第11話 貧乏神
国立博物館での『御伽噺』をめぐる騒動から数日が経ち、末広佳奈の通う大学は夏の長期休みに入った。
毎日のように通っていた講義がなくなり、レポートの提出もひと段落したことで、佳奈は狭い一人暮らしのアパートで完全に暇を持て余していた。
どこにでもいる普通の女子大生であれば、サークルの合宿に出かけたり、友人と海や旅行へ繰り出したりして夏を満喫する時期なのだろう。
もっとも、今の佳奈に先立つものがないわけではない。
それどころか、あの場末の黒い映画館でのアルバイト収入のおかげで、学生としては考えられないほど懐には余裕があった。
あそこでは基本給に加えて、怪異絡みの危ない仕事をこなすたびに分厚い茶封筒で給料が支払われるため、佳奈の銀行口座にはちょっとした小旅行や、しばらく顔を見せていない実家への帰省くらいなら何度でも往復できるだけの資金が貯まっていたのである。
だが、金銭的に可能であることと、実際にこの街から離れられるかどうかは、まったく別の問題だった。
もし、佳奈が夏休みだからといって、雇い主である八尾亜璃珠に断りもなく新幹線のチケットを買って実家に帰ろうとしたら、一体どうなるか。
あの冷淡で人使いの荒い館主が、「そう、ゆっくり羽を伸ばしてきなさい」などと優しく送り出してくれる姿は、天地がひっくり返っても想像できなかった。
(無理矢理どこか遠くへ行こうとしたら……きっと、あの隙間女さんを私に取り憑かせて、四六時中ずっと監視させるに決まってる……!)
佳奈はベッドの上でゴロゴロと寝返りを打ちながら、ぞっと背筋を震わせた。
旅先のホテルのクローゼットの隙間や、実家の自分の部屋の襖の隙間から、二十四時間ずっとあの真っ白な指とぎょろりとした赤い目に覗かれ続ける夏休みなど、ホラー映画よりも悪夢的だ。
それだけではない。先日、山奥の廃村である『蛇谷村』で体験したように、隙間女がその気になれば、遠く離れた場所の物理的な隙間と映画館の空間を無理矢理に繋げてしまうことだってできるのだ。
せっかく実家に帰って母親の手料理を食べている最中に、突然食卓の隙間から無数の白い腕が飛び出してきて、そのまま場末の映画館のロビーへと強制送還される、などという事態も十分にあり得る話だった。
四六時中隙間女に監視されるのも、前触れもなくいきなり映画館へ引きずり戻されるのも、佳奈としては絶対に御免被りたい。
結局、そうした見えない鎖の存在を前にして、佳奈は長期休みの遠出をあっさりと諦め、大人しくこの街のアパートに籠もって夏をやり過ごすことにしていたのである。
しかし、そんな佳奈のささやかな籠城計画を根底から打ち砕いたのは、怪異でも八尾でもなく、暴力的なまでの『日本の夏』そのものだった。
「……あ、あづい……っ。なにこれ、全然冷えないじゃない……っ!」
午前十時を回った頃、佳奈はアパートの畳の上でのたうち回りながら悲鳴を上げた。
窓の外では、アスファルトを焼き焦がすような猛烈な日差しが照りつけ、蝉の鳴き声が暑苦しく降り注いでいる。
備え付けの古びたエアコンは設定温度を最低にしてフル稼働させているはずなのに、吹き出し口から出てくるのは生ぬるい風ばかりで、築年数の古いアパートの室温はぐんぐんと上昇を続けていた。
まるで、ちっぽけな機械のクーラーなど嘲笑うかのように、夏の異常な蒸し暑さが部屋中へと容赦なく突きつけられていたのだ。
じっとしているだけで、額や首筋からじんわりと汗が噴き出してくる。
このままこの蒸し風呂のような部屋に留まっていれば、怪異に襲われるよりも先に熱中症で干からびてしまうに違いない。
「……無理。避難しよう」
ついに蒸し暑さに耐えかねた佳奈は、着慣れた涼しげなカジュアルな服装に着替えると、逃げるようにしてアパートの部屋を飛び出した。
目指す先は、この街で一番広くて、一番冷房が効いている場所、駅前にそびえ立つ大型家電量販店である。
