必要じゃない子(1)
〝キイィイイイィィイィィィイィィイィイィィィイィィィイィイイィィィーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!〟
電流による電子部品の振動で発生するコイル鳴き——のような異音が夜闇に一瞬拡がり、散った。
耳小骨に直接触れてくる気色の悪い悪霊の悲鳴に、齢七十に近いケニー神父ですら、思わず目を瞑って両耳を塞いだ。
両耳を塞ぐ双手の、片方の肘と脇の間には彼が長年使い込んだ分厚い聖書が挟まれていた。
やや離れた街灯からの薄灯りに、聖書の綴じられていない部分が照らされ、三方金が鈍く光る。
片目を開け、身を縮こませる神父の隣に、ザイトワ・ダジャンが無表情で立っていた。その左手は神父の右上腕を掴んでいる。
細い青い稲光が、突き出した右の手や腕にチラついて、そして消えた。
悪霊を穿つ青白い電流のような力に周囲の空気が熱せられ、着ている焦茶色のロングライディングコートの裾と、やや長めの真っ白な頭髪が、局所的な上昇気流で上下に靡いている。
二人の足元に、焼け焦げた汚泥のような、黒いコールタールのような一塊りが蠢いていた。
ザイトワの霊的な存在をも焼く電撃によって焼け焦げ、ひどい悪臭——硫黄の臭いがする。
〝キィイイィイィィ……アッ…デ…ッ……ナ、ァゼ…ェ……〟
よくよく見ると、その悪霊は一つの物体ではなく、細かな黒い蛆虫のようなものが無数に寄り集まって、ミシャミシャと拡がったり、縮んだりを繰り返している。
「……惠介、May I<私がやっても>?」
「Yeah, your turn, Father.」<ああ、先生の番だ。>
高周波の悲鳴に驚かされたものの、自分の番を確認したケニー神父は、手を翳し、霊的な権威をもって悪霊に厳かに命じる。
「O defiled spirit, who exploits people’s prayers to demand further sacrifices.」
<人々の祈りを利用し、さらなる犠牲を求める穢れし霊よ。>
「……先生、あのな……」
祈りを遮る事を憚ってか、ザイトワが遠慮がちに神父に声をかける。
「Yes, 惠介?」
「こっちだ。ここ」
彼は見当違いな方向に向けて祈り始めた神父に、悪霊の蠢いている場所を指差した。
「Oh? I could hear the voice coming from over there, so…」<あら?あちらから声が聞こえてきたものだから……>
ケニー神父は苦笑いをしながら、ザイトワが指し示した方に向き直る。
再び、堅牢な壁を感じさせる揺らがぬ調子で祈り始めた。
「……You must not seek to be worshipped through the good intentions of people’s prayers. O defiled spirit, depart from this land at once, and never return.——」
<人々の善意の祈りで崇められようとしてはならない。穢れし霊よ、ただちにお前はこの地を去って、二度と戻ってきてはならない。>
正しく、聖なる悪霊撃退の祈りを浴びて、悪霊はどろりと溶け始める。
「いま消え始めた、先生」
ザイトワには悪霊の様子がすべて見えている。
見えないケニー神父に代わって、簡単に状況を伝えてやる。
「——I command you in the name of the Lord Jesus Christ.」
<主イエス・キリストの御名によって、お前に命ずる。>
聖者の祈りは、この闇の色をした蛆虫の集合体のような悪霊の存在が人の世に在るのを許さない。
〝…ザイトワ!…ダジャン!!…ナゼ…ッ…ノツリッ、ムッ、ニッ…カタイレ…スル…キィイイィィ---ッ!!!〟
ノツリムに味方をするのは何故か、との問いにザイトワはウンザリするような顔をし、鼻を鳴らす。
祈りの聖火に焼失していく悪霊が、悔しげな最後の悲鳴を上げた。
〝…ウラム、ゾ……レ…ッ…レヴィオン…バユ、ワーレ……〟
〝ババリアの祭司〟と聞くや否やザイトワの顔色が変わり、祈り続ける神父の肘を左手で掴んだまま、宙を掴むように右手で空を上から下へ素早く引っ掻いた。
その瞬間、轟音とともに超高温の青い雷のような五本の槍が黒い集合体に刺さる。
