必要じゃない子(2)
クスクス、自分を嗤う声が聞こえた。
さっきから名指しで陰口が聞こえてくるのだ。それも、言い返しようがない指摘と言ってもいい悪口だ。
「最近、汚いよね……?」
「わかるー。襟とか、ね」
「だけじゃないよ。……くさい。あははは!」
「言っちゃったよー。それな!」
「梓だよね?ガチでやばいって、あいつ」
「恥ずかしくないのかなァ!くさァーいィ!」
最後の一声は、聞こえよがしに大きく教室に響いた。
授業が始まる少し前のことだ。
教室を飛び出して、ここじゃないどこかに行ってしまいたい。できない。
授業が始まる。
梓リリアは、泣き出しそうになるのをグッと堪え、教科書を開いた。
終業のチャイムが鳴って、「宿題はなぁ、明日提出だからな!」と伝える男性教諭の声に構わず、生徒たちは我先に教室を出ていく。
帰路につく者、友人同士で繁華街に繰り出していく者、部活に向かう者——
梓リリアは担任に、職員室に呼ばれていた。
「梓さん、最近どうしたの?テストの結果、赤点スレスレじゃない。こんな点が続いたら、追試になっちゃうわよ?」
「……はい」
「それから……少し、身だしなみがね。ちゃんとしなさい。女の子でしょう?」
「はい…すみません……」
「お風呂にも入って、ね」
「………はぃ…」
担任の最後のアドバイスに、リリアは消え入りそうな声で答えた。
クラスメートの嘲笑が、脳裏に蘇った。
ちゃんとする、って、どうやるんだろう?ちゃんと、洗濯して、ご飯を食べて、お風呂に入って、ってことだろうか。
洗濯機もお風呂も、電気やガスが止まってしまって使えないのだ。
「行っていいわよ」
担任は机上に山積された書類へ目を移すと、リリアを見もせず職員室からの退室を促した。
職員室から出たリリアは、女子トイレで体育のジャージに着替え、制服の襟をそのままタップで緑色の手洗い用液体ソープで洗い始めた。
笑い合いながら、バスケ部ユニフォームを着た数名が入ってくる。
彼女らが入ってきたことでリリアはビクリ、と身を震わせた。
部員たちは、制服を洗うリリアに気づき、あれっ、とした顔を見合わせる。
「ちょ……そんなとこで洗濯ぅー?」
声をかけたのは、今日最後の授業の前にリリアの悪口を言っていた同じクラスの女子だった。
「マジでありえないんだけど?ウチ帰ってやれよ。私らが手を洗う時、どこで洗えばいいのよ?」
水を流したまま、振り向いたリリアが答えられずにいると、さらに別の女子の声がした。
「いーじゃん。隣の洗面台で洗えば。それより、早く行こう。大会まで時間ないよ?」
「花ちゃん……オッケ」
話を逸らした背の高い女子は、彼女たちの中では実力者として発言力が強いのだろう。
リリアに対し、さっきまで底意地の悪い顔つきをしていた子は、毒が抜けたような顔になって、練習に急かす彼女の言葉に従った。にやついて見ていた他の女子生徒たちもトイレから出て行ってしまった。
「ねー、あいつ、ジャージ洗ってなくない?」
「アハハハハ!やっぱ?私もさ、かなァ?って思ってぇー」
彼女たちが出ていき、静まった女子トイレの中で、リリアは大きく息を吐いた。
あと少し自分の用を済ませたいが、また今のように他の生徒が入ってきたら、恥ずかしい。
リリアは自分の荷物をまとめ、場所を移動した。
陽が傾きかけた夕刻の、人がいなくなった公園——
その公園の公衆バリアフリートイレに場所を変え、リリアが中の洗面タップからの水を使って、身体を拭いていた。
蛇口から出てくる二月の水道水は、冷たい。
リリアは水温に「ひゃっ……」と一瞬怯んだが、ハンドタオルを濡らし、固く絞った。
