ep.78 敗北
「こちらは間に合いましたか?」
見れば、蜘蛛面の首に千切れた腕がぶら下がっている。肘から下は、黒ずんだ霧がなびいている。
アーダンだった。
シオが注意を引きつけている間、昏倒から覚めたアーダンは密かに自らの片手を仕掛けていた。
指先が蜘蛛面の首に食い込む。面の下から苦しそうな声が漏れる。
「安心してください、絞殺などという時間のかかるプロセスは用いませんよ。死霊術師なのでね」
アーダンの声が一層冷たく沈んだ。
「《死》」
それは死霊術の真骨頂だった。対象に死を与える禁呪中の禁呪である。
だが、蜘蛛面も魔術師だ。自身の体に影響を及ぼす魔術には当然抵抗する。
硬直する体。漏れる苦悶の呻き。付与される死の魔術と、精神力の壁がせめぎ合う。
「これまでどれだけ苦労してシオさんの身柄を守ってきたと思ってるんですか! コイン一枚も手にできないままむざむざ殺されては何も報われません!」
アーダンは目を見開き、一層、魔力集中を研ぎ澄ませる。
「あなたはこれで必ず仕留めます!」
蜘蛛面の呻きが叫びに変わる。全身の筋肉が張り詰め、震える。全身全霊をかけての魔術抵抗。
しかし、やがては幻肢が消えていき、両腕がだらりと垂れて、蜘蛛面の体が力なく崩れ落ちていく。魔術が抵抗に勝った。
だが、シオも無事ではなかった。
「シオッ!」
ファイレナの印から魔法球が溢れ出し、頭上に浮かび上がった。
「あと、少しだったのに!」
「大丈夫。シオさんはまだ助かります」
アーダンがすでにシオの傍にいる。
蜘蛛面を打ち倒したとはいえ、魔法剣は確実にシオの体を貫いていた。胸には赤い染みが広がり、苦しそうに息をするシオの口から血が溢れている。
「生きてさえいれば、私の治癒魔法が間に合います!」
アーダンはファイレナに視線をやった。
「だったら、こいつはあいつにぶつけるしかないな」
シオが命がけで作った時間で練り上げたせっかくの魔術だ。ファイレナの杖が〈見えざる手〉に向いた。
「蜂の巣にしてやる! 《魔法矢の十字砲火》っ!」
ファイレナの頭上に浮かんだ大量の魔法球が、鋭い線形へ変化する。そして同時に〈見えざる手〉へ向かった。《魔法の矢》の一斉掃射だ。
生身の人間相手では確実にやりすぎとなる大技だが、物理攻撃を一切受け付けない純粋な魔力の生命体相手ならちょうどいい。
が、もやのような〈見えざる手〉が一瞬にして影も形も消えた。魔法の矢が破壊したのは魔法生物ではなく、天井だった。
「消えた……っ」
ファイレナが愕然とする。
「い、一体どこに?」
アーダンも警戒心を強めて辺りを見回す。
はっとした顔でファイレナがその理由にすぐに思い立った。
「そうか……あいつが本来いるべき場所は、私たちがいる物理層じゃない。精神層だ……」
「つまり、一瞬にして精神層へ逃げ込んだということですか……」
やがて、虚空に魔力が寄り集まり、再びもやの形をとって〈見えざる手〉が現れた。
「素晴らしい魔法だったよ、サリフィンの弟子。いや、もう二代目を名乗ったのだからサリフィンと呼んでもいいかな。ただ、人類種は私には勝てない。物理力は受け付けないし、魔法は私を凌駕することはできないんだからね」
勝ち誇ることもない。ただ、淡々と紡がれる言葉。ファイレナが奥歯を噛みしめる。悔しいが〈見えざる手〉の言っていることは正しかった。
大量の《魔法の矢》を同時に放つ。これは大技だった。
いかに強力な魔法を撃ったとしても、この世界から簡単に消えられる相手に、何かできるだろう。いかに多くの魔法を持ち得たとしても、どれも通用するとは思えない。
魔術師ファイレナは敗北を悟った。
「だめだ……アーダン」
その目に今まであった燃えるような覇気が消えた。
「……らしくありませんね。あなたがそんなに弱気になるなんて」
「勘違いするなよ……ただ、こいつは倒せないと悟っただけだ」
「どう違うんです?」
「私たちの目的は、師匠を蘇らせることだ。こいつを倒すことじゃない。ここから脱出して、こいつの追跡を振り切ればいいんだ」
アーダンは少し考えたあとに、静かにうなずいた。だが、その表情は実際に納得しているものではない。
ぐったりとしていたシオが片手を挙げた。
「本当に、思ってます?」
「シオさん。あまり無理をしてはいけません。魔法で致命的な傷こそふさがりはしましたが」
喋っている途中のアーダンを、シオは片手で制した。そして、助言を無視するように、その腕の中から離れた。まだ負傷の影響でふらついているが、それでも自分の足で立っている。
「負けず嫌いのファイレナさんですよ。得意の魔法で、サリフィン様からじきじきに学んだ魔法で負けて、悔しくないわけないじゃないですか」
「うるさいな。わかった風なことばっかり言うな」
「わかりますよ! ファイレナさんはすぐ顔に出るんだから! 本当は尻尾撒いて逃げるなんてしたくないでしょ!」
「せっかく、蘇生の秘宝が手に入ったんだ! こんなところで死ぬわけにはいかないんだよ! 何がなんでも師匠のところに辿り着かなきゃいけないんだ!」
「ギルドマスターからは逃げられません!」
シオがふらつき、思わずファイレナの胸に倒れ込んだ。その襟首を掴んで、体を引き上げ、顔をファイレナに突き付ける。
「もう、絶対に逃げ切れません。結局、最良の方法はここで倒すことなんです」
ファイレナはかぶりを振った。
「違う。意地を張って戦っても負けるだけだ。ここから逃げる方がまだ可能性はある。クソドラゴンも撤退させる」
「ファイレナさんっ!」
ファイレナは逃げるように顔を背け、グリオハンへ視線をやった。
グリオハンはまだやられていない。だが、自慢の戦斧も、迫りくる戦槌の攻撃に耐えるための盾になるばかりだった。だが、それでも、攻撃の機会を虎視眈々と狙っている。戦うことを諦めていない。
ファイレナは奥歯が砕けるほど歯噛みした。
「あの馬鹿。またプライドだのなんだのって意地張って、まだ最後は自分が勝つと根拠もなく思ってる。……本当に面倒なやつだ!」
強く握った杖で、床を強く一度突く。
「あーっ! くそっ! 倒せばいいんだろっ! わかったよ! あのクソ魔法生物野郎をぶっ倒してやる!」
「ファイレナさん!」
シオの目が輝いた。




