騒がしい朝、静かな星
アストルム魔術研究所の朝は、だいたいうるさい。
研究施設として、それはどうなのだろう。経理管理人のカードルは常々そう思っていたが、今朝はいつにも増してひどかった。
「──だから!!どうして朝から壁に穴が空いてるんですか!!」
午前七時十二分。朝の冷たい空気が残る本館東棟の三階に、カードルの怒声が響き渡った。
夜勤を終えた職員と出勤してきた研究員が行き交い、開け放たれた研究室からは紙をめくる音や器具を片付ける音が聞こえてくる。少し離れた棟では術式機関が動き始め、床を伝って低い振動が届いていた。いつもと変わらない一日の始まりである。
カードルの目の前にあるものを除けば。
昨日まで確かに壁だった場所に、人ひとりが余裕で通れるほどの大穴が空いていた。崩れた石材と白い粉塵が床に散らばり、穴から差し込む朝日が廊下を明るく照らしている。その向こうには遠くの山並みまで見えた。
景色だけなら悪くない。
「いやぁ、換気が良くなったな」
その景色を作った張本人であるアンブルは、穴の前に立ったまま悪びれる様子もなく頬を掻いた。朱殷色の髪と左右で色の違う瞳を持つ青年だが、細身の身体つきも相まって実年齢よりずっと若く見える。研究所の職員ではあるものの、普通の研究者とは少し事情が違う。
「修理費を払ってから言ってください」
「俺、給料貰ってねぇけど」
「なら働いてください」
「事故だって」
「先月も壁を壊したでしょう」
「場所は違う」
「そういう問題じゃない!!」
カードルの怒声に驚き、穴の向こうを飛んでいた鳥が逃げていった。
対するカードルは、きっちりと整えた身なりに眼鏡をかけた二十七歳の青年である。研究予算から職員の給与、設備費に至るまで、研究所の金にまつわる仕事の多くを管理している。無茶な申請書が山積みになろうと数字の帳尻を合わせてみせる彼にとって、理由もなく増えていく修繕費は天敵だった。
そして、その原因の大半は数字ではどうにもならない。
「何してるんですか?」
背後から明るい声が聞こえ、カードルの肩がわずかに強張った。
振り返ると、銀灰色の髪を揺らしながら小柄な少年が駆けてくるところだった。人間の子供にしか見えないが、その背中には服の下からでも分かる金属製の機構が収められている。
シエル。人の手で作られた、空を飛ぶための魔術式自動人形である。
「アンブルさん、カードルさん、おはようございます!」
「おはようございます、シエル。飛ばないでください」
「まだ何もしてませんよ!?」
「昨日壊した格納庫の屋根について、まだ始末書を受け取っていません」
「……今日もいい天気ですね」
「逃げるな」
シエルは露骨に視線を逸らしたかと思うと、突然走り出した。
ところが向かった先は階段ではない。アンブルが空けたばかりの穴だった。
「ショートカットです!」
背中の飛行機構が展開し、折り畳まれていた金属翼が左右へ開く。表面に刻まれた風属性の術式が淡く輝いた。
「馬鹿!!」
カードルが叫ぶのと、シエルが飛び出すのはほとんど同時だった。
激しい風が廊下を吹き抜け、カードルの抱えていた書類が一斉に舞い上がる。だがシエルはそれに構うことなく穴へ飛び込み──広げた金属翼を、その縁へ思いきり引っ掛けた。
ガッ、と嫌な音がした。
「あ」
次の瞬間、石材へ亀裂が走った。壁が崩れ、白い粉塵が辺りを覆う。
やがて視界が晴れると、大穴は先ほどの倍ほどに広がっていた。
三人の間に沈黙が落ちる。
アンブルが穴の向こうを眺めた。
「見晴らし良くなったな」
カードルは何も言わず眼鏡を外し、レンズについた粉塵を拭った。
「シエル」
「……はい」
「今月の飛行訓練予算、半分にします」
「そんなぁぁぁぁ!!」
シエルの悲鳴が、爽やかな朝空へ吸い込まれていった。
◈
同じ頃、研究所地下の職員食堂には朝食の香りが満ちていた。
