第7話: 戻る人
翌日の午後、山本恵が事務所の扉を開けたとき、すりガラスに映った輪郭は、三ヶ月前より、ひと回り小さく見えた。四月の午後の陽が、すりガラスに斜めの模様を落としていた。
楠咲良はソファを勧めた。面談スペースの机ではなく、応接のほうに。
依頼として受けるのではない。ただ、話を聞きたかった。
山本は靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、両手でハンドバッグを抱えたまま、浅くソファに腰を下ろした。四十二歳の主婦。三ヶ月前、咲良はこの人の夫との悪縁を断った。黒い鎖ほどの太い糸を。体力を奪われる太さだった。
咲良は、今日はあえて温かい麦茶をマグカップに淹れて、ローテーブルに置いた。湯気がゆるく立ち上る。山本は一度頷いて、マグカップの側面に指を触れたが、口には運ばなかった。手のひらの熱を移しているだけの時間が、しばらく続いた。
咲良は視た。
山本の周囲に、一本だけ、糸が伸びていた。
細い。髪の毛ほどの、極めて薄い、灰色の糸。
斜め下、方向は、東のほう——山本がかつて住んでいて、つい先月また戻ったという、あの家のほうに。
色は灰色。希薄な縁。放置すれば自然消滅する糸。
太い黒い鎖はもう、どこにもなかった。
咲良は、息を静かに吐いた。
断った糸は、確かに断たれている。再生していない。なのに、山本は夫の家に戻った。戻って、なおかつ、夫との間には、もう、黒い糸も、銀も、薄紅も、金もない。
ただ、細い灰色の糸だけが、山本の側から、あの家のほうへ、伸びていた。
「楠さん」
山本は、マグカップを両手で包んだまま、小さく言った。
「……戻ったら、駄目だって、分かってるんです」
「はい」
「あの人が怖いのも、変わりません。寝室の、ドアを閉める音がするだけで、今でも、心臓が跳ねます」
山本の声は、しわがれていた。大きな病を経たあとのような、疲れたかすれ方だった。
「でも、私、一人で暮らしていたら、毎日、自分が存在してる理由が、分からなくなってしまって」
咲良は、黙って聞いていた。
「シェルターの手配も、働き口の紹介も、全部、楠さんがしてくれました。実家の姉も、最初は『やっと別れてくれたね』って泣いてくれました。そこまで揃っていたのに、私は一週間で、姉の家を飛び出して、あの人の家に戻ってしまったんです」
山本は、苦笑にも諦めにも似た薄い表情を浮かべた。
「姉の家で、最初の夜、布団に入ったとき——天井が、あまりに静かで、怖くなったんです。あの人の家では、夜中に必ず物音がしました。足音、コップの音、罵声。うるさかったですし、怖かった。怖くて仕方がなかった。でも、静かすぎる部屋で、一人で目を閉じたら、私、自分がもう存在していない感じがして」
山本は、マグカップの縁を指でなぞった。
山本は一度、言葉を切った。目の奥に、泣く前の光が差し込んでいたが、涙は出なかった。涙を出す体力が、残っていないのだと、咲良には分かった。
「黒い糸を切ってもらった日のことは、覚えています。楠さんが、この部屋で——いえ、あの人のマンションの前の路地で。『これで、鎖はもう、ありません』って、言ってくれた」
「はい」
「あの日、確かに、身体が軽くなったんです。嘘じゃないんです。楠さんの仕事は、ちゃんと、私に届いたんです」
山本は顔を上げた。
「でも、私、どうしても、あの人の家の空気でしか、眠れないんです」
咲良は、何も言わなかった。
山本の灰色の糸が、ゆっくり、細く、それでも確かに、あの家のほうへ伸びていた。
長い沈黙が続いた。
咲良はその間、山本の糸を視続けていた。もう一度断てば、この細い灰色は、断てる。だが、断ったとしても、山本はまた数週間後、同じ家に戻るだろう。
灰色の糸は、夫の側から伸びてきているのではなかった。山本の側から、東に向かって、一方向に流れ出している。夫が山本を求めているのではなく、山本が自分から、あの空気に向かって糸を延ばしている。
灰色は、山本の側の問題だった。山本の、三十年間の結婚生活と、四十二年間の人生そのものが、あの家の空気と連動して編まれていた。糸を何度切っても、山本自身が「そこでしか眠れない身体」を組み替えないかぎり、糸はまた、山本の側から生え直す。
これは——咲良の仕事では、なかった。
「山本さん」
咲良は、ゆっくり口を開いた。
「糸は、もう一度、断つことができます。今、お伺いした細い灰色の糸は、前回より細いので、反動も少なくて済みます」
山本は、小さく頷いた。
「ただ、断つのが、今日の解決になるかどうか、私は、自信がありません」
山本の顔が、微かに強ばった。
「どういう、意味ですか」
「前回、黒い鎖を断ちました。確かに断ちました。それでも、山本さんはあの家の空気に戻られた。原因が、糸ではなかった、ということです」
「……」
「糸を断っても、人は、戻ることがあります。縁切り屋の仕事で、私が扱えるのは、『縁』という層だけです。『眠れる場所』という層までは、断てないんです」
山本は、マグカップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと、言った。