ジャージの下に冷水で作ったおしぼりを差し入れ、耳の後ろや脇の下など、汚れや臭いが気になる部分を特に念入りに拭き取る。
靴下を脱いだ足裏まで一通り拭くと、それだけでもさっぱりした。
頭も洗いたいところだが、この時期にドライヤーが無ければ風邪を引いてしまうだろう。
洗髪を諦め、自前のおしぼりでショートボブの髪の表面だけ、軽く拭いて、リリアはこの保清を終えることにした。
片付けを終えると、急いでこのトイレから出ようとする。
このトイレは車椅子対応だから、ここでないと用を足せない人が来たら迷惑をかけてしまう。
長々と占領するつもりはなかったが、それでも気になって、身体を拭くのはどれも手短に済ませた。
リリアは身支度を整え、トイレのスライド扉を開け出ようとした。
すると、すぐ外に四、五人、同じ年頃の制服や私服の男子がいたのだった。
いつからそこにいたのだろうか。
リリアはギョッとして、出ようとした足を竦ませた。
みな薄笑いを浮かべ、学校の体育ジャージ上下に紺色のピーコートを着たリリアを頭のてっぺんからつま先まで吟味するように見る。
「待ってたんだけどぉー?」
一人がニヤニヤしたまま、リリアに声をかける。
「あ、あの、ごめんなさい。どうぞ」
肩を小さく竦め、リリアは声をかけてきた男子の傍をすり抜けようとした。
遮るように、男子がリリアの進路に立った。
「!!」
「あのォ!」
リリアと男子たちの後ろから、女の声がした。
怯えるリリアを含めた一同が、声のした方を見ると、ふっくらした豹柄コートに白いタイトジーンズ、フェイクファーの飾りが付いたフラットシューズを履いた女が、ベビーカーに手を掛け、赤ちゃんを抱いて立っている。
その後ろには亭主だろうか、オールバックに顎髭の男がいた。カストロタイプの屋外作業用防寒着を着込み、スウェットパンツのサイドポケットに両手を突っ込んで、ガムを噛みながら左右に頭を揺らし、男子全員へ首を巡らせた。
夫婦と思しき二人は、バリアフリートイレの順番待ちの雰囲気を醸している。
「この子のオムツを変えたいんだけどォ?いいです?」
赤ちゃんを長いデコネイルの指で示しながら、派手な化粧の母親に、上から下まで何度も視線を当てられて、男子たちは気まずそうに彼女に進路を開けた。
赤ちゃんを連れた彼女は、リリアに向かっては顎先で公園の外を示し、『行きなさい』と目配せした。
リリアは夫婦連れの無言の好意を悟って、慌てて会釈し、不穏な圧をかけて近づいてきた若者たちの前を横切り、小走りで公園から立ち去った。
その姿を見て、リリアの前に立ち塞がった男子が大きな舌打ちをし、トイレから離れてスマホをいじり始めた。
公園から遠ざかるリリアの背後で、妻帯者の男の低い声がした。
「邪魔だ。他所でやれや」
亭主はガムを噛みつつ、屯している他の男子たちを公衆トイレの周辺から追い立てた。
深夜——
リリアの母は今日も、帰ることはなかった。
リリアは公園から帰宅する時、あまりの空腹に手の震えが止まらず、菓子パンを一つ、駅前のスーパーマーケットで買って食べてしまった。
所持金はちょうど、140円だけになった。
定期券は来月の月初まで使える。学校には通える。学校には……
もう、学校には行きたくない。
受験に受かった時は、嬉しかった。母も、喜んでくれた。
制服も可愛くて、ブラウスのリボンとスカートがお揃いのブルーとグレーが織り合わさったチェック柄で、淡いグレーのニットベストと一緒に着ては、母とはしゃいだ。
その時の母は、携帯カメラでリリアを何枚も撮っていたのだった。