あそこへ行けば、業務用エアコンでガンガンに冷やされた極楽のようなフロアが広がっているはずだ。ついでに健康家電コーナーに並んでいる展示品の高級マッサージチェアにでも座って、凝り固まった肩や腰をほぐしながら涼しく昼過ぎまで過ごそう。そんな完璧な計画を胸に、佳奈は陽炎の揺らめく大通りを早足で駆け抜けた。
自動ドアが開いた瞬間、ひんやりとした乾燥した冷気が全身を包み込み、佳奈は思わず「生き返る……」と安堵の吐息を漏らした。
休日の大型家電量販店は、明るい照明と軽快なテーマソング、そして多くの買い物客の賑わいで満ちていた。
佳奈は汗をハンカチで拭いながら、わき目も振らずにエスカレーターで上層階の健康家電フロアへと直行した。
お目当ての最新型マッサージチェアのコーナーが見えてくると、思わず口元が緩む。
だが、その笑みは数秒後にピタリと凍りついた。
「……うそ。全部埋まってる……」
ずらりと並んだ十台近い展示品のマッサージチェアには、すでに目を閉じて極楽を味わっている中高年の客や、スマートフォンを弄りながら寛ぐ若者たちが一人残らず深く腰掛けており、完全に満席状態だったのである。
それだけではない。フロアの隅に置かれた休憩用のベンチや、テレビ売り場の前に並べられた試聴用のパイプ椅子に至るまで、座れそうな座席という座席がすべて人で埋め尽くされていた。
猛烈な酷暑の中で、街の人間が考えることは皆同じだったらしい。クーラーの効いた場所でただ座って涼みたいという避難民たちによって、店内のあらゆる椅子が占拠されていたのだ。
「はぁぁ……。せっかくここまで歩いてきたのに……」
目論見が外れた佳奈は深いため息をつき、がっくりと肩を落とした。
とはいえ、今からあの灼熱のアパートへ引き返す気には到底なれない。映画館のシフトの時間まではまだ何時間もある。佳奈は落ち込んだ気分のまま、とりあえずこの涼しい冷気の中を歩き回って暇をつぶすことに決め、家電量販店の広い各フロアを当てもなく巡り始めた。
白物家電のフロアを抜け、パソコン売り場を通り過ぎ、ひとつ下の階にあるオーディオ機器のフロアへと足を踏み入れる。
無数のイヤホンやヘッドホンが壁一面に展示されている棚の前に立つと、佳奈は少しだけ気を取り直した。
(そういえば、長く使ってたヘッドホンの耳当ての部分、ボロボロになってきてたんだよね。バイト代もいっぱい残ってるし、ちょっといいやつに買い替えちゃおうかな)
そんなことを考えながら、試聴用のヘッドホンをいくつか手に取って眺めていたときだった。
一般向けの棚のさらに奥。防音パネルで半分仕切られた『ハイエンド・高級オーディオ機器』の専門コーナーの方に、ふと佳奈の視線が吸い寄せられた。
そこには、ガラスケースの中に収められた一台数十万円もするような真空管アンプや、高級家具のように磨き上げられた大型スピーカーが並んでいる。
その高価な展示棚の前に、一人の若い男と、杖をついた小柄な老人が並んで立っていた。
若い男の方は、佳奈とそう歳が変わらないくらいの大学生か、新社会人といった風貌の青年だった。
彼は値札に記された桁違いの金額を食い入るように見つめながら、ひどく落ち着かない様子でズボンのポケットから何度も革の財布を取り出しては中身を覗き込み、さらにスマートフォンを取り出して銀行口座の残高画面らしきものを確認するという動作を、もう何度も繰り返していた。
自分の使える資金でそれが買えるかどうか、激しい葛藤の渦中にいることは誰の目にも明らかだった。
一方、そんな青年のすぐ横に並んで立っている老人は、どこか時代錯誤なほど古風な和装に近い装いをし、節くれだった木の杖を両手でついていた。
白髪交じりの頭に深い皺の刻まれた顔立ちは、絵に描いたような人の良さそうな好々爺そのものである。老人は、財布とスマホを交互に見比べて唸っている青年の横顔をちらりと見ては、ニコニコと穏やかな笑みを浮かべながら、一緒にガラスケースの中の高そうなオーディオ機器を覗き込んでいた。
最初は、趣味の良い祖父と孫が一緒に買い物に来ているのかと思った。
しかし、棚の陰から何気なくその二人を見つめていた佳奈の胸の奥に、ふと、説明のつかない微かな『違和感』が芽生えた。
(……あれ?)