「……それ、楠さんから、初めて聞いた、弱音ですね」
咲良は、意表を突かれた。
自分が今、依頼人の前で「できないこと」を認めたことに、遅れて気づいた。胸の奥で、何かが重く、けれど澄んでいた。
「弱音、というより——」
「いえ、いいんです」
山本は静かに笑った。泣けないときに人が出す、乾いた笑いだった。
「楠さんが、全部解決してくれる人だったら、私、たぶん、もう一度ここに来られなかったです。何度断ってもらっても、戻ってしまう自分を、私が、いちばん責めるから」
山本の声は、泣く手前で止まっていた。
「三十年、あの人と生きてきました。殴られた日もあった。罵られた日もあった。でも、あの人が仕事から帰って、居間で寝落ちしているのを見て、毛布をかけてあげた日も、数えきれないくらい、ありました。私にとって、あの人は、『加害者』だけじゃないんです。理屈では、加害者なんですけど」
「はい」
「だから、断つ、という言葉が、どうしても、あの時間全部を否定しているみたいに、聞こえてしまって。楠さんのせいじゃないです。私の問題です」
山本は、マグカップを口に運んだ。一口だけ、飲んだ。
「糸は、今日は、断たないでください」
「……よろしいんですか」
「『断てない層がある』って、楠さんが言ってくれたのを、聞けただけで、十分です。糸を何度切られても、私が戻ってしまうのは、糸のせいじゃないって、分かったから」
山本は立ち上がった。
来たときよりも、ほんの少しだけ、背筋が伸びていた。
「シェルターのスタッフさんと、もう一度話してみます。今度は、一週間じゃなくて、一ヶ月、頑張ってみます。それで駄目だったら、また、ここに来ていいですか」
「もちろんです」
咲良は頷いた。
「いつでも、ここにいます」
山本は小さく頭を下げ、扉を開けた。細い灰色の糸が、彼女の背と一緒に、外の歩道のほうへ、ゆっくり曲がっていくのを、咲良は扉が閉じる最後の瞬間まで、視ていた。
山本が事務所を出て行ったあと、咲良は、しばらくソファに腰掛けたままだった。
マグカップには、山本が一口だけ飲んだ麦茶が、半分以上残っていた。温かさを失いかけた液面が、事務所の白い光をわずかに反射していた。ドライフラワーの乾いた影が、マグカップの縁に触れては離れ、午後の時間を少しずつ削っていった。
咲良は、しばらく動けなかった。依頼人から「断らないでください」と言われたのは初めてだったが、それ以上に、「弱音ですね」と自分の言葉をそう呼ばれたことが、咲良の中で、静かに反響していた。
弱音を吐いたつもりは、なかった。事実を、そのまま、依頼人の前に置いただけのつもりだった。けれど、二年間、この仕事を一人で回してきた咲良が、依頼人の目の前で「私にはできません」と言うのは、確かに、今日が初めてだった。
縁切り屋の仕事の、限界を見た日だった。
糸を断っても、人は、戻ることがある。あるいは、別の形で、同じ苦しみの中に戻ることがある。咲良が扱えるのは、世界の一つの層だけで、その層の下にある人の生き方までは、咲良の指先は届かない。
知っていた。
けれど、依頼人から「断らないでください」と言われたのは、初めてだった。
そして、山本が最後に言った言葉——「加害者だけじゃないんです」——が、咲良の内側で、静かに根を張っていた。悪縁と呼ばれる糸の、内側に残っている別の時間。咲良の能力は、その別の時間までは、視られなかった。
咲良は、左手首のブレスレットに触れた。
傷痕は、今日は、熱を持っていなかった。
視線を上げると、書類棚の上に置いた観葉植物の葉に、西日が当たっていた。その向こうに、蓮に電話をかけるはずだったメモが、白いまま、置きっぱなしになっていた。
咲良は、受話器を取った。
しばらく、指がボタンの上で止まった。
それから、ゆっくりと、蓮の番号を押し始めた。
一人で抱える仕事の、限界も。
今日、視えた気がしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第7話は、縁切り屋の「仕事の限界」の回です。
この話は、書きながら、書き手のほうがつらかった回のひとつです。山本さんのモデルはいないのですが、DV被害者が加害者の元に戻ってしまう現象は、現実の統計でも一定の割合で起きることが知られています。理由は一つではなく、経済的な依存、精神的な共依存、子どもの存在、社会的な孤立——本当に複雑です。能力で糸を切る、という単純な魔法では、絶対に救えない層がそこにあります。
だからこそ、咲良に「断てない層がある」と言わせたかった。縁切り屋が万能でないことを、物語の早い段階で、依頼人の口から肯定される回にしたかったんです。山本さんが「それ、初めて聞いた弱音ですね」と微笑むシーン。あの一文を書くためだけに、この回を入れたと言ってもいいかもしれません。
そして、咲良がついに蓮に電話をかけます。一人で抱えるには、この仕事は、少し重すぎたのかもしれません。
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