第11話 静かな夜の異変
夜が深まり、森の奥から遠くで野生動物の鳴き声が響いてくる。
それでもテントの中は静かで、外の気配は薄れていた。
薄い隔たりが一枚あるだけなのに、それだけで世界の輪郭が変わってしまったようだった。
夕食をたっぷり堪能したあと、三人は言葉少なに過ごし、疲れた身体を休めていた。
旅へ出てからずっと動き続けていたせいで、黙っていても、それぞれの疲れが同じ場所に沈んでいく感じがあった。
しばらくして、アシナがふと口を開いた。
「ねぇ……」
「今日のあれ、なんだったのかしら……」
食事のあいだは、昼間の出来事を少しだけ忘れていられた。
けれど、こうして静かになると、その時の恐怖がゆっくりと戻ってくる。
野生動物は明らかに正気を失っていた。
そんなことが、本当に起こるのだろうか。
「……うん、なんだったんだろうね……」
ジローが同意する。
「伝染病みたいなものではないと思う。途中で同じ種類の個体を見かけたけど、そっちは普通だったし……」
その言い方には、納得より確認の色が強かった。
考えれば考えるほど、かえって説明が遠のいていく。
(やっぱり、二人には話した方がいいよな……)
しかるべき時に話せばいい――
ラネッサの言葉が、ナユカの頭に浮かんだ。
直接襲われたわけではない。以前、西の森で見かけたルードラと、今日の野生動物の症状が同じだとも限らない。
それでも、似ていると感じている以上、黙ったままでいることの方が落ち着かない。
伝えるなら、今がそのタイミングだとナユカは思った。
「……あの」
ナユカが口を開く。
「ん? どうしたの、ナユカ?」
「実はさ、この前、見たんだよ。今日の野生動物と似たようなやつ……。あの時はルードラだったけど」
ナユカは静かに語り始めた。
アシナとジローは黙って、その話に耳を傾ける。
「CORBIC〈コービック〉の仕事で、ルーチェフォード西の森林に入った時に襲われたんだ。あの時はラネッサが助けてくれたんだけど……」
ナユカは思い出し、わずかに身を震わせた。
あの時の恐怖が、胸の奥から蘇る。
ただ怖かっただけではない。
何かおかしいものを相手にした感覚だけが、今も妙に生々しく残っていた。
「様子がおかしくて……それに」
ナユカは小さく息を吸った。
「銃で撃っても死ななかった。最後はラネッサが首を切り落としたんだ……」
アシナは息を呑む。
ジローは眉を寄せた。
「……分からないけど、似てる気がするんだ」
ナユカは、わずかに眉を寄せながらも、迷いのない目を二人に向けた。
「そうね……似てる気がするわ。ひょっとすると、他にも似たようなのがいるのかもしれないわね……」
アシナの声は小さかった。
「これからの道中、気をつけないと……」
三人はしばらく対策を話し合ったが、決定的な案は出なかった。
警戒するしかないと分かっていても、それだけでは心許ない。
テントの外では、森の夜がゆっくりと深まっていく。
三人はその静けさの中で、これからの旅路を思い、ほんの少しだけ不安を抱えていた。
⸻
深夜――
夜の森は、昼間とはまったく違う表情を見せていた。
虫の声はほとんどなく、風が木々を揺らす音だけが、テントポッドの外でゆっくりと流れている。
夕食のあと、様子のおかしい獣の話に結論が出ないまま、三人は眠りについた。
旅の行程で相当疲れていたのだろう。
他に話をすることもほとんどなく、静かに眠りへ落ちていった。
アシナは深く眠っている。
けれど――その呼吸は、昼間よりわずかに早い。
額には薄く汗が浮かび、寝返りを打つたびに、眉がほんの少しだけ寄った。
ピオラは静かに浮かび、アシナの顔を見つめていた。
レンズの奥で複数の光が脈打つように動き、内部処理音は、ほとんど感じ取れないほど小さい。
ピオラのレンズが、ほんの一瞬だけ淡く光った。
その直後、ナユカは胸の奥がざわつく感覚で目を開けた。
眠りの底から、意識だけが先に浮かび上がってきたような目覚めだった。
夢を見ていたわけではない。物音がしたわけでもない。
それでも、今この瞬間に目を開けなければならないような感覚だけが、妙にはっきり残っていた。
(……なんで起きたんだろ)
しばらく、薄暗い天井をぼんやり見つめる。
心臓の鼓動だけが、やけに近く聞こえた。
身体を起こすまでもなく、ナユカは周囲に目を向ける。
ジローは変わらず眠っている。
だが、アシナの寝息だけが少し荒いことに気づいた。
さらに目を凝らすと、アシナの体の周りに、空気の膜のようなものが浮かんでいた。
それはゆっくりと回転し、淡く赤い光を帯びているように見える。
そのすぐそばに、ピオラが浮かんでいた。
「……アシナ?」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
空気の膜がかすかに震え、アシナの指先が、ほんのわずか動いた。
(……なんだ……?)