地上の研究棟より少し暖かい地下区画では調理用の地熱炉が低く唸り、厚い石壁に囲まれた食堂には長い木製の机がいくつも並んでいる。夜勤を終えた職員も、これから仕事へ向かう研究員も、ここでは同じように湯気の立つ皿を囲んでいた。
その一角にある厨房では、料理長のルゼルが中華鍋を振っている。可愛らしい顔立ちに似合わず手際は豪快で、鍋の中で米と卵が踊るたび、香ばしい匂いが食堂へ広がった。
そして配膳台の前では、一人の青年が恐ろしく行儀よく待っていた。
「マイル。待て」
「はい」
長い藍色の髪を背に流した青年──マイルは、背筋を伸ばして目までしっかり閉じている。穏やかな微笑を絶やさず、普段は何を考えているのか掴みにくい男だが、ルゼルの料理を前にすると少しだけ分かりやすくなる。
鍋から香ばしい匂いが漂った途端、その鼻がわずかに動いた。
「匂いで追うな」
「…………」
「マイル」
「……はい」
顔だけが厨房を向いている。
ルゼルは呆れながら、完成した蟹玉あんかけ炒飯をマイルの前へ置いた。すると閉じられていた目がぱちりと開き、普段はほとんど見せない金色の瞳が現れる。
「いただきます」
一口食べるなり、マイルの表情がわずかに緩んだ。
「美味しいです。ルゼル、結婚しましょう」
「断る」
「残念です」
近くの職員が小さく笑った。誰も驚いていない辺り、いつものことなのだろう。
そこへ食堂の扉が勢いよく開いた。
「おはよーございまーす!」
飛び込んできたのはシエルだった。銀灰色の髪には白い粉塵が残り、背中の飛行機構には細かな石片まで付着している。その後ろからアンブルも何食わぬ顔で入ってきた。
「ルゼルさん、朝ご飯ください!」
「手ぇ洗ってこい」
「はーい!」
「俺も」
「アンブルはビビンバな。辛めでいいか?」
「頼む」
二人が席につき、ようやく食堂が少し静かになった頃、扉が再び開いた。
入ってきたカードルを見て、ルゼルが眉を上げる。髪にも服にも白い粉塵が残り、両腕には拾い集めた書類を抱えていた。まだ朝だというのに、顔には一日働き終えたような疲労が浮かんでいる。
「ルゼルさん。胃に優しいものをください」
「何があった」
カードルは無言でアンブルとシエルを見た。
二人が揃って目を逸らす。
「ああ。粥作ってやるよ」
「ありがとうございます……」
事情を説明する必要すらなかった。
しばらくして温かな卵粥を受け取ったカードルがようやく人心地ついていると、アンブルが不思議そうに首を傾げた。
「何でそんな疲れてんだ?」
「あなたのせいです」
「壁くらいで大袈裟な」
「壁くらい!?」
再びカードルの声が食堂へ響いた。
そのとき、入口から穏やかな声が飛んできた。
「……朝から元気だね」
入ってきたのは、長身の男だった。
深緑色の髪に赤い瞳。白い外套を羽織ったヴォルカンは、研究所の魔術師団を率いる団長であり、魔術研究室の室長でもある。肩書きだけを聞けば近寄りがたい人物に思えるが、本人の雰囲気はそれに反して柔らかい。
「おはよう」
「ヴォルカン」
アンブルが箸を持ったまま片手を上げる。その気安い態度からも、二人の付き合いの長さが窺えた。
カードルはすぐさまヴォルカンへ向き直った。
「魔術師団長。この二人をどうにかしてください」
「何かしたの?」
「アンブルが壁を壊して、シエルが穴を広げました」
「事故だ」
「事故です!」
ヴォルカンは二人を交互に見た。
「怪我は?」
「ねぇよ」
「ありません!」
「なら、ひとまずよかったよ」
カードルが机へ突っ伏した。
「そういうところですよ……」
ヴォルカンは苦笑しながら席についた。
「それでアンブル、どうして壁を?」
「でけぇ虫がいた」
「どのくらい?」
「これくらい」
アンブルが両手を一メートルほど広げる。
ヴォルカンは少し考えた。
「……それ、本当に虫?」
「飛んできたから殴った」
「壁ごと?」
「壁ごと」
「次からクレを呼ぼうか」
「何でだよ」
「研究所を壊されるよりいいから」
