ep.51 戦術的撤退
三人がハッとして振り返る。と、岩場の上にいくつもの松明の炎が伸び上がっていて、屈強なオークたちの姿を、日の落ちた森の闇に浮かび上がらせている。
その先頭に巨躯の大きな輪郭が浮かんでいる。
「マルグルンだ。追いつかれた!」
「斧から昇る炎が暗闇に目立ってしまったようですね」
「ってぇっ!」
野太い声でマルグルンが号令を放つ。一斉に放たれた矢が雨のように、蜘蛛面を含めた一同へと降り注いだ。
「グリオさん! シオさんを頼みます!」
アーダンは半端な治癒魔法しか受けていないファイレナに肩を貸した。ふたりが木陰へ身を隠す。
グリオハンは戦斧を一振りして炎を消すと、シオを担いで同じように矢から逃げた。
アーダンは蜘蛛面を探した。その姿が離れたところの茂みの影へ退避しているのが見えた。奇しくもオークの一斉掃射のおかげで脅威から逃れられた。
「ファイレナさん、グリオさん。そのまま逃げてください」
アーダンは死霊術の準備に入った。
「どうするつもりだ?」
グリオハンが問う。
「ちょうど、刺客たちの素材があります。あれを利用して、あの蜘蛛面と一緒に囮に使います。私たちはそれに乗じて逃げるのです。うまくいけば、どちらも撒けます」
グリオハンの表情は固い。
ファイレナは拳をグリオハンの腕に打ち付けた。
「敗走と取るな。ただの仕切り直した。戦いはどちらかが完全に敗北するまで決着するもんじゃない」
ファイレナは率先して茂みの中を進み始めた。
「さすがは賢者様の愛弟子です。いいことを言いますね。さ、グリオさん。行ってください」
アーダンの死霊術によって、絶命した刺客たちがむくりと起き上がった。
それを見てグリオハンもようやくファイレナの後を追った。
蘇った刺客ふたりは、暗殺部隊と思えないあからさまな動きで、蜘蛛面の姿を追っていく。気付いたオークのクランが矢の先を一斉にそちらへ向けた。
「いたぞ! 一匹残らず蜂の巣にしろっ!」
マルグルンのいきり立った号令でふたたび矢の掃射が始まる。
「オークたちは比較的単純な思考回路で助かりましたね」
アーダンは殿を努めて、先に向かった仲間たちの背中を追った。
◇◆◇◆◇◆◇
追撃に戦々恐々としながら、三人は夢中で森の中を急いだ。どれくらいの時間をそうしたのかわからない。
溜まった疲労でファイレナの足がもつれ、斜面を泥だらけになりながら転がり落ちた。アーダンとシオを抱えたグリオハンが、追いかけてファイレナを引っ張り起こす。そこでようやく三人は、いつぶりか立ち止まった。
「だいぶ逃げたと思いますよ」
後ろを振り返ったアーダンが、皆が聞きたい言葉を口にした。
「オークの松明も見えないし、声も聞こえない。クランは振り切ったかな」
ファイレナは額や頬についた泥を拭いながら息を吐いた。
「うっ」
突然、呻き声を上げたのは未だにボーラでぐるぐる巻きのままのシオである。魔法で昏睡状態が続いていたが、ここでようやく意識を取り戻した。
「うう、なんだか頭が痛いし、吐き気がしますね」
グリオハンは雑に地面に転がした。
「ぐへっ! ちょっと! 何するんですか! あれ⁉ 動けない!」
シオが身動きの取れない状態でのたうつ。
「存外、元気そうじゃないか。ここからは自力で歩いてもらうか」
ファイレナが顎をしゃくると、意図を察したアーダンがすぐにシオの体にからまったボーラの糸をほどいた。
その間に、長らく意識を失っていたシオのため、オークのクランを脱出してから今までのことを、ファイレナが話して聞かせる。
「皆さんがおっしゃる蜘蛛面は〈葬送〉のリーダーですね。私のような末端の構成員は暗殺部隊とは面識がありませんが、異様な仮面のリーダーの噂は耳にしたことがあります」
「他の刺客たちとはまるで違った。あんなのに追いかけ回されると思うとぞっとしないな」
ファイレナが身震いする。
「まぁでも、彼からも逃れられました。シオさんも無事にそのスカーフを取り戻しましたし、もう追ってはこられないでしょう」
このアーダンの言葉にひとり渋面を作っている者がいた。グリオハンである。
「どうしました? グリオさん」
体についたボーラの痕を摩りながら、シオが尋ねた。
「あやつとの勝負は中途半端に終わっている」
グリオハンの言葉には、決着をつけないまま逃げたことへの口惜しさが滲んでいる。
ファイレナはその横顔を見つめた。
これまで生物の頂点として君臨し、挑んできた腕自慢をことごとく蹴散らしてきた。数々の偉業を成した賢者サリフィンにさえも、魔法こそかけられたものの勝利している。
そこから来る過剰なプライド。しかし、それは生粋の戦士が持ち得る意識でもある。このまま人間として生きれば、真の戦士に成長するだろうに。
「勝負がお預けになっているのは向こうも同じだ。そして、シオを取り返そうと思っているなら、必ずどこかでまた戦うことになるさ」
二度と会いたくないというのがファイレナの本心だ。だが、グリオハンを慮る言葉だった。
アーダンは静かに肩をすくめた。
「それはともかく、負傷の具合は大丈夫なんですか?」
グリオハンはクラン脱出から続いた戦闘の傷を負ったままだ。ファイレナとは違い、アーダンの治癒魔法でも治癒していない。
「これしき、問題ない」
グリオハンが鼻を鳴らす。
「そうは言っても、傷は傷です。応急処置だけはしておきましょう。その後、まだ元気があるならもう少し進みませんか? できる限りクランからは離れておくべきと思います。どうです?」
アーダンが一同を見回す。不死のアーダン、体力自慢のグリオハン、ずっと運ばれていたシオ。もっとも疲労が激しいのはファイレナだろう。
だが、そのファイレナもアーダンに同意した。
「では、もうしばらく頑張りましょう。そして、休息です」




