必要じゃない子(3)
「梓さーん。お待たせしました」
動物病院の会計で名を呼ばれ、リリアは緊張した。
距離はあったが歩いて行ける場所に、大島の教えてくれた動物病院はあった。
診てくれた五十がらみの顎髭獣医は、いい先生だった。
ごみ袋に入れられた子猫だったことを伝えると、「ひっでぇこと、すんなぁ」と嘆いて、連れてきたリリアを褒めた。
「いえ、私じゃなくて、別の人が助けてくれたんですけど、仕事中だったから……」
「はいはい、九条くんのお兄さんね。聞いてるよ」
「………」
(ザイトワさんのことかな……?)
獣医の言葉から初めて耳にする「九条」という名前について、リリアは黙っていた。
自分には「ザイトワ・ダジャン」と作業着の【大島】という名前しか分からない。何か事情があるのかもしれないと考え、余計なことを言わないようにした。
「まぁ、君もこうしてこの子たち、連れて来ているんだからえらいよ。学校はどうした?ハッハッ!」
明るい先生だったが、息絶えた二匹の子の毛並みを優しく整え、ごみ袋に入っていた時の汚れを湿らせた脱脂綿で丁寧に拭いてくれた。
先生が最後に、二匹に対し合掌し、目を瞑ったのを見て、リリアもそっと目を閉じて黙祷した。
ごみ袋の中から救い出された小さな命だ。
三つのうち、二つの命は日の光を見ないまま、天国に行くことになってしまった。
動物病院が提携先のお寺で、弔ってくれるそうだ。
為す術もないリリアは、お願いします、と頭を下げた。
生き延びてくれた黄トラは、衰弱と脱水で病院に一晩入院することになった。
お迎えは一応明日となったが、もしかしたら容態次第では延泊になるかもしれない、と先生に告げられていた。
会計する段になって、名前を呼ばれ、全部で幾らになるんだろう、自分がザイトワさんから預かったお金で足りるんだろうか、とリリアはどきどきしていた。
「梓さん、今日はお薬出てるのと補液と栄養剤の注射をしました。あと目薬も出ています。一日分の入院費と、猫ちゃんたちね、虹の橋を渡った……二匹の猫ちゃんたちの供養をお寺さんにお任せすることになるので、えーと、合計28,380円です」
金額を聞いて、リリアは先におおよその費用を確認すべきだった、と深く後悔した。
「……あのっ、足りない分は後から少しずつ払うことは出来ますか?」
預かった二万円をキャッシュトレイに置きながら、恐る恐る会計席にいる看護助手に尋ねると、
「はい?……あ!」
会計をしてくれた看護助手は、カルテに貼られた付箋にある獣医からの指示を見直し、カウンターに置いていた明細書を慌てて引っ込めた。
「ごめんなさい。間違い!お電話いただいていて、今日の分は大島さんが払うから、貴女から受け取らないでって言われていたの。そうだった。ごめんなさいね」
「え…っ…」
リリアは目を丸くした。
顎髭先生が言っていた「聞いてるよ」は、やっぱり。
まただ。また、ザイトワさんが助けてくれたのだ。
忙しない仕事の合間に、わざわざ動物病院に電話をしてくれて、支払いの心配をしないですむようにしてくれていたのだ。
リリアはまた、じんわりと胸が熱くなった。
「明日の夕方、また様子を見に来てください」と看護助手に言われ、リリアは「はい」と大きく頷いた。
助かった黄トラの子猫を病院に預け、リリアはフワフワした足取りで学校に戻る道を歩いていた。
ポケットにはハンカチに包んだ、大島から預かった二万円がそのまま入っている。
次に会えた時に、これは返さないと。そうリリアは考えていた。
いい人だ。すごくいい人だ。
子猫を助けてくれただけじゃない。私も助けてもらった。
リリアにお金がないことを、何となく察してくれて、会計で困らないようにと、大金を——リリアにとって二万円は大金だ——預けてくれて、さらには動物病院でもっと費用がかかることを想定して、お金を出さないですむように手配してくれていた。
お陰で世を去った子猫たちも、いまがんばっている黄トラのあの子猫も、必要なケアを受けることが出来た。
グルグルッと、リリアのお腹が鳴った。
それでも今朝と違い、全然つらくも苦しくもなかった。
リリアの口元には笑みが浮かんでいた。
リリアは今朝出会った、作業着に刺繍された【大島】という名前と、携帯の画面に表示されていたZitewa Dajanという名前の、二つの名前を持つあの人を思い浮かべ、嬉しくなった。
あんな人がいるんだ。すごい人だ。
今まで見たこともない大人の人だ。
背が高かった。すごく高かった。
それに——…
「か、カッコ良かった……よね…?」
リリアは我知らず、自分の両手で両頬を包んでいた。
何となく顔が火照っているのが、自分でもわかった。
「えへ、えへへ……や、やだなぁ……もう、完全に大人の男の人じゃん?もー私ってば…もー!」
リリアは、軍手を外して子猫を持っていたザイトワの手を思い出した。
そうだよ。
確か、結婚指輪、してなかった?
