ep.3 賢者死す
サリフィンはかろうじて動く右手を振り、自身を戒めるグリオハンの足に触れた。分厚い鱗を通して伝わる、燃え滾るような熱さは、極限まで練り上げられた魔力の感触だ。
「《変身》」
突如、グリオハンの肉体を魔力が稲妻のように駆け巡った。
「ウオオオオオオッ!」
巨竜が思わず咆哮を上げる。尻尾の先に至るまで貫いた魔力が、今度は戒めの鎖となって全身を縛り上げる。抗いがたい強大な力が、巨体を縛って押し潰す。これまで受けたことのない苦痛、そして恥辱である。
時間にしてほんの数秒。だが、永遠にも思える苦悶の時間だった。怒りの咆哮を発し続けるグリオハンが、苦痛を耐え切り、ようやく息をついた。
これまで敵なしだった暴君が初めて意識する死だった。だが、どうやら生きている。
しかし、冷静を取り戻したグリオハンが初めて目にしたのは、鱗も鉤爪もない、人間のものとしか思えない自身の両手だった。
「これは?」
何が起きているのか理解が追いつかない。動揺するグリオハンに、半分地面に埋まったサリフィンが苦しそうな掠れた声を送る。
「……変身の魔術だ……君を人間にした」
グリオハンがサリフィンを見下ろす。
「……君は巨大だ。そんな存在を、個人の力だけで討つのは不可能だ。……だから、人間に変えた。それでも……私が命を賭ける必要があったけれど」
グリオハンが再び自身の両手を見る。
「我は人間になったのか?」
「……そう、だよ。巨体もない。翼もない。角も牙も鉤爪も、固い鱗もない。……君が脆弱と嘲る人間に、君は、なったんだ……」
サリフィンの口からは苦しそうな喘鳴が繰り返される。だが、その表情はどこか満足気でもある。
「……君は、生きている。……けれども……暴竜グリオハンは……もう、いない……」
グリオハンは人間のものとなった顔に、憤怒の表情を浮かべ、サリフィンの首根っこを掴んだ。
「戻せ! いや、死ねば勝手に戻るか?」
「いーや……戻らないよ。私、じゃなければ……術は、解けない……けれど、残念ながら、私は、もう……死ぬ」
君に殺されたからな。とサリフィンは笑う。
グリオハンが、奥歯が砕けるほど歯噛みする。アンバーグロウピークの風が唸りを上げた。
その風を、突如として悲鳴のような叫び声が切り裂いた。
「師匠っ!」
声の主は灰色のフードを被った旅人だった。対峙する二者を見るや、猛然と駆け寄り、サリフィンに手をかけるグリオハンを、勢いを乗せた蹴りで弾き飛ばした。
「師匠っ!」
灰色フードを引き上げると、それはサリフィンと同じく尖った耳を持つ少女だった。サリフィンに比べて耳が短いのは、混じり子である証だ。
ぐったりとしたサリフィンが混じり子を見る。その目は慈愛に満ちている。
「ああ……ファイレナ。やっぱり追ってきたんだね」
「当たり前だろ! 師匠! なんで私を置いて行くんだ!」
ファイレナは血に濡れたサリフィンの口元を拭う。
「ふたりで力を合わせれば、あんなやつ倒せたかもしれないのに! 師匠だってこんなにならずに済んだかもしれないのに!」
サリフィンはゆるく首を左右に振った。もう、首を動かすのも辛い。
「君を危険に晒したくなかった……。君が死ぬのはまだ早い……」
「あんたはどこまで自分勝手なんだよ! 勝手に弟子にして、勝手に魔法を教えて! 掃除も片付けも洗濯も食事の用意も全部私に押し付けて! 買い物だっていつも私だ! そのくせ上手じゃないだの、効率が悪いだの、やり方にいちいちケチつけて! 風呂を沸かしたら、熱いだの、冷たいだの、ちょうどいいだの、文句ばっかり! そんでもって、夜に眠れなきゃ温かい茶を入れろと催促して! 早く目が覚めれば私を叩き起こしてどうでもいい夢の話に延々付き合わせて! 暇なときは面白い話をしろだの、話が面白くないだの、面白すぎて死ぬだの文句ばっか垂れて! 天気が変わればすぐに予定も変えるし! なんなら気分次第で予定を変えるし! それで最後は勝手に出てって勝手に死ぬのかよ!」
「……今までありがとう、ファイレナ。楽しかったよ。今日から君が二代目サリフィンだ」
「最期の言葉も勝手かよっ!」
ファイレナはサリフィンをゆすった。頬も叩いた。
「おいっ! おいいっ!」
だが、もうその目は閉じられていた。最期はたったひとりの弟子に抱かれて、その顔は満足そうだった。
「あんた、最低だったよ!」
ファイレナの両目から突然、涙が溢れた。滝のように涙が頬を流れる。ファイレナはその濡れた頬をサリフィンの頬に押し付け、強く抱きしめた。
「おい」
ファイレナを呼んだのはグリオハンだ。
ファイレナはグリオハンが何か言うより先に、詠唱を開始した。サリフィンの亡骸を放り出し、その手に光る球体を生み出す。紫電を放つ雷の球だ。
「暴竜討伐。このファイレナが引き継ぎます!」




