2. 靴は、行きたがっている
「昨夜、その……靴が、扉の前まで来ました。私は、逃げました」
朝いちばんに白状したのは、作法の二を思い出したからである。この部屋では、嘘をつかない。
「逃げてよかったんです」
汐見さんは頷いた。
「机の弁当箱は、守屋さんですよ。夜の見回りで拾った物は、翌朝、持ち主の机へ置いてくださるので」
「…………人間の、仕業でしたか?」
安堵と、ほんの少しの拍子抜け。夜の廊下で七まで数えた自分が、急に恥ずかしくなる。
「夜のここには、慣れないでください。慣れた人から順に、連れて行かれます。あ……冗談です」
「冗談は、冗談の顔で言ってください」
「善処します」
この人の言葉はいつもそうで、事務連絡の顔をして、奥に暗がりがある。どこまでが規則で、どこからが警告なのか、境目を教えてくれない。
台帳は、和綴じに近い厚い帳面である。表紙は角が丸くなり、開くと古い紙の匂いが立つ。見返しには墨で、三つの作法が書かれていた。どの頁の筆跡とも違う、古い字である。めくるごとに筆跡が変わっていくのは、それだけ多くの人が、この机に座っては去ったということだ。
特七三号。赤い子供靴、右、片方。持ち主の欄に、五歳の女の子の名前がある。前年十一月、登園途中の交通事故。靴は今年の三月、側溝の清掃で見つかって警察へ渡り、六月の末、ここへ流れ着いた。
「えーと、さわ――」
「いけません、作法の一です」
声より先に、汐見さんの指が頁を押さえる。
「読むのは、目で。声に出すのは、返す日だけです。……ああ、作法は、この部屋の中の決まりです。外で、持ち主の方のお名前が出るぶんには構いません。品を連れて歩くときだけは、外でも、お静かに」
夜癖、という欄がある。等級、二。夜、棚から扉まで歩く。朝には戻っている。
「品物には、口がありません。ですから、癖で語ります。どちらを向いて止まるか? 何時に歩くか? ――この靴は、いつも同じ方角で止まります」
汐見さんの観察の帳面には、日付と停止位置と爪先の向きが、几帳面に並んでいた。いずれも、北東。定規で引いたように、ぶれがない。
北東に何があるのか、私はまだ知らない。
午後、初めての聞き取りに出る。地上の光は目に痛く、蝉の声は割れんばかりで、地下の静けさのほうが急に嘘のようだった。交番の巡査は記録を繰り、現場の横断歩道を教えてくれる。園までの、通園路の途中である。白線は引き直されて新しく、供えられた花は、もうなかった。八か月というのは、道にとってはそういう長さらしい。
つくし保育園に着くと、園庭から水遊びの歓声が弾けていた。廊下の靴箱は膝の高さで、あの靴と同じ大きさの靴が、色とりどりにぎっしり並んでいる。応接の隅で、若菜先生という若い先生が膝を揃えた。
「あの朝……琴葉ちゃん、初めて一人で、靴を履けたんだそうです。お母さまから、あとになって伺いました。園でもずっと、練習していたんですよ。じぶんで履けたら、かっこいいねって」
先生の声は、そこで一度だけ揺れる。
「……とうとう履けた朝が、あの朝だったんですねえ」
初めて一人で履けた靴の片方が、いま、市役所の地下で夜ごと歩いている。私はそれを、言わずに置いた。嘘は、ついていない。ついていないぶんだけ、帰り道の鞄が重い気がする。靴は保管室に置いてきたのに、である。
宛先の第一仮説は、母親。形見は家族へ。窓口の常識で言えば、そうなる。
夕方、保管室に寄って風呂敷包みを預かり、沢井さんの家を訪ねた。表札の下の呼び鈴を押すまでに、七つ数える。怒鳴られたら、と思うだけで、指先はもう冷たい。玄関の傘立てに、小さな赤い傘が一本、挿さったままになっている。
出てきたお母さんは、名刺と、私の抱えた風呂敷包みとを、長いあいだ交互に見ていた。それから、静かに言う。
「棺に、入れてやれなかった片方です。いまさら――あの子に、追いつきません」
「あの……」
「お引き取りください」
ドアは、乱暴にではなく、きちんと閉められた。線香の匂いが、閉まる寸前の隙間から、細く流れてきた気がする。きちんと、が一番、応える。怒鳴られる覚悟ばかりしていた私は、静かに断られる痛みを、まだ知らなかったのだ。
帰りのバス停まで、私は鞄の重さを数えていた。靴一つぶん。たったそれだけの重さが、どうしても下ろせない。
その夜から、靴の癖は変わったという。
「廊下の先まで、行くようになった」
教えてくれたのは、夜勤警備の守屋さんである。六十がらみ、元は工場勤め。妙に肝が据わっている。
「あんた、夜の庁舎でいちばん怖いのはなんだと思う?」
「……館内放送、ですか?」
「惜しい。宿直明けの、館内放送だ」
冗談の途中で、守屋さんは守衛室のモニターを巻き戻し、音量を上げた。湯呑の茶が、画面の光で揺れて見える。
「見な。……いや、聴きな、だな」
誰もいない地下の廊下。画面は静止画のように動かない。音だけが、進む。とっ、とっ、とっ。小さな歩幅で、迷いなく。
「映っとらんのに、録れとる。妙な話よ」
音は、廊下の果てで止まった。地下から一階へ上がる階段の――一段目のあたりで。
上がりたいのだ、と思う。階段の上の、ずっと北東の先には、保育園がある。
思ってから、二の腕が粟立った。私はまだ、この仕事の何も知らない。ただ一つだけ、分かることがある。あの靴は今夜も、行き先を諦めていない。