今朝、子猫三匹を持つ大きな彼の左手を、夢中で子猫ごと両手で包んだ時のことだ。彼の左手薬指に、金属の冷たい感触があったのを思い出した。
「………」
リリアは赤くなった両頬から手を離し、がくぅっと肩を落とした。
「……だよね。あんな素敵な人、奥さんいるよね。当たり前じゃん!」
恋の予感は、秒で終わった。
——でもぉ……
リリアはまた首を上げて、学校に向かってフワフワと歩き始めるのであった。
素敵!
ザイトワさん、素敵!かっこいい!
コネコネと首、肩を揺らし携帯を持って蛇行気味に歩く女子高生に、すれ違う通行人が、おっと、と避けていく。
「あ……ごめんなさい…」
リリアはようやく正気づいて、自分を避けた通行人に謝り、午後の授業に間に合うよう小走りで学校に戻って行った。
学校に戻ると、リリアは自ら職員室へ向かった。
放っぽり出した授業の国語教諭とクラス担任の二人にまず謝り、こってり絞られた。
ところが説教の途中、派手にリリアのお腹が鳴って、さすがに担任が「お昼、食べてないの?」と尋ねた。
昨日の夜、菓子パンを食べてから何も摂っていない。
そんな窮状を、今になってもリリアは人に知られたくなかった。
母親に恥をかかせることになるのではないか?
そう思うと、自分の困窮した状況を誰にも話せなかった。
「大丈夫です……」
小さく答えるリリアに、担任の女教諭は自分用に買って来ていたコンビニのおにぎりを二つ、黙って持たせてくれた。
それを見ていた国語教諭も、自分が買ったばかりのフルーツミルクのペットボトルをリリアに渡して、
「今日の古典、進んだページはクラスの誰かからちゃんと聞いて、目を通しておきなさいよ?」
と釘を刺した。
教諭二人とも、再登校してすぐに職員室に謝りに来たリリアを、学校での生活態度がそこまでひどい生徒、とは思っていないのだ。
しかし、一人の生徒に必要なだけ気遣う時間が、教諭たちにもない。
必要と不必要を瞬時に判断しなければ、教職タスクが山積みになってしまう。
お説教タイムは、リリアのお腹チャイムで終わった。
「……ありがとうございます!」
朝、大島から受けた好意があったからか、リリアは素直になれた。二人の教諭からの善意を嬉しそうに受け取って、屋上で半日ぶりの食事をしたのだった。
育ち盛りのリリアに十分な量とは言い難いが、久しぶりにご飯らしいご飯を食べられて、リリアの顔に血の気が戻った。
そうして、屋上の手すりに肘を乗せて頬杖をつき、今朝の出来事を脳内で再生する。
『ザイトワ・ダジャンで大島さん』のシーンになる度、「んフ、んフフフッ」とリリアは一人で照れ笑いし、アドレス帳のZitewa Dajanの登録画面を開くと、クルリと回って手すりに背中を預け、右に左にくるくる身体を回転させて踊るのだった。
そこにポーンと高く打ち上げられたバスケットボールが、地上からリリアのいる屋上に迷い込んできた。
バスケットボールは一度大きく跳ねると徐々に弾みを収め、リリアの近くに転がって来た。
「やばーっ!」
「花ちゃん、やりすぎぃ!」
あははははっ、と校庭で遊んでいた数名の女子の声が聞こえた。
ボールを拾ったリリアは校庭を見た。
下から見上げるのは、昨日の放課後、リリアを嘲ったバスケ部の女子生徒たちだった。
「うゎ。梓じゃん……」
洗濯はウチでやれ、とリリアを見下した子が下から睨んできている。
「あいつ、いっつも昼休み屋上に一人でいるよね」
「暗ぁっ」
「ぼっち飯っしょ」
「水だけ飲んでるんだよ」
「はー?ダイエットかよ」
聞こえよがしにリリアを悪様に言う声が、屋上にまで届く。
