらも、佳奈の脳裏には、これまで何度も死線を潜り抜けてきた「宣言者」としての条件反射が叩き込まれていた。
(と、撮らなきゃ……っ!!)
佳奈は涙目で悲鳴を噛み殺し、首を絞められて宙に浮いたような不格好な体勢のまま、胸元に抱えていた旧式のフィルムカメラを屏風の方へと向けた。
ファインダーを覗く余裕すらない。自分たちの鼻先数センチのところまで迫り、黒い墨を滴らせながら蠢く「無数の筆を持った翁の手」の群れへ向けて、佳奈は咄嗟に人差し指でシャッターを切った。
カシャッ!!
展示室の照明を塗り潰すような強烈なフラッシュが炸裂し、屏風から現実へと飛び出す無数の翁の手のワンカットを、フィルムの一コマへと鮮明に焼き付けた。
直後、フラッシュの光を嫌うように無数の腕がスッと屏風の中へと引っ込み、八尾は佳奈を引きずったまま、安全な距離まで大きく飛び退いた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
「ふん。新入りにしては、いい仕事をしたわね」
八尾は佳奈の首根っこを掴んだまま、珍しくぶっきらぼうな口調で佳奈の咄嗟の撮影を褒めた。
しかし、褒められた当の佳奈には、それを喜ぶ余裕など一ミリも残っていなかった。
平面の屏風の中から無数の老人の手が飛び出し、あわや絵の中の世界へ引きずり込まれかけるという、身の毛もよだつような恐ろしい体験。
遅れてやってきた圧倒的な恐怖に、佳奈は完全に腰が抜けてしまい、ガタガタと震えながら四つん這いで慌てて八尾の長いコートの後ろへと逃げ込むのだった。
「い、今のは何ですか!?なんで絵の中からあんなに手が出てくるんですかぁっ!?」
八尾の長い黒いコートの裾にしがみつき、佳奈は裏返った声で叫びながらガタガタと震え上がった。
展示室の床には、先ほど屏風から突き出された無数の老人の手が撒き散らした黒い墨汁が、どろりとした染みを作って広がっている。金箔の雲が描かれた六曲一隻の屏風は、今は表面上こそ静まり返っているものの、その絵の奥底で何かおぞましいものが蠢き、こちらをじっと窺っている気配が肌を刺すように伝わってきた。
しかし、八尾はパニックに陥る佳奈の問いかけには一切答えなかった。
彼女は佳奈の手から旧式のフィルムカメラをひったくるようにして受け取ると、展示室の入り口で顔を青くして立ち尽くしていた博物館の職員たちの方へと鋭い視線を飛ばした。
「あんたたち、ここの収蔵庫に明治か大正の頃の古い映写機が保管されているわね。今すぐここへ運んで、電源を繋ぎなさい」
「えっ……?え、ええ、確かに近代産業資料として所蔵しておりますが……し、しかし、それは展示用の貴重な資料でして……」
「四の五の言わずに早く持ってきなさい!この展示室ごと、あいつらの書き割りに作り変えられたいの!?」
八尾の容赦ない一喝に、職員たちはビクッと肩を跳ね上げ、慌てて収蔵庫の方へと駆け出していった。
その間にも、八尾はコートのポケットから取り出した小さな暗袋に両手を突っ込み、慣れた手つきでカメラからフィルムを抜き取って、その場で簡易的な現像処理を進めていく。
「あ、あの、八尾さん……?古い映写機を持ってこさせて、まさか、ここで【上映】をやるつもりですか?」
「他に何があるのよ。さっさと立って、いつでも宣言できるように準備しておきなさい」
「で、でも……!」
佳奈は震える足に力を込めて立ち上がりながら、当然の疑問を口にした。
「ここは、あの映画館じゃないですよ!?怪異をフィルムに閉じ込めるのって、八尾さんの映画館でしかできないんじゃなかったんですか!?」
これまでの仕事では、どんなに危険な怪異が相手であっても、わざわざ命懸けで夜の街を走ってあの黒い外壁の映画館まで連れ帰り、劇場のスクリーンに投影して封じ込めてきたはずだ。先日、山奥の廃村で『蛇谷村』を封じたときだって、隙間女の力で無理矢理に映画館の映写室と空間を繋げたからこそ成立した特例だった。
原則として、あの映画館という『術場』以外の場所では、怪異をフィルムの監獄へ閉じ込めることはできないはずなのである。
だが、八尾は暗袋から現像を終えたばかりの濡れたフィルムを引き抜きながら、生気の薄い瞳でフッと鼻を鳴らした。
「つべこべ言わないの。できるからやるのよ」