その頃のリリアの母親は、まだ働いていて、夕方から夜の仕事に出勤してしまうから、すれ違いの毎日ではあったが、リリアは母子二人の生活に満足していた。
ハニーブロンドで薄青色の瞳がきれいな母——リリアは母親が好きだった。
自分はただ淡い茶髪に、灰味を含んだ榛色の瞳に過ぎない。
携帯のアルバムを開き、母親と並んで写った画像を見る。二人とも笑顔で写っている。
携帯が使えているなら、支払いをしてくれている母親は自分を忘れてはいないはずだ。
リリアにとって、母は世界で一番美しく、そして、大好きだったのだ。
日本人の父親が行方知れずになって以来、異国で、女手一つで、リリアを守り、育ててくれてきた母だった。
夜の商売で、母は人気があった。
小学生の頃は、母の上得意の客だったのか、男性と三人で食事をしたり、遊びに行ったりしたこともあった。
同じ男性であることは少なかったが、母が嬉しそうだったから、リリアも嬉しかった。
そんな母親が、次第にリリアを置いて、男性と二人で出掛けることが多くなり、出先で泊まるから、という連絡が増え、帰宅することがまれになっていったのがここ半年……
「Mum, please come home soon……」<ママ、早く帰ってきて……>
家では母の母語であるオーストラリア英語で二人は話をしていたから、リリアは母に届くよう、祈る気持ちでそう呟いた。
「シマさーん!」
朝、自宅から会社までの徒歩四十分ほどの距離を、十分ほどで走破し出社した大島惠介へ、同僚の新井竜平が会社門前で、ぶんぶんと勢いよく手を振っている。
「おはようございます。新井さん」
更衣室に向かいながら、追い抜いた竜平を振り返り応える大島に、
「竜平、って呼んでくださいよぉ、もう!」
竜平が苦笑いした。
更衣室で二人とも手早く着替えている最中、竜平が大島に声を掛ける。
「シマさん、今日、仕事上がりに——」
「遠慮します」
被り気味に、飲みの誘いを断られ、竜平はがっくりと肩を落とした。これまでを数えれば、十五連敗であった。
竜平は一、二週間前に、昔の因縁から殺されかけたところを、大島に助けられていた。さらには、これまで見たこともない、物怪の執拗な攻撃からも救われている。
その礼にと飲みに誘い続けているのだが、大島惠介は一向に乗ってこない。
まるでそんな出来事など夢であったかのように、とりつく島もない態度だ。
あれって、現実にあったことだったのかァ?
「いやいや、あっただろ?!俺はこの目で、見た!」
竜平がうんうんと頷いている間に、大島はとっくに着替え終え、自分の乗車するごみ収集車に向かっていた。
「って……あれっ?シマさんンー?!やべ!遅れる!?!」
竜平は自分のロッカーを手荒に閉め、割り当てられた車両に向かって走り出した。
いつだって朝は来る。
その日の未明、いつものように空腹で目覚めたリリアだった。
家に食べられるものは何も置かれていない。
いつもなら、水をたくさん飲んで空きっ腹を誤魔化し、空になったペットボトルに水道水を入れて、弁当の代わりに学校に持って行っていた。
昨日、帰宅して手を洗おうと蛇口を捻ると、水は出なかった。
長期にわたる水道代の未納で、その日の午後、水道局が給水を止めていったのだった。
なるべく家で水道を使わないようにすれば、家にいる間くらいはずっと使えるのでは、と思っていたが、それはリリアの未熟な考えだったのだ。
目覚めて、試しにもう一度、台所の蛇口を捻ったが、やっぱり水が出ることはなかった。
「ぐすっ……はぁー…」
リリアは深いため息をついた。
水は出ないのに、涙は出るなんて——