ボールを拾ったリリアだったが、自分が彼女たちに嫌われていることを思い出して、ボールをどこか転がらないところに置いておこうとした。
ところが、「梓ぁー!悪ぃ!そっから今行ったボール投げてくんない?!」と大声で頼んできた子がいた。
昨日、リリアに悪く絡む女子バスケ部員たちに、「大会が近い」と言って、気を逸らしてくれたクラスメートの土谷花だった。
リリアの悪口より遥かに大きな声で、「ポイッとなげてくれたら助かるー!!」と重ねて言ってくる。
二度頼まれて、リリアは慌てて答えた。
「危なくないー?」
「平気!平気!ポイッてやってー!」
そう言われ、両手を振る花の近くに向けて、リリアはバスケットボールを屋上から放った。
校庭に小さく落ちていくボールが、一回、二回、大きく地上でバウンドすると、花がそれを受け止めた。
ボールをリリアに両手で大きく掲げて見せ、
「サンキュー!ありがとねー!」
大声で礼を言われ、リリアは咄嗟に花に大きく手を振っていた。
「コラァ!屋上にボールを投げたり、屋上からボールを投げたりするなァ!危ないだろうがァ!」
校庭の花や他の女子バスケ部員たちと、屋上のリリアを交互に見て、体育の男性教諭が体育館の入り口から叱り飛ばして来た。
女子バスケ部員たちは、きゃあきゃあ、と散り散りになり、リリアも焦りながら屋上の手すりから離れた。
その時、午後の授業を知らせる予鈴が鳴った。
リリアも土谷花たちも、それぞれが選択した授業の教室に足早に向かったのだった。
放課後、帰り支度をしながらリリアは、バスケ部に所属するクラスメートである土谷花と、昼休みに交わしたやりとりを脳内で再生していた。口元が緩むのが自分でもわかった。
高校に入学してからクラスに馴染むより先に、母親の行動が徐々に大きく変わっていった。それにつれて、生活不安も大きくなっていった。
だから、誰とも普通に話せていなかったのだ。
土谷花との会話は他のクラスメートには小さいことかもしれないが、リリアにとっては高校気分を感じさせてくれる、一種の大きな慰めになった。
リリアはピーコートに袖を通し、スクールバッグを肩に掛けた。その時、回想の中の人がリリアに話しかけてきた。
「梓ァ!さっきはありがとうね!」
「あ……ううん!」
振り返りながらリリアは、自前のバスケットボールを持った土谷花本人からまた話しかけられて、心臓がドキン!と跳ねた。
クラスメートとして気の利いたことをもっと言いたかったが、言葉が上手く出せなかった。
「花ちゃーん、そんなヤツほっといてさぁ!もう練習行こ!」
廊下に先に出ていた他のバスケ部女子が、リリアに話しかける花を急かした。
「いま行くって!」
花は少し強い語調で彼女たちに応え、カバンを持って教室を出ようとするリリアには、「また明日ね」と笑って声をかけ、同じように廊下に出てリリアとは逆に体育館へ向かって歩き始めた。
リリアは自分を気にかけてくれている——気のせいかもしれないが——花に、思い切って「怪我しないように、気をつけてね」と後ろから声をかけてみた。
言ってから、内容がまるで小さな子供向けだったんじゃないか、バカにした、って思われちゃったかも……と後悔した。
気付かない様子の花に、小さな声だったから聞こえなかったんだ、とリリアは少し寂しくなってしまった。
しかたない、気にしない!と思い直すと、リリアは昇降口へ歩き出した。
「梓も気をつけて帰りなよー!」
花の応答に、えっ、とリリアが振り向くと、「世の中、バカばっかだからよォ!はははっ」と花が手を振っていた。
リリアは花の返事に嬉しくなって、彼女に向かって強めに手を振り返して、学校を後にした。
「惠介ー!」
