たからのちず
「ただいまー…」
誰に向けてでもなく、靴を脱ぎながらなんとなく声に出す。
すると、僕の声に気づいた母さんが台所の奥のほうからひょっこりと顔をのぞかせる。
「お帰り、京」
「あ ただいま母さん」
「ずいぶんと遅いのね、講習長かったの?」
『講習』、という母さんの言葉に思わず言葉が詰まりながらもなんとか切り返す。
「う、うん。まぁそれなりに…」
「そうなの。」
あまり気にとめることもなく相槌を打つ母さん。
もちろんさっきも言った通り、僕が行っているのはあくまでも補習だ。それも、赤点を見事に勝ち取った人への。夏休み直前の期末考査、その結果が赤点だったとはいえずに補習をこうして講習という名目で通していたりする。
「じゃ、じゃああの…、僕夏休みの宿題してくるから」
ある話を切り出される前にと焦る気持ちは、逃げるように2階へと続く階段をのぼる足を自然と急がせた。
「ふー…、危なかった。
もう少しで成績表の話切り出されるかと思ったな」
部屋に入るなり、閉めたばかりの扉に背を預けて安堵のため息をつく。
(まぁ成績悪い僕が悪いけど…)
背を預けたままの姿勢からそのまま腰を下ろして座り込んでみる。
開いた窓から吹き込む風がちょうどいいくらいに涼しくて、眠くなる。
しかし、そんな心地いい環境でも寝てはいられない。
頭の端では忘れようとも忘れられない現実が、夢から意識を引きずり起こす。
(そうだ、宿題やらなくちゃ…。)
疲れのせいか重く感じる体を起こして、宿題に手を付けるべく机へと向かう。
「えーっと…」
通学用のショルダーバックから夏休みの宿題を取り出して、一つずつ机の上に並べる。
理科のレポート、国語の読書感想文、社会の新聞づくり。
「あとは数学の1学期総復習プリント――…は、後回しでいいか。ん?」
並べた宿題を前に、少し違和感が覚える。
(あとひとつなにか足りないような……あ。)
「英語の英単語プリントか」
(よし、他は時間かかるだろうし、そっちからやろう。
どこに置いたかな…?)
早速取り組む宿題を決めて、ひとつだけ見つからないそのプリントを探すべくショルダーバックをひっくり返す。
が、落ちてきたのはペンケースと幾つかの学校からの便りだけで、目的の英単語プリントは見つからない。
「もしかして教科書の間か?」
誰もいないひとりの部屋でそんなことを呟いて、先週持ち帰った教科書類を置いた場所へと向かう。
(さてと…確か教科書は全部押入れの手前にー…)
夏休み中はできるなら教科書を視界に入れたくないものだ。
そんな考えから押入れの手前に置いたダンボールから詰め込んだ教科書類を引っ張り出した、その時だった。
少し強引に引っ張ったせいか、どうやらダンボールの端が外れかけていた押入れの戸にぶつかってその反動で倒れてきた押入れの戸と一緒に、不安定においていた上の段の荷物までもが落ちてくる。おかげさまで部屋は散乱状態。
「はぁ…」
また、ため息がこぼれる。
そして窓からは風がカーテンを揺らして吹き込み、手元にあったちょうど手のひらほどの小さな紙切れが風に舞って僕の足にぶつかる。見たところ色あせたその紙切れは、最近のものではなさそうだ。
(なんだこれ?落書き?)
なんとなく広げてみると不安定なひらがなで縦書きで大きく『たからのちず』、その横に同じく縦書きで『→もちずきこうえん』とだけ書かれていた。
ひどく大雑把な地図とやらに、バランスの取れていない、漢字もない不器用な文字。それがなんだか面白くて、幼少のころの自分が一生懸命書いたものだと知りながらも、つい口元がほころぶ。
(なんだこれ、場所の名前書いちゃってるし図じゃないじゃん。
しかも『もちずきこうえん』って…)
これはたぶん平仮名のミスだ。正しくは『もちづきこうえん』で、家の通りの角を少し曲がった先のあの『望月公園』のことだろう。
(昔の僕って数学だけじゃなくて国語もダメだったのか…?)
