プロローグ
時計塔の最上階から眺める夜空は、いつだって静かだった。
窓の向こうには無数の星が浮かび、その遥か下には街明かりが広がっている。人間の国アルメリと魔族の国マジリア。その二国に挟まれた小さな中立国ヴェルシェで、私はもう随分と長い時間を過ごしてきた。
これまでに国境は何度も形を変えてきた。それでも、アルメリとマジリアの争いだけは昔からほとんど変わらない。
私は窓辺の椅子に腰掛けたまま、膝の上に広げていた古い記録帳から顔を上げた。今夜は星が妙に騒がしい。
「……変だな」
星を詠むのは、私が生まれながらに持っている光属性の古代魔法だ。普段なら星々の動きから何かしらの兆しを読み取れるのだが、今夜はどうにも様子がおかしい。
「……キミたちは、何をそんなに急いでいるんだい」
窓の外へ問いかけてみても、星々は変わらず瞬いている。代わりに背後で巨大な歯車がゴウンと低い音を立てた。
私は再び、古代魔法の研究が始まった頃の記録に目を落とした。魔族が生まれながらに扱う古代魔法を、人間にも使えるようにする。そんな研究から生まれた術式媒体も、今では随分と普及した。炎や水、風、土の再現には成功したものの、光と闇については相変わらず手探りの状態だ。
頁の端には、何百年も前に私が書き込んだ注釈が残っていた。読み返してみたものの、当時の自分が何を言いたかったのか、さっぱり分からない。
「……昔の私も、なかなか面倒なことを考えていたんだねぇ」
思わず笑ってしまった。アストルム魔術研究所には、こうした古い記録が数え切れないほど残されている。成功した研究も、失敗した実験も、今では使われなくなった術式も、時計塔の書庫に保管されていた。
研究所を預かるようになって長いが、私の知らないところで進められている研究も多い。すべてに目を通すには、時間がいくらあっても足りない。
「ノヴァ様ー!」
不意に、時計塔の下から聞き慣れた声が響いてきた。
「ノヴァ様!いるなら返事してください!また何も食べてないでしょう!」
……ルゼルだ。
私はそっと記録帳を閉じた。黙っていれば帰ってくれるだろうかと思ったものの、階段を上ってくる足音は止まらない。間もなく扉が勢いよく開いた。
「やっぱりいた!今日も昼飯を食べに来ませんでしたよね?」
「忙しかったんだ」
「昨日の夜も同じこと言ってましたよ」
「昨日の私と今日の私は違うよ」
「屁理屈言ってないで食堂に来てください。夕飯まで抜くつもりですか?」
どうやら誤魔化せそうにない。
ルゼルは研究所の食堂で料理長を務めている。誰が食堂に来たかまでよく覚えているので、こうして食事を抜いた私を迎えに来ることも珍しくなかった。
「それで、今日は何をしてたんです?」
ルゼルは机に積み上げられた資料を眺めた。書きかけの報告書に、読み終えたまま片付けていない研究資料。少々散らかってはいるが、どれも必要なものだ。
「昔の記録を読んでいたんだよ」
「また古代魔法ですか?」
「そうだね。光属性について、何か新しい発見がないかと思って」
「何百年も研究してるんでしょう?まだ分からないことがあるんですか?」
「もちろん。分からないことだらけさ」
「よく飽きませんね……」
「飽きていたら研究所なんて預かっていないよ」
ルゼルは返事の代わりに、机の上の資料を端へ寄せた。
「研究するのはいいですけど、ちゃんと飯は食べてください」
「はいはい。分かったよ」
この研究所で一番偉いのは私ということになっているが、食事に関しては彼に逆らえない。仕方なく記録帳を机に置き、椅子から立ち上がろうとした、そのときだった。
視界の端で、星の光が揺れた。
「……あれ?」
窓の外を見た瞬間、夜空を一筋の光が駆け抜けた。流れ星ではない。星を詠む私の目にだけ映る光の軌跡だ。
一つ、そしてもう一つ。
二つの光は互いに近づき、触れ合う寸前で別々の方向へ流れ始めた。その周囲からも細い光が伸び、複雑に絡み合いながら見慣れない模様を描いていく。
「ノヴァ様?」
ルゼルの声が聞こえたが、私は窓から目を離せなかった。やがて、見慣れた夜空が薄れていった。
暗闇の中で炎が燃えていた。そこへ大量の水が押し寄せ、炎を呑み込んでいく。風が大地を駆け抜け、足元から伸びた影が辺りを覆った。
その闇の中に、一人の少年が立っていた。
少年は泣いていた。足元から伸びた影が周囲を威嚇するように揺れている。少年の腕には一人の青年が抱きかかえられていた。
少年は何かを訴えるように口を動かしていた。しかし、声は聞こえない。青年の顔も影に隠れていて、どれほど目を凝らしても見えなかった。
「……キミは」
もう少し近くで見ようとした瞬間、光景が途切れた。目の前には、再び時計塔の窓と夜空が広がっていた。
「ノヴァ様!」
振り返ると、ルゼルがすぐ傍にいた。
「大丈夫ですか?急に黙り込んで、何度呼んでも返事しないから」
「ああ、ごめんよ。少し星を詠んでいたんだ」
「何か見えたんですか?」
「うん。ちょっと気になるものをね」
ルゼルは私の顔をしばらく見ていたが、それ以上は尋ねなかった。私はもう一度、夜空へ目を向けた。
星が示す未来は、必ず起こるとは限らない。いくつもの可能性の中から、その一つを垣間見ているにすぎないのだ。
あの青年は何者なのだろう。少年が何を訴えていたのかも、結局聞き取れなかった。ただ、あの泣き顔だけが妙に頭から離れない。
「……また忙しくなりそうだね」
「何の話です?」
「こっちの話だよ」
「そうですか。じゃあ食堂に行きましょう」
「もう少し考えたいんだけど」
「飯を食べながら考えてください」
「……手厳しいねぇ」
ルゼルは私の返事を待たずに扉へ向かった。まったく、この研究所の人間はときどき恐ろしい。
私は机の上の記録帳を一瞥し、ルゼルのあとを追った。
「ノヴァ様!本当に置いていきますよ!」
「今行くよ」
階段を下りながら、先ほど見た二つの光を思い返す。
彼らが誰なのかも、どこから来るのかも分からない。ただ、あの二つの星がいずれこの場所へ辿り着くことだけは感じ取れた。
それならば、今は待つとしよう。
⟡
二人が去った時計塔では、巨大な歯車が変わらず時を刻んでいた。
窓の隙間から夜風が吹き込み、机の上の書類が一枚、かさりと音を立てる。
夜空には、二つの星が寄り添うように瞬いていた。