おかしい。
すぐ近くを店員や他の買い物客が何人も通り過ぎているというのに、誰一人として、通路の真ん中に杖をついて立っているその小柄な老人を避けようとしないのだ。それどころか、まるでそこには青年一人しか立っていないかのように、周囲の人間たちの視線が老人の存在を綺麗に素通りしている。
そして何より、あの黒い映画館でこれまで散々、死者や都市伝説、果ては三途の川の死神にまで遭遇し、人ならざるものの気配にすっかり敏感になってしまっていた佳奈の感覚が、静かに警鐘を鳴らしていた。
(――あの人、人間じゃない)
佳奈はゴクリと唾を飲み込み、商品棚の陰に半身を隠した。
これまで出会ってきた凶悪な怪異たちのような、肌を刺す殺気や腐臭があるわけではない。だが、あの老人が纏っている空気の密度は、明らかに生きた人間のそれとは異なっていた。
もしかしたら、かつて歩道橋で見た『付き人』のように、あの悩んでいる青年の背後に取り憑いている怪異の一種なのかもしれない。
確かめるために、佳奈はポケットから自分のスマートフォンをそっと取り出した。
画面をタップしてカメラアプリを起動し、ヘッドホンの棚を撮影するふりを装いながら、レンズの向きを少しだけずらして、奥にいる青年と老人の二人を画面の中へと収めた。
そして、液晶画面に映し出された映像を見た瞬間、佳奈の背筋がひやりと冷たくなった。
スマートフォンの画面の中には、難しい顔をして財布を握りしめている青年の姿しか映っていなかった。
肉眼で見れば、そのすぐ右隣でニコニコと笑いながら杖をついているはずの老人の姿が、カメラのレンズを通した画面の上では、影すらなく完全に消え失せていたのである。
(やっぱり、怪異だ……っ!)
佳奈は慌ててスマートフォンを胸元に引き寄せた。
どうしよう。プライベートで涼みに来ただけの家電量販店で、人ならざる存在を見つけてしまった。
いつもなら、隣には人使いは荒いが頼りになる八尾がいて、手には怪異を焼き付けるための旧式のフィルムカメラがある。しかし、今の佳奈は完全に一人きりであり、手元にあるのは現代のスマートフォンだけだ。
目を逸らしてこのまま気づかなかったふりをして立ち去るべきか、それとも一度八尾に連絡して指示を仰ぐべきか。佳奈が棚の陰で、こういう時にどう対処すればいいのかと一人で頭を悩ませていた、まさにその時だった。
不意に、ガラスケースを覗き込んでいたはずの老人が、ゆっくりと首を巡らせた。
そして、棚の陰からこちらを窺っていた佳奈の瞳と、老人の糸のように細められた穏やかな目が、真正面からバッチリと合ったのである。
「――っ!」
見られた。認識してしまった。
佳奈が全身を硬直させ、思わず一歩あとずさりして一瞬だけ瞬きをした、その直後だった。
「何か御用かな、可愛いお嬢さん?」
声は、離れたオーディオコーナーからではなく、佳奈のすぐ『真横』から聞こえた。
「…………えっ?」
佳奈の呼吸がピタリと止まる。
錆びた機械のようにぎこちなく首だけを横へ向けると、ついコンマ数秒前まで十メートル以上離れた青年の隣に立っていたはずの杖をついた老人が、いつの間にか佳奈のすぐ真横にぴたりと寄り添うように立って、ニコニコと人の良さそうな笑顔でこちらを見上げていたのである。
あまりにも唐突で、あまりにも自然な神出鬼没さに、佳奈は悲鳴を上げることすらできず、スマートフォンを握りしめたままその場で石のように固まってしまった。
「ほっほっほ。そう怖い顔をして固まらんでおくれ。驚かせるつもりも、何か悪さをするつもりも毛頭ないからのう」
すぐ真横から聞こえてきたのは、拍子抜けするほど穏やかで、枯れ葉が擦れ合うような柔らかい老人の声だった。
佳奈はスマートフォンを胸の前に握りしめたまま、引き攣った頬をわずかに動かして隣を見下ろした。
そこには、節くれだった木の杖を両手でついた小柄な老人が、深い皺の刻まれた顔いっぱいに人の良さそうな笑みを浮かべて立っていた。
