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第10話 最初の夜営

 日が落ち始めると、森の影は長く伸び、湿った空気が足元にまとわりつくようになった。

 木々のあいだを抜ける風も昼間ほど軽くはなく、肌に触れるたびに冷たさより重さを感じる。

 三人は少し開けた場所を見つけ、そこで野営をすることに決めた。


「ここなら、野生動物も近寄らなさそうだね」


 ジローが周囲を見回しながら言う。

 地面には背の低い草がまばらに生えているだけで、大きな茂みもない。

 見通しが利くぶん、何かが近づいてきても気づきやすそうだった。


「風も弱いし、地面も平ら。悪くないわね」


 アシナがバッグを下ろし、肩を軽く回した。

 長く背負っていた荷物が離れたことで、ようやく呼吸が深くなる。


 そのとき、ピオラの下部がふわりと青白く光り、宙に浮いた。

 周囲をなぞるように地面の上を滑るように移動し、辺りを一通り確認すると、表面の光が二度だけ小さく点滅した。


「安全だって言ってるのかしら……」


 アシナが首を傾げる。


「少なくとも、ここが一番ましってことかもね」


 ナユカが言う。


 三人は不思議そうにその様子を見つめていたが、やがてそれに従うように荷物を置き始めた。

 ピオラが先にそこを確かめていたというだけで、少しだけ気が楽になるのが不思議だった。


 ⸻


「さて……泊まる場所を作らないとな」


 ナユカは掌に乗るほどの小さな球体――コンパクトテントポッドを取り出した。


「それ、便利よね」


 アシナが覗き込む。


「行くよ。――展開」


 スイッチを押すと、金属球は音もなく形を変え、

 薄い光をまとったドーム型のテントへと広がった。

 外から見れば簡素なのに、広がる動きには妙な滑らかさがある。


 中に入った瞬間、森の湿気が嘘のように消えた。

 空気はほどよく乾いていて、外との温度差がはっきりと分かった。


 足元には自然と柔らかさが生まれ、身体の力がふっと抜けていく。

 硬い地面の上にいるはずなのに、もうそれを意識しなくていいことがありがたかった。


「……これ、助かるわね」


 アシナが小さく息をついた。

 その声には、感心より先に安堵が混ざっていた。


「古いやつだけどね。まだまだ使える」


 テントポッドの中には広めの空間と、トイレ、シャワールームが備わっている。

 個室やソファ、テーブルのような家具まではない。

 それでも空調は整っていて、旅の途中だと考えれば十分すぎるほど快適だった。


「十分よ」


 アシナは天井を見上げる。

 外ではもう木々の影が濃くなっているのに、ここだけは別の空気に包まれていた。


「よし、じゃあ荷物を整理したら、外でご飯にしよう。いろいろ用意するよ。せっかくの冒険旅行だしね、楽しまなきゃ」


 ジローがバッグを下ろし、中からごそごそと何かを取り出している。


「やったわ、そう来なくっちゃ。お腹ぺこぺこよ」


 アシナは満面の笑みを浮かべる。


「食いしん坊だな……」


「何よ、ナユカだってお腹減ってるでしょ?」


「減ってないとは言ってないだろ」


 ナユカは眉を少しだけ下げ、口元を緩めた。


 ⸻


「最近は“フィールド・ステイ”っていって、ただ快適に泊まるだけじゃなくて、その土地の空気ごと楽しむのが流行ってるんだ」


「だから、僕たちも今夜は“フィールド・ステイ”と洒落込もうよ」


 ジローの言うフィールド・ステイは、本格的に自然の中へ踏み込むというより、その雰囲気ごと楽しもうというものだった。


 三人は腰を下ろすのにちょうどいい岩場を見つけ、それぞれ好きな場所に座った。

 高さに少しばらつきがあるのが、かえってそれらしくて、三人の気分を少し浮き立たせる。


「ここの真ん中に焚き火を置こう」


 焚き火といっても、薪を集めて火を焚くわけではない。

 ジローは平たい金属円盤を取り出し、地面に置いてスイッチを入れた。

 中央が赤く灯り、ほどなく小さな炎が立ち上がる。

 ファイアポッド。遠征用の簡易焚き火台だ。


「いいね」


 ナユカが声を上げる。


 ファイアポッドの炎は自然にゆらめき、ときおりパチパチと薪の弾けるような音を立てた。


「さぁ、それじゃ食事の用意をしよう」


 ジローは、牛肉を刺した長い串を取り出し、地面に突き立てた。


「待ってました!」


 アシナの声が弾ける。

 相当お腹が減っていたらしい。


「結構いい肉なんだよ。特売日にたくさん買っておいたんだ。それを最新式の圧縮パックで保存しててね。さっきサーモキューブで元の状態に戻したんだ」


 三人は、肉が焼き上がるのをじっと見ていた。

 やがて表面に焦げ目がつきはじめ、肉汁が滴り落ちる。

 肉の焼ける匂いが鼻をくすぐった。


「美味しそう……」


 アシナがごくりと喉を鳴らす。


「もう、いいんじゃないかな」