蛆虫の集合体のような悪霊は、ザイトワの青い霊的な槍によって瞬時にして沸騰し、ガス化する。体積が急激に膨張し、身はそのまま辺りに四散した。
「Wow!!」
黒焦げに炭化した悪霊の一部が、神父の黒のスータンの裾に当たった。
裾に何かが当たったのを感じて足元へ目を落とすが、すでに消失したか何も見当たらなくなっていた。
ただ、硫黄が周辺に臭い立ち、悪霊が人間には見えない体をもってここにいたことが神父にも確認できた。
二人は、川沿いに建立された水難祈念碑の側に立っていた。
昼間、所用で通りかかったところ、救急隊や集まる人たちが車窓から見えた。
水難者の救護をしているらしい人だかりの、やや離れた場所に黒い人型のような悪霊を認めたザイトワだった。
離れた場所から首を長く伸ばし、川から救助されたと思しき土気色の人物を見て、笑っていた。
〝キヒヒヒヒ……オボレナイヨウニ…オボレナイヨウニ…ワスレナイヨウニ…オボレサセタヨ……ヒヒヒヒキィ!〟
川風に乗ってくる悪霊の異言の嘲りをケニー神父に教えると、
「鎮魂の祈りを、自分たちの悪業に使うとはトンデモナイ!」と神父は憤った。
そうして、一晩も置かずに日も昇らぬ朝に同じ場所に戻って、〝水難の霊〟に対処しているのだった。
「Father, it's done.」
気色の悪い虫の集まりのような悪霊が、完全に消失するとザイトワはケニー神父にそれを告げた。
「Very well.」<よろしい。>
聖書を閉じて、神父は隣の男に向き直った。そして、「But…惠介ェエエェェ…」
祈りの幕引きを雑にされて、日頃柔和なケニー神父が剣呑な様子で唸る。
「すまん。カッとなった」
青い雷電の出所であるザイトワはケニー神父を掴んでいた手をそうっと離し、即座に詫びた。
「レヴィオン・バユワーレ?ナニですか?!モゥ、ちゃんと説明して、クダサイ……?ください!」
「……話せば長い」
「Then, later<では、後で>! アナタ、センジュツも一人で行ったマシタネ?帰りが遅くなったヒ!」
「先日も一人で行ってました、っけ?」
珍しく興奮してケニー神父の日本語が若干乱れ、ザイトワはすっとぼけながらその乱れを整えてやる。
「Hem! センジツも一人で行って、ました、ネ!Yes! 帰りが遅くナッタ!ヒ!」
「どの日の帰り?」
「惠介!!」
「ヘェヘェ」
帰りが遅いのは昨日今日始まったことじゃないと、自嘲気味に返すザイトワだった。
その様子にケニー神父は大きく肩を落とし、聖書にかけている革装カバーの金具に革ベルトを留めた。
留めてから、自分の顎の右端を軽く指差す。示しながら、ザイトワを見つめ、
「惠介……Please, 時には危険デスカラ。Never, ever<絶対に、二度と>, 一人で行かナイ?OK?」
「………覚えていたら、な」
「ハイ。覚えていたら、でヨイネ」
ザイトワと交わす約束ににっこり笑うケニー神父に対し、ザイトワは心配されるのがこそばゆいのか、無意識に自分の顎を手の甲でこすった。
口元の右端のやや下から、顎へ一直線に下がる傷跡があった。
生ぬるい風が、すぐ近くの通りを挟んだ川面から流れてくる。
水面に、徐々に夜明けの光も映り始めていた。
「行こうぜ、先生。そろそろ急がないと、会社に遅れる」
「Oh, No! 遅刻はダメーね。今日はワタシも出社日ですカラ」
言いながら、ケニー神父は着ているスータンの袖を上げ、クンクン鼻を鳴らした。
「It’s sulphur!」<硫黄の臭いデス!>
祓魔を終えた現場を、念のためとザイトワが振り返る。
見やった水難祈念碑の辺り一面には、祈りによる静謐な空気が満ちる。
異形を捉える目はまた、一帯に塗された聖い霊的な輝きをも捉えていた。
その眩しさに目を細め、ザイトワはなんとも言えない面持ちになった。
「惠介ー!行く途中コンビニでシャケのオニギリ、と、臭い消すSpray, 買ってクダサイ!」
「……ヘェヘェ」
川端に広がっていた霊的な聖さを眩しげに見ていたザイトワ・ダジャンは、その聖さを形作ったケニー神父の、実に現実的な朝ごはんと悪臭対策の指定に俗世に引き戻された。
二人の乗ったソリッドブラックの四輪駆動車が、川辺の土手から国道に向けて走り出す。
朝の渋滞を避けたいがためか、車は次第に加速していった。
どうして私は私なんだろう?
