3. 上手に履けたね
「北東で止まる、の答え合わせです」
朝、市街図を机に広げた。保管室の位置から北東へ、定規で細く線を引く。線は横断歩道を越えて、つくし保育園に突き当たった。ご実家は、方角違いの南である。地図の上では、あの夜歩く音も、ただの一本の線になる。線にしてしまえば怖くない――と思いたかったのだと、いまは分かる。
「行きたがっているのは、ご実家ではありません。……見立てを、書き直しましょう」
汐見さんは台帳の見立ての欄に線を引き、細い字で書き足す。宛先、再調査。
沢井さんの家を、もう一度訪ねた。今度は、風呂敷を持たずに。
呼び鈴の前で、癖のように数え始めて、三つでやめる。この家の前で数えるべきなのは、私の恐怖ではない気がする。
お母さんは、玄関先で長く黙ったあと、受け取れない、ともう一度言う。それから、ぽつりと足した。
「……あの朝。じぶんで履けたのが、嬉しくて。先生に見せるんだ、って。手をつなぐのも、嫌がったんです」
手を離した数秒の話を、この人は十一月からずっと、ひとりで数え直し続けている。私はこのとき初めて、数えても返らないものを、それでも数え続けるしかない人の顔を、見たのだと思う。
「見せたかった相手は、お母さんじゃ、ないんです」
声が震えないように、腹の底で三つ数える。
「――先生、なんだと思います」
お母さんは、長いあいだ黙って、最後に一度だけ頷いた。
◇
翌日の夕方、園へ出向く前の保管室で、汐見さんが言う。
「成立すると、今夜、夢を見ます。品物が持ち主と最後に過ごした時間を、持ち主の側から、一晩だけ。……代償です。一晩だけですが、一生、忘れません」
「……忘れたら、どうなるんですか?」
「忘れられた例が、ありません」
保育園には、園児たちの帰った時分に着く。汐見さんは来ない。私は、室を空けられませんので――それがこの人の決まり文句だと知るのは、もう少し先の話である。
夕方の園は、昼の歓声の抜け殻みたいに静かだった。西日が靴箱の木の縁を蜜色に光らせ、クレヨンと絵の具の匂いが薄く漂う。壁の時計の秒針だけが、几帳面に鳴っている。その前で、若菜先生が待っていた。机の引き出しから、小さなシールを出す。ひらがなの名前と、うさぎの絵。剥がしたまま、捨てられなかったのだという。
来歴を伝える。夜ごとどこまで歩いたかは、伝えなかった。あれは怖い話ではなく、もう、遠足の話に近い気がしたからだ。
先生は、片方の靴を両手で受け取る。しばらく黙って、靴の爪先を、そっと自分のほうへ向ける。
「――上手に、履けたね」
それだけ言って、先生は泣いた。靴はもう、歩かない。腕の中で、ただの小さな赤い靴に戻っている。
「園には、置いておけませんから」
先生はそう言って靴を包み直し、市へ預け直す手続きを選んだ。いつかご家族が取りに来られるように、と。
◇
その夜、夢を見た。
晩秋の朝の、薄い光。吐く息が白い。畳の目。小さな手が、かかとを踏まずに、靴を履く。履けた。世界がまるごと誇らしい。玄関のたたきが冷たく光っていて、門の外の道はどこまでも長く、先生の顔だけを目指して、足が勝手に弾む。
まっすぐ一直線に車道へ――――。
「ダ、ダメっ!」
ブレーキの音の、手前で目が覚めた。
「ひっ……」
枕が、濡れている。代償、という言葉の意味を、体のほうが先に理解していた。枕元で数を数えかけて、やめる。祖母の葬式の日、十をいくら数えても、棺は開かなかった。数えても、返らないものがある。では、覚えていることは、何になるのだろう。――答えはまだ、ない。ただ、あの誇らしい足取りだけは、忘れたくない、とだけ思う。
翌朝、汐見さんが赤鉛筆を貸してくれる。よほど古い物らしく、短くなった軸のあちこちに、握った指の癖の跡が残っている。台帳の特七三号の行に、初めての朱線を引いた。定規を当てて、まっすぐに。線一本で、夜歩く靴が、思い出になる。残り、三十八件。
「初めての夢は、いかがでしたか?」
「……覚えて、います」
「ええ。一生です」
数日して、お母さんが保管室を訪ねてきた。地下二階までの十三段を二度、降りてきてくれたのだ。来客用の丸椅子に浅く腰かけ、湯呑の茶に、口をつけずに。
「あの子の靴……どんなふうに、歩いてました?」
「――まっすぐ、先生のところへ」
お母さんは、玄関先では見せなかった顔で、長いこと泣いた。湯呑の茶は最後まで冷めたままだったけれど、階段を上がっていく背中は、来たときより少しだけ、軽く見える。帰り際、また明日、と棚に言う私の隣で、あの人は七列の棚に向かって、深々と頭を下げていった。
夕方、供覧の判子を逆さに押して、汐見さんに静かに直される。逆さの判は、押し直しの印を添えて、正しい向きでもう一度。役所というのは、地下二階でも役所である。
◇
――そのまま定時、のはずだった。内線が鳴る。夜勤入りの守屋さんの声は、妙に低い。
「久世くん。変な音がするんだ。パチン、パチン、って……切符でも切るみたいな音が、な」




