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縁切り屋と呼ばれていますが、私が断つのは「悪縁」だけです——なお、自分の赤い糸は見えません  作者: 歩人


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第8話: 見えない糸

 翌日の朝、咲良は蓮に電話をかけた。


 楠咲良くすのきさくらは受話器を握ったまま、三回目のコールで繋がるのを待っていた。前日の夜、何度も押し間違えて、かけ直した番号。自分の指先がここまで躊躇うのかと、少し呆れた。


「もしもし」


 相手の声は、寝起きだった。大学生の日曜の朝らしい、毛布の奥から引っ張り出してきたような声。


「柊さん。楠咲良です。朝早くに、すみません」

「あ——楠さん、えっ、おはようございます」


 蓮が慌てて起き上がる気配が、受話器越しにも伝わった。布団と枕が擦れる音、慌てて姿勢を正した気配、水を一口飲む短い間。それらが全部、声の輪郭に出ていた。


「先日、お返事を一週間以内に、とお伝えしました」

「はい」

「お返事です」


 咲良は一呼吸、置いた。言いよどむのではなく、蓮に一度、息を整える時間を渡すつもりで。


「週に三日、午後だけ、事務所に来てください。時給は相場より少しだけ高くします。依頼人の前には出ていただきません。書類の整理、依頼の記録、アフターケアの連絡係——最初はそのあたりから」


 受話器の向こうで、蓮が息を飲んだ。


「……お願いします。ありがとうございます」

「お願いします、はこちらの台詞です」


 咲良は、自分の声が、少しだけ柔らかく出たことに、あとから気づいた。電話を切ったあとも、右手だけがしばらく受話器を握ったままだった。力を緩めるのに、数秒、必要だった。




 電話を切ってから、咲良はソファに沈み込んだ。


 蓮を雇うと決めたのは、昨日の山本との面談のあとだった。一人で抱える仕事の、限界を視た日。自分の内側にあった「怖さ」を、依頼人から「弱音ですね」と静かに肯定された日。

 それでも——決断の後押しを、もう一つ、必要としていた。


 咲良は立ち上がり、事務所の鍵を閉めた。

 行き先は、決まっていた。安養寺。叔母の家からも事務所からも、バスで二駅の古い寺。十数年来、困ったことがあると、咲良はこの寺の住職に会いに行く。結論はいつも、咲良自身が持ち帰る。ただ、背中を軽く押してもらうためだけの、訪問。


 日曜の午前の境内は、人の気配が薄かった。

 本堂の前で、箒を持った住職が、落ち葉をゆっくりと掃いていた。円明えんみょうという名の、七十二歳の住職。痩身に作務衣、剃髪した頭。箒の動きに無駄がない。

 咲良が境内に足を踏み入れた瞬間、住職は顔を上げた。気配で分かった、という顔の上げ方だった。咲良の記憶の中で、住職はいつもこうだった。先に気づいている。先に湯を沸かしている。ただし、先に何かを言うことは、ない。こちらが話し終えるまで、ずっと待つ。


「咲良か。茶、入れるぞ」


 顔を上げるなり、住職はそう言った。予告もなしに訪ねてきた咲良に、驚く素振りはない。十数年、変わらない距離感だった。




 住職の庵で、咲良は煎茶を啜った。


 部屋は質素だった。畳、低い机、古い書棚。柱に残った茶渋の染みが、時間のゆっくりさを映していた。窓の外には小さな坪庭があり、伸びすぎた南天が紅い実を重そうにぶら下げていた。

 住職は向かいに座り、同じ湯呑を傾けていた。


「助手を、雇うことにしました」


 咲良は短く報告した。住職は小さく頷いた。


「柊蓮、という名の大学生です。能力はありません。ただ、人の話を聴くのが、上手いようです。母親がDV被害者で、ご本人は子どもの頃からその話を聴き続けてきたと言っていました」

「ふむ」

「私は——自分が、一人で抱えすぎていたんだと、思います。山本さんという方の件で、気づかされました」

「山本さん」

「三ヶ月前に、ご夫君との糸を断った方です。先日、ご夫君の家に、ご自身で戻られました。糸は再生していませんでした。それでも、戻られた」


 住職は湯呑を置き、しばらく箒を置いた庭のほうを眺めていた。


「咲耶にも、あったな。そういう依頼人が」


 咲良の手が、止まった。


 住職は続けた。


「母親の話だ。咲耶が縁切り屋をやっていた時期にも、何人か、『戻る人』がいた。咲耶は夜、この寺に来て、同じ場所に座って、『糸は切れていないのに、戻ってしまうんです』と言っていた」


 咲良は黙って聞いていた。

 母が縁切り屋として働いていた時期があることは、住職から以前、断片的に聞いていた。ただ、具体的な依頼の話は、ほとんど聞いたことがなかった。


「咲耶は、そのとき、何と言っていたんですか」


「『糸を断っても、人の心までは変えられない』と」


 住職の視線は、まだ庭に向いていた。


「お前が、今日持ってきたのと、同じ言葉だ。咲耶の言葉を、わしが繰り返す必要はないな」


 咲良は、湯呑の縁を指でなぞった。

 同じ場所に座り、同じ言葉に辿り着く。母と自分が、この部屋で同じ輪郭を描いていることが、咲良の胸の奥を細く刺した。




 しばらく沈黙が続いた。


 境内で、遠くから鳥の声が一つ、二つ、届いた。畳の縁で、線香の煙の残りが、ゆっくり上へ昇っては消えていく。咲良は湯呑を両手で包んだまま、動かなかった。湯呑の底に沈んだ茶葉の粉が、浅く震えて、また沈んだ。住職も、急かさなかった。咲良の十数年、この住職の「急かさない時間」だけが、等しく等間隔で、ずっとあった。

