暴挙(3)
工事予定地の奥手には、作業に使う砂利や砂などがさらに盛られている。
「……距離が取れるか?——…仕方ないな」
大島が、不満げに独り言つ。
はぃ?何て……?
プレハブの壁伝いに、後を追ってきた竜平には何のことか、さっぱりわからない。
足を引きずりつつ、さらに近づこうとしたその時——
先に歩を進める大島が、右手、左手と順に中空を掴み、それぞれの手に微かな青白い稲妻がチリッと光るのが見えた。
稲光が薄く広がった一瞬、何もなかったはずの大島の両手に、鳥のような蜥蜴のような、見たことのない小さな黒い物体が二匹、そこだけ人の世に押し出されたように姿を現す。
何か耳障りな金属音のような悲鳴が聞こえ、掴まれていた物体は砂の塊が崩れるように消失した。
それと同時に、辺りの暗闇が大島の前に密集する。今度は一瞬ではない。ヌメッとした何かが、徐々に嵩と輪郭を得て凝り始める。
はぁ、と一つため息をついて、足元に目を落とした大島が、顔を伏せたまま、視線だけを前方へ上げた。
「……来いよ」
距離のあるここからでも、何かしらが竜平に伝わってくる。
常ならぬもの。
人ならぬもの。
周辺に強烈な硫黄の臭いが漂った。
「ぎゃあぁああぁあぁっ!!」
得体の知れぬ怖さに、竜平は叫び出していた。
竜平の怯えた絶叫に、ヌメヌメした蛇のような、巨大な蚯蚓のような闇色の何かが気づき、こちらを——…見た?笑った?
〝……ランボウモノ…ハ…スキダヨ……〟
「……え?」
耳元で金属のこすれるような、鼓膜が不快になる声で囁かれた。
ズルリ、とそれは触手のようなものを伸ばし、触手の先の口のような器官から、大量の唾液をぼたぼたと垂らしながら、自分に向かってこようとしている……!
〝ボウゲン…ボウコウ…ボウドウ…ボウキョ……オマエモスキダロウ……〟
太い蛇の鎌首のような触手をスゥと上げ、グググッと身を収縮させると、竜平めがけて一気に飛びかかった。
竜平は化け物の恐ろしさに、「へぁおぉ……ッ」と声にならない声を上げた。
その時、大島が両手を背後に回し、左右の柄を順手に握った。流れるような動作で大小二本を同時に引き抜き、すかさず逆手に持ち替える。
竜平の視界の上方に、ナイフを振りかざしながら空から触手へ降りかかる大島の姿が映った。
落下の速度に自重を乗せた力が大小のナイフに集まり、触手の滑った皮膚を深く抉って引き裂いた。細い青い電流が何本か、触手の表面を網目のようにぐるりと這い回って消えた。
バタリ!
ドサッ!ドサァッ!