アンブルは納得していない顔でビビンバへ戻った。
その隣では、マイルが空になった三枚の皿を重ねている。
「ルゼル。おかわりを」
「もう四皿目だぞ」
「まだ食べられます」
アンブルが呆れたように鼻を鳴らした。
「クラーケンって燃費悪ぃんだな」
「地底暮らしに言われたくありません」
マイルは人の姿こそしているが、その正体は深海に棲んでいたクラーケンだ。そしてアンブルもまた、かつてヴェルシェの地底に棲み〈灼獣〉と呼ばれていた存在だった。
人ならざる二人が同じ食卓で朝食を取り合っている。
ヴォルカンはコーヒーを飲みながら、その光景を眺めて小さく笑った。
「何笑ってんだよ」
アンブルに見つかった。
「平和だなと思って」
「壁壊れてんぞ」
「それは君が壊したんだろう?」
「平和じゃねぇじゃん」
「僕にとっては平和だよ」
アンブルは一瞬だけ黙った。
何か言い返すかと思ったが、そのままビビンバへ視線を戻す。
食器が触れ合う音。厨房から聞こえるルゼルの声。シエルの笑い声と、カードルの深い溜息。
いつも通りの、騒がしい朝だった。
◈
午前九時。
クレは煙草を咥えたまま、東棟の壁に空いた大穴を見上げていた。
灰色がかった髪に鋭い三白眼。愛想のいい男ではないが、研究所の設備を一手に引き受ける整備室の室長であり、壊れたものを直す腕だけは誰も疑わない。
「クレさん。直せますか」
「昼までには」
「助かります」
隣に立つカードルが安堵する。
クレは亀裂の状態を確かめながら尋ねた。
「誰がやった」
「アンブルとシエルです」
「あいつらか。今月何回目だ?」
「十一回目です」
「まだ七日だぞ」
クレは深く息を吐き、工具箱を開いた。
「まあ、壊れたもんは仕方ねぇ。直せるなら直す」
「頼りにしています」
「なら修理予算増やせ」
「無理です」
「だろうな」
そこへ二人分の足音が近づいてきた。
現れたのは、よく似た顔をした医療班の双子──フロンテとレトルだった。満面の笑みを浮かべたフロンテに対し、隣のレトルはほとんど表情を変えない。見た目は似ていても、並べば見分けるのは難しくなかった。
「クレ〜」
「何だ」
「仕事です」
レトルが魔術式治療器具の整備依頼を差し出す。
クレは内容を確認し、工具箱の上へ置いた。
「午後行く」
「よろしくお願いしまーす!」
二人は満足そうに去っていく。
クレはその背中を見送り、眉を寄せた。
「……カードル」
「はい」
「俺の背中見ろ」
言われた通り確認したカードルが、わずかに黙った。
「『本日禁煙』と貼られています」
「…………」
遠くからフロンテの声が響いた。
「成功ー!!」
クレの額に青筋が浮かぶ。
「待てクソガキ共!!」
双子を追って走り去るクレを見送り、カードルは静かに眼鏡を押し上げた。
「廊下は走らないでください……」
もちろん、誰も聞いていなかった。
◈
昼前。
研究所中央部にそびえる時計塔は、朝から続く喧騒から切り離されたように静かだった。
ヴォルカンは長い螺旋階段を上り、最上階の扉を叩く。
「ノヴァ?」
返事がない。
もう一度呼んでも静かなままだったため、ヴォルカンは扉を開けた。
壁一面を埋める本棚。その中へ収まりきらず、机や床にまで積み上げられた記録帳と星図。高い窓から昼の光が差し込んでいるというのに、室内には無数の光が星のように浮かんでいた。
光属性の古代魔法。
ノヴァが星を詠むときに現れる光景だ。
その幻想的な星空の下、本の山から人の足が二本伸びていた。
「…………」
ヴォルカンは紙を踏まないように近づく。
床に広げられた星図の上で、ノヴァが倒れていた。長い銀灰色の髪が紙の上へ広がり、まるで力尽きたようにぴくりとも動かない。
研究所の最高責任者であり、時計塔に残された膨大な記録を管理する光属性の魔族。千年以上生きているという経歴だけを聞けば威厳のある人物を想像するかもしれないが、ヴォルカンにとっては見慣れた光景だった。