これまで佳奈が遭遇してきた怪異といえば、どす黒い靄となって襲いかかってくる怨念や、腐臭を放つ肉の塊、あるいは見るだけで精神を削り取られるような異形の都市伝説ばかりだった。
だからこそ、目の前にいるこの老人が放つ、日向の縁側のようなぽかぽかとした空気感に、佳奈の警戒心はすっかり毒気を抜かれて混乱してしまっていた。
(で、でも、さっきスマホのカメラには全然映ってなかったし……絶対に普通の人間じゃないよね……っ!)
佳奈がどう反応すべきか分からず、冷や汗を浮かべて一歩後ろへ下がりかけると、老人は白い眉毛を八の字に下げて「やれやれ」と小さく首を振った。
「無理もないかのう。お嬢さんは、あの場末で妖怪退治をしておる尼様に仕える娘さんじゃろう?わしのような者が急に近づけば、身構えるのも道理じゃ」
「え……?あ、尼様って……もしかして、八尾さんのことですか?」
「うむ。あの気性の荒いお方に目を付けられてはたまらんが、今日はお嬢さんお一人のようじゃったからな。少しばかり声をかけてもよかろうと思ったのじゃよ」
老人はニコニコと笑いながら、杖の先でフロアの隅の方をちょいと指し示した。
見ると、佳奈が来たときには買い物客でびっしりと埋まっていた休憩用のベンチから、ちょうど中年の夫婦が立ち上がって歩き去るところだった。
「ほれ、あそこがちょうど空いたようじゃ。立ち話もなんじゃし、少し座ってお話しせんかね」
老人はそう言って、トコトコと軽い足取りでそのベンチへと歩いていき、端にちょこんと腰を下ろした。そして、自分の隣の空いたスペースを手のひらでポンポンと軽く叩いてみせる。
逃げようと思えば今すぐエスカレーターへ駆け込むこともできたが、相手から敵意や殺気が微塵も感じられないことと、「尼様」という聞き慣れない呼び方で八尾のことを知っていた好奇心から、佳奈はおっかなびっくりといった足取りでベンチへと近づき、老人から少しだけ距離を空けて隣に腰を下ろした。
「はぁ、やれやれ。しかし近頃の夏というのは、どうにも暑すぎていかんのう。こんな涼しい箱の中におらんと、年寄りはすぐに干からびてしまうわい」
老人は杖を両足の間に立てかけ、短い足をぶらぶらさせながら気持ちよさそうにクーラーの風を浴びている。どう見ても、近所に散歩に出てきた普通の好々爺にしか見えない。
佳奈は周囲の買い物客に怪しまれないよう、前を向いたまま声を潜めて老人に問いかけた。
「あの……あなたは、一体誰なんですか?私のスマホのカメラに映らなかったってことは……怪異、なんですよね?」
「ほっほっほ。怪異などというおどろおどろしい連中と一緒にされてはかなわんよ。これでもわしは、れっきとした神様の一柱でのう」
老人は得意げに白い顎髭を撫でると、佳奈の方へ顔を向けて、声をひそめるようにして自分の名を明かした。
「わしの真名は、【貧乏神】というのじゃ」
「……び、貧乏神、ですか?」
「いかにも。この世の人々の貧困や、暮らしの不如意を司る神様じゃよ」
思わぬビッグネームの登場に、佳奈は目を丸くして老人の顔をまじまじと見つめた。
貧乏神といえば、昔話や落語などにもよく出てくる、家に住み着いてその一家を困窮させるという有名な疫病神の一種だ。ボロボロの着物を着て破れた団扇を持っているイメージがあったが、目の前の老人は古風ながらも小綺麗な装いをしており、何よりひどく穏やかで上品な雰囲気すら漂わせている。
「な、なんでそんな貧乏神様が、こんな駅前の家電量販店なんかにいるんですか?さっき、あっちの高級オーディオコーナーで、若い男の人の横にずっと立ってましたよね」
佳奈がガラスケースの並ぶ奥のコーナーを指差して尋ねると、【貧乏神】は「ああ、あれか」と柔和に目を細めた。
「あそこにいた若者はな、この春に田舎から出てきたばかりの大学生でのう。親御さんが汗水垂らして働いて送ってくれた大切な仕送りを、あろうことかあんな身の丈に合わん高級な機械に注ぎ込もうとしておったのじゃ」