そこに、息を切らした職員たちが、台車に乗せた無骨な鉄製の古い映写機をガラガラと押して戻ってきた。
八尾は職員たちを顎で使って展示室の照明をすべて落とさせ、屏風の正面に映写機を据え付けさせると、まだ湿り気の残るフィルムを強引に機械の歯車へと噛み合わせた。
カチリ、とスイッチが入れられる。
カシャ、カシャ、カシャ、カシャ……。
静まり返った暗い博物館の展示室に、聞き慣れた無機質なフィルムの回る音が響き渡った。
古いレンズから放たれた強い光の束が暗闇を切り裂き、正面に立てかけられた金箔の屏風を直接照らし出す。
スクリーンの代わりとなった豪華な山水画の屏風の上に、先ほど佳奈が引きずり込まれそうになりながら咄嗟に撮影したばかりの、『屏風から飛び出す無数の筆を持った翁の手』のモノクロのワンカットが、ぴたりと重なるようにして大きく映し出された。
『――ッ、ギ、ァァ……!』
強い光を浴びせられた屏風の奥から、紙を無数に引き裂くような忌々しげな唸り声が響き、絵の中の金箔の雲が激しく波打つように歪んだ。無数の筆が再び現実へと突き出されそうになり、投影されたモノクロの映像と重なり合って激しく火花を散らすように明滅する。
八尾は映写機の横に立ち、懐から取り出した煙草に火をつけると、深く吸い込んだ紫煙を吐き出しながら、低く、絶対的な拘束力を持った声で怪異の『真名』を言い放った。
「御伽噺」
その言葉が展示室に重く反響した瞬間。
屏風の中からせり出しかけていた無数の枯れた腕と毛筆が、空中でピタリと硬直した。
目に見えない強大な力によって、屏風の絵の中に潜む怪異の実体と、映写機から投影されたワンカットの映像とが強制的に縫い留められていく。
しかし、佳奈の足はすくんだままだった。
真名と映像のコマによって動きこそ止めているものの、ここからの肝心の『宣言』をどうすればいいのかが分からないのだ。
タクシーの中で八尾が言っていた通り、この『御伽噺』という怪異は、そもそもが最初から人間によって作られた偽りの物語であり、純粋な虚像そのものである。
そんな相手に向かって、いつものように「この物語はフィクションです」と叫んだところで、虚像を虚像と呼ぶだけの無意味な言葉にしかならず、何の刃にもなり得ない。
かといって、実像だと認めてしまえば世界の前提そのものが壊れてしまう。
「や、八尾さん……っ!なんて言えばいいんですか!?」
佳奈が悲痛な声で振り返ると、八尾は煙草を指に挟んだまま、音もなく佳奈のすぐ隣へと歩み寄ってきた。
そして、背の高い身体をわずかに屈め、佳奈の耳元へとその整った唇を寄せると、むせ返るような煙草の匂いと共に、ひどく冷徹な『一言』を軽く耳打ちした。
「――えっ?」
佳奈は思わず目を見開き、首を傾げて八尾の横顔を見上げた。
今、八尾が耳打ちした言葉は、これまでのどの宣言とも微妙に、しかし決定的に異なるものだった。
なぜ、その言葉なのか。
疑問に思った佳奈の視線が、映写機の光に照らし出された屏風の絵――その右下にある庵の縁側で、奇妙な書物を広げて座っている一人の『翁』の姿へと吸い寄せられた。
(……あ。そうか……!)
その瞬間、佳奈の頭の中で、今日の昼間に大学の講義室で考えていたことと、目の前の怪異の構造とが、鮮やかな一本の線となって繋がった。
物語というものは、決して自然に湧き出てくるものではない。
どんなに荒唐無稽な御伽噺であっても、どんなに時代を経て形を変えた作り話であっても、その一番最初には必ず、筆を握り、紙に向かい、自分の頭で物語をひねり出して書き記した『人間』が存在するのだ。
目の前の屏風に潜む『御伽噺』という物語そのものは、最初から人間が作ったフィクション(虚像)だ。だから、物語に向かって「フィクションだ」と言っても意味がないし、実像にするわけにもいかない。
だが、筆を持ち、この物語を書いた『著者』であるあの人間だけは、過去の歴史の中で、間違いなく血の通った人間として確かに『実在』したのだ。
屏風から無数の筆を突き出し、「続きをよこせ」「書き換えろ」と執念を燃やしている正体。それは物語そのものではなく、自分の書いた物語が後世に残り続けることを願い、物語と一体化してしまった『著者』の執念そのものだったのである。
(実在した『作者』のほうを、虚像に突き落とすんだ……!)