どうして私はあの子じゃないんだろう?
あっちの子でもいい……
どうして私の毎日は、あの子たちのようにキラキラしてないの?
私があの子だってよかったのに、
どうして私が、私でなきゃいけなかったんだろう?
どうして私、私の中にいなくちゃいけないの?
私が、もっと可愛くて、もっと楽しくて、もっと幸せだったらよかったのに、
どうして、私が私なの?
私の方がもっと毎日が楽しくてもいいのに。
……ううん。私だけじゃなくてみんなが。
みんなが同じように。
みんなが、幸せならいいのに。
どうして私が私として生きて、
辛い毎日を過ごさなくちゃいけないんだろう。
誰か——
梓リリアは学校の屋上から、ぼんやり昼休みの校庭を見ていた。
屋上から、校庭のバスケットコートが見えた。
コートで女生徒が何人かが、制服のまま、あるいは上だけ体育のジャージに着替え、二、三人ずつのチームに分かれ、ハーフコートゲームをしている。
周りの子たちに比べ、抜きん出て背の高い女子がボールを奪い、センターサークルからシュートする。
地上三・〇五メートルのゴールリングへ、ボールはリムに触れずにスポッと入った。
見事スリーポイントシュートを決めた彼女に向け、ほかの女子たちが「すごーい!」、「花ちゃん、さすがバスケ部!」などと拍手や驚嘆で褒めそやした。
淡い榛色の瞳で、それを遠くから眺めるリリアは、同じクラスのバスケットボール部員が喝采を浴びるのを見てため息をついた。
ぐうぅ、とお腹が鳴る。
自分のお腹の音に、リリアは赤面したが、購買にパンを買いに行くことは出来なかった。
もう所持金は、238円しかない。
今月、母親が帰ってくるとは限らないのだ——
オーストラリア国籍のリリアの母親が、自宅に帰らなくなってから半年が過ぎていた。
全く帰らないのではない。
最初は二、三日ごとに帰宅し、おかずを作ったり、一緒にテレビを見たりして、楽しく過ごしていた。そしてまた、どこかに行ってしまうのだ。
ふらりと帰ってきては、洗い物がそのままだったり、部屋が散らかっていたりすると、ひどく不機嫌になって、リリアに小言を言う。
「Mum doesn’t want to come back home as filthy as this! You’re old enough to realise that by now, aren’t you?!」
<ママはこんな汚いウチに帰ってきたくないわよ!いい加減、アンタもわかる年頃でしょ?!>
週に二日は姿を見せる母親の機嫌を損ねないように、リリアは家の掃除や、洗濯をちゃんと覚え、やっていた。
母親が帰ってくる時に、失望させたくなかった。失望させて、全然帰ってきてくれなくなったら……考えるだけでぞっとした。
母親は家から出る時、いつも次に自分が帰るまで、お腹が空いたらこれで食べて、とお金をリリアに持たせた。
だが高校一年生のリリアが、必要なものを買うためにはその額はあまりに少なかった。
次第に母親が次に帰宅するまでの日数は、延びて行った。
三日に一度だった帰宅は五日に一度になり、五日に一度は一週間に一度、一週間は十日に、やがて二週間に一度の帰宅となっていった。
そして——
リリアの母は、前回の帰宅から三週間、姿を見せていない。
ガスと電気は先週の半ばから使えなくなっている。
母親には何度か、このことで連絡をしている。返信も折り返し電話もない。
水道局収納課からの通知はがきが、キッチンのテーブルの上に溜まっていた。支払いの確認が出来なければ、水道を止めざるを得ないと書かれた支払い督促の通知書だ。
代わりに相談したくとも、父親は彼女が幼い頃にいなくなっており、連絡することもできない。
十五年しか生きていないリリアには、どう対処していいかわからなかった。
午後の始業を知らせるチャイムが鳴った。
リリアは、ペットボトルに入った水を飲み干し、空腹を誤魔化した。
仲間内でお弁当を食べ終わった数人が、互いの話の続きに笑い合いながら自分のクラスに戻り始める。
リリアは、賑やかな彼女たちに続いて屋上から階下に下りて行った。
この日も——
リリアの母親は、帰宅することはなかった。
ごみの収集や関連する運搬業務を請け負う、清掃会社の朝は早かった。
