ep.2 ジェイドウッドの森の賢者サリフィン
サリフィンの体に魔力の奔流がみなぎる。
魔術杖と印。
しかし、そこから練り上げられた魔力が術として具現する前に、グリオハンは巨大なアギトを開いて炎を放った。耳を聾さん大音声とともに、燃え盛る地獄の業火がサリフィンの体を包んだ。
触れる必要もない。炎を吐けるドラゴンにとって、脆弱な人類種など、吐息ひとつで充分なのである。
細いエルフの女が消し炭になる。その様子を暴竜が残酷に思い描く。
だが、サリフィンは変わらずそこに立っていた。
彼女の前で、魔術杖がグルグルと回って渦を作っている。
サリフィンの首にかかった魔術結晶の首飾り。その石のひとつが砕けた。そこに込められた魔術を使ったのだ。
魔術杖の回転で炎を凌ぐ風を生み出す魔法だった。
グリオハンの瞳孔が細まるのを見て、サリフィンは涼しげに顎を上げて挑発的な目をグリオハンに叩きつける。
「ははは。どうだ、グリオハン。少しは私の言うことにも真実味が感じられただろう?」
「吐息ひとつ凌いだだけにすぎぬわ」
グリオハンが前足を振り上げ、サリフィンを押しつぶさんと地面に叩きつけた。悪魔の鎌を思わせる曲がった鉤爪が、大地を穿つ。
さらに、手応えを気にする前に、大地を引っ掻く。万が一、踏み潰しを避けられていても、そのまますり潰すつもりなのだ。
振り抜いた前足の軌道を、砂塵と石礫が舞う。グリオハンが瞳を辺りに巡らせた。
サリフィンの姿はない。すり潰されて土と混じったか。
結局はあっけないものだ。グリオハンがそう感じた矢先だ。
ふっと、その視界に浮遊の魔術を行使したサリフィンが現れた。またひとつ、首飾りの石が砕ける。
「ちっちっち。そんな大味の攻撃を食う私ではないよ」
サリフィンはその手に魔力を込めた結晶の塊を握っていた。そこに自身の魔力を注ぎ込む。内部で激しい魔力反応が起こり、結晶が細かい飛礫となってグリオハンの眼前で炸裂した。
固い鱗に覆われたドラゴンも、その瞳は脆い。思わず両目を閉じて仰け反った。
サリフィンは好機を逃すまいとすかさず魔術杖を構え、印を重ねて古代語の詠唱を開始する。
「小癪な!」
グリオハンが両翼を振った。まるで蚊を両手で叩くように。捕えられればサリフィンなどひとたまりもない。
浮遊の魔術を解き、地面に降りて、地面を舐めるように身を低く構える。その間も詠唱は途切れさせない。術を構築するための精神集中は極限まで高められている。サリフィンの目は充血し、そのこめかみに畝のような血管が浮き出る。
サリフィンがこれまで一度も得意の魔術を放っていないのには理由があった。この巨竜を仕留めるには、時間をかけて魔力を練り、そのすべてを注ぎ込んだたったひとつの魔術を叩き込むしかない。
二度目はない。
他の魔術は事前に首飾りにして用意した。すべての力をただ一度の魔術に使うために。
そして、その魔力が爆発寸前にまで練り上げられた。
翼の攻撃はやり過ごした。今こそ、渾身の魔術を叩き込む。サリフィンが地面を蹴った。
片目を開いたグリオハンがサリフィンを見下ろす。その目に地虫のように映るサリフィンに再び前足を叩きつけた。
サリフィンが飛び退く。魔術師とはいえ、森の狩人でもあるエルフ族のサリフィンは存外素早い。身のこなしも華麗だ。
グリオハンは叩きつけた前足で地面を握り込み、固い大地を砕いた後、サリフィンへ叩きつけた。奇しくも自らが食らった結晶欠片の意趣返しだ。
首飾りにした魔法結晶が弾ける。結晶に封じたのは浮遊の魔術。それで再び石礫の回避を試みる。
しかし、その点でも線でもない面の攻撃に、安全な場所はなかった。無数の石礫のひとつがサリフィンのこめかみを穿ち、一瞬、意識が揺れた。
重力に引かれたサリフィンがかろうじて着地した。そこに巨大な影が覆い被さる。もう何も間に合わなかった。
ズシリと重たい感覚がサリフィンの体を押しつぶす。グリオハンのもう一方の前足だ。地面に突き立った鉤爪の間からようやくサリフィンの顔が覗く。しかし、体は足の下でまるで身動きが取れない。メリメリと全身の骨が悲鳴を上げて砕けていく。
「あああああっ!」
これまで余裕すら見せていたサリフィンが、ついに耐え難い苦悶に絶叫した。
「逃げ回るのは得意だったようだな。難儀したわ」
食いしばったサリフィンの口端から血が溢れ、頬を伝って落ちていく。
「やっぱり……巨竜を仕留めて、自分も無事に帰ろうなんて……甘かったかな……」
「ふん。今更後悔しても遅いわ」
しかし、サリフィンは絶体絶命の窮地にも関わらず、不釣り合いにニヤと笑う。
「だが、最低限の目的は果たせそうだ」