「えっ……親御さんの仕送りを、趣味のオーディオにですか?」
「うむ。若いうちの物欲というのは恐ろしいものじゃからのう。だからわしは、あやつが大事な生活費を勝手に使い込んでしまわんように、ああしてすぐ横で見守っておったところなのじゃよ」
老人の口から語られた意外すぎる理由に、佳奈は「へぇ……」と思わず感心の声を漏らした。
てっきり、若者に悪影響を及ぼして破滅させようとしている悪霊の類かと疑っていたのだが、話を聞いてみればまったく逆ではないか。親の仕送りを無駄遣いしそうになっている若者の隣に立ち、無言のブレーキをかけて見守っていたのだという。
「そういうわけじゃから、お嬢さん。わしはそこらの人間を襲って命を奪うような妖怪や怪異の類ではないのじゃ。どうか、あの恐ろしい映画館の尼様には内緒にして、わしのことはこのまま見逃してはくれんかのう?」
老人は杖の上で両手を重ね、困ったように眉を下げて佳奈に頼み込んできた。
あまりにも腰が低く、柔らかい好々爺然とした態度に、佳奈はすっかり毒気を抜かれて困惑しながらも、こくりと首を縦に振った。
「は、はい。悪さをしないのであれば、わざわざ八尾さんに言いつけたりしませんよ。……というか、どのみち今の私一人じゃ、あの重いフィルムカメラも持ってきていませんし、あなたを捕まえることなんて何もできませんから」
怪異を封じるためには、あの旧式のフィルムカメラで対象の一部を撮影し、映画館のスクリーンへ投影して八尾に真名を呼んでもらう必要がある。丸腰でプライベートを過ごしている今の佳奈には、そもそも誰かを捕縛する手段など最初からなかったのだ。
佳奈が正直にそう答えると、【貧乏神】は「ほっほっほ、そうかそうか。それはありがたい」と嬉しそうに肩を揺らして笑った。
そこでふと、佳奈はひとつの素朴な疑問に思い至り、首を傾げた。
「……あれ?ところで神様、こうして私とベンチに座って話し込んでいますけど、さっきの男の人からそんなに長く離れてしまってもよかったんですか?」
老人が見守っていたからこそ、あの青年は財布とスマートフォンを交互に見比べて購入を躊躇っていたはずだ。その見張り役がいなくなってしまっては、まずいのではないだろうか。
佳奈が心配して尋ねると、【貧乏神】はピタリと笑みを止め、糸のように細められていた目元をわずかに持ち上げた。
そして、その人の良さそうな皺だらけの顔に、まるでいたずらを見つかった悪童のような、ひどく人が悪くて愉悦に満ちた笑みを浮かべたのである。
「なぁに、構わんよ。たまにはああやって人間に身の丈に合わん無駄遣いをさせて、明日からすっからかんの貧乏にしてやるのも、また一興じゃからのう」
「…………えっ?」
老人はそう言ってクックッと喉の奥で楽しそうに笑うと、杖をついて佳奈の隣のベンチからすっと立ち上がった。
背筋に嫌な予感が走り、佳奈は慌ててベンチから身を乗り出して、奥の高級オーディオ機器コーナーの方へと視線を向けた。
ガラスケースの前には、もうあの青年の姿はなかった。
代わりに、コーナーのすぐ横にある会計カウンターの前で、満面の笑みを浮かべた店員に促されるまま、憑き物が落ちたように恍惚とした表情の青年が、自分の財布から引き抜いたクレジットカードを端末へと差し込んでいる姿が見えたのである。
ピピッ、という軽快な電子音と共に、何十万円もする真空管アンプの決済が完了し、控えのレシートが吐き出されていく。老人が隣から離れたことで、最後の理性のタガが外れて買ってしまったのか、それとも最初から老人自身が青年の背中をそっと押していたのか。いずれにせよ、あの青年が来月からカードの支払いに追われ、もやしと水だけで暮らす極貧生活へ叩き落とされることだけは間違いなかった。
(うわぁぁ……っ!見守ってたって、あれ、絶対にお金を使わせるために後ろから煽ってただけじゃないの!?)
