必要じゃない子(4)
ザイトワはそのまま横断歩道を進んで、リリアは引き返す形で、二人は歩道にいた。
リリアの手には、男性用のハンカチが握られ、両目を押さえていた。
「す…っ、すみ、ません…っ!すぐ、ぅっ、と、止めま、す……!」
焦茶色のロングライディングコート姿は、朝見た浅葱色の清掃作業員の制服を着ていた姿とはかけ離れていたが、やっぱり〝ザイトワ・ダジャンさん〟だったのだ。
会いたい、と願ったら……
感謝してる、神様、と思ったら……
リリアが驚いた点が、ほかにもあった。
(コート…ママの国の、カウボーイコートだ……!)
朝、出会った素敵な人が、母親を通して見知っていたコートを着ている。
自分の名前まで覚えていてくれて。
そして今、隣にいてリリアの落涙が止まるのを待ってくれている。
奇跡、奇跡だよ——!
リリアは、色々な感動が混じり合った気持ちに咽び泣いていた。
その間、ザイトワは彼女をそれとなく眺めた。
淡い茶髪のショートヘアから覗く襟や、コートから見えるスクールブラウスの袖口は、薄っすらと汚れていた。履いている靴も艶がなく、右肩に掛けたスクールバッグも、どことなく古びた、というよりは、通常よりも使い込まれていて、何役も果たす古道具のようだ。
そのくたびれたスクールバッグのサイドポケットから、何かが覗き出て、すぐさま引っ込んだ。
ザイトワ・ダジャンの左目の瞳孔が縦に細まり、涙を拭くリリアに気取られないよう、左手をバッグのポケットに素早く這わせる。
〝ギャメ……ッ!ギャ…メ……テッ〟
体中に小さな青い目玉が連なったような〝邪視の霊〟が、悲鳴を上げて這い出てきた。
〝モウミマセンミマセンカラ…ミナイカラ、カンベンシ……〟
摘み出そうとすると、リリアの頭髪を掠めるように逃げ、離れた電柱にくるりと巻きついた。
なおも目で追ったが、〝…ジャマハセヌカラ…ミテクレルナ、ヨ…キヒッ…ヒ……〟と薄ら笑いし、消えた。
ザイトワは不快感に眉根を寄せ、口を歪ませたが、深追いせずに視線を少女に戻した。
「もぅ、だいじょぶです!すみませんでした」
まだ涙が滲む赤い目で、リリアがザイトワに懸命に笑顔を作ってみせた。
「ハンカチは、洗って返します」
横断歩道の途中で、泣いて立ち尽くすリリアに、ザイトワが「このハンカチは使ってないから」と差し出してきたのだ。
「気にしないでいい」とザイトワは答えハンカチを受け取ろうと手を差し出したが、リリアはきっぱりと、「いえ、洗って返します。お願いします」と言い張った。
グスグスしながら、(ハンカチ返す時にまた、会えるかもしれない…)などと、リリアは小さく期待した。
それは期待というよりは、願い、祈りに近かったかもしれない。
「あ!これ……」
リリアはハンカチ繋がりで思い出した。ポケットから、自分のハンカチ包みを取り出して、ザイトワに両手で差し出す。
「うん?」
ザイトワは往来で受け取って、包みを開いた。二万円が綺麗に折り畳まれていた。「ああ。これは、君が持っていてくれ。明日の夕方も動物病院だろう」
明日も自分は間に合わないかもしれないから、とザイトワはリリアのハンカチで簡単に挟んで、そのままリリアに戻した。
リリアの方は、えっ、という顔をしたが、確かに動物病院でまたお金がかかるんだ、と思い直した。
「分かりました。もう少し、私が預かってます」
二万円を受け取り直し、泣き腫らした赤い目のまま笑って、「本当にありがとうございます」とザイトワに頭を下げた。
「いや、無責任で悪いが、全部俺がやらないといけないことなんだ。本当は」
今朝と同じく、リリアに詫びると、ザイトワは続けて何か言いかけた。
その時、リリアのお腹が、ぐ・ぐぅ、と大きな音を立てた。
あまりの恥ずかしさに、リリアは心の内で嘆いた。
——わ、私のお腹のばかぁーっ!!
ザイトワは、そんなリリアを笑わずに尋ねた。
「もし、時間があるなら飯でも喰いに行くか?今朝の礼とは言わんが」
リリアの返事はすぐには無かった。
しまったな、家の夕飯時だろうし、俺と二人きりはまずいか……ザイトワは内心、下手なことを言った、と舌打ちした。
どうにも、この位の年頃の子は接し方が分からん——
リリアは——顔は真っ赤で、頭は真っ白になっていたのだ。
飯?夕飯?夕ご飯?!?
ザイトワさんと?二人で!?
えーっ!え、ええー!??
どうしよう!?行きたすぎる!……行けない!!
お金ないじゃん!?!ばかばか!私のばか!!!