午後の企業ごみ収集業務から戻った大島惠介に、スータンの上に黒いケープ付きの外套を着込んだケニー神父が会社の門前で大きく手を振っている。夕刻、遠目にも首元のローマンカラーが、白く際立って見えた。
ケニー神父は同じ会社で週二日ないし三日、メンターとして勤務しているのだ。
いつもはもっと早くに退社しているが、今日は相談が長かったようだ。
今日は朝からやたら手を振られるな、と思う大島惠介——ザイトワ・ダジャン——だった。
「オツカレSummer!」
「まだ二月だ、先生」
「I’m just joking, 惠介」
「んん?Which part exactly?」
「オツカレ、サマ then Summer, you know.」
「No, ……no.」
どこが冗談になるのかわからねぇー、と顔いっぱいに書いたつもりのザイトワだったが、それに構わず、
「ワタシ、先に帰っているから、惠介は寄り道しないで帰ル。Understood?」
「Father, you'renot my mam」
アフター5の動向を管理しようとする神父に、お袋か、といなしたザイトワだった。——がしかし、英国出身のケニー神父の方はものともせず、片目を瞑りながら、
「No rubber ducks whilst you’re having a shower<シャワーを浴びる時は、アヒルのおもちゃはなしでね>, OK? 惠介?」
「おいぃ!」
ザイトワを〝しっかり〟子供扱いし、神経を逆撫でしてから、ケープ付き外套を纏ったケニー神父は帰路についた。
二人が同居する自宅アパートまでの片道四十分くらいの距離を、ウォーキングで帰宅するのがケニー神父の常だった。
「……ンとぉーに、あの、先生だけはぁ、もうぅ……」
唸りながら英国流マイペースで帰っていく、ケニー神父の姿勢の良い後ろ姿を見やっていると、ザイトワ・ダジャンが手にしていた携帯が震えた。
携帯を傾けると待機画面が開き、いくつかの不在着信とメッセージの受信通知が表示された。
動物病院、知人、ケニー神父……後回しにしていた、社用以外の用向きが並ぶ。
ケニー神父はいま直に会って話しているから、これは用済みでいい。
知人、これも後で折り返す。
動物病院…は、折り返し電話を掛けた。今日の子猫の診断結果や今後の対応、未払いになった額を聞いて、礼を言う。
最後に表示されていたのは、朝、子猫を救うために駆けて来た少女だった。
梓リリア——
彼女からのSMSを開いて、動物病院受診の際の報告とお礼の文章を読む。
『ザイトワ・ダジャン様、今朝は子猫たちを守ってくださり、ありがとうございました。黄トラの子は、脱水と栄養失調なので入院になっています。
念のための入院と先生は説明してくれました。あと病院でも診察料を払わないですむようにしていただいて、ありがとうございました。
お金は今度お返しします。お会いできる日を教えてください。朝早く』
文章は途切れていた。
次のSMSも、やはり梓リリアだ。
『ごめんなさい。途中で送ってしまいました。朝早くても大丈夫です。
明日の夕方、動物病院にまた子猫の様子を見にいくので、その時だったらうれしいです。
今日はザイトワさんが子猫たちを救い出してくれたのを見て、私は本当にうれしく思いました。子猫たちを大事にしてくれて、ありがとうございます。
私が言うのは変かもしれません◯でもありがとうございます。梓リリア』
最後の方の考え込むような、〝うーん〟という考え込む感じの絵文字◯を見て、ザイトワの口に笑みが浮かんだ。
普段はもっとふんだんに、絵文字を織り込んだ文章を書く子ではないだろうか。