やはり、神様だなんだと上品なことを言っていても、この【貧乏神】という存在は人間を不幸に陥れるタチの悪い怪異なのだと佳奈は悟った。
「ちょ、ちょっと!話が違うじゃないですか、全然いい神様なんかじゃ――」
佳奈が抗議しようと慌てて隣を振り返った、その瞬間だった。
佳奈の言葉は、空振りに終わって宙に消えた。
つい一秒前まで、すぐ真横に杖をついて立っていたはずの【貧乏神】の姿が、まるで最初からそこには誰もいなかったかのように、跡形もなく掻き消えていたのである。周囲を見回しても、人混みの中に小さな老人の背中はどこにも見当たらなかった。
「……消えた……」
呆気に取られた佳奈が、老人の座っていた隣のベンチの座面にふと視線を落とすと、そこに『何か』がちょこんと置かれているのに気がついた。
銀色に光る硬貨が数枚。百円玉が一枚と、十円玉が数枚、行儀よく重ねて置かれている。自動販売機で冷たい飲み物がちょうど一つ買えるだけの小銭だった。
佳奈が目を瞬かせてその小銭を見つめていると、店内の賑やかなBGMに混じって、どこからともなく、あの老人の軽やかで楽しそうな声が耳元を撫でた気がした。
『ほっほっほ。見逃してもらうための駄賃じゃよ。冷たいものでも飲んで、せいぜい夏バテせんようにな』
声の気配はそれきりで完全に途絶えた。
佳奈はベンチに残された百数十円の小銭を恐る恐る拾い上げ、手のひらの上で転がしてみた。人肌よりも少しだけひんやりとした、紛れもない本物の硬貨の感触がある。
青年には何十万円もの散財をさせておきながら、口止め料はジュース一本分の小銭だけというのが、いかにも貧乏神らしいケチくささだった。
「……はぁ。なんだか、本当に不思議な怪異もいるものだなぁ」
命のやり取りをするような恐怖の順番は欠片もなかったが、まあ、誰かの命が奪われたわけでもないのだし、今回は老人の言葉通り見逃してやることにしよう。
佳奈は苦笑いを浮かべながらベンチから立ち上がると、家電量販店の出口へと向かった。そして、外の熱気の中へ出る前に、入り口の脇に設置されていた自動販売機へその貰ったばかりの小銭をチャリンと投入し、よく冷えた炭酸ジュースのボタンを押した。
ガコン、と落ちてきた冷たい缶を頬に当て、シュパッとプルタブを開けて甘い炭酸を喉に流し込みながら、佳奈は灼熱の太陽が照りつける駅前通りを後にしたのだった。
夕方になり、暑さがほんの少しだけ和らいだ頃、佳奈はいつものように場末の商店街を抜けて、あの黒い外壁の映画館へと出勤した。
重いガラス扉を押し開けてロビーに入ると、中は家電量販店とはまた違う、太陽の光を拒絶したような独特のひんやりとした薄暗闇に満ちている。