一般家庭生活で出たごみは「家庭系ごみ」として扱われ、その一方、会社など事業活動を通じて発生したごみは「事業系ごみ」として分類される。
家庭系ごみは事業ごみとして出せないし、事業系ごみは家庭ごみとして出してはいけないことになっている。
コロナ禍以降、会社形態そのものが変わり、SOHO的に自宅で勤務する人々がいる。
SOHOで出たごみは例え勤務地が自宅であっても、事業系ごみだ。有料の家庭ごみの袋に入れたとしても、その形式ではごみとして出せないのだ。
保護帽を被り、黄色い反射材があしらわれた浅葱色のユニフォームを着た清掃員が二人、収集作業を一時中断していた。
彼らの足元には、大量の紙片の入った有料家庭ごみの袋が二つ置かれている。
二人のうち一人は五十路で、口をへの字に曲げて、日に焼けた腕を組みながら、「本当にこういう厄介なごみ、増えたよなぁ」とぼやいていた。
もう一人、保護帽から白髪が覘く長身の男は、ザイトワ・ダジャン——大島惠介だった。
大島は、マイクから保留音がこぼれる携帯を片手に、指名した相手が電話口に出るのを待っていた。
有料家庭系ごみに若干の生ゴミと一緒に入れられているのは、縦横に裂かれただけで金額の入った見積書や受注請書や、会社名や顧客コードらしい番号と所在地が印字されたタックシールの束だった。
半透明のビニールから透けて見えるその内容が、事業系ごみであることを示している。
この種のごみが、普通のマンションの一室から、繰り返し出されている。
前回、前々回同様の対応で問題がないか、指導したはずの区の排出指導担当者に確認しよう、となった。
ようやく相手が出たと思ったら、『申し訳ない。まだ出社しておりませんで、来たら即折り返しさせますんで』
用をなさない電話を切った後、班長であるドライバーの確認も経て、大島は【事業系有料ごみ処理券を貼付してください】と書かれたシールを貼って、そのごみを集積所に戻した。
「持ってってくれよ!それ!」
次の集積所に行こうとした大島の背中に、きつい言い方で声をかけてきた眼鏡の男がいた。
「困るんだよ。顧客情報だって入っているんだし、長いこと外に置いておかれるのは!」
自ら事業系ごみであることを白状したのも気づかないのか、問題のごみの持ち主は言いがかりをつけてきた。
「区の収集基準でこれは——」
「困るっつってんだろ!!」
頭一つ大きい大島に、怯むことなく噛みついてくる男の背後に、彼の手を取る男児がいる。
これから幼稚園に登園するのだろう、男児は制服にフェルト素材の制帽を身につけていた。
「……お父さん、このごみは事業系だから、家庭ごみとしては持っていけないんですよ」
お父さん、と呼ばれ、相手の男ははっとした顔をして、気まずそうに俯いた。
「ぃゃ……今日だけ、なんとかなりませんかね?ウチに置いておけなくて」
「事情はあるかと思いますが、事業系ごみのシールを貼って出してもらえませんか」
下手に出た柔らかい言い方をした大島を、首を大きく仰け反って、男児がポカンと口を開けて見ていた。おっきい人だぁ…と顔に書いてある。
それから眼鏡の父親の手を握り直し、男児は不安そうに親の顔を見直した。
男は男児を見下ろして「大丈夫だよ」と短く答え、大島には「わかりました」と小声で答えた。
「どうだった?」
「はい。ちゃんとシール貼ってから、出し直してくれそうです」
「なら、良かった。でも一応、社に戻ったら区に報告、で上げておこう」
「はい」
次の集積所で作業しつつ待っていた相方が、「上に電話もしちゃったしなぁ」とも言う。
大島惠介は最初横柄だった眼鏡の男が、男児には父親の顔をしていたのを思い出し、ふっと苦笑した。
あの父親にとっては、自分の顧客情報保守は必要でなくても、自分の息子の安心感は必要なのだろう。
「なに?何かおかしかった?」
「いえ。……俺は昼も夜もごみ掃除だな、と」
「夜?午後シフトのこと?」
「いや…えー、夜は夜で、先生にね」
「あー!ケニー先生。あの先生、綺麗好きだもんな!」
同僚が会社のメンターとして雇われているケニー神父のことを言い出し、良い具合に勘違いしていったので、大島——ザイトワ・ダジャンはこの話を適当に切り上げた。