 それから、咲良は聞いた。


「母は、助手は雇いませんでしたか」


「いや」


 住職は首を振った。


「一人でやっていた。最後まで、一人だった」


 咲良は、目を伏せた。

 自分の選択が、母とは違う方向に曲がったことを、ほんの少しだけ、自分で確認するように。母は一人で抱えきれずに、命ごと引き受けた。自分が助手を雇うと決めたのは、その道を少しだけ外れる、小さな舵の切り方だったのかもしれない。


 住職は、ゆっくりと言葉を続けた。


「咲良。一つ、今日、お前に言っておくことがある」


 咲良は顔を上げた。住職の目は、穏やかだった。穏やかだが、奥にある何かを、長いこと我慢して持っていた人特有の、静かさがあった。


「お前の母も、同じことを言っていた」


 住職は一呼吸、置いた。


「『自分の糸だけは、見えない』と」


 咲良は、息を止めた。


 母も——能力者だった。そのことは知っている。でも、母が自分の糸を視られなかったという話は、初めて聞いた。

 母が能力者で、母の糸だけが見えなかったこと。それは、咲良だけに起きている「封印」の問題ではない可能性を、意味していた。


「私だけじゃ、なかったんですか」


 咲良の声は、少し震えていた。


「さあな。咲耶が話した全部を、わしが正確に覚えているわけでもない」


 住職は湯呑を置き、咲良の目を見た。


「ただ、お前の母も、『自分の糸だけは見えない』と言いながら、最後まで一人で仕事をしていた。人を雇わなかった理由を、わしはずっと、考えている」


 咲良は、何も答えられなかった。




 夕方、咲良は事務所に戻った。


 鍵を開け、すりガラスの扉を押す。春の夕日が、事務所の床を、柔らかいオレンジに染めていた。

 デスクの上に、今朝、郵便受けから拾った封書が置いたままだった。差出人は、山本恵。便箋一枚だけの短い手紙だった。


 ——楠さん。あの日は、ありがとうございました。

 ——シェルターのスタッフさんと、今度は、ちゃんと話しています。

 ——まだ、眠れない夜はあります。

 ——でも、楠さんが「できないことがある」と言ってくれたから、私が一人で頑張らないといけないことが、少し、分かりました。

 ——また、いつか、ご報告に上がります。


 咲良は手紙を、書類棚の奥の小さな引き出しにしまった。そこには、美咲と田中の礼状が、すでに並んでいた。

 三通目の、「大丈夫な気がしました」の仲間。


 咲良は左手首のブレスレットに触れた。

 その下にある、薄い傷痕。

 母の封印、と咲良は長い間、そう思ってきた。けれど、住職の言葉のあとでは、その「封印」の意味も、少し、輪郭が揺らぎ始めていた。

 自分の糸が見えないのは、母が封じたからではないのかもしれない。

 能力者の女の人には、もとから、そういう性質があるのかもしれない。


 ——それとも、母と同じ、別の理由が、あるのかもしれない。

 それがどんな理由なのかは、まだ、視えない。母は最後まで、その答えを一人で抱えて、持って逝ってしまった。


 咲良は、書類棚のガラスに映る自分の背中を、じっと視つめた。

 映っているのは、黒いボブの女の輪郭だけで、糸は、やはり、一本も視えなかった。


 扉の外で、郵便受けが鳴った。明日届くはずの書類。明後日、蓮が初めて出勤する日。

 事務所の鍵の上に手を乗せたまま、咲良は、少し長く、そこに立っていた。

 一人ではなくなる事務所。母が選ばなかった形。見えない自分の糸。見えなかった母の糸。全部をいっぺんに答えに変える気はなかった。ただ、明後日、蓮がこの扉を押し開ける瞬間まで、自分はここで、いつも通り依頼を待つ。

 それだけは、決まっていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


アーク1「縁切り屋、開業」、これで全8話が完結となります。


最終話は、咲良が一人だった地点から、ほんの半歩だけ動いた話でした。蓮を雇う決断。住職の言葉。山本からの礼状。どれも派手な出来事ではないのに、合わせて置くと、静かに景色が変わっています。

この物語の前半は「一話一依頼で縁切り屋の仕事を見せる」ことを目的にしていました。ストーカー、毒親、ブラック企業、戻る人——それぞれ形の違う糸を視ながら、咲良が自分の仕事の輪郭を固めていく回です。


そしてラストで、住職が決定的な一言を置きます。「お前の母も、同じことを言っていた」。咲良が自分の糸を視られないのは、封印のせいだけではないかもしれない。能力者の女にはもともと、そういう性質があるのかもしれない——この仮説は、アーク2以降で、少しずつ揺さぶられていきます。


次話、いよいよアーク2「見えない糸」に入ります。DV共依存案件から、スケールが大きくなります。縁切り屋の仕事が、個人から集団へ、そして「人の心の層」の向こう側へ広がっていきます。


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