ep.82 奈落
「や、やった……」
誰よりそれを喜んだのは他でもないシオである。
「やった! やった! やった! やったっ! やりましたぁっ!」
爆発する歓びの感情を拳に乗せて、何度も石床を叩いている。
「ついに……ついに、追跡者も振り切ったぞ……!」
ファイレナはアーダンの姿を探した。無論、アーダンも自身を探すだろうことはわかっている。その理由はもちろん、腕の中にある不死鳥の卵だ。
「ご安心ください。しかとここにあります」
ファイレナはほっと胸を撫で下ろす。途端、体に疲労が重くのしかかるのを感じた。これまで興奮して、気も張っていたから立っていられた。ファイレナは崩れ落ちるように倒れ込んだ。
大の字になると、太陽光線の魔法で大地に空いた穴から小さく空が見えた。
「師匠、やったよ。待っててくださいよ」
「おい。何をぼさっとしているのだ。用が済んだらさっさと帰るぞ」
グリオハンが傍らに立ち、ファイレナを見下ろす。
ファイレナは苛立ちのこもった鋭い目で見返した。
「おまえは疲れを知らないのか? 私はヘトヘトだぞ。少しくらい休ませてくれてもいいだろ」
ふたりの口論が始まりそうなところで、アーダンが口を挟む。
「申し訳ありませんが、グリオさんの言うとおりですよ、ファイレナさん。どこもかしこも燃えていて、およそ休憩ができるような状況ではありません。少し無理をしてでもここは離れるべきです」
これは正論だ。言い返す言葉が見つからず、ファイレナは苦し紛れに舌打ちを返した。
わずかにしか残っていない気力を振り絞って上体を起こす。
そのときだ。微振動が辺りを包むのがわかった。
「なんだ?」
ファイレナは真っ先に上を見上げた。〈見えざる手〉の撃った太陽光線の魔法は鮮烈に脳裏に焼き付いている。だが、空からではない。
突如、神殿の一部が崩れ落ちた。
床に蜘蛛の巣のように大胆な亀裂が走ったかと思うと、それが下へ向かって落ちていく。
「な、馬鹿な……! どうしてっ!」
ファイレナの叫びが反響する。
崩れゆく床や瓦礫と共に、四人が自由落下に飲み込まれる。
ファイレナの脳裏に、すぐにさきほどの〈見えざる手〉の最後の瞬間が蘇った。大量の魔力の解放、そして爆発。これはそれが及ぼした破壊の一端なのだ。
大口を開けた空洞へ落ちていく。ここは〈深層〉、その下は〈奈落〉だ。地上世界には滅多と現れない恐るべき怪物たちの住処。あるいは九層地獄とのあわい、終わりの一層。そんなところへ落ちたら、帰って来るのはほぼ不可能だ。
アーダンはすかさず体を半分霧状へ変えて残った石床の縁へ転がり込んだ。
シオはフック付きロープを投げ、壁面の出っ張りを捕えると、落下を免れた。
ファイレナは最後の力を振り絞って魔術を唱え、中空へ浮遊する。
だが、グリオハンだけはもう打つ手を持っていなかった。
ファイレナがグリオハンを見た。
その瞳の中で、たったひとり成す術なく〈奈落〉へと吸い込まれていく。
ファイレナは無我夢中で手を伸ばした。反射的な行動だった。グリオハンが空中で止まった。
「ぐっ……」
グリオハンの図体。その体重はハーフエルフひとりが片手で支えるには重すぎる。すぐさま、その肩、肘、あらゆる関節が悲鳴を上げた。集中が切れそうになる。そうなれば、浮遊の魔術が解け、共に〈奈落〉へ真っ逆さまだ。
「おまえまで落ちるぞ!」
意外にもグリオハンがそう叫んだ。
「仕方ないだろ! おまえは飛べないんだ!」
グリオハンはファイレナを神妙な面持ちで見ている。その表情から胸の内を図ることは難しい。なにせ、元々はドラゴンだ。これまでもずっと何を考えているのかよくわからなかった。
グリオハンは一度、足元へ視線をやった。その下には〈奈落〉が口を開けている。
「構わん。ここまで這い上がってくればよいだけだ」
ファイレナの頭に血がのぼった。
「おまえはどこまで行ってもうぬぼれ野郎だよ! 本気でできると思ってるのか? 〈奈落〉に落ちたらもう二度と戻って来れないんだよ!」
「我を誰だと思っている? 偉そうに誰にものを言っていると……」
「偉そうなのはおまえだ! 落ちたら死ぬ! 絶対に死ぬ! おまえでも死ぬ! 二度とドラゴンなんかには戻れないんだよ! 落下して死ぬ最後でいいのか! もう一度、空を飛ぶんだろ、グリオハンッ!」




