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1. 地下二階に、窓口があります

 辞令というのは、紙一枚で人を地下へ沈める。


久世澄人(くぜすみと)さん。七月一日付、市民生活課遺失物対策係付。勤務場所は――本庁舎地下二階、第二保管室です」


 読み上げてから、人事課の柏木係長は初めて顔を上げた。眼鏡の奥の目は、気の毒がるでもなく、笑うでもない。書類の目である。


「一つ、内規があります。あの部屋の台帳の未済がゼロになった年度末、あなたは希望の窓口部署へ異動できます」


「……口約束、ですか?」


「文書です。人事は、口約束をしません」


 台帳の未済がゼロになれば、窓口へ。終わりの数字がある仕事は、怖くない――そのときの私は、素直にそう思った。何も知らないというのは、そういうことである。


 窓口、という言葉は、胸の奥で鈍く鳴る。


       ◇


 六月のあの日――――。


 私は市民課の窓口に立っていた。書類の不備を伝えた相手が、机を叩いて怒鳴り始める。声が大きくなるほど視界は狭くなり、私はいつもの癖で数を数えた。十まで数えれば、たいていのことは過ぎていく。あの日は、七で床が近づいてきた。気がつけば救護室の白い天井の下にいて、次の週には「静かな部署へ」という話が決まっている。


 窓口に立てない職員。誰もそう口にしないぶん、その札は重かった。人事課を出るとき、廊下ですれ違う誰の目も見られなかったのは、札のせいで、荷物のせいではない。


 地下への階段は十三段で、それが二度ある。降りるほどに蝉の声が薄れ、二度目の踊り場で、夏がぷつりと途切れた。数えたのは怖かったからで、それ以外の理由はない。十まで数えれば明かりはつく――そう教えてくれたのは、私を育てた祖母である。小学二年の、停電の夜の話だ。二十二になった今も、私は暗い場所で数を数える。


 突き当たりのすりガラスに、手書きの紙が貼ってある。『第二保管室』。その下に少し小さく、『御用の方は、ノックを』。


 ノックの手を上げる前に、鉄の扉が内側から開く。


「久世さんですね。――お待ちしていました」


 糊の効いた白いカッターシャツに、銀縁の眼鏡。年齢の読めない、静かな顔。声も静かで、けれど廊下の一番奥まで届く声だった。係長の汐見(しおみ)と名乗ったその人の後ろに、スチール棚が七列、薄暗がりの奥へ続いている。元は文書庫だという。古い紙と、乾いた土に似た匂い。蛍光灯は三本に一本が切れかけで、七月だというのに、空気の底がひやりと冷たい。冷房の音は、どこにもない。


 案内は、棚の一列目から始まる。赤い子供の運動靴が、片方。日付の古い定期券。それから、画面の暗いスマートフォン。電源は入らないのに、画面の隅の電池の印だけが、満ちている。


「落とし物、ですか?」


「ええ。引き取り手のない、長期保管の品です」


「持ち主の方は、どちらに?」


「――全員、亡くなっています」


 冗談の気配を探して、私は汐見さんの顔を見た。事務連絡の温度のまま、何も混ざっていない。それが一番、こわい。


「ですから、ここの仕事は返すことです。……ご遺族に、ではありません。品物が抱えた未練の、宛先に、です」


「捨てては、いけないんですか?」


「捨てると、戻ります。戻るたびに――悪く、なります」


 私は思わず宙を仰いだ。一体何なんだ? オカルトか? オカルトなのか?


 しかし、これはれっきとした公務なのだ。税金を使って行われる公の行為。何らかの合理性はあるのだろう。


 ただ――『悪くなる』の中身を訊く勇気は、初日の私にはまだない。


 汐見さんは、指を三本立てた。


「一つ。品の前で、持ち主のお名前を呼ばないでください。二つ。この部屋では、嘘をつかないでください。三つ。帰るときは、棚へ――また明日、と」


「……理由を、伺っても?」


「呼べば、起きます。嘘は、覚えられます。三つ目は」


 少しだけ、間が空く。


「言い忘れると、置いていかれたと思うそうです」


「そ、そんな……」


 手帳を持つ手が、勝手に丁寧になる。理屈は一つも分からないのに、一字も落としてはいけない気だけがした。


      ◇


 指示された目録の整理をやっていたら定時になっていた。


「本日はこれまでに致しましょう」


 汐見さんは帳面を閉じ、七列の棚へ近づくと軽く頭を下げる。


「また明日」


 私も慌てて汐見さんを真似た。


「また明日」


 こんな儀式が効くとはにわかに信じがたいが、棚の奥で、何かが小さく身じろぎした――ように聞こえたのは、気のせいだと思うことにする。


 階段を上がるにつれて夏が戻り、地上の熱気が、その日はやけにありがたかった。


         ◇


「あ……」


 庁舎を出て、バス停の手前で思い出す。机の脇に弁当箱の袋をかけたまま忘れている。明日でいい荷物ではある。ただ、弁当箱を洗わないままにしておくことは嫌なのだ。


「くっ……」


 戻った地下二階の廊下は、昼より暗い。蛍光灯が一本、思い出したように瞬いて、私の影を伸ばしたり縮めたりする。自分の呼吸の音が、数えられるほど近い。


 その時だった――――。


 とっ、とっ、とっ。


 音がする。小さく、軽く、規則正しい。革靴ではない。もっとやわらかい――たとえば、子供の運動靴のような。


 数える。一、二、三。音は保管室の、扉の内側から聞こえる。四、五。近づいてくる。六。


 止まった。


 扉の下、すりガラスの明かりの際。爪先をこちらへ向けて、赤い靴が、片方――――。


「ひっ……」


 七まで数える前に、私は廊下を引き返していた。階段を二度、駆け上がるあいだ、心臓の音のほうがよほどうるさい。弁当箱のことは、忘れることにする。


 翌朝。保管室の私の机の上に、弁当箱が――きちんと、置かれていた。


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