「ノヴァ。起きて」
「……生きてるよ」
「それはよかった。どうしたの?」
「お腹が空いた」
「朝ご飯は?」
「星を見ていたら忘れた」
「また?」
ヴォルカンは溜息を吐いた。
「何か持ってないかい?」
「飴なら」
「それでいいよ」
ポケットから飴を取り出すと、ノヴァは床に伏せたまま口を開けた。
「自分で取って」
「今の私は省エネルギー状態なんだ」
「はいはい」
仕方なく渡してやる。
飴をいくつか口にすると、ノヴァはようやく身体を起こした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ヴォルカンは隣へ腰を下ろし、頭上を漂う星々を見上げた。
「それで、昨夜から何を見てたの?」
ノヴァの表情がわずかに変わる。
「二つの星だよ」
細い指を上げると、無数の光の中から二つだけが鮮明になった。
「一つはマジリアの方角から。もう一つはアルメリの方角から」
「人?」
「おそらくね」
二つの星は遠く離れている。それでも、どちらもヴェルシェへ向かっていた。
ノヴァが片方を指す。
光は風に吹かれたように細い軌跡を描いた。
「こっちは風」
そして、もう一方。
「こっちは──夜だ」
星の周囲が暗く沈んだ。近くの光まで吸い込まれるように弱まり、真昼の時計塔に一瞬だけ夜が落ちる。
ヴォルカンが目を細めた。
「闇属性?」
「そう見える」
光と闇は、いまだ人間の魔術では再現できない属性だ。
ノヴァは暗く染まった星を見つめたまま続ける。
「昨夜は他にも見えた。炎と水、風と土。それから、泣いている少年」
「少年?」
「誰かを抱いていた。でも、その相手の顔だけが見えなかった」
時計の針がカチリと進んだ。
「今朝、もう一つ見えたんだ」
暗く染まっていた星の光が弱くなる。
少しずつ細くなり、やがて完全に消えた。
ヴォルカンが息を呑む。
しかし何もなくなった場所に、すぐ小さな光が生まれた。それはゆっくり輝きを取り戻し、再び一つの星になる。
「……どういう意味?」
「分からない。ただ、消えるはずだった何かが繋ぎ止められる。そんなふうに見えた」
「命?」
「それも分からないよ。星はそこまで親切じゃないからね」
ノヴァは少し笑った。
星が示す未来は決まったものではない。いくつもある可能性の一つが、ほんの一瞬だけ形を持って見えているにすぎない。
千年以上星を詠んできたノヴァにも、その先まですべて分かるわけではなかった。
「だから面白いんだけどね。全部分かっていたら、研究する意味がないだろう?」
「研究者らしいね」
ヴォルカンは小さく笑って立ち上がり、ノヴァへ手を差し出した。
「じゃあ、ご飯に行こう」
「星は?」
「後」
「研究は?」
「後。あなたがまた倒れるほうが困るからね」
ノヴァは差し出された手を見て、楽しそうに笑った。
「キミは昔から変わらないね」
「そうかな」
「そうだよ」
その手を借りて立ち上がり、二人で扉へ向かう。
途中、ヴォルカンは床を埋め尽くす本と紙を見回した。
「片付けは?」
「未来の私に任せるよ」
「未来のあなたも同じこと言うと思うけど」
「よく分かってるじゃないか」
二人は螺旋階段を降り始めた。
「今日の食堂は?」
「中華だって」
「行こう」
急にノヴァの歩調が速くなる。
「元気になったね」
「私は中華が好きなんだ」
「初耳だけど」
「今決めたからね」
二人の声が少しずつ遠ざかり、やがて時計塔には静寂が戻った。
巨大な歯車は変わらぬ速さで回り続け、開け放たれた窓から入り込んだ風が、床に広げられた星図の端を小さく揺らす。
誰もいなくなった部屋には、ノヴァが残した星々がまだ浮かんでいた。
その中に、遠く離れた二つの光がある。
一つが静かに瞬く。
少し遅れて、もう一つも瞬いた。
まだ交わらない。
けれど、その間にあった距離は、昨日よりほんの少しだけ短くなっていた。