「ぐすん…ふふっ……おっかしぃー………」
少しの間、一人泣き笑ったリリアだった。
時計を見ると、そろそろ家を出て学校に向かわなければならない時間だ。
いや、少し早めに行こう。
禁止されているが、教室のコンセントから携帯を充電したかった。
バッテリー残量があと僅かだった。もし、母親から連絡が来た時に電池切れだったら——…
リリアはまだ、母が帰ってくることを期待している。
腹を空かせたまま行きたくない学校ではあるが、母がいつか言っていた「高校くらい出てないとダメ」という言葉が忘れられなかった。
定期が切れてしまったら、それはその時に考えよう。
十五歳の少女の、今精一杯考えられるベストの方法だった。
昨日の放課後、学校で洗った制服ブラウスの襟は、生乾きではあったが着られなくはない。
着回しているパジャマ代わりのTシャツと七分丈のルームパンツを、きちんと畳んで整えたベッドの上に置いた。
口を濯ぐのは、駅のトイレの洗面台を借りよう。
リリアは制服に着替えると、アパートのドアを開けて玄関を出た。
鍵を締めた後ドアノブを回し、ちゃんと施錠されたことを確認する。
二階建てアパートの一室から階段を下りて出掛けるリリアを、電柱の影から目で追う者がいた。
登校時刻を気にするリリアは、その視線に全く気づかずに先を急ぐのだった。
今日最初の授業は古典で、生徒たちから愛称で呼ばれる教諭が担当だった。
良く言えば生徒が親しみやすく、悪く言えば舐められているタイプだ。
そのせいか、生徒たちは始業の予鈴が鳴っても、自席に着く様子がない。
ざわめきが続く教室の中で、リリアはお腹が鳴る度に身を固くした。
今も鳴った。それでも自分が気づく程度だ。
ついこの間は、静まる授業中に派手にお腹が鳴って、教室中の皆に、さらには教諭にも爆笑されたのだ。
残ったお金で、学校に来る前に菓子パン一つでも買って食べるべきだった、とリリアは今更後悔していた。
所持金は尽きることになるが、今また恥ずかしい思いをするよりましではないか。
お腹が空き過ぎて、思考がまともに働かない。
「さっきさァ、ゴミ捨て場で子猫捨てられてたわ」
空腹で目が回りそうになっていたリリアの耳に、一人の男子生徒の声が入ってきた。
「まじで?ゴミ袋の中に?」
「そー。なんかまだちょっと動いてた」
「えぐ」
「野良猫?野良猫はゴミでしょ?」
「だいたい合ってる。ははっ」
「いや、猫捨てるのはないわー」
「ウチは庭にクソされるから、野良猫はいらね」
「あーね」
ガターンッ!と派手に椅子が倒れる音が教室中に響いた。
その大きな音に、教室のほとんどの生徒が顔を向ける。
最後列の梓リリアが立ち上がった拍子に、彼女の椅子が後ろに倒れたのだった。
そのままリリアは、ゴミ捨て場に猫が捨てられてた、と話していた男子生徒の側に来て、
「その子猫、どこのゴミ捨て場?」
「え、え……」
突然、普段さして話しもしない、しかも最近ネタにされ気味の地味めな女子生徒に詰め寄られて、その男子生徒は面食らった。
「子猫!どこのゴミ捨て場に捨てられてたの?!」
リリアの剣幕にハッとしたように、男子は答えた。
「え、駅から学校来る途中に、最近できたマンションあんじゃん…あそこと、郵便ポストの間くらいの……」
「ありがとう!」
「はーい、席についてー」
女性教諭がクラスの引き戸を開けて教室に入ってきた。
その横をリリアがすり抜ける。
「あっ、こら!梓?どこ行くの?!授業、始まるわよ!!」
廊下を駆け出す彼女の背中に教諭が大声で呼ばわったが、リリアは振り向かなかった。