すべてを理解した佳奈は、迷いを振り払うように強く拳を握りしめ、光に照らされた屏風の前へと一歩踏み出した。
無数の筆の奥、絵の中でこちらを睨みつけている白髭の翁の目を真っ直ぐに見据え、佳奈は深く息を吸い込むと、凛とした声で確定の刃を言い放った。
「この人物は、フィクションです!」
それは、怪異となった物語ではなく、物語を生み出した『著者』へと真っ向から突きつけられた宣言の刃だった。
『――ッ、バカ、ナ……ワシハ、タシカニ、書イタ……ッ!!』
老人の掠れた絶叫が、屏風の奥底から響き渡った。
佳奈の放った言葉は、過去に確かに実在し、筆を持って物語を書き記したはずの著者の存在そのものを、「最初からいなかった架空の人物」として虚像へと落とし込む、冷酷な鎖として機能したのである。
カシャ、カシャ、カシャ……と、古い映写機のフィルムが容赦なく巻き取られていく。
それに合わせて、屏風の絵の中で書物を広げていた翁の輪郭が、水に濡れた墨絵のようにぶれ始め、急速にその実在感を失って平坦な絵具の染みへと還元されていく。
実在したはずの『著者』が、ただのフィクションの登場人物(虚像)へと格下げされたのだ。
そして、虚像の人物が書いた物語は、もはや現実の人間が書いた『物語』ですらなくなる。虚像の中で虚像が語っただけの、さらに一段低い『劇中劇の作り話』へと徹底的に突き落とされ、現実の世界へ干渉するための足場を完全に喪失したのである。
プツン、と映写機の電球が切れ、展示室が再び薄暗闇に包まれた。
その静寂の中。
コトリ、と。
乾いた軽い音を立てて、誰もいないはずの屏風のすぐ前の床に、古びた一巻の『絵巻物』がどこからともなく転がり落ちてきた。
先ほどまで展示室全体を支配していた、あの息が詰まるような怪異の気配は、嘘のように跡形もなく消え去っていた。
照明が再び点けられたときには、目の前の六曲一隻の屏風は、ただの穏やかな山水画へと戻っており、縁側に描かれた翁の手元からも、あの極彩色の奇妙な書物は綺麗に消えてなくなっていた。
「……ふぅ。終わったわね」
八尾は映写機からフィルムを手早く外してポケットにしまうと、床に転がった『御伽噺絵巻』を無造作に拾い上げた。
彼女は懐から取り出した古い文字の書かれた紙の札を巻物の周囲に幾重にも巻きつけて厳重に封を施すと、待機していた職員たちが持ってきた『漆喰の重たい箱』の中へとそれを収めた。
「いいこと。こいつは二度と展示ケースになんか並べるんじゃないわよ。このまま漆喰で蓋を塗り固めて、この博物館の一番奥底にある倉庫の中で、永久に封印しておきなさい」
「は、はいっ!ただちに手配いたします!」
博物館の職員たちは、国の機関に属するだけあってある程度こうした怪異の知識がある人間なのか、八尾の高圧的な指示に一切の疑問を挟むことなく深々と頭を下げた。
そして、数人がかりでその漆喰の重たい箱を抱え上げると、即座に博物館の地下深くにある特別倉庫へと運んでいったのだった。
こうして、国の博物館を揺るがした奇妙な盗難事件は、世間に知られることなく無事に解決を見た。
夕暮れが迫る頃、いつもの場末の黒い映画館へと戻ってきた八尾と佳奈は、ようやく一息ついていた。
薄暗いロビーのカウンターの奥で、八尾はいつもの椅子に深く腰を下ろし、新しい煙草に火をつけて、強烈な臭いの紫煙を気怠げに吹かしている。
佳奈は肩から重いフィルムカメラを下ろしてカウンターの上に置くと、道中ずっと頭の中で引っかかっていた疑問を、改めて八尾にぶつけてみた。
「あの、八尾さん。結局、どうして今回はこの映画館以外の場所でも、捕縛術の【上映】ができたんですか?封じる場所は、原則としてこの館だけって決まりじゃなかったんですか?」
隙間女の力で空間を繋いだわけでもないのに、あの国立博物館の展示室では、まるでこの映画館のスクリーン室と全く同じように術が成立したのだ。
しかし、八尾は煙草の煙を天井へ向かってふうっと吐き出すと、生気の薄い瞳をわずかに細めて肩をすくめた。
「さあ、なんでかしらね?たまたま映写機の調子が良かったんじゃないの」
「ええっ、またそれですか!?ちゃんと教えてくださいよぉ!」
「私は疲れたから休むわよ。あんたは時間まで窓口に座ってなさい」
八尾は佳奈の抗議をひらりとかわすと、昼間に正体を尋ねられたときと全く同じように言葉をはぐらかし、そのまま奥の映写室へと逃げるように引っ込んでいってしまった。