ナユカは半身を起こし、もう一度アシナの様子を確かめた。
苦しそう、というほどではない。
けれど、深く眠っているにしてはどこか落ち着かない。
熱でもあるのかと、そっと額に触れる。
いつもより、温かい。
指先を離したあとも、その温度だけが手のひらに残った。
(どうしたんだろ……)
一瞬、起こしたほうがいいのかと思った。
ジローを起こそうかとも思った。
けれど、今見えているものをどう説明すればいいのか、ナユカ自身にも分からなかった。
それに――
アシナは苦しそうにしているわけではない。
今は、何かをしてしまうには早すぎる気がした。
呼び起こして、もし何もなかったら。
そう考えると、手を出すことがためらわれた。
ナユカは手を引き、呼吸の様子を確かめるだけにとどめた。
外では、風が同じ調子で木々を揺らしている。
星の位置も、森の匂いも、何ひとつ変わらない。
この中で起きていることだけが、最初から数に入っていないかのようだった。
「……ピオラ、これって……」
もちろん、答えは返ってこない。
ただ、レンズの光が、普段よりわずかに強く揺れていた。
ナユカはブランケットをアシナにかけ直し、その横に静かに座り込む。
(大丈夫……だよな)
胸の奥に引っかかるものを押し込めるように、そう思う。
だが、その確信を確かめる術は、今はない。
しばらくそのまま座っていたが、落ち着かない。
ただ見ているだけでは、かえって不安が大きくなる気がした。
ナユカはゆっくりと腰を上げ、テントポッドの外へ出た。
外気は思ったより冷たく、頬に触れた瞬間、肌がきゅっと引き締まる。
テントの内側にこもっていた体温が、一瞬で夜へさらわれた。
光を落とした森は深く、近くの木々でさえ輪郭が曖昧だった。
足元の草が、星明かりをかすかに弾いている。
ナユカは簡易コンロに火を入れ、湯を温める。
小さな炎は不安定に揺れながらも、そこだけを確かに照らした。
粗く砕いたコーヒー豆に、静かにそれを注ぐ。
立ち上る香りが、鼻をくすぐる。
その匂いを吸い込んだ瞬間、ようやく呼吸がひとつ深くなった。
手の中に温かいものがあるというだけで、少しだけ現実に戻れる気がする。
一口含むと、胸のざわつきがわずかにほどけた。
苦みが舌に残り、遅れて熱が喉を通っていく。
簡易コンロの火を落とすと、森は星明かりだけに沈む。
足元の輪郭すら、すぐに闇に溶けた。
遠くで、風が木々を揺らす。
その音だけが、かすかに届いてくる。
ナユカは近くの岩に腰を下ろし、コーヒーを啜りながら、幼い頃、何度も繰り返し見た映画を思い出していた。
――The Orion Expedition。
ARCA〈宙の書庫〉に導かれ、Frontier Galaxies〈辺境銀河〉で旧人類の遺跡を巡る冒険譚。
トレジャーラッシュのきっかけとなった実話をもとにした作品だ。
楽しい場面も、胸が高鳴る場面もたくさんあった。
けれど今、思い出すのは派手な冒険ではなく、焚き火のそばで静かに空を見上げるような場面ばかりだった。
(映画の中でも、こんなシーンがあったな。
キャプテン・オリオンも、不安に思うことがあったのかな……)
冒険者は、最初から何もかも分かっているわけじゃない。
分からないまま進んで、それでも決める。
あの映画の中で見ていたのは、たぶんそういうことだったのかもしれない。
胸のざわつきが、わずかに静まる。
夜の森は、再び音を落としていく。
薄暗いテントの中で――
ピオラの光だけが、かすかに揺れていた。