リリアに続こうかと、バスケ部の土谷花が立ち上がったが、教諭が見咎め、
「土谷!座れ!!」と叱りつけた。
「他にも立ってる全員!座れ!!授業始まるよ!期末試験、近いんだよ!」
生徒たちは、教諭から期末試験を思い起こされ、授業を投げてまで……と思ったか、おとなしく号令に従い、一時限目が始まった。
「梓は後で呼び出すからね。授業に集中!」
日頃おとなしめの教諭が、教室を飛び出したリリアについて、残った生徒たちに見せしめのように宣言した。
リリアは全速力で駆けていた。
クラスメートの男子に確認したごみ集積所を目指して、一心不乱に走る。
男子生徒たちが言っていた言葉が思い返される。
——ゴミ捨て場で子猫捨てられてたわ
——ゴミ袋で
——まだ動いてた
——野良猫はゴミ
——野良猫はいらね
涙が溢れてきた。
まだ生きている猫だ。
「猫は……ゴミじゃない!」
さっきクラスメートに聞いた、集積所の場所はわかっている。休まずに走っていけば、十分はかからない距離だろう。
その途中、ごみ収集車が朝の回収作業をしているところが見えた。
浅葱色のユニフォームを着た清掃作業員が次々と、区の指定ごみ袋を収集車の中に放り込む様子を見て、リリアの脚は震えそうになった。
急がねばならない。間に合わないかもしれない。
リリアは咄嗟に心で叫んだ。
母が時々、毒づいていた相手に向けて——
神様!!
本当に、神様がいるなら、いま!助けて!!
猫を!
私を……!
間に合わせて——…!!
「……その袋、ちょっと待って下さい」
「ん?なんかヤバそう?」
「いや…別の意味ですね」
以前、顔の前でスプレー缶が爆発する既の所を、ザイトワ・ダジャン——大島惠介に助けられた同僚が、大島の制止を受けて動きを止めた。
同僚は、手にしていたぱんぱんに膨れたごみ袋を、点検のため他から取り分けた。一見、区の指定袋に入ったありふれたごみだ。
大島が受け取って、開封した。
「………」
見つけたものを目にして、大島は口を大きく捻る。
他のごみ袋をいくつかホッパー部に放り込んでいた同僚のおっさんも手を止め、大島の手元を覗いた。
「あー……」
開けたごみ袋の中に、三匹の子猫の姿があった。
すでに息絶えているようだった。
大島は口を捻じ曲げたまま軍手を外し、両手で三匹の小さな息絶えた命を手に取った。
「……可哀想だけどさ、そういう運命だったんだよ」
誰を慰めるでもない口調で言い、同僚は作業を再開した。
左手に三匹を持ち、右手で子猫たちをそっと撫で続ける大島に同僚は背中から声をかけた。
「シマさァーん」
声の調子は、朝の予定が押していることを暗に滲ませている。
大島……ザイトワはその声を聞きつつ、なおも無言で三匹の子猫たちの小さな体に手を当て、さすり続けた。
「待ってぇえぇええぇぇッ!!」
その時、絶叫に近い女の子の声がした。
ごみ集積所の前にいた大島も同僚も、そちらに顔を向けた。
女子高生が、泣きながら駆け寄ってくる。
「ま、待ってくだ……さい…!猫が…子猫が袋、にっ……ね、猫…」
ゼェゼェと息を切らせて、子猫がどれかのごみ袋に入っている、だから、作業を一時中断してほしい、そう言いたいようだった。
「!」
三匹を手にしていた大島は、さすっていた一匹の小さな鼓動が再開したのを感じ、子猫に目を戻した。
随分と全力で駆けて来たのか、女子高生はよろめきながら近づく。
左手に小さな毛の塊を持つ大島を見て、「あっ!」と声を上げ、ずいとその手の中の子猫たちに顔を寄せてきた。
「よ、良かった……」
少女は大島の左手ごと、三匹の子猫たちを薄い両手で包み、ぽろぽろと涙を溢した。