「……むぅぅ。ほんっとうに、肝心なことは何にも教えてくれないんだから……」
ロビーに一人残された佳奈は、教えてくれない雇い主の態度に少しムスッとしながら、自分の指定席である入り口横の窓口へと向かい、パイプ椅子に座って机の上にだらりと項垂れた。
その時だった。
カサ、カササッ……と、乾いた紙が擦れる音がすぐ耳元で響いた。
佳奈が顔を上げると、窓口の机の引き出しのわずかな『隙間』から、隙間女の真っ白な指がひょっこりと出てきており、どこから引っ張り出してきたのか、古びた『二枚の地図』を佳奈の目の前へとスッと押し出してきたのである。
「え……?なにこれ、地図?」
佳奈は目を瞬かせ、机の上に広げられた二枚の紙を覗き込んだ。
一枚目は、現代のこの街の市街地が印刷された、比較的あたらしい地図だった。そしてもう一枚は、和紙のような黄色く変色した紙に、旧字体の漢字で地名や建物の名前が記された、明治時代のこの街の古地図だった。
隙間女の白い指が、トントン、と二つの地図の同じ場所を交互に指し示す。
佳奈は釣られるようにして、その指先が示す場所を見比べた。そして、そこに記された文字を読み取った瞬間、思わず息を呑んだ。
現代の地図で、今自分たちがいるこの『黒い映画館』が建っている場末の区画。そこは明治時代の古地図の上では、『帝国博物陳列館』――すなわち、かつての『博物館』があった場所として記されていた。
そして逆に、今日佳奈たちが訪れ、現在『国立博物館』がそびえ立っているあの公園の一角には、明治時代の古地図の上で、『見世物小屋興行地』という文字がはっきりと書き記されていたのである。
「今の映画館がある場所が、昔の博物館で……今の博物館がある場所が、昔の見世物小屋……?」
佳奈が呆然と呟くと、隙間女の白い指は窓口の台に置かれたすり減った鉛筆を掴み、手元のメモ用紙に赤い文字を猛烈な勢いで書き殴って、佳奈の方へと押し出してきた。
【みせものごや と えいがかん】
【にたような もの】
【だから あそこも つかえる】
佳奈はその不揃いな赤い文字を目で追った。
見世物小屋と、映画館。
確かに、暗い空間の中に客を集め、枠の向こう側にある奇妙なものや作り物の芸を見せて、娯楽として消費させるという点において、その二つは本質的に全く同じ性質を持った場所だ。
百年前、あの土地に深く染み付いた『見世物小屋』としての記憶と構造が残っていたからこそ、八尾はあの博物館を例外的な『術場』として利用することができたのだ。
すると、白い指はさらに鉛筆を走らせ、もう一枚のメモ用紙に続きを書き殴った。
【そもそも はくぶつかん も】
【ほんもの を つくりもの にして みせる ばしょ】
「……あ……」
その乱雑な文字列を見た瞬間、佳奈の背筋に、ひんやりとした奇妙な納得感が駆け抜けた。
実像を、虚像として展示する場所。
かつて生きた人間が実際に手にしていた刀や茶器、あるいは信仰の対象であった仏像や絵巻物。そうした生々しい『実像』であったはずの歴史の遺物を、分厚いガラスケースの向こう側に閉じ込め、「これは過去の歴史資料です」という説明書きを添えて安全に客に眺めさせる施設。
そう考えれば、博物館という場所そのものが、八尾のやっているこの映画館と、驚くほどよく似た巨大な処刑場のようなものなのかもしれなかった。
(明治時代の街の配置なんて、普通の人は絶対に知らないよね……。あの人、もしかして、ここが見世物小屋や昔の博物館だった頃から、ずっとこの街にいるの……?)
佳奈は二枚の地図から視線を上げ、八尾が消えていった奥の映写室の扉をじっと見つめた。
五百年前の京の都の匂いを昨日のことのように語り、明治時代の土地の記憶すらも自分の庭のように手玉に取る、黒髪の美しく冷淡な雇い主。
「……本当に、八尾さんは一体何者なんだろう?」
ぽつりとこぼれた疑問に答える者はいない。隙間女の白い指も、地図とメモを押し出すと満足したように再び引き出しの隙間へと引っ込み、いつものように古い映画の半券チケットをパチ、パチと数える作業へと戻っていった。
カチ、カチ、と壁の古時計の秒針が静かに時を刻む。
佳奈は小さく首を傾げながら、解けない謎と、今朝見た遠い絵本の夢の余韻を胸の奥で転がしつつ、今日も客が一人も来ない場末の映画館の窓口の席に深く座り直すのだった。