カウンターの奥では、館主の八尾亜璃珠がいつも通りに長い黒髪を垂らし、黒い服に包まれた肢体で椅子に深く腰掛けて、人ならざる臭いを上書きするための強烈な臭いの煙草を気怠げに吹かしていた。
「おはようございます、八尾さん」
「ええ。外は暑かったでしょう、新人」
佳奈は自分の指定席である窓口のパイプ椅子に荷物を置くと、カウンターの前へと歩み寄り、昼間に駅前の家電量販店で遭遇した不思議な出来事を八尾に報告することにした。
一応、「尼様には内緒にしてくれ」と駄賃をもらった身ではあったが、もう老人はどこかへ消えてしまった後だし、事後報告くらいなら問題ないだろうと思ったのだ。
「――ということがありまして。スマホのカメラには全然映らないのに、私のすぐ隣に急に現れて、自分は【貧乏神】だって名乗ったんです。最後は若い男の人に高いオーディオを買わせて消えちゃったんですけど……」
佳奈が身振り手振りを交えて説明を終えると、黙って聞いていた八尾は、珍しく感心したようにその整った眉をわずかに持ち上げた。
そして、指先に挟んだ煙草から灰色の煙をふうっと吐き出しながら、生気の薄い声で言った。
「へえ。【貧乏神】に直接出会えたのなら、あんた、ずいぶんと運がいいわね」
「えっ?運がいい、ですか?だって、相手は人間を貧乏にする神様なんですよ?取り憑かれたりしたら最悪じゃないですか」
意外な八尾の反応に佳奈が目を瞬かせると、八尾は「これだから物を知らない人間は」とでも言いたげに小さく鼻を鳴らした。
「いいこと、新人。この世において『貧乏』と『裕福』っていうのは、完全に表裏一体の物事なのよ。片方があるからもう片方が定義できる。だから、それを司る神様っていうのもまた、最初から表裏一体の存在なの」
「表裏一体……?」
「そう。つまりね、貧乏神っていうのは、裏を返せばそのまま『福の神』でもあるのよ」
八尾は煙草の灰を灰皿にチョンと落としながら、淡々と言葉を継いだ。
「普段は人間に無駄遣いをさせたりして貧困を振りまいているけれど、その気まぐれな貧乏神から直接何かの『施し』を受けた場合は、表裏がひっくり返るの。施しを受けた人間の金銭運が、劇的に跳ね上がるって言われてるのよ」
「――ええええっ!?」
八尾の口から語られたまさかの裏設定に、佳奈はロビーに声が響き渡るのも構わず大声を上げた。
貧乏神が、実は福の神と表裏一体。
そして、あいつから施しを受けた人間は、金銭運が劇的に上がる。
佳奈の脳裏に、昼間のベンチの上で銀色に光っていた、あの百数十円の小銭の記憶が鮮烈にフラッシュバックした。
『見逃してもらうための駄賃じゃよ』と言って、確かにあの老人は佳奈に直接お金を施してくれたではないか!