「……ありがとうございます!…生きたまま……そうなったら、私……良かった…」
子猫が生きたままごみ収集車に投げ込まれる——そんな最悪の事態を回避できたことへの謝意を、少女が大島惠介に伝えてくる。
「二匹は残念だが」
「……一匹は無事なんですね?」
大島は子猫を探しに来た少女に、ニゥ、ニゥ、と、か細い声で鳴き始めた黄トラ柄の一匹と、骸となった二匹の雉トラを手渡した。
女子高生・リリアが子猫たちの小さな体を受け止めると、
「君の声で戻ってきたようだ」
子猫をさすっていた清掃員は、リリアの制止する声が聞こえた直後に一匹の鼓動が再開したことを教えてくれた。
それを聞いたリリアは——
「ううん、神様…が!…聞いてくれたんです!きっと!」
「……ほぉ…」
「ここに来る前に私、祈って……本当に、良かった…!!」
しかも、冷たいごみ袋の中ではない。そこから拾い上げて、大事に持ってくれていた人がいた。
その人の浅葱色のユニフォームの左胸ポケットの上には、会社名と【大島】という名前が刺繍されていた。
子猫たちは、命絶えた子にまで、大島の掌のぬくもりが移っていたのか、ほんのり暖かいとリリアは感じた。
切ないけれど、生き残ってくれた子もいた。
大島は一度その場を離れると、ごみ収集車から、自分用だろうか、未使用らしいタオルを持ってきて差し出した。
リリアは、あっと気づいて、タオルの半分に回復した子猫と、もう半分に天使になった二匹とを丁寧に包んで抱き直した。
「ホント、良かったじゃない。その子に任せたら!?」
作業員の一人は次の集積所に進みたい様子だ。定刻通りに進めなければ、午後の作業にも支障が出てしまう。
大島は、タオルに包んだ子猫たちを抱く少女を見直した。
高校生だろうが、まだほんの子供だ。
こちらを見る、あどけない顔立ち——淡いブラウンの髪に、灰味を僅かに含んだ榛色の瞳——自分と同じハーフだろうか、ふんわりとした色合いが一層少女を頼りなげに思わせた。
少女は顔が青白く、着ている制服もどこかくたびれているような、全体的に張りのない雰囲気だった。
「どうする?連れて行けるか?」
さっきまで息せき切っていた彼女に、大島は穏やかに確認した。
問われて初めてリリアは、ハタと気づくのだった。
保護して、そして、どうするというのだ。
お金が無いのに!
リリアは急速に、自分の前に立ち塞がる現実の壁に途方に暮れた。
戸惑う様子に、大島が黙って上着の内ポケットから財布を取り出し、節くれ立った指で札をリリアの手に握らせた。
「え……」
「俺が見つけた。本当は俺がやらなきゃいけないが」
言いつつ、ごみ収集車を握り拳の親指で指した。まだ仕事の途中なのだ。
「いえ、私、私が……」
リリアはしどろもどろになりながら、費用を持たせてくれた清掃作業員の大島を見た。
それから手元へ目を落とした。
二万円だった。
「こんな、こんなもらえない!こんな大金、ダメ、ダメです!」
「動物の病院は、金がかかる」
「あ……」
「二匹の子を病院に弔ってもらうなら、もっとかかるかもしれん」
そう言われて、俯いてしまった。
大島は携帯を出しながら、
「すまん。困ったら電話してくれ。出られなかったら、後から必ず折り返す」
「は、はい」
示された電話番号と表示名を、リリアは急いで携帯のアドレス帳に登録した。
学校ルールで、教室での充電は禁止されていた。だから心が痛んだが、その分だけでも、と思って、いつも教室の掃除を誰よりもがんばっていたリリアだった。
十分充電できた携帯を、持ってこれて良かった——…!