次の瞬間には、重い肉片がいくつも、地面に落ちたような音が続いた。
工事予定地の各所を照らすライトが、電気メスで切ったような焦げた断面を浮かび上がらせる。
肉片の向こう側へ着地した大島が、両手のナイフを収めながら、大股で黒い肉片へ向かった。
尻餅をついた竜平が怖気付きながらも見ると、その肉片から得体の知れない、気持ちの悪い声が聞こえてきた。
〝ボウリョク……ボウギャク…ボウトドモ……ムエキナチガナガサレテ…ウマカッタノニ——〟
肉片がグネグネと震えながら呟き、二、三の肉片が寄り集まって、鰐のような形を成していく。
〝ウマカッタノニィイィィッ!!〟
涎を滴らせながら新たな黒い頭部がしつこく竜平の喉首を狙い、長く爆ぜるように伸びた。竜平の目に、ガパッと横に開いた大口と、その中に波状に並ぶ鋭い同形歯が映り込む。
竜平は今度こそ終わりだ、と観念して、思わず目を瞑った。
だが、鰐のような頭部は竜平に到達する手前でガチン!と歯を打ち鳴らしただけだった。
次の瞬間には、新しく形成した体ごと引き揚げられ、竜平とは反対側の砂利山へ叩き込まれた。
大島が剛腕で投げ飛ばしていたのだ。
そして、なぜかそのまま素早く竜平に寄り、まるで大きなぬいぐるみでも扱うように、左腕で軽々と小脇に抱えた。
右手で黒い大型ナイフを抜き、残りの肉片が寄り集まっていく砂利山の黒い鰐へ、足早に間合いを詰める。
黒い鰐を形作った悪霊は肉片が集まり切らないまま、砂利山の中に潜り始め逃走を図っている。
「エッ!?ちょ……っ!なに!?何やって……や、やめっ!!」
小脇に抱えられた自分ごと逃げ出す怪物に向かっていく大島に、恐ろしさのあまり竜平は制止の声を上げた。
「口と目、閉じろ」と有無を言わさぬ調子の大島の言葉に、思わず聞き従い、運搬に揺れるまま、竜平は言う通りに口を引き結び、目をぎゅうと閉じた。
鰐型の悪霊が棘だらけの尻尾を、竜平を抱えて急接近する大島に叩きつけてきた。
逃げたい一心の大振りな攻撃を、易々とかわし、次の瞬間、激しい青白い雷電の流線が、大島の右手から放たれたナイフと共に悪霊の体を貫いた。
落雷じみた轟音と共に電流が四方へ走り、黒鰐の霊体は内側から激しく膨れ上がって爆散した。
黒い飛沫が、大島の頬や首筋に降りかかった。
竜平は轟音に身を強張らせたが、大島の身体に触れている自分にだけは、見えないベールに遮られたかのように、悪霊の飛沫も衝撃も届かなかった。
〝……ウマカッ……タ…ノニ……チクショ…ゥ……〟
悪霊の声は小さくなっていき、四散した肉片も砂の城のように崩れて、消えていった。
崩れた跡に、漆黒の大型ナイフだけが残り、砂利の上へ落ちた。
大島は竜平を地面へ降ろし、砂利山に向かい、それを拾い上げた。左手を背後に回し、波紋模様の小型ナイフも抜く。
地に降ろされた竜平は、そっと片目だけ開けてみる。
ヒュ!ヒュ!とナイフを一閃、二閃させる音がして、竜平は今度こそ両目を開き、大島を見た。
点けっぱなしの工事予定地のライトに照らされ、砂利山の前で大島が大小のナイフの刃の表裏を検分していた。
白髪が、あるかなしかの夜風になびいていた。
風に乗って、大島の声が聞こえた。
「新社屋の予定地に、暴力が好物の悪霊か…ろくでもない会社だ」
大島の独り言は、人の世を離れたところから見ているような、冷ややかな響きがあった。
アイツ……これ、この…キモいのをやっつけるのに、ここに来てたのか——
武器のチェックを終えた大島が、後ろ手にナイフを鞘に収めた。
こちらに顔を向け、ゆっくり歩いてくる。
竜平は、その場に漂う、息の詰まりそうな何か嫌な感じの空気が、大島の歩みによって二つに裂かれ、消失していくように感じた。
「……大丈夫ですか?」
「…………」
さっき、壁伝いに来たものの、袋叩きにあった痛みでへたり込んでしまっていた竜平だった。
おまけに、急激に漂ってきた強い硫黄の臭いに吐いてしまっていたのだ。
上から大島惠介が覗き込む。
その顔や首筋にも化け物の黒い返り血がかかっていた。だが、地面の肉片と同じように、それも消失していくのが見えた。
「もっと早く、声をかけていれば良かったな」
タコ殴りされた竜平の顔を見た大島の表情は、光の配置で良く見えなかったが、その声には、会社では聞かないような、少し申し訳なさそうな調子があった。
「え?」
「アンタも俺に見られたくはないだろうと思ってな」
大島は自分が嫌われていることは分かっていたのだ。その上で、輩どもから助け出し、さらに気色の悪い怪物からも守ってくれたのだ、と竜平は悟った。
だが、さすがにあれはやり過ぎだったからな。それに、俺も俺の用をさっさと片づけたかった——
大島はそう言いつつ、気持ちの悪い物体、化け物が倒れた方を少し顧みた。
「…あの、大島、さんてさ、何してる人?」
「……同じ会社にいる」
「違うだろ。全然。違うだろ」
「違う…何が」
「それは……」
何が違う?