リリアは、親切なスタッフのおじさんがいたスーパーで、会計を済ませた後、作荷台の前に店内スタッフの求人広告が貼られていたことを思い出した。
そうだよー!!自分でバイト、すればよかったのに!
なんで今まで…私…私……本当に、なんてばかなの……
そうしたら、バイト代もらっててさ、
行きます、って、すぐ言えたのに!
いや、まって?ザイトワさん、結婚してるじゃん。
奥さん、ウチで待ってるじゃん。
あ!共働きで、今日は遅くなるのかな?
だから、いいのか……いいのか?私?子供だから?
そういうことは、ザイトワさんが決めて、良いんだったら良いのかな?でしょ?!
まって。
ちがう。
そもそもお金ないんだよ、私。
……お、終わったぁあぁぁ………
「おい……おーい?」
ザイトワが屈んで、俯くリリアの顔を覗き込み、彼女の目の前で手を振っていた。
「ひゃゎあぁあぁぁっ!」
朝、自分で自分に〝カッコ良かったよね〟と確認していたイケメン顔を間近に見て、リリアから変な声が飛び出した。
その声に、ザイトワが慌てて半歩下がった。
冷や汗を浮かべ、俺は彼女に触ってはいないぞ、という周囲への表明なのか、諸手を肩辺りまで上げてみせる。
歩道を行き来する歩行者たちが、歩道街路樹の側に立っているリリアとザイトワを避けてすれ違っていく。
一体何なんだ?!本当にこの歳くらいの女……いや、女の子か。
分からんぞ!次に何が来るんだ?
顔にありありとそんな困惑の色を浮かべているザイトワだった。その時、携帯が鳴った。
黒いアーミーパンツの尻ポケットに突っ込んでいた携帯を取り出して、電話に出るとケニー神父であった。
『惠介?!Where are you off to all on your own again<また一人きりでどこへ行くんです>?!』
『先生!You saved me…Can you come out straight away<助かった…すぐ出られるか>?』
帰宅が遅い、また一人で祓魔か、と疑ったのに対し、ザイトワが珍しく、You saved me、などと応答したので、ケニー神父は、これは只事でないことが起きている?!と奮い立った。
『そのまま、ソコ……Stay there! ワタシ、すぐ行きマス!』
慌てないで、冷静に、と考えて、惠介のためにはその方がより安心させられるか、と日本語——若干、怪しげな——で返答した。
ケニー神父は、調理中だった肉と野菜のワイン煮の火を止めて、手早く黒の胸当て付きエプロンを外し、椅子の背もたれに引っ掛けた。
クレリカルシャツの袖を下ろし、スータンを着直す。
〝主イエスの地上に降臨された33年間〟を表すとはいえ、スータンの33個もの前ボタンを嵌めるのは、こういう時は実にまどろっこしい!
指を差し入れて白いクレリカルカラーの首元を整えていると、携帯から教会の鐘の音が鳴る。設定しているメッセージアプリの通知音だ。
メッセージで送る、と言われていた、現在地とこれから向かう場所の情報が届いたのだった。
ケープ付き外套を再び着込み、スータンのポケットには聖水の小瓶を入れ、さらに愛用の聖書を引っ提げてケニー神父は勇ましく、アパートの階段を降りて行った。
一方その頃、梓リリアはハラハラドキドキだった。
連れて来られたダイニングカフェの四人掛けの丸テーブルに、リリアはザイトワと一緒に座っていた。
自分が男一人で誘うのがマズいのだ、と考えたザイトワは、「もう一人、呼んだ。三人で何か食べに行くのはどうだ?」と、腹ペコ女子高生に向かって言い直していた。
リリアはリリアで、即答しなかったから二人っきりでなくなっちゃった、と心底がっかりしていた。
——が、いやいや、これきっと、奥さん呼んだんだ……だったら、その方がいいよね?
奥さんにもお礼をしなくちゃだよ、二万円はザイトワさんの今月のお小遣い全部かもしれない——そう考えることにした。
すると、あることに気づいたのだ。
(今日のことは全額、私が返さなくちゃじゃん!!)
待って、と自分が駆け寄ったのだ。子猫たちを何としてでも助けたかった。
動物病院の約三万円と、いま預かっている二万円。つまり合計五万円……
どうしよう、すぐ返せる当てが全然ない——…!!
お金がないのに、こんなおしゃれな店でザイトワさんと席に着いちゃってるぅー!
どうしよう…
メニューを渡されたけど、どれも高いよ。払えないよ……
——もう………むりィ!!!