おそらくだいぶ年上の自分に合わせて、なるべく控えめで大人っぽい文にしようと努めているのだろう。
それでも、どうにも収まらない気持ちの一つを、この疑問形の顔で表したようだった。
「シマさんっ!!」
見ていた携帯画面の横から、竜平がぬっと顔を覗かせた。
「なにニヤけてるンすかぁ!!俺も笑わせてくださいよぉ!」
笑っている、と指摘されて、ザイトワは急に表情を落とし、竜平を見返した。
「何か用ですか。新井さん」
「うわっ!ひっでぇ!!!」
竜平の喚きを聞き流し、ザイトワは携帯の画面をロックし、社内のシャワールームに向かった。
先にシャワーをすませていた竜平が背後から、「シマさーん!この後、軽く飲みに——」
「遠慮します」
振り向きもせずザイトワ…大島惠介は、竜平に聞こえるように大きめの声量で答えた。
予想していた大島の答えに、竜平は目を瞑り、顔を顰めて、首を横にカックンと倒した。
「……よし、二十連敗したら、ちょっとイイ酒買おう。うん」
竜平は振られ気分で、訳の分からない自分慰め用の賞品を決めたのだった。
<30%OFF>のシールが貼られた惣菜パンを前に、梓リリアはスーパーマーケットのパンコーナーで一時間近く悩んでいた。
買おうか、買うまいか。
所持金は140円のみだ。間違えちゃ、いけない。
悩んでいるうちに、何人か他の人が来て、リリアが迷っていた割引惣菜パンを持って行ってしまった。
残っているのは、コロッケパンと玉子コッペパンが合わせて数個、焼きそばパンが一つだった。
三割引きなら、100円未満で買える。
「………よし…!決めたぞ」
重大決心のように、いや、今のリリアにとっては、これは一大事、重大事なのだ。
コーナーに一つだけ残った焼きそばパンを手にとって、リリアはレジに向かった。
この値段なら、消費税を入れても100円未満だ。
何回も携帯の計算機アプリで計算したから、間違いない。
それでも商品を並べ直していた店舗スタッフに、「割引きされたら、大体いくらになりますか?」と確認するリリアだった。
万一、所持金よりも高くなったら恥ずかしいからだ。
「これだったら…89円ですね」
呼び止められた中年の男性スタッフは、自分が持ち歩いている薄型の計算機を使って計算すると、表示画面をリリアに見せながら教えてくれた。
「ありがとうございます!」
わざわざ仕事中に計算機でちゃんと正確な数字を算出して、確実な値段を見せてくれたスタッフに、リリアは頭を下げて礼を言った。
中年のそのスタッフは、頭を下げたリリアが持っていた焼きそばパンをおもむろに取り上げた。
そして、あれっ?という顔をするリリアの前で、<30%OFF>シールの上に<半額>シールをペタッと貼って、リリアにパンを返した。
スタッフは小声で、「内緒ね」というと、自分の作業に戻ってしまった。
親業もしている彼には、夕方一時間、買うか買うまいか悩む女子高生の姿が目についていたのだろう。
「あ、ありがとうございます……!」
後ろを向いてしまったスタッフに、リリアは鼻の奥がツンとなりながらも、もう一度しっかりとお礼を言うのだった。
今日は本当に、なんて言うんだろう……
「き、奇跡……そうだよ!奇跡ばっかりあったじゃん?!奇跡の日だ!」
会計のあと作荷台で、リリアはお気に入りの猫とマカロンのイラストがあしらわれたエコバッグに、半額にしてもらった焼きそばパンを入れた。
そのエコバッグを手に、自宅アパートに向かってウキウキとした様子で歩く。
「いまの焼きそばパンでしょ。土谷さんとバイバイできたでしょ。おにぎりとフルーツミルクを先生たちからいただいたでしょ——」
あ、そうだ。土谷さんとは昼休みでも話せたよ!