何か違う。
何かが、違う。
あのキモい、気持ちの悪い——
竜平はブルルッと震えた。
それから、周りの嫌な空気が消えてった……
今日まで気に食わなかったはずの男が、竜平の吐瀉物にも構わず、怪物の追撃から守るためか、自分を小脇に抱えたまま戦い、いま屈んだままの竜平に手を差し伸べている。
「わ、悪ィ」
竜平は口を袖で拭い、遠慮なく大島惠介の手と腕を借りて立ち上がった。
「まじ…ありがとう。さっきは。助かった」
不思議と、すんなり謝意を口にした。
二人で工事予定地を後にし、昼間、半グレに因縁をつけられていた通りに戻る。
「ひとりで、帰れるよ」
「なら、ここで」
踵を返した大島惠介に、後ろから竜平は思わず声をかけた。
「あの、さ…!」
竜平の声掛けに、大島が歩みを止める。
「オレ…誰にも言わねえから」
振り返りきらず、大島惠介が横顔で答えた。
「明日、会社でな」
竜平はその言葉に、再び前を向いた大島には見えていないにも関わらず、うんうん、うんうん、と何度も首肯した。
そうして、異国風のロングライディングコートの後ろ姿が、通りの外れで見えなくなるまで見続けた。
今夜は、一体なんだったんだ…?
どれも、あまりに桁外れの光景だった。
俺の頭じゃ、理解が追いつかねぇ。
しかし——
味わされた恐怖に勝る大島惠介の圧倒的な強さと、彼の手から流れていた微かな青い電流の美しさに、ただただ脳を殴られた。
静まり返ったオフィス街の通り——
大島の後ろ姿が完全に見えなくなってから、竜平は唸った。
「かっ……けぇえぇぇ……っ…!」
ザイトワ・ダジャンが焦げ茶色のロングライディングコートから携帯を出すと、ケニー神父から届いているメッセージに目を落とした。
[Will you be late tonight, Keisuke?]<今夜は遅いのですか、惠介?>
[Keisuke, please make sure you don’t go after any evil spirits on your own.]<惠介、あなた一人で悪霊を追わないように。>
[Do give me a call when you see this. Keisuke?]<これを見たら、ね。電話をください。惠介?>
次々続く〝惠介〟宛てのメッセージに、眉を顰め、返信を綴る。
[I’m on my way home ri]<これから家に帰>
そこまで打つと、途中まで消去し、
[I’m heading back.]<これから戻る。>
打ち直した返信を送り、ザイトワは携帯をコートの内ポケットにしまった。
翌朝、大島惠介は竜平の方から挨拶をされた。
「はよぅざっす!!シマさん!今日もよろしくお願いしゃっす!!」
竜平の顔は、パンパンに腫れ上がり、湿布と絆創膏で半分ほど埋まっていた。
だが、元気いっぱい過ぎる。
何か一つ、吹っ切れたような、笑顔が満開だ。
大島惠介に竜平が強い反感を持っていたことをなんとなく察知していた会社代表・日向誠司が、怪訝そうに、だが笑ってその光景を見やる。
「アイツ、急にどうしたんだ?」
まあ、いいことだけどな。
作業着に着替え終えた大島惠介が、竜平に振り向いて応えた。
「おはようございます。新井さん」
朝、六時四十五分——
ごみの収集や関連する運搬業務を請け負う、清掃会社の朝は早い。
日向環境クリーンサービス株式会社の、いつもの朝が始まった。