「あの……っ!ごめんなさいっ!!」
急に強めに口を開いたリリアに、ザイトワは、今度は何だ、と身構えた。
「わた、私、お金を、持ってなくて。だから、割り勘もできないし、……帰ります。ごめんなさい!」
そう言って、足元の荷物入れのカゴから、自分のスクールバッグと焼きそばパンが入ったエコバッグを取り出すと、席を立った。
もう一度、お詫びと今朝のお礼を言おうと、ザイトワに目を向けると、彼は握り拳を口元に当てて、肩を震わせていた。
「あの……」
「う……いや、うん。すまん。そうか、それでか」
リリアはザイトワ・ダジャンの口角が上がるのを見て、私、なんかおかしいこと言ったかなぁ、と思ったが、次の言葉を待った。
「掛けてくれ。君はゲストだ。……Don’t worry. It’s my shout.」
リリアは、あっ、と思った。
このダイニングカフェに歩いて来る間に、ザイトワと他愛のない話をしていた。
リリアは、緊張して上手く話せないかな、と涙を拭いた後、少し心配していたが、彼の着ているコートが母親の母国であるオーストラリア特有のロングライディングコートだと判ったから、そのことを確認すると、「よく知っているな。……初めて言い当てたよ、君が」
ザイトワに褒められたことが嬉しくて、リリアは次々と言葉を繋げることができた。
自分が、日本人の父と、オーストラリア人の母の子であること…母とは英語で話していたから、話し言葉の英語は分かること——…
それで彼は、It’s my shout.と、リリアに合わせてオーストラリア英語で言ってくれたのだろう。
——この人は、高校生の私にすごく気を遣ってくれている。
本当は奥さんと二人の食事なのに、私に席を作ってくれたり、食事の支払いの心配をしないようにしてくれたり、私の知っている言葉を使って、安心させようとしてくれている……
リリアは改めて、ザイトワの気遣いに心をきゅうっ、と掴まれたように感じた。
ダメダメ。
だからぁ、今から奥さんが来るんだから。
ばかな夢は寝床で見るのーよ、私。リリア!
小ぢんまりとしたダイニングカフェには次第に来店する人々が増えてきて、そこここのテーブルやカウンター席で、人々が料理や飲み物を楽しみながら歓談する声が店内に拡がっていた。
「オマタセーした?惠介?」
ザイトワとリリアの掛けているテーブル席に、外套を脱いでスータン姿になった神父が現れた。
少し暗めの店内で、後ろに撫でつけた淡い亜麻色の髪と襟元から覗く白いローマンカラーが、間接照明の柔らかな光を帯びて浮かんで見える。
聖書を小脇に挟んで、スッとした立ち姿だ。
——この人、は……
遅れてきた三人目の初老の男性を、リリアが席から見上げた。
店内の騒めきの中で、そこだけが静寂で澄んだ水が湧いている…自分に向かって流れてくる……
まるで、緩やかな川の流れに浸されていくようだ。
川面が小さくきらきらと…眩しい、そんな川の流れだ。
「や、先生, please.」
ザイトワは、悪霊とは別種の把握しがたい生命体——リリアのことである——と、自分だけが対峙しなくて良くなったことに、甚だホッとしながら、隣の席を片手で引いた。
「Thank you!」
ケニー神父は腰掛ける前に、リリアに柔らかく微笑みながら会釈し、
「Good evening, young lady. It’s a pleasure to meet you.」
<ご機嫌よう、お嬢さん。お会いできて光栄です>
リリアの容貌から判断したのか、英語で挨拶をした。
独特の鼻にかかった、木製の鈴を転がすような丸みのある響きだった。
ケニー神父の英国英語特有の洗練されたアクセントと、相手を包むような上品な微笑に、リリアは(わぁ……素敵な人なんだぁ!)と感心した。
母との会話が途絶え、だんだんと英語にも自信が持てなくなっているリリアだったが、神父の品のある挨拶に慌てて立ち上がって、「It is my pleasure to meet you as well<こちらこそお会いできて光栄です>.」と、挨拶を返し、ぺこりと頭も下げたのだった。
リリアの振る舞いと挨拶に、ケニー神父は目を細めて横のザイトワに、「She’s charming, isn’t she<愛らしい子ですね>?」と言い、次に少し身を屈め小声で、「What’s going on here? What’s happened<これはどういうこと?何があったんですか>?」と畳み掛けていた。
悪霊どころか、日頃のザイトワとは接点が無さそうな年若いリリアがいて、神父の目が別の意味でキラリと光っている。
「……話せば長い」
「Then, later……No, not again<では後で……じゃない!また>! いつ話すカ、惠介!」
ケニー神父の腰掛けた席の対面に座っているリリアが、小さな声でやりとりする二人に何か訊きたそうだった。
「あのぅ……」
ザイトワとケニー神父は二人同時に、「Yes?」と応えると、
「間違っていたらごめんなさい……奥さん、じゃないですよね?」
ケニー神父はその言葉に大きな「?」マークを顔に浮かべ、ザイトワ・ダジャンは——
丸テーブルに突っ伏した。
女子高生・梓リリアの発想、
夜な夜な祓魔をやってのける男の予想域を、遥かにぶち抜いていた。