そう思いつつ、携帯に表示された「Zitewa Dajan」の綴りを見て、「ザイトワ…ダジャン、で合ってますか?」と確認すると、大島が頷いた。
携帯の画面と、ユニフォームの刺繍ネームを交互に見て、自分みたいなハーフなのかしらん?と小首を傾げると、先に進んだものの痺れを切らして引き返してきた同僚作業員がリリアの疑問を代弁した。
「えー、シマさん、本名あるの?」
「……一度、鳴らしてくれ」
リリアに電話を掛けさせると、「後ででいい。テキストで名前を」と言い、さらに、「すまないな。全部押し付けて」と大島はもう一度詫びた。
リリアは首を強く、横に振った。
自分が、呼び止めた。猫を救いたかった。それは本心からだ。
たとえ、助け出す実力が無いにしても、本気で助けたくて、駆けて来た。
ここに来る途中で、ちっとも助けてくれやしない、と母が恨み言を向けていた神様に縋るほどに、リリアにとっては一大事だった。
でも——自分よりも先に小さな命に気づいて、取り上げてくれていた人がいた。
本当に、嬉しかった。
すべての命ではなかったが、一匹は世界に繋ぎ止めることができた。
この人のお陰で……
そう思うと、初めてリリアは背の高い大島の顔を見上げた。
保護帽と長めの前髪でよく見えていなかった。
切れ上がった目に青灰色の瞳、通った鼻筋と薄い唇、唇の右端の下辺りから顎にかけて、縦に一筋の傷跡が見えた。それが整いすぎている顔立ちを、より男らしく精悍に見せている。
歳は……大人だ。自分よりも、ずっと大人の男の人だ。
——か、カッコいい……!
状況を忘れ、リリアは大島に見惚れてしまった。
「シマさーん!もう行ける?行けそう?!」
目と目が合った二人を、逼迫しそうなごみ収集のスケジュールと、それを案じる作業員の同僚の声が、朝の忙しい時間の流れに戻した。
「あの……ありがとうございました!この子のこと、連絡しますね」
「そうしてくれ。……本当に悪いな」
「待たせてすみません」と言いつつ戻る大島を、同僚が「シマさん、二つ名なんだねぇ。かっこいいねぇ!」と揶揄う声が聞こえた。
ごみ収集車が次の集積所に向かって角を曲がって行くまで、リリアは大島の後ろ姿を見続けた。
それから、リリアはすぐにSMSで短いメッセージを大島に送った。
『梓リリアです。子猫のこと、本当にありがとうございました』
間を置かず、大島から返信が届いた。
その早さに、リリアは逆に気づき、反省した。
大島は仕事に戻ったのだ。邪魔をしたに違いない。
『動物病院に心当たりがなかったら』
続けて、病院名と所在地が送られてくる。
『猫に詳しい知人から ZD』
添えられた短い文は、知人から教わった信頼のおける病院だ、と言いたいのだろう。
ZDというイニシャルの署名を見て、リリアはさっき知った彼の名前を口にしてみた。
「ザイトワ…ダジャン……」
朝、男子生徒たちが笑いつつ、ふざけつつ話していた子猫のことだった。
聞こえてきた時は血の気が引くのを感じた。
必要とされない命だと、一方的に決めつけられて、笑われてこの世から追い出されるはずだった小さな命……リリアは胸の奥が震えるような感覚を初めて覚えた。
気づいて、見捨てなかった人がいてくれた。
「ザイトワ・ダジャン…さん……」
きっと、神様が遣わしてくれた人だ。
神様——!
ありがとう……!
リリアは大島に知らされた動物病院に向かって、歩き始めた。
ニゥ、ニゥ、ニゥ……
小さな子猫の鳴き声に、リリアは戻ってきてくれたその子の鼻筋をそっと撫でた。
「もうちょっと、がんばって…いま病院に向かっているからね」
祈りを聞かれた……そう信じるリリアの足取りは、必死に駆けてきた時と大いに違い、どこか弾んで、軽やかだった。