「や、やったぁぁっ!!私、あの神様から見逃すお礼にって、お小遣いをもらったんです!」
佳奈の顔が、パァッと音を立てんばかりに明るく輝いた。
なんという幸運だろうか。暑さに負けて家電量販店へ逃げ込んだおかげで、とんでもない大当たりを引き当ててしまったらしい。
「金運が上がるってことは、臨時収入が入ったりするんですよね!?よぉし、じゃあ今日の晩ご飯はスーパーの半額弁当じゃなくて、奮発して豪華にいくぞーっ!あ、帰りに駅前の売り場で宝くじも買っちゃおうかな!?」
両手の拳をぐっと握りしめ、カウンターの前で一人で大いにはしゃぎ回る佳奈。
そんな浮かれきったアルバイトの姿を、八尾はいつもの強烈な臭いの煙草をふうっと吹かしながら、ひどく涼しげな、どこか哀れむような冷たい瞳でじっと眺めていた。
そして、佳奈の歓喜の舞がひと段落したところで、八尾は氷のように冷静な声でぽつりと問いかけた。
「ところで、新人。その貧乏神からもらった大事なお金は、今どうしたの?」
「え?」
佳奈はぴたりと動きを止め、何の疑いもない、実に無邪気で間抜けな笑顔のまま即答した。
「あ、はい!家電量販店を出るときに喉が渇いてたので、入り口の自販機に入れて、冷たい炭酸ジュースを買って飲みましたけど!」
静まり返った薄暗いロビーに、佳奈の元気な声が虚しく反響した。
一秒。二秒。三秒。
カウンターの奥で、八尾は無言のまま手元の灰皿へ煙草の吸い殻をぎゅっと押し付けて火を消した。そして、ゆっくりと立ち上がると、佳奈に向かって「はい、残念でした」とでも言うように大げさに両肩をすくめてみせ、それ以上は一言も言葉を発さずに、ひらりと黒い服の裾を翻して奥の映写室へと引っ込んでいってしまった。
バタン、と映写室の扉が閉まる音が響く。
ロビーに一人取り残された佳奈は、数秒間、笑顔を貼り付かせたまま石のように固まっていたが、やがてその頭の中で、遅まきながら恐ろしい結論が導き出された。
「…………えっ。も、もしかして……あのお金って、使っちゃいけなかったやつ……!?」
神様から直接授かったお金。いわゆる『種銭』というやつだ。
それを財布の中に大切にしまって肌身離さず持っていればこそ、福の神のご利益が宿って金運を呼び込んでくれたはずなのに、佳奈はもらってからわずか数分後には、目先の喉の渇きを潤すためだけに自動販売機へと放り込んで手放してしまったのである。
「う、うそでしょぉぉ……っ!炭酸ジュース一本で、私の一攫千金のチャンスが終わっちゃったのぉぉっ!?」
せっかく宝くじでも当てて、クーラーのよく効く新しいマンションに引っ越してやろうかとまで意気込んでいたのに、なんという呆気ない幕切れだろうか。
佳奈はその場に膝から崩れ落ちそうになるのをどうにか堪え、フラフラと夢遊病者のような足取りで自分の指定席である窓口へと戻り、机の上に突っ伏して深く、深く項垂れた。
気まぐれな福の神が施した幸運の硬貨は、すでに数時間前、駅前の大型家電量販店の自動販売機の暗いお腹の中へと吸い込まれていった。
あの小銭は、いずれ業者によって回収されるか、あるいは他の買い物客への『お釣り』として、見ず知らずの誰かの手へと渡っていくだろう。
そして、また使われて別の誰かの手へと巡り巡り、やがてその硬貨をたまたま使わずに貯金箱へ入れた幸運な誰かが、貧乏神の裏返しの強いご利益を受けて、一攫千金のチャンスを手にするのかもしれない。
ただひとつ確実なのは、その幸運を手にするのは、百数十円の炭酸ジュースで喉を潤して満足してしまった末広佳奈ではない、どこかの誰かだということだけだった。
「うぅぅ……私のバカ……ジュースなんて水道水で我慢すればよかったのにぃ……」
今日も客が一人も来ない場末の映画館の窓口で、頭を抱えてうめき声を上げる佳奈。
するとそのすぐ横、窓口の机と引き出しのほんのわずかな『隙間』から、血の気のない隙間女の真っ白な指がスルスルと這い出してきた。
白い指は、隙間の奥から年季の入った古い十円玉を一枚ひょいと取り出すと、どこから持ってきたのか小さな白い布切れを使って、見せびらかすようにキュッ、キュッとその十円玉を大切そうに磨き始めたのである。
「……隙間女さん、それ、絶対私を煽ってるよね……?」
涙目で睨みつける佳奈と、ピカピカになった十円玉を嬉しそうに掲げて見せる白い指。
その奇妙で平和な夕暮れの映画館の光景を、きっとこの街のどこかの涼しい場所で、あの悪戯好きな【貧乏神】は腹を抱えて楽しそうに笑って見ていることだろう。