情けないような、あきれるような。
ただその『たからのちず』を広げてみては、笑みだけがこぼれた。
「京ー、ごはん食べなさいー」
そうこうしているうちにも時計はだいぶ進んでいたようで、見上げた柱時計は19時過ぎをさしていて、下の階から母さんの声がする。
「あ。はーい、今行くー」
そんな母さんに軽く返事をしながら、紙切れを適当な場所にしまうと夕飯の匂いの漂う食卓へと急いだ。
(はぁー…、懐かしいな。『たからのちず』かぁ…)
開きっぱなしの白紙のノートの上,肘をつき窓の外を眺めながらそんなことを思う。
ちなみに今日の補習科目は社会科。正直なところ、数学はひどかったが、社会科は期末考査のときだってそんなに悪くはなかった気がする。
「というわけで次の問いを…はぁい、そこのボーっとしてる小坂ー!」
「って…え?」
ぼんやりしていると、不意に僕を指名する声が聞こえてつい、気の抜けた声が出てしまう。
「ほら、前に出て答え埋めてみろー。用語だし、覚えてれば解けるよなぁ?」
「う…」
「だってさ、小坂。早く行きなよ」
いかにも、出来て当然だろう顔の先生のプレッシャーに便乗するように麻倉も後ろから、楽しそうに野次を飛ばしてくる。
(…ついてない)
「ふぅ…」
思わずため息をついて、先生の待つ黒板の前へと向かう。
得意ってほどではないけれど、苦手ってほどできないわけではない。
それに、運がいいことに解く問題じゃなくて、暗記問題だ。前言撤回。
(僕って意外と、ついてるな)
どうやら、補習生徒のクラスメイトの前で答えられないなんて悲惨な展開は回避できそうだ。
心なしか白チョークを掴む手も、軽い気がする。
(えーっと…、『九州地方の都道府県名をひとつ答えろ』?なんだ、この問題。こんなの小学校レベルの問題じゃないか。確か九州地方は…)
「………………。」
「おーい、小坂ー。手が止まってるぞー、早く答え書け―」
チョークを持ったまま書こうとしない僕に、先生がけだるそうに出席簿で風を仰ぎながら急かす。
(おおお落ち着けっ!落ち着くんだ小坂 京!大丈夫だ!これでも小学校まではそこそこの成績だったじゃないか。都道府県名ぐらい……)
「先生」
「ん、なんだ?小坂」
「この問い、中学生には少し難易度高くないですか?」
…完全に、明かしてはいけない本音を暴露してしまった気がした。
「小坂、お前…。
バカなのは知ってるつもりだったが、まさかここまでなんてな…」
意図的なのか、先生の心配しているようで何処か哀れみに満ちているような目線がすごく耐えがたい。
「まぁ、いいか。ここは基本だから答え合わせはなしでいくからなー。分からないやつは…友達にでも聞いとけー。なぁ小坂?」
なんとも言い返せずなにやら可哀想なものを見るような視線を向ける。
なんだろう、この何とも言えないみじめな感じは。
「小坂小坂っ」
席に着くなり麻倉が肩を叩いてきて、後ろを振り向く。
「さっきの答え、見せてあげるね」
そういってさきほどの問題の空欄を埋めてあるノートを差し出す麻倉の目はこれまでに見たことがないほど
「はいっ、どーぞ!」
「…どうも」
「いえいえっ」
……楽しそうに笑っていた。
そして――…
「ん、じゃあこれな小阪。ああ、あとお前で最後だから教室ちゃんと戸締りしてから帰れよー」
「えぇ?最後の最後まで残されてそれはないですよ!」
「最後のまで特別に残されるような頭の悪いお前が悪いんだろ?とにかくその課題、夏休み中には終わらせろよ」
それだけを言い残して、先生が先に教室を出ていく。
いや、それだけというよりその言葉と平均的な教科書の3冊分ほどの厚みのある一冊の問題集という課題を残して、だが。
「夏休み中には終わらせろってこれ…、無理でしょ」
問題集をパラパラ流しめくりながらつい、本音がこぼれる。
誰もいない夏の教室は、僕一人分のため息が、やけに大きく響いて聞こえた。
最後まで残され結局、携帯電話の携帯時刻は3時過ぎ。そのためか、この夏、今の時間ですらまだ気温が高く、照り付ける日差しも真昼間並みの暑さだ。
(あ、暑い…)
こんなに暑いのなら夕方まで学校にいて、もう少し涼しくなってから教室を出るべきだっただろうか。時折額から流れてくる汗が、目に染みる。制服のそでをまくしあげた腕で、擦ってもみるが同じように汗に濡れた肌では全く意味がないらしく、全然目の痛みが引かない。
(ポケットティッシュでもあったかな…)
そう思い立ち、手探りでショルダーバッグを探りまわす。すると、なにかに手が触れ、くしゃりという何かの包みのような軽い音がした。
「お。あったあった…ん?」
手探りで取り出した一枚のティッシュと同時に、バッグから何かが足元に落ちる。
(なんだこれ、メモ…?)
四角に折りたたまれたそのメモらしき紙を広げてみると、見覚えのある『たからのちず』と書かれたものだった。
どうやら昨日慌ててしまったのは、このバッグの中だったらしい。
改めて見ても、やっぱり『もちずきこうえん』の間違いは面白くて少し口元が緩んだ。歪んだ文字。平仮名だけの文。
いかにも子どもらしい、『たからのちず』という、空想。
(懐かし…。覚えてないけど)
過ぎたことに浸っていてもしょうがないからと、思い出なんか振り返ってこなかったせいか、懐かしさだけは感じておきながらもどうも記憶の方は思いだせなかった。
「あ 望月公園…。」
感傷に浸りながらふと『たからのちず』から顔をあげ気づけば、真っ直ぐ行くはずだった家路を左に曲がっていたらしく、右手には人気のない望月公園があった。
(なんでこっちの道来ちゃったんだろ…、帰ろ)
引き返そうとしたそのとき。
突然、ポケットの中で鳴り響く携帯のブザー音が、思考を切る。
どうやらメールの着信のよう。ポケットから携帯を取り出し右手だけで、すっかり慣れた携帯の操作をこなし、メールボックスを開く。相手は母さんだ。母さんからのメールは大体夕飯がどうのだとか、帰りは何時になるのだの、くだらなかったり、どうでもいいことばかりだがとりあえず件名だけでも見ておこう。
見た瞬間、すっと首筋が冷たくなるのを確かに感じた。
『sub:父さん事故』
動悸が早まる。目の前の景色さえ、暑さのせいか揺らいで映る。
タイトル表示された短文に混乱する頭。
突きつけられた言葉に理解が追い付かないものの無理やり行動を促し、震える指で恐る恐るメール本文を開く。