どれも思い出すだけでも、心があったまる。
それから、それから……
「動物病院で黄トラちゃんが入院できた。……兄弟の子たちをお見送り、できた…」
あの人のお陰で——…
リリアは、清掃作業員の浅葱色の服と保護帽姿のザイトワ・ダジャンを思い浮かべた。
カッコ良いだけじゃない。
リリアが困らないように、財布からお金を出して渡してくれた。
よく知りもしない高校生なのに、大金を預けて。
本当は自分がやらないといけないから、と謝りながら、動物病院でも先回りしててくれた。
支払いの心配をしないですむようにしてくれてた。
すごい人だった。
素敵な人だった。
「……早く、会いたいな」
預かったお金を、早く返さなくちゃいけないから。
「そう、そうだよ?大金なんだから。早く、返さないと、だよ」
商店街を抜け、会社や買い物から帰る人が行き交うバス通りから、自宅アパートのある住宅街へ続く道に向かう。
「はやくー返さないとーだからーぁ」
そうだよ!だってさ……
「指輪!結婚してる人!なんだからーぁ、そういう・ん・じゃ、なーくてーぇ」
少なくとも、お金を返すためにもう一度は会えるはずだ、そうリリアは考えている。
それが嬉しくて、楽しくて、仕方ない様子で、デタラメな歌を小声で歌いながらリズムをつけた歩き方で、アスファルトの歩道を進む。
「——だからぁ、なの、よ。返すー早くー」
会いたい——
無くさないようハンカチに包んで、スカートのポケットの奥に仕舞っている二万円に触れ、
「感謝、しなくちゃだよ。私は……こんなこと、普通ないでしょ」
感謝だよ。神様?私はね!
横断歩道の赤信号が変わるのを、リリアは待つ。
半額の焼きそばパンが入ったエコバッグをちょっと持ち上げて、「ふふ…」と笑った。
食べるの、たのしみぃ!
エコバッグを持った手を下げると、同じく信号待ちしていたあちらとこちらの数人が双方向に歩き始めた。
どちらの岸からも中綿や新素材の防寒具に身を包んだ人々が歩み出し、すれ違いざまに膨らんだ袖などが相手に当たらぬよう身をかわしながら、それぞれ対岸へ向かう。
信号が青に変わったことをリリア自身も見て確かめると、横断歩道を渡ろうと向かいに目を上げた。
その時、向かいの歩道から、こちら側に歩き始めた幾人かの内の一人が——
周りから頭一つ抜け出た、長身白髪の男だった。
黒シャツに、黒いアーミーパンツを履いている。
周りの人々が防寒具に膨れる中、薄着だ。
黒の上下に、焦茶色のロングライディングコートを着たその人の歩みは、大きい。歩く度に、ロングコートの裾が翻る。
「………」
帰路を急ぐ人たちの歩みに促されるように、リリアは二歩、三歩と足が出た。
自分で歩いている感じがしない。
人の流れに、押されたようなおぼつかない足取りで、さらに数歩……
——会いたいと願った人が、自分に向かって歩いてくる。
リリアには気づいていない様子だ。
……行っちゃう……!
すれ違っちゃう……!
ザイトワ、さん……!!
その時、向かいから歩いてくるザイトワ・ダジャンの目が見開かれた。
リリアの前で立ち止まり、見下ろしながらザイトワが尋ねる。「どうした?何があった?」
リリアの耳に、彼の声が届いた。
心配そうな、困ったような表情になって——…
「梓リリア…ちゃん?」
リリアの瞳から大粒の涙が溢れていた。