 ジローは串を手に取り、用意したタレをその上にかける。

 そして、一気にかぶりついた。


「うわっ、めちゃくちゃ美味しい!」


 ファイアポッドで焼き上げた串肉は、ジローの予想をかなり上回っていた。


「ほんと!? うわっ、ほんとだ、めちゃくちゃ美味しい!」


 アシナも口いっぱいに肉を含んで、驚きの声を上げる。


「ほんとだ。こんなうまい肉、食べたことないよ……」


 ナユカも目を丸くして、次々と口に運ぶ。


 その時、アシナが急に、どん、どん、と胸を叩いた。


「ジロー、飲み物は……ない、かしら……」


 急いで食べすぎたせいで、喉に詰まったらしい。


「待って、ちょうど全部飲んじゃったから」


 ジローは近くの岩肌に溜まった水を見つけ、水筒に汲んで戻ってきた。


「ちょっと濁ってるけど……」


 そう言って細長いフィルターを取り出し、水筒に取り付ける。


 しばらくすると、水の色がゆっくりと澄んでいった。

 濁りが沈むというより、余計なものだけを静かに剥がしていくような変わり方だった。


「飲んでみて」


 アシナは恐る恐る口をつけたが、大丈夫だと分かると、ごくごくと水を流し込み、喉につっかえていたものを飲み下した。


「……え、普通においしい」


「だろ」


 ジローは短く笑った。


「フィルターの根元を替えれば、味も変えられるよ。果物とか、甘いのとか」


「いいわね。じゃあ早速……」


 アシナは少し考えてから、水筒を軽く振った。


「甘いの。果物みたいなやつ」


「了解」


 ジローは腰のポーチから細いカートリッジを取り出し、フィルターの根元をひねって差し替えた。

 もう一度、水筒を軽く揺らす。


「はい」


 アシナは恐る恐る口をつける。

 一口飲んで、目を丸くした。


「……ほんとだ、ちょっと甘い」


「だろ」


 ジローは肩をすくめて笑った。


「こういうの、街で飲むと当たり前みたいだけど、外だと全然ありがたさが違うね」


 ナユカが言うと、ジローは少し得意げに頷いた。


「あまり食べすぎないでね。このあとデザートに例のラミ蜂の蜜を出すから」


「あ、忘れてた。ちょっと食べすぎたかな……。アシナは?」


 ナユカはアシナを振り返る。


「大丈夫。私は覚えていたもの」


 アシナは胸を張った。


「へぇ、そうなんだ……」


(分かってて、あの量を食べてたのか……)


 ナユカは口の端を静かに引きつらせた。


 ⸻


「よし、じゃあ、いよいよあれを出すよ」


「よっ、待ってました!」


 アシナが思わず声を上げる。


「じゃーん」


 ジローがサーモキューブで焼き上げたパンケーキを二人に見せる。

 ふっくらと膨らんだ表面から、甘く香ばしい匂いが立ちのぼっていた。


「ここにバターを乗せて……」


 パンケーキの上に乗せたバターが、じゅわりと溶けて染み込んでいく。


「そして、ラミ蜂の巣からいただいた蜂蜜をかける……」


 瓶から薄く金色に輝く蜂蜜が、とろりとしたたり落ちる。

 それはゆっくりと広がり、パンケーキの上を艶やかに覆っていった。


「……美味そう」


 ナユカは口の中に溜まった唾液を飲み込む。


 アシナの目には、パンケーキそのものが輝いているように見えた。


「できた! さぁ食べよう!」


 三人はそれぞれ皿を膝の上に乗せ、パンケーキを切り分けた。


「少し緊張するわね……」


 楽しみにしていたぶん、もし期待外れだったらどうしよう。

 そんなことを考えてしまったのか、アシナは恐る恐るそれを口に運んだ。


 すると――


「……美味しい」


 不安げだったアシナの顔が、一気にぱっと明るくなる。


 パンケーキは柔らかく、口に入れた瞬間にほどけた。

 そこへ溶けたバターのコクが広がる。


 しかし何より、ラミ蜂の蜂蜜が驚きだった。


 とろりとした見た目とは裏腹に、口当たりはさらりとしている。

 舌の上でふっと溶け、ほどよい甘さが広がった。

 かすかな酸味と、その奥から時折顔を覗かせる苦味が、甘さを絶妙に際立たせている。


「うん、美味しい。これは想像以上だね……」


 ジローもため息を漏らした。


「これは、ちょっとすごいな……。市場に出回らないわけだよ……」


 ナユカは、ラネッサたちにも食べさせたいなと思った。


「私、来て良かったわ……。これだけで十分満足……」


 アシナは目を閉じて、顔を空に向ける。

 ピオラの地図のことなど、一瞬忘れているかのようだった。


「ちょっとアシナ、旅の目的忘れないでよ」


 ジローがアシナの様子を見て苦笑する。


 ナユカもつられて少しだけ笑った。


 目的を忘れたわけではない。

 しかし三人は、今この時がずっと続けばいいのにと、一瞬だけそんなことを考えていた。

